第49話 ソルテラの授業見学01
それから数ヶ月が経った。
フローリアンは、相変わらずイスズの授業が気になっていた。
もともと、フローリアンは侍女や使用人たちの噂話に、それほど興味を持つほうではない。しかし、それでもイスズの授業についての話は、自然と耳に入ってきた。
水遊びをさせたかと思えば、湯を沸かしたり、牛乳を腐らせたりする。かと思えば、空気には重さがある、人間は大地に引っ張られているなど、普通の家庭教師なら教えないようなことばかり教えているという。
「今日もレオーネ様は、何やら不思議なことをしていたそうですよ」
「今度は何を教えているんでしょうね」
「イスズ様がレオーネ様の前で、恥も外聞もなく足を見せていたそうですよ」
「まあ……。未婚女性が、たとえ子供相手とはいえ、殿方の前で足を見せるなんて、はしたないわ」
「しかも、何やら身体の仕組みについて説明していたとか」
中には、「レオーネ様は、もしかすると洗脳されているのではないか」などと心配する者までいた。
そんな話が、時折、侍女たちの間で交わされている。
イスズの授業が奇妙だという噂は、数ヶ月経った今もなくなるどころか、次から次へと新しい話が加わっていた。フローリアンは、そのたびに聞き流していた。
しかし、聞けば聞くほど、フローリアン自身もイスズの授業に対する疑問を深めていった。
生活魔法しか使えず、学院にも通っていないはずのイスズが、なぜあれほど独特な教育をしているのか。そして、レオーネに魔法や武術まで教えているのは、いったいどういうつもりなのか。
そこで昨日、フローリアンはイスズ本人に、授業を見学させてもらえないかと申し出た。
イスズは特に嫌がる様子もなく、あっさりと承諾した。
「もちろん構いませんよ」
そうして今日、フローリアンはイスズの授業を見学することになった。
この屋敷でイスズと顔を合わせること自体は、これまでにも何度かあった。廊下ですれ違えば互いに会釈をする。食堂や庭で顔を合わせれば、短く挨拶を交わす。ただ、それだけだった。
フローリアンがソルテラの家庭教師となってからも、二人の関係は変わらない。互いに相手の存在は知っているものの、まともに話をしたことはほとんどなかった。
それだけに、今日こうしてイスズの授業を間近で見ることには、フローリアン自身も少なからず緊張していた。
「今日は、どんな授業なのかな?」
隣に座るソルテラは、期待に満ちた目で前を見ていた。
以前、イスズがレオーネに牛乳からバターを作る授業をした際、ソルテラもその場に参加していたという。牛乳を振り、変化していく様子を見ながら、目を輝かせていたと侍女から聞いていた。
どうやら今日も、何か面白いものを見せてもらえると思っているらしい。
一方のフローリアンは、そんなソルテラを横目に見ながら、複雑な気持ちでイスズを待っていた。
使用人たちが口にしていた「怪しげな授業」が、本当にただの奇妙な遊びなのか。それとも、自分が今まで学んできた教育とはまったく違う、何か別のものがあるのか。
「今度は、何を教えているのかしら」
気がつけば、フローリアンはそんなことを考えるようになっていた。
やがて、イスズが教室へ入ってきた。今日の授業は、初回の授業でレオーネがイスズに尋ねた、あの質問についてだった。
『先生、雨って、どうして空から降ってくるんでしょう?』あの日、レオーネが何気なく口にした疑問だった。
イスズはレオーネの前に立つと、穏やかな笑みを浮かべた。
「今日は前にレオーネ様が質問した『雨はどうして空から降ってくるのか』という授業です」
それを聞いて、フローリアンは今さらそんなことを、と心の中で思った。
空には水の精霊や水属性の魔力が満ちている。それが雲に集まり、一定量を超えると地上へ雨として落ちてくる。
そんなことは常識だ。そうフローリアンが思っていると、イスズも同じ内容を黒板に書いた。
「では、レオーネ様はどう思いますか?」
そう言って、イスズはレオーネへ振り返った。
「僕が……ですか?」
「はい。どうして雨が降るのか。レオーネ様自身で考えてみてください」
レオーネはしばらく考え込んだ。空にある水。雲に集まる水。それが、雨になって落ちてくる。
そう考えているうちに、ふと、以前イスズに見せてもらった光景を思い出した。
鍋の中で水を温めたときのことだ。
水面から白いものが立ち上り、イスズはそれを「水蒸気」と教えてくれた。そして、その白いものに手をかざしていると、やがて手が濡れた。
あのときは、ただ不思議だと思っただけだった。
だが――。
「……イスズ先生。前に、水を温めたとき……水が蒸発して、水蒸気になりましたよね」
