第48話 ソルテラの家庭教師02
ソルテラの家庭教師となった初日。
フローリアン・ベレルは、ソルテラがいつも授業に使っている部屋へ入った。
レオーネの家庭教師採用試験に落ちてから、しばらくの間、フローリアンには次に教える生徒が決まっていなかった。それが、彼女には思いのほか堪えていた。
なぜ自分が、学院にも通ったことのない辺境の騎士爵家の娘に負けたのか。試験の結果を受け入れた今でも、その理由をフローリアンは理解できずにいた。
自分は学院を卒業し、これまで多くの名門貴族の子弟を教えてきた。教え子たちは学院でも優秀な成績を収めている。それなのに、なぜイスズだったのか。
そんなことを考えているうちに、気づけば主要な高位貴族の家では、その年の家庭教師がほとんど決まってしまっていた。フローリアンほどの実績があれば、例年なら次の依頼がすぐに舞い込んできてもおかしくない。だが、今年は違った。
そんな折、突然インプレッサ伯爵家から声が掛かった。ソルテラの家庭教師を引き受けてくれないか、と。
一瞬、フローリアンは引っかかりを覚えた。
インプレッサ伯爵家。つい先日、自分が家庭教師採用試験で敗れた家である。しかも、その家の子供を教えることになる。できれば、あまり関わりたくない。そんな思いもあった。
しかし、次の生徒が決まっていない現状を考えれば、断る理由もなかった。それに、レオーネの家庭教師になれなかったからといって、インプレッサ伯爵家そのものを避ける必要もない。
そう考え、フローリアンは依頼を受けることにした。
そして、今日がその初日だった。
「フローラ先生、よろしくお願いします!」
部屋に入ると、ソルテラが元気よく頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いしますね。ソルテラ殿」
フローリアンは微笑んだ。第一印象からして、悪くない。
ソルテラはとても賢い子だった。話を聞く姿勢もきちんとしており、質問にはハキハキと答える。教えたこともすぐに理解しようとし、何より勉強に対してとても勤勉だった。
さすがはインプレッサ伯爵家の子供だと、フローリアンは思った。
授業を進めていく中で、フローリアンはソルテラが使っていた教材に目を通した。
「この九九の表を、ソルテラ殿はもう覚えているのですね。素晴らしいことです」
「はい。少しだけ苦手なところがありますけど」
「苦手なところ?」
「七の段と八の段です」
ソルテラは少し照れたように答えた。それでも、フローリアンからすれば十分だった。七の段と八の段の一部以外は、ほとんど問題なく答えられている。
「これなら、すぐに全部覚えられますよ」
「はい!」
素直に返事をするソルテラを見て、フローリアンは満足そうに頷いた。
その後、休憩の際にソルテラの侍女から話を聞いた。
「レオーネ殿は、九九を覚えるのにずいぶん苦労されていたそうです」
「そうなのですか?」
「はい。つい先日まで、ほとんど覚えられていなかったと聞いております」
それを聞いて、フローリアンは少し驚いた。レオーネは、そんなに勉強が苦手なのだろうか。
さらに話を聞いていくと、レオーネはこれまで何人もの家庭教師を変えてきたのだという。
「レオーネ殿は、あまり出来がよくないと?」
フローリアンが尋ねると、侍女は少し言葉を濁した。
「……そのようにおっしゃる方は多いですね」
フローリアンは、それ以上は聞かなかった。
ただ、その話を聞いて、フローリアンにはソルテラがますます有力な後継者に思えてきた。
ソルテラは正室の子である。一方、レオーネは側室の子。表立って次期伯爵の座を巡る争いが起きているわけではない。だが、インプレッサ伯爵家はまだ嫡男を正式には決めていない。
そのため、屋敷の使用人たちの間では、いつしかこんな考えが当然のように広がっていた。
――次の伯爵になるのは、弟ではあるが、優秀なソルテラ様なのではないか。
実際、教育にかけられている力を見ても、その違いは明らかだった。レオーネについている家庭教師は、イスズただ一人である。それに対してソルテラには、勉強を教えるフローリアンだけでなく、武術や魔法についても、それぞれ専門の講師がついている。
もちろん、フローリアン自身はそんなことを口にするつもりはなかった。だが、この屋敷全体に流れている空気を感じれば、自然と察するものがある。
――この家は、ソルテラを次の伯爵にするつもりなのかもしれない。
そう考えると、フローリアンの授業にも自然と力が入った。優秀な生徒を育てる。それが家庭教師としての自分の役目なのだ。
ところが、その日の授業の休憩中だった。フローリアンは、ソルテラの侍女と話をしているうちに、あることを尋ねられた。
「フローラ様。レオーネ様の授業について、何か聞いていらっしゃいますか?」
「いいえ。特には」
そう答えると、侍女は少し困ったような顔をした。
「でしたら……少し驚かれるかもしれません」
「どういう意味です?」
侍女は、周囲に誰もいないことを確認するようにしてから話し始めた。
「レオーネ様が、イスズ様から初めて教わった授業は、庭での水遊びだったそうです」
「……水遊び?」
フローリアンは眉を寄せた。
「はい。水を触ったり、煮たりして、そのあと凍らせたりして遊んでいたそうです」
「それは……」
家庭教師の授業として聞くには、あまりにも奇妙だった。
