第47話 ソルテラの家庭教師01
話は少し遡る。
ソルテラの家庭教師を務めていたビークロスが、突然その職を辞めることになった。
その後任として、急遽ソルテラの家庭教師に選ばれたのが、ベレル伯爵家のフローリアン嬢である。
ただし、彼女が名乗っている「ベレル伯爵家のフローリアン嬢」という呼び名には、少しばかり事情があった。
彼女の正式な名は、フローリアン・ウル・ウォルカーヌス公爵夫人。
現バルカン帝国皇帝の叔父であり、帝国でも屈指の名門であるウォルカーヌス公爵家、その当主エクシーガ・アセント・ウォルカーヌス公爵の妻だった。
ウォルカーヌス公爵は現在、五十歳を目前にしている。かつて最初の妻との間に一人の娘をもうけていたが、その妻はすでに亡くなっていた。
その後、公爵は男子の跡継ぎを望み、後妻や妾を迎えた。だが、いくら年月を重ねても、男子どころか新たな子供が生まれることはなかった。
皇帝の叔父でもあるウォルカーヌス公爵家は、帝国でも特に由緒ある家柄である。
その血を絶やすわけにはいかない。そう考えたエクシーガは、後継者を得るため、さらに縁談を探した。そして白羽の矢が立ったのが、ベレル伯爵家だった。
ベレル伯爵家は高位貴族であるだけでなく、代々子宝に恵まれた家系としても知られていた。その家に生まれたフローリアンは、幼い頃から頭がよく、物事を覚えるのも早かった。
学院を卒業する頃には、貴族令嬢として必要な教養を十分に身につけていた。
そんなフローリアンが、卒業してすぐ、ウォルカーヌス公爵の後妻として迎えられた。
当時、フローリアンは十六歳だった。名門公爵家の跡継ぎを産むこと。それが、フローリアンに期待された最も大きな役割だった。
「フローリアン。あなたには、分かっているでしょうね」
結婚を控えた頃、母からそう言われたことを、フローリアンは覚えていた。
「はい。公爵家の跡継ぎをお産みすること。それが私の役目です」
フローリアンは、迷いなく答えた。
しかし――四年間の夫婦生活を送っても、子供が生まれることはなかった。そして四年目を迎えた頃、エクシーガはフローリアンとの間に子供ができる可能性が低いと判断した。
それを境に、二人の夫婦生活は急速に破綻していった。
「……もう、ここまでにしよう」
ある日、エクシーガからそう告げられた。フローリアンは、しばらく黙っていた。
「私に……もう、公爵夫人として必要なものがないということですか?」
「そういうことではない」
「では、どういうことでしょうか」
エクシーガは答えなかった。
もともと二人の結婚は、家同士の事情によって結ばれたものだった。ウォルカーヌス公爵家は跡継ぎを必要としており、ベレル伯爵家はその期待に応えることを望んでいた。
だが、その目的を果たせないのであれば、エクシーガにとってフローリアンとの結婚生活を続ける意味は薄れてしまう。
本来であれば、ここで離婚となるところだった。しかし、皇帝の叔父である公爵家と、帝国でも名の知られた高位貴族であるベレル伯爵家。
両家にとって、離婚という事実は決して小さな問題ではない。公爵家の妻が跡継ぎを産めずに離縁されたとなれば、フローリアンの名にも傷がつく。
一方で、公爵家が妻を離縁したという事実は、ウォルカーヌス公爵家の名にも傷を残す。そこで両家は、離婚という形を取らないことにした。
籍はそのまま残し、フローリアンだけがベレル伯爵家へ戻る。表向きには、フローリアンは今もウォルカーヌス公爵夫人である。
だが、貴族社会では、それとは別の暗黙の了解があった。
フローリアンが公爵夫人としてではなく、ベレル伯爵家の令嬢として振る舞うことを、誰もが知っていたのである。
もちろん、正式な場であれば「ウォルカーヌス公爵夫人」と呼ばなければならない。
しかし、普段の社交や家庭教師としての仕事では、誰もが申し合わせたように、彼女を「ベレル伯爵家のフローリアン嬢」と呼んだ。
それは公然の秘密であり、誰もが事情を察していながら、あえて口にしない暗黙の了解となっていた。
フローリアン自身も、自分を公爵夫人としてではなく、ベレル伯爵家のフローリアンとして扱ってほしいと考えていた。
