第51話 ソルテラの授業見学03
フローリアンは、イスズのあまりにも荒唐無稽な授業を聞きながら、この授業が終わり次第、その内容をレオーネの母であるマイアか、伯爵家の家宰に報告しようと思っていた。
雨がなぜ降るのかという話ひとつ取っても、水が蒸発して目に見えない水蒸気となり、それが空へ上がって冷やされ、水滴となって雲を作り、やがて雨として落ちてくる――そんな話は、これまで自分が学んできた知識にはなかった。
イスズはそれを当然のことのように話しているが、フローリアンには到底すぐに受け入れられる話ではなかった。
ところが、そんなフローリアンの困惑をよそに、イスズはふと思い出したように教室の奥へ向かった。そこには、布をかぶせて置いてある、両手で持てるほどの四角い箱があった。
イスズはそれを持ち上げると、レオーネたちの前へ運んできた。
「レオーネ様、これで実験をしてみましょう!」
そう言って、箱にかぶせていた布を取り払う。
「わぁ……!」
そこに現れたのは、二十センチ四方ほどの小さな箱庭だった。
周囲は透明なガラスで覆われている。
その中には土や小さな池があり、木を模したものや家まで置かれていた。まるで本物の町や村を、そのまま小さく閉じ込めたような精巧な作りだった。
少し離れたところから見ていたソルテラも、思わず立ち上がって近づいてくる。
「すごい……!」
その声に、レオーネも箱庭を覗き込んだ。
そして、すぐに気づいた。
「イスズ先生! この手を繋いでいるのは、僕とソルテラだね!」
箱庭の小さな家の前には、小さな男の子の人形が二人並んでいた。
二人は仲良く手を繋いでいる。そして、その少し後ろには、スカートを履いた女性の人形が立っていた。
「その後ろにはイスズ先生もいる! すごい!」
レオーネは嬉しそうに声を上げた。
イスズが微笑む。
「はい。お二人を作ってみました」
レオーネは、二人の人形を何度も眺めながら嬉しそうに笑っていた。
一方、フローリアンが驚いていたのは、別のところだった。箱庭そのものの作りが、あまりにも精細なのだ。
土の起伏から小さな池、木々や家に至るまで、細かなところまで作り込まれている。
本当に見事な出来だった。これを帝都の職人に作らせたなら、一体どれほどの値がつくのだろう。
そして、もう一つ。フローリアンは箱庭の周囲を覆っている透明なガラスへ目を向けた。
「す、すごい……ガラスが……」
レオーネの侍女であるトレミーも、思わず声を漏らしていた。
イスズがそちらへ顔を向ける。そして、何でもないことのように言った。
「ああ、これですか? お屋敷で回収業者に渡す予定だったガラスを、少し分けていただいたのです」
トレミーが目を見開く。
「この間の、あの割れたガラスですか?」
イスズは頷いた。
「ええ。トレミーさんが、もう捨てて回収業者に渡すとおっしゃっていたものを、いただきましたよね」
トレミーは、箱庭の透明なガラスを見つめる。
「でも……こんなに綺麗になるんですか?」
「ガラスは高温で溶かして、薄く平らにすれば、もう一度ガラスとして使えるんですよ」
イスズは、まるで当たり前のことを説明するように笑った。
フローリアンは、その言葉に目を見張った。ガラスを溶かして再利用すること自体は、フローリアンにも理解できた。
実際、屋敷から出た割れたガラスも、回収業者が引き取って再利用している。
だが――。
「……生活魔法で?」
思わず、フローリアンの口から言葉が漏れた。
イスズが振り向く。
「はい」
あっさりとした返事だった。フローリアンは、箱庭を見つめたまま黙り込む。
生活魔法でガラスを溶かす。そんなことができるなど、今まで聞いたことがなかった。
そもそも生活魔法とは、小さな種火を起こしたり、コップ一杯ほどの水を出したり、簡単な風を起こしたりする程度のものではなかったのか。
少なくとも、フローリアンがこれまで教わってきた知識の中に、そんな使い方は存在しない。
なのにイスズは、それを特別なこととも思っていない。
フローリアンは、もう一度箱庭を見た。精巧に作られた小さな町。その周囲を覆う、透明なガラス。
そして、それを生活魔法で作り直したというイスズ。
先ほどまで雨について聞かされていた話も含め、フローリアンの中で、いくつもの疑問が新たに積み重なっていった。
――生活魔法しか使えないはずの、この女性は。
いったい、どこまでのことを生活魔法でできるというのだろう。
