第41話 アスカ・フォワード
アスカ・フォワードは、今日も朝から侍女たちに囲まれていた。
「奥様、本日のドレスはこちらでよろしいでしょうか?」
「ええ、よろしいですわ」
「髪型は、今日は少し華やかに結い上げましょう。こちらの髪飾りはいかがでしょう?」
「ええ、任せますわ」
「では、ネックレスはこちらを。ドレスにもよく合うと思います」
「そうですわね」
「お化粧は少し薄めに仕上げましょう。奥様は肌がお綺麗ですから、そのほうがよろしいかと」
「そうですわね」
次々と意見を求められ、そのたびにアスカは笑顔で頷いていた。
もはや自分で考えているのかどうかさえ分からない。
「……はい。ええ。そうですわね」
愛想笑いを浮かべながら頷き続けるだけの機械になっていた。
一方、侍女たちは実に嬉々としている。
今日の午後、アスカは自分が属する派閥の公爵夫人が開くお茶会へ招かれている。アスカにとっては、出産後初めての正式な外出だった。
帝国学院を卒業すると同時に、アスカはアルシオーネ・フォン・フォワード子爵のもとへ嫁いだ。
ちょうど卒業を間近に控えた頃、前フォワード子爵が亡くなり、爵位を継ぐことになったアルシオーネから突然、結婚を申し込まれたのである。
慌ただしい日々の中でプロポーズを受け、卒業式を終え、そのまま結婚。子爵夫人となったと思えば、今度はすぐに身籠もり、娘を出産した。
そしてようやく、娘のステラも少しずつ手が離せるようになってきた。
優秀な乳母も見つかり、そろそろ近場の外出なら大丈夫だろうということで、久しぶりに社交の場へ出ることになったのだった。
その隣では、娘のステラが乳母に抱かれ、すやすやと眠っている。その寝顔を見ているだけで、アスカの頬には自然と笑みが浮かんだ。
「可愛い……」
そう呟いたところで、部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
アスカが答えると、扉が開く。入ってきたのは、夫のアルシオーネだった。
「アスカ」
部屋へ入るなり、アルシオーネはアスカを見て微笑んだ。
「相変わらず、今日も綺麗だね。とても一児の母には見えないよ」
「まあ……」
アスカは少し照れたように笑った。
アルシオーネはそのままアスカのところまで歩いてくると、乳母に抱かれているステラへ目を向ける。
「ステラも可愛いね」
そう言って、眠っている娘の頭を優しく撫でた。
「私は、こんな素敵な女の子たちに囲まれて、本当に幸せだよ」
「もう、アルシオーネ様ったら」
アスカは嬉しそうに笑った。すると、アルシオーネがふと思い出したように言った。
「そういえば、君の兄のジェミニ殿から手紙が来ているよ」
「ジェミニお兄様から?」
アスカは振り返った。髪を結ってもらっている最中なので、大きく動くことはできない。
「ありがとうございます。こちらへお願いしますわ」
アルシオーネから手紙を受け取ると、アスカはその場で封を開いた。
そして、書かれていた内容に目を通していく。やがて、その目が大きく見開かれた。
「まあ!」
思わず声が出た。アルシオーネが驚いたように振り返る。
「アスカ、どうしたんだい?」
「イスズマミ……イスズお姉様が、インプレッサ伯爵様のご長男の家庭教師になったのですわ!」
アスカの顔が、ぱっと明るくなる。
「さすがお姉様です!」
「君のお姉様自慢が始まるのかい?」
アルシオーネが笑う。アスカは迷うことなく頷いた。
「そうですわ!」
そして、待っていましたとばかりに胸を張った。
「イスズお姉様は本当にすごいのです! 家事も、育児も、勉強も、魔法も、武術も、何でも得意なのですわ! 得意ではないものなどありませんもの!」
「はいはい」
アルシオーネは苦笑する。だが、アスカは止まらない。
「私にとってはお姉様ですが、母であり、師であり、そして神なのです!」
「母であり、師であり、そして神なのです。ふふっ」
後半の言葉は、なぜかアルシオーネまで声を合わせていた。
