第52話 フィリー・エルミオ
フィリー・エルミオ。
イスズ、ジェミニ、アスカ、ファーゴに続く、エルミオ家の三女である。
今日もフィリーは、帝国の魔法省へと向かっていた。
バルカン帝国の魔法省は、数ある官庁の中でも特に狭き門として知られている。所属する者の多くは高位貴族の子弟であり、魔法の才能だけでなく、家柄や教育、実績までもが求められる。
そんな魔法省に、騎士爵家の子弟として入省した者は、ここ十年ほどで二人しかいない。その一人がフィリーだった。
そしてフィリーには、もう一つ大きな特徴がある。
光属性の魔法使い。
一万人に一人とも言われる、極めて珍しい属性の持ち主だった。
ただし、フィリー本人に言わせれば、それだけではない。火も使える。風も使える。水も土も、そして聖属性の魔法も使える。
けれど、それを周囲に話すことはほとんどない。魔法を覚え始めた頃、長兄のジェミニから何度も言われていたからだ。
「フィリー、いいか、よく聞け。他の人に、自分が何属性も使えるなんて言うんじゃないぞ。それが知れれば身を滅ぼすぞ」
「どうしてですか?」
「周囲がな…大混乱するからだ……イスズ姉さんの唯一、困った点だな……世間の常識がな……」
そんなフィリーが、兄の言葉の意味を理解するようになったのは、学院に入ってからだった。
自分にとって当たり前だったことが、他の人にとっては当たり前ではない。イスズから教わってきたことが、世間の常識とは大きく異なっていることを、フィリーは学院に入って初めて思い知らされたのだ。
フィリーは、昔から体を動かすことが苦手だった。走ることも、剣を振ることも、他の兄弟たちほど得意ではない。
その代わり、勉強は好きだった。
いや――正確には、姉のイスズが教えてくれる勉強が好きだった。
イスズは、ほとんど教科書を使わない。机に向かって教えることも少なく、兄弟たちと遊びながら、料理をしながら、畑仕事をしながら、ふと思いついたように様々なことを教えてくれた。
フィリーにとって、それは授業というより遊びだった。
イスズ自身、家事や弟妹の世話、時には領地の仕事まで抱えていて、いつも忙しくしていた。そのため、兄弟たちが一緒にいるときは、みんなで遊びながら勉強をすることが多かった。
けれど、たまにイスズと二人きりになれる時間があった。それが、光魔法の授業だった。
イスズは、フィリーの光属性に強い興味を持った。
「光って、何ができるんでしょうね?」
最初から答えを知っていたわけではない。
光を強くしたらどうなるのか。狭い範囲に集めたらどうなるのか。鏡に当てたらどうなるのか。水を通したらどうなるのか。
二人でいろいろと試し、そのたびに結果を確かめていった。決まった答えを教わるのではなく、二人で「なぜだろう」と考えながら試していく時間だった。
そして、それがフィリーには何より楽しかった。
思えば、フィリーが魔法省に入り、研究職に就いているのも、その頃の経験があったからなのだろう。知らないことを知り、イスズと一緒に「なぜだろう」と考えること。それが、フィリーにとっては何より楽しい時間だった。
だが、学院に入ると、そんなイスズの教えが、今度は別の形でフィリーを困らせることになった。
ジェミニを筆頭に、アスカやファーゴからも、学院へ入る前から何度も言われていた。
「イスズ姉さんの教えは特別なんだ。学院では、先生の授業内容と教科書をよく確認してから答えるんだぞ。そして特に試験では気をつけるんだぞ」
「イスズマミーの教えは特殊だから、学院では教科書や先生の説明をちゃんと確認しなさいね」
「イスズマミーは特別だ……いや非常識だ…」
当時のフィリーには、その意味がよく分からなかった。
しかし、入学してからは痛いほど理解した。教科書に書かれていることと、イスズから教わったことが違っていたのだ。
例えば、火はなぜ燃えるのか。学院で教えられる答えは、火の精霊や火属性の魔力を利用して燃焼を起こす、というものだった。
けれど、イスズから教わった答えは違う。燃えるものが空気中の酸素と結びつき、酸化反応――燃焼が起こる。そのときに熱や光が発生する。
フィリーは、イスズと一緒に実験もした。燃えるものを変え、空気の量を変え、それによって燃え方がどう変わるのかを確かめた。
確かに、イスズの説明なら、それぞれの結果を一つの仕組みとして説明できた。
それなのに、その答えを学院の試験で書けば間違いになる。正しい答えとして求められるのは、教科書に書かれた魔法理論だった。
フィリーは、そのとき初めて理解した。イスズの教えてくれたことは、自分にとっては事実でも、世間の常識ではないのだ。
それでも、自分が実際に見て、触れて、実験して確かめた結果まで、間違いになるわけではない。
だからフィリーは、学院では教科書の答えを覚え、自分の知っていることは胸の奥へしまっておくようになった。