そんな疑問を抱きながら、フローリアンは箱庭から目を離せなかった。
イスズは箱庭の上部にある蓋をそっと開けた。そして、池の部分や土の部分に、魔法で少量の水を入れていく。
「これで準備はできましたね」
イスズは蓋を閉じると、箱庭をストリーガのほうへ差し出した。
「ストリーガさん、少しだけ持ち上げてもらえますか?」
「これをですか?」
「はい。底に空間を作りたいんです」
ストリーガが箱庭を持ち上げると、イスズは用意していた木切れをその下へ差し込んだ。
箱庭の底が少し浮いたところで、イスズはその空いた部分へ手を入れ、手のひらを箱庭の底へ当てた。
「では、レオーネ様。今から、この箱庭の中の地面を温めてみますね」
「地面を?」
「はい。実際の地面や水は、太陽の熱によって温められています。それを、ここでは私の魔法で再現してみます」
イスズが手のひらへ魔力を集中させる。
しばらくすると、箱庭の中の水が温められ、少しずつ水蒸気が増えていった。だが、水蒸気そのものは目には見えない。
そのため、最初は何も変化していないように見えた。
やがて――。箱庭の中が、少しずつ白く曇り始めた。
レオーネが身を乗り出す。
「わぁ……! 中が白くなってきました!」
イスズは頷いた。
「そうですね。これは、水蒸気が冷やされて、とても小さな水滴になった状態です。水蒸気そのものは目には見えません。でも、こうして細かな水滴になると、白く見えるようになります」
「これが……雲?」
イスズは箱庭を指差した。
「雲に似た状態ですよ。本物の雲も、空気中に浮かんでいる、とても小さな水滴や氷の粒が集まってできています。今、この箱庭の中にある白いものも、細かな水滴が空気中に漂っているんです」
レオーネは、箱庭をじっと見つめた。
「これが雲になるんですね」
「そうです。とても小さな模型ですけどね」
イスズは笑った。そして、底に当てていた手をゆっくりと抜いた。
「では、今度は雨ができるところを見てみましょう」
「雨!」
レオーネが嬉しそうに声を上げる。イスズは箱庭の上部へ手をかざした。
「先ほどは地面を温めました。今度は、空の高いところが冷たくなる状態を再現します」
イスズが生活魔法で冷たい風を送り始める。すると、白く曇っていた箱庭の中が、少しずつ透明になっていった。
その代わり、ガラスの内側に細かな水滴がいくつも現れる。
レオーネが目を見開いた。
「……あ、イスズ先生、ガラスにいっぱい水滴がついています!」
イスズは、ガラスについた小さな水滴を指差した。
「はい。水蒸気が冷やされて、水に戻ったんです。こういう現象を、結露といいます。先ほど、温められた水が水蒸気になりましたよね。その水蒸気が、今度は冷やされて水に戻ったんです」
水滴は少しずつ集まり、大きくなっていく。
やがて、一つの水滴が別の水滴と繋がり、ゆっくりとガラスを伝って下へ流れ始めた。
「すごいっ!」
レオーネが声を上げる。
イスズは、その水滴を見ながら説明した。
「本物の雲の中でも、小さな水滴や氷の粒が成長していきます。十分に大きくなると、空気の流れだけでは支えきれなくなって、地上へ落ちてきます。それが雨です」
「じゃあ……今の水滴が、大きくなって落ちてくるのが雨なんですね!」
「そういう仕組みを、この箱庭では簡単に再現しているんです」
レオーネは、何度も頷いた。
「なるほど……!」
その隣では、ソルテラも箱庭を覗き込みながら、目を輝かせていた。
「これが……雨になるんだ」
イスズが微笑む。
「さっき説明したことが、実際に目の前で起きているでしょう?」
レオーネは大きく頷いた。
「はい! これなら分かります!」
ソルテラもまた、箱庭から目を離さなかった。
そして少し離れたところから見ていたフローリアンも、黙ってその様子を見つめていた。
先ほどまでなら、イスズの話はあまりにも突拍子もなく聞こえていた。
水が蒸発する。目に見えない水蒸気になる。それが冷やされて、小さな水滴になる。雲になり、そして雨になる。
そんな話を、簡単に信じられるはずがなかった。だが今、自分の目の前で、水が姿を変えている。
目には見えなかった水が、白く曇るほどの細かな水滴となり、やがてガラスに集まっていく。
フローリアンは、箱庭をじっと見つめた。
少なくとも――。
イスズの話は、ただの思いつきではない。
そのことだけは、もう疑えなかった。