二人は顔を見合わせる。そして、同時に苦笑した。
「また始まったな。そのフレーズは、もう僕も覚えたよ」
「それくらい、イスズお姉様はすごいのですわ!」
アスカのイスズ自慢は、本当に始まると止まらない。
これは学院に通っていた頃から、何も変わっていなかった。その頃のアスカは、今よりずっと素朴な少女だった。
それでも、当時から姉のイスズを誰よりも尊敬していた。
そして、そんなアスカとの出会いを、アルシオーネは今でも忘れていなかった。
それは、帝国学院の入学試験である。
アルシオーネが帝国学院の入学試験を受けた時、フォワード子爵家では、誰もが彼の主席合格を疑っていなかった。
父である前フォワード子爵も、母も、執事も、屋敷の使用人たちも、アルシオーネがどれほど優秀なのかをよく知っていた。
同年代の中でも、アルシオーネの才能は突出していた。
勉強はもちろん、魔法や武術にも秀でている。容姿も整っており、それでいて傲慢なところがなく、平民に対しても分け隔てなく接する。
「神童」と呼ばれるのも当然だった。次代のフォワード子爵として、これほど頼もしい人物はいない。
そう周囲からも評価されていた。しかも、子爵家の子弟でありながら、これほどまでに優秀なのは珍しかった。
帝国では、皇族や公爵家、侯爵家、辺境伯家、伯爵家といった高位貴族の子弟が、武術でも魔法でも勉学でも上位を占めるのが普通だった。
特に魔法には生まれ持った才能が大きく関係している。そして高位貴族ほど、魔法に秀でた者同士で婚姻を結ぶことも多い。そのため、代を重ねるにつれて、高位貴族には優秀な魔法使いが多くなる。
勉学にしても同じだった。高位貴族の子弟であれば、幼い頃から家庭教師をつけ、十分な教育を受けるのが当たり前である。
一方、爵位の低い騎士爵家や貧しい貴族家では、どこもそれほど裕福ではない。家庭教師を雇う余裕などなく、子どもに十分な教育を受けさせることすら難しい家も多かった。
武術も基本的には裕福な高位貴族の子弟ほど優れた教育を受けているが、こちらは魔法や勉学とは少し事情が違う。
平民や低位貴族の中から、ときおり突出した才能を持つ者が現れることもある。
だからこそ、子爵家の子弟であるアルシオーネが、勉学、魔法、武術のすべてで高い評価を受けていたことは、それだけで十分に異質だった。
そんなアルシオーネが受けた入学試験。
合格発表の日、掲示板の前には大勢の受験生と家族が集まっていた。アルシオーネは自分の名前を探し、そこで思わず目を疑った。
「……二位?」
アルシオーネは、自分の名前を見つめた。
自分が二位だった。アルシオーネより上位にいるのは一人だけで、その後に続く名前も、ほとんどが高位貴族の子弟だった。しかも、事前の評判どおり、アルシオーネが知っている名前も多い。
帝国学院の入学試験は、勉学だけで決まるものではない。筆記試験に加えて、魔法と武術の試験も行われる。そのため、魔法の才能や十分な教育を受ける機会に恵まれた高位貴族の子弟が、上位を占めるのが普通だった。
特に低位貴族の子弟や女子が、三つすべての試験で高い成績を収め、上位へ食い込むのは容易なことではない。
一位。そこに書かれていた名前を見て、アルシオーネは眉を寄せた。
『アスカ・エルミオ』
知らない名前だった。周囲でも、同じように首を傾げる者が多い。
すると、五位に入っていた辺境伯家の子息が、掲示板を見ながら呟いた。
「エルミオというと……あの辺境の騎士爵家のエルミオか?」
その言葉が周囲へ広がっていく。
「騎士爵?」「そんな家の者が一位なのか?」「誰だ、それは?」
しかし、誰もアスカ・エルミオという少女のことを知らなかった。その時だった。人混みの向こうから、一人の少女が歩いてきた。
平民の中にいても少しみすぼらしく見える服を着ており、その後ろには一人の老人が付き従っている。
少女は人混みを気にする様子もなく、掲示板の前までやってくると、そこに張り出された合格者の名前を、しげしげと眺め始めた。