この世界では、光属性の魔法使いそのものが少ない。そのため、光魔法についての研究も、それほど進んでいない。
一般的な光魔法とは、光を発生させる魔法だ。暗い場所や夜道を照らしたり、洞窟を探索したり、戦場で敵の目をくらませたりする。
それだけでも十分に有用な魔法だった。だからこそ、誰も疑問に思わなかった。光とは、照らすためのものだ。
しかし、イスズは違った。
「フィリー。光って、ただ明るくするだけのものじゃないんですよ」
そこから、フィリーの研究が始まった。
光を集め、反射させ、進む方向を変える。さらに、人間の目には見えない光についても研究を進めていった。
その結果、フィリーの光魔法は、一般的な光魔法とはまったく別物になった。
光を一点へ極端に収束させれば、凄まじい熱を生み出すこともできる。
一度だけ、イスズと実験したことがあった。フィリーは光を集めた。ただ、それだけだった。
なのに――次の瞬間、遠くの草原が一気に白く輝いた。
轟音とともに熱風が押し寄せ、数キロ先まで続いていた草原が、一瞬にして焼けた。
フィリーは、自分の魔法が生み出した光景を見つめたまま、震えた。
「……イ…イスズマミー……」
声が震えた。怖かった。自分が使った魔法なのに、その力を自分自身が理解できていなかった。
そのとき以来、その魔法を使うことは禁じている。少なくとも、フィリー自身はそう決めていた。
さらに研究を進めるうち、赤外線や紫外線、さらにはマイクロ波や電波、イスズから知識だけを教わったX線まで、さまざまな光が研究対象になっていった。
魔法省の研究室。
フィリーの机には、いくつもの記録と試作品が並んでいる。現在取り組んでいるのは、マイクロ波と電波だった。
マイクロ波を利用した周囲の探知。そして、電波を利用した新しい通信方法。
まだ実験段階ではあるものの、うまくいけば魔輝通信とはまた違う、新しい通信手段になるかもしれない。
フィリーには、X線についても研究したいという思いがあった。
イスズの話では、X線を利用すれば、人間の身体の内部を見ることすらできるという。もし本当にそんなことができるのなら、医療は大きく変わる。
ただし、X線については、まだ研究を始めていない。今はイスズから聞いた知識をもとに、どのように魔法として再現するのかを考えている段階だった。
そして、フィリーには、光魔法の研究とは別に、誰にも明かしていない研究があった。
それは、闇属性。
きっかけは、イスズと一緒に光魔法を研究していた頃のことだった。
「光があるのなら……闇もあるのではないかしら?」
イスズの何気ない一言から、二人は光とは反対の性質を持つ魔力について調べ始めた。
そして――本当に、闇属性は存在していた。
それは単純に光を消すだけではない、光とは異なる性質を持った、もう一つの魔法属性だった。
この事実を発表すれば、これまで魔法界で当然とされてきた理論そのものを見直す必要がある。それほど大きな発見だった。
だからこそ、この研究について知っているのはイスズとフィリーだけだった。
闇属性については、まだ分からないことが多い。それでも、誰も知らなかった魔法属性が、この世界に確かに存在することだけは分かっている。
フィリーは今日も、魔法省の研究室で一枚の記録用紙を見つめていた。
そこには、これまで研究してきた様々な光についての記録が並んでいる。世界では、それぞれが別々の魔法だと思われている。
けれど、イスズは言っていた。
「全部、同じ光なんですよ」
フィリーは、その言葉を今でも忘れられない。
魔法とは、決められた呪文を覚えて使うものではない。分からないことを見つけ、試して、確かめることもできる。
それを教えてくれたのは、いつだってイスズだった。ただ、これをどこまで研究成果として発表するかは、まだ決めていない。
光を集めるだけで草原を焼き尽くしてしまうような魔法まで知られてしまえば、どのような騒ぎになるか分からない。それについては、ジェミニやアスカと一度話しておかなければならないかもしれない。
そんなことを考えていたフィリーのもとへ、研究室に届けられた手紙の束が運ばれてきた。
その中に、一枚だけ見覚えのある封筒があった。
宛名は、アスカからだった。フィリーは封を開け、便箋に目を通した。
そして、ある一文に目を止める。
「イスズマミーが、インプレッサ伯爵の男の子の家庭教師……」
思わず声に出して呟いた。
フィリーは便箋を手にしたまま、しばらく動かなかった。そして、ふと昔のことを思い出す。自分と二人きりになったとき、楽しそうに光魔法を眺めていたイスズ。
「次は、これを試してみましょうか」
そう言って、いつも新しい実験を始めてくれた。
あの頃と変わらず、イスズは今も誰かに何かを教えているのだろうか。
フィリーは、そんなことを考えながら、もう一度手紙に目を落とした。