レオーネは記憶を辿るように、ゆっくりと言葉を続けた。
「それで、その水蒸気は……白く見えていました。もしかして……あの白いものが、雲なんですか?」
イスズは、嬉しそうに笑った。
「ほぼ正解です」
「ほぼ……?」
イスズは黒板に「水」と書いた。
「はい。実は、少しだけ大事なところが違います。水は温められると、蒸発して水蒸気になります。洗濯物が乾くのも同じです。濡れた衣服に含まれていた水が、少しずつ空気中へ移っていくんです」
そして、その下に「水蒸気」と書く。
「この水蒸気は、目には見えません」
レオーネが驚いて目を瞬かせた。
「では、前に見えた白いものは……?」
「水蒸気が、冷やされたことでできた、とても小さな水滴です」
イスズは黒板に、小さな点をいくつも描いた。
「温かい水から出てきた水蒸気が、周囲の空気によって冷やされると、水蒸気の一部が再び水になります。とても小さな水滴になって、空気中に浮かぶんです。そして、同じようなことが空の高いところでも起こります」
黒板に、今度は大きな雲を描く。
「地面や川、湖、海などにある水は、太陽の熱を受けて少しずつ蒸発します。目には見えない水蒸気となって、空気中へ広がっていくんです」
「地面だけじゃなくて、海からも……?」
「もちろんです。むしろ海は、とても大きな水の貯蔵庫ですからね」
イスズは雲の下に、上へ向かう矢印をいくつも描いた。
「そして、水蒸気を含んだ空気が上空へ上がっていくと、周囲の気温が低くなっていきます」
「高いところのほうが、寒いんですか?」
「はい。そういう場所では、水蒸気が冷やされて、とても小さな水滴や氷の粒になります。それらが空気中にたくさん集まったものが、私たちが見ている雲です」
レオーネは、黒板に描かれた雲をじっと見つめた。
「じゃあ……雲は、空に浮かんでいる水なんですね」
イスズは笑った。
「そう考えると分かりやすいですね。ただし、一つ一つの水滴はとても小さいので、雲は空に浮かんでいられます」
「では、その水滴が大きくなったら……?」
イスズは頷いた。
「水滴同士がぶつかったり、氷の粒が成長したりして大きくなり、やがて空気中に浮かんでいられないほど重くなると、地上へ落ちてきます。それが雨です」
「……雲の中にある水が、大きくなって落ちてくるんですね」
レオーネは、今まで見上げていた雲を思い出していた。
「では……雨って、もともとは地面にあった水なんですか?」
イスズは頷いた。
「そういうことです。もちろん、雨になった水のすべてが同じ場所から来たとは限りません。海から来た水もあれば、川や湖、土の中、植物から空気中へ移った水もあります」
そして、黒板に一本の線を描いた。
「水は、なくなっているわけではありません。形を変えながら、地上と空の間を巡っているんです」
フローリアンは、黙ったまま黒板を見つめていた。
こんな雨の仕組みは、これまで自分が学んできた知識にはなかった。
「……こんな話、聞いたこともないわ。これが本当に、雨の仕組みだというの……?」
レオーネは目を輝かせた。
「じゃあ、洗濯物が乾くのも……雨が降るのも、同じ水の仕組みなんですね!」
イスズは嬉しそうに笑った。
「その通りです。濡れた洗濯物の水も、海や川の水も、姿を変えながら空へ上がります。そして、雲になり、雨となって地上へ戻ってくるんです」
イスズは黒板に、簡単な図を描いた。
「こうして水は、姿を変えながら何度も地上と空を巡っているんですよ」
レオーネは、しばらくその図を見つめていた。
「……水って、ずっと旅をしているんですね」
イスズは頷いた。
「ええ。見えなくなっても、なくなったわけではありません。姿を変えながら、ずっとそこにあるんですよ」
レオーネは、もう一度黒板に描かれた雲と雨を見つめた。
その後で、フローリアンも黙って黒板を見ていた。
雨が降る。ただ、それだけのことだと思っていた。
けれど、その当たり前の現象について、イスズは今まで聞いたこともない仕組みを語っている。
水が蒸発し、目には見えない水蒸気となって空へ上がる。それが冷やされて雲になり、やがて雨となって地上へ戻ってくる。
一見、筋は通っているように思える。
しかし――。フローリアンには、それが本当に正しいのか、まだ判断できなかった。
自分がこれまで学んできた知識とは、あまりにも違っている。
それに、イスズは学院で学んだわけでもない。そんな彼女が語ることを、ただ聞いただけで信じていいのだろうか。
「……次は、何を教えるのかしら」
気がつけば、フローリアンはそんなことを考えていた。