しばらくして、少女が首を傾げた。
「……私の名前がないわね…やはり、落ちたのかしら…」
そして、掲示板を端から順番に見ながら、自分の名前を呟いていく。
「アスカ・エルミオ……アスカ・エルミオ……アスカ・エルミオ……」
何度も探す。
「やっぱり、ないわね………」
少女は諦めたように掲示板から離れようとした。
その時だった。アルシオーネの耳に、少女の呟きが届いた。
「アスカ・エルミオ……ないわね」
「……!」
アルシオーネは思わず少女へ声を掛けた。
「失礼。君の名前は、アスカ・エルミオかな?」
少女が怪訝そうな顔で振り返る。
「ええ。私はアスカ・エルミオですが……何か?」
アルシオーネは言葉を失った。この少女が。自分より上にいる、一位の少女なのか。しかも、着ているものは決して上等ではない。
アルシオーネが今まで名前すら聞いたことのない、辺境の騎士爵家の少女。それでも、確かに彼女の名前は一位の場所に書かれている。
「アスカ殿。君の名前は、ほら。あそこに書かれているよ」
アルシオーネは掲示板を指差した。アスカは不思議そうな顔をしながら、アルシオーネの指差す先へ目を向けた。
そして――顔がぱっと明るくなる。
「あっ! 本当だわ! 私の名前がある!」
アスカは掲示板へ駆け寄った。
「一番ですって!」
自分の名前を何度も確かめるように見つめてから、アスカは嬉しそうに振り返った。
「コントーロ! 私、一番ですって!」
付き従っていた老人従者――コントーロも、目を見開いた。
「お嬢様、お見事でございます」
「ええ! でも、きっとイスズマミーのおかげだわ!」
アスカはそう言って、誇らしげに胸を張った。
「だって、私が分からないところがあると、いつもイスズマミーが教えてくださったもの。どうしてそうなるのか、私が分かるまで何度でも教えてくれて……。だから、これもイスズマミーが教えてくださったからだわ!」
アスカはもう一度、掲示板に並ぶ自分の名前を見上げた。そして、満面の笑みを浮かべる。
「やっぱり、さすがイスズマミーよ! 母であり、師であり……そして神なのだわ!」
アスカは当然のことのように答えた。その様子を、アルシオーネは呆然と眺めていた。
自分が負けた。それも、こんな言い方をしては失礼だが、名も知らぬ貧しい騎士爵家の少女に。だが、不思議と悔しくはなかった。むしろ、胸の奥から湧き上がってくるものがあった。
嬉しい。今まで、自分に勝てる者などいなかった。勉強でも、魔法でも、武術でも、同年代に自分と競える相手はいなかった。
それが、初めて負けた。しかも、相手は自分がこれまで存在すら知らなかった少女だ。
――この子は、いったい何者なんだ?
アルシオーネは、嬉しそうに自分の名前を見つめている少女から目を離せなかった。
それが、後に自分の妻となるアスカとの出会いだった。
そして現在。
アスカは手紙を読みながら、楽しそうにその内容をアルシオーネへ話していた。
「お兄様のお手紙には、こんなことも書いてあったのですわ! その家庭教師を決める試験で、名だたる実績を持つ家庭教師たちが集まっていたのですって。それなのに、その中から選ばれたのがイスズお姉様なのですわ!」
「まだ読むのかい?」
アルシオーネが苦笑すると、アスカは嬉しそうに頷いた。
「もちろんですわ!」
そして、再び手紙へ視線を落とす。
イスズの話になると、昔からアスカはこうだった。姉のことを語り始めれば、いくら時間があっても足りない。
アルシオーネはそんな妻を見ながら、眠っているステラへもう一度目を向けた。
そして、穏やかに微笑む。自分の妻と、その妻が誰よりも慕う姉。
そして、その姉から生まれた縁によって、これからまた新しい出来事が始まることになる。
アスカはまだ、そのことを知らない。
ただ一つだけ確かなのは――
今日もまた、アスカのイスズお姉様自慢が、しばらく終わりそうにないということだった。