「ほかにも、土が身体についても汚くないと教えたり、算数の授業では棒を使って遊んでいたり……」
「棒で?」
「はい。それから、厨房で牛乳を腐らせたものを作って、喜んでいたとも聞いています」
「……それは、いったい何を?」
「それが……驚くことに、その腐ったものをレオーネ様に食べさせたそうです」
フローリアンは、思わず言葉を失った。腐った牛乳を作ったことにも驚いたが、それを実際にレオーネに食べさせたという。いくら授業の一環だとしても、家庭教師が生徒に腐ったものを食べさせるなど、フローリアンには到底理解できなかった。
「……それは、本当に授業なのですか?」
「皆さんも、首を傾げていらっしゃいます」
侍女は苦笑した。
「ですが、まだあります。イスズ様は、空気には重さがあると教えているそうです」
フローリアンの眉がさらに寄った。
「空気に……重さ?」
「はい。それから、人間が地面に引っ張られているのだとか。腐っていても食べられるものがあるとか、目には見えない悪い虫がいるとか……」
フローリアンは、完全に言葉を失っていた。
「そのせいで、使用人の間では妙な噂まで出ているんです」
「どんな噂ですか?」
侍女は声を少し落とした。
「レオーネ様は、イスズ様に洗脳されているのではないか、と」
「洗脳……?」
思わず、フローリアンは聞き返した。
「はい。あまりにも普通の家庭教師とは違う授業ばかりなので……」
そこまで聞いて、フローリアンは大きく息を吐いた。
正直なところ、にわかには信じられない話だった。だが、思い返してみれば、レオーネの家庭教師に選ばれたのは、あのイスズだった。
学院にも通っていない。生活魔法しか使えないと言っていた。それなのに、レオーネの勉強だけではなく、魔法や武術まで教えているという。
魔法は、本来なら高位の魔法使いに高額な報酬を支払って教えてもらうのが普通だ。伝手があれば、帝都の魔法騎士団から講師を派遣してもらうことさえある。それほど、魔法の教育には専門的な知識が必要なのだ。
それを、学院にも通っていなかったイスズが教えている。そして、それ以上に分からないのが、インプレッサ伯爵家だった。
使用人たちの話によれば、レオーネの教育については、側室であり、レオーネの母でもあるマイアに一任されているのだという。つまり、レオーネにどのような家庭教師をつけるのかも、マイアの判断に任されているということだ。
学院にも通っていない、辺境の騎士爵家の娘に、レオーネの教育を任せている。フローリアンには、マイアのその判断がどうしても理解できなかった。
しかも、レオーネに任せているのは勉強だけではない。魔法も武術も、イスズが教えているという。
武術だって、本来なら同じだ。貴族の子弟であれば、名の知られた流派の剣術師範を招くのが普通である。あるいは、帝都第二騎士団などから講師を派遣してもらうこともある。それなのに、最底辺の騎士爵家の娘に、レオーネの武術まで任せている。
フローリアンには、それが普通のこととは到底思えなかった。
だが――。
フローリアンは、ふと気づいた。
もしかすると、インプレッサ伯爵家は最初から、ソルテラを後継者として育てるつもりなのではないか。
レオーネには、あえてイスズのような家庭教師をつける。そしてソルテラには、自分のような家庭教師をつけ、武術も魔法も、それぞれ専門の講師に学ばせる。
もしそうなのだとすれば――。
「…………」
フローリアンは、静かに考え込んだ。
レオーネとソルテラ。二人の教育には、あまりにも明確な差がある。
もし、それが偶然ではないのだとすれば――。
――ソルテラを、次の伯爵にするつもりなのではないか。
そう考えると、すべてが腑に落ちる気がした。
だからこそ、ソルテラには自分のような実績のある家庭教師をつけている。だからこそ、魔法も武術も、それぞれ専門家を招いている。
一方、レオーネには、イスズ一人。フローリアンは、知らず知らずのうちに背筋を伸ばしていた。
「……なるほど」
自分がこの家に呼ばれた意味が、少し分かった気がした。
レオーネの家庭教師には選ばれなかった。だが、ソルテラの家庭教師には選ばれた。
ならば、自分がすべきことは一つだ。
ソルテラを、次代の伯爵にふさわしい人物へと育てる。その思いが、フローリアンの中に強く芽生えていた。
しかし、それでも――。
先ほど聞いた話が、どうしても頭から離れなかった。
庭で水遊びをする。水を煮て、凍らせる。土がついても汚くないと教える。棒を使って算数をする。腐らせた牛乳を作り、それをレオーネに食べさせる。
空気には重さがあり、人間は地面に引っ張られていると教える。そして、目には見えない悪い虫がいると教える。
どれも、フローリアンがこれまで家庭教師として学んできた教育とは、あまりにもかけ離れていた。
いくら自分がソルテラの家庭教師で、レオーネが自分の生徒ではないとはいえ――同じ家庭教師という仕事をする者として、放っておくことはできなかった。
「……レオーネ様、大丈夫なのかしら」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
先日の採用試験で自分を打ち負かした相手が、一体レオーネに何を教えているのか。
フローリアンは、初めて本気でレオーネのことを心配したのだった。