こうしてフローリアンは、二十歳という若さで実家へ戻ることになった。
実家へ戻ったばかりの頃、フローリアンは失意の日々を送っていた。自分は何のために学院を卒業し、何のために公爵家へ嫁いだのか。
周囲から期待されていた役目を果たせなかったという思いは、若い彼女の心に重くのしかかった。
しかし、フローリアンは本来、聡明で行動力のある女性だった。いつまでも塞ぎ込んでいる性格ではない。
ある日、母が部屋を訪ねてきた。
「いつまで、そうしているつもりなの?」
「……分かりません」
「あなたには、学院で身につけたものがあるでしょう。それを無駄にする必要はないわ」
フローリアンは、しばらく黙っていた。
そして、机の上に置かれていた教本へ目を向けた。
「……教える、ということなら…私にも、できるかもしれません」
やがて彼女は、自分が学院で身につけた知識や教養を活かし、貴族の子弟に勉強を教えるようになった。
最初は知人の子供を教える程度だった。だが、フローリアンの教え方は分かりやすく、彼女に教わった子供たちは次第に学院で頭角を現すようになった。
その評判は貴族社会の中で少しずつ広がっていき、やがて彼女のもとには、高位貴族の家からも家庭教師の依頼が舞い込むようになった。
いつしかフローリアンは、「貴族の子弟を優秀な人材へ育てる家庭教師」として知られるようになっていた。
そんな彼女も、まだ二十五歳。けれど、その後に選んだ家庭教師という仕事によって、彼女は少しずつ自分自身の居場所を築いていた。
そして少し前、レオーネの家庭教師を選ぶ際にも、フローリアンには声が掛かっていた。
名門貴族の子弟を教え、その多くを学院で優秀な成績へ導いてきた実績があったためである。
フローリアン自身も自信を持って試験に臨んだ。
「……私が、負けるはずがないじゃない」
試験を前に、フローリアンはそう思っていた。
しかし、その結果、レオーネの家庭教師に選ばれたのはイスズだった。
フローリアンは試験に落ちたのである。
しかも、学院にも通っていないというイスズに敗れたことは、フローリアンにとって簡単には受け入れられないことだった。
試験の結果を知った直後、フローリアンはイスズのもとへ歩み寄った。
普段の彼女なら、人前で相手を貶めるような言葉を口にすることなどなかった。だが、このときばかりは、自分でも抑えきれない感情が口をついて出てしまった。
「生活魔法しか使えない、学院にも通っていない貧乏騎士爵家の行き遅れ令嬢に、伯爵家の長男の家庭教師が務まるとでも?」
「明らかにおかしいわ。今回の試験が、何のために行われているのか分かっているのかしら?」
言い終えたフローリアン自身も、そこまで言ってしまったことに気づいた。
だが、今さら取り消すこともできない。
フローリアンはイスズの返事を待つことなく、その場を立ち去った。
とはいえ、フローリアンの成績そのものが悪かったわけではない。
しかも、学院にも通っていないというイスズに敗れたことは、フローリアンにとって簡単には受け入れられないことだった。
とはいえ、フローリアンの成績そのものが悪かったわけではない。
試験では上位に入っており、家庭教師としての実績もすでに貴族社会では広く知られていた。
そのため、レオーネの家庭教師には選ばれなかったものの、インプレッサ伯爵家はフローリアンの能力を高く評価していた。
そんな折、ソルテラの家庭教師を務めていたビークロスが、突然その職を辞めることになった。
急遽、後任を探す必要が生じたインプレッサ伯爵家が目を向けたのが、すでに貴族の家庭教師として名を知られ、なおかつレオーネの家庭教師選考でも上位の成績を収めていたフローリアンだった。
「もしよろしければ、ソルテラ様の家庭教師をお願いできませんでしょうか」
そう依頼されたフローリアンは、少しだけ考えた。
レオーネの家庭教師にはなれなかった。
だが、インプレッサ伯爵家で教える機会が、もう一度巡ってきたのである。
「……分かりました。お引き受けします」
こうしてフローリアンは、レオーネの家庭教師にはなれなかったにもかかわらず、思いがけずインプレッサ伯爵家で教える機会を得ることになったのである。




