第40話 武術の授業07
翌日。
武術の授業が始まると、イスズはいつものスカート姿ではなく、乗馬服を身につけてレオーネの前に立っていた。ストリーガが「もう使わないから」とイスズに譲ってくれたものだ。
「ストリーガ様、このようなものをいただいてありがとうございます」
イスズが礼を言うと、ストリーガは少しばかり苦い顔をした。
「いや……その乗馬服なのだが、イスズ殿には少しきつくはないか?」
「ええ? そうでしょうか?」
イスズは自分の服を見下ろした。
「ちょうど良いかと思います。少し胸とお尻がきついのですが、着ているうちに伸びるでしょうから」
本人はまったく気にしていないらしい。
「そういう問題なのか……?」
ストリーガは困ったように呟いた。
一方、レオーネはイスズの姿を見て、少しだけ目を泳がせていた。
スカート姿のときとは違い、身体に沿った乗馬服では、普段は服に隠れている身体の線がはっきりと分かる。腰回りは細く、全体としてはすらりとして見えるのに、胸だけは思っていた以上に豊かだった。
どこを見ればいいのか、少しばかり困ってしまう。
そんなレオーネの様子に気づいたトレミーが、口元にわずかな笑みを浮かべた。そして、そっとレオーネの耳元へ顔を寄せる。
「レオーネ様。これも、ある意味では精神の集中を要する訓練の一環と考えてください」
「……!」
レオーネは一瞬、恥ずかしそうに顔を赤くした。だが、言われてみれば確かにその通りだ。武術とは、目の前のことに集中するものなのだから。
「……分かったよ。そうする」
レオーネは小さく頷いた。
トレミーはそんなレオーネを見て、何とも言えない生暖かい目を向けた。
やがて、イスズが三人の前へ進み出る。
「昨日は、申し訳ありませんでした。今日は三つ目と四つ目です」
イスズはそう言って、姿勢を正した。
「まずは、身体の中心線を意識することです」
イスズは自分のへその辺りに手を当てた。
「身体の中心から、大きく手を外さないようにします。腕を遠くへ振り回すと、身体の軸が崩れてしまいます」
イスズは両手を胸の前に置き、そこからゆっくりと腕を動かした。
「手は、常に身体の正面にあると思ってください。そうすると、身体全体が一つにつながりやすくなります」
ストリーガも自分の腕を胸の前に置き、イスズの動きを真似する。
「これは、剣を扱うときにも同じです。剣を振る動きも、腕だけで行うのではありません。身体の中心から動き、その動きに腕と剣がついてくる。そう考えると、少ない力でも剣を扱いやすくなります」
「なるほど……その通りだな…」
ストリーガは自分の身体を動かしながら、熱心に考えている。
レオーネも、イスズの説明に集中しようとした。
昨日とは違い、今日は乗馬服だ。その姿がどうしても目に入ってしまい、レオーネは余計なところを見ないように意識した。
イスズの顔を見ていると、かえって胸のあたりを意識してしまう。ならば、とレオーネはイスズが示している身体の中心へ視線を落とした。
へその辺り。そこなら授業に必要な場所だ。身体の中心を意識するという話なのだから、ここを見ている分には何も問題はない。
……はずだった。
視線をそこへ固定していても、腰や胸へ意識が向きそうになる。レオーネは慌てて視線を戻し、小さな声で自分に言い聞かせた。
「集中……集中……」
「身体の中心を意識して、そこから動かしてください。腕だけを動かすのではなく、身体全体を一緒に動かすのですよ」
レオーネは頷いた。
「はい」
身体の中心を意識して、そこから腕を動かす。何度か繰り返しているうちに、少しずつ余計なことを考えなくなっていった。
どうにかこうにか、レオーネは今回の一つ目の課題を乗り切ることができた。
その少し離れたところでは、トレミーがイスズの姿を眺めていた。
昨日までのスカート姿では分からなかった身体の線が、乗馬服でははっきりと分かる。トレミーはしばらくイスズを見つめていたが、やがて小さく呟いた。
「普段は身体の線が分からなかったけれど……イスズ様は、その……すごいものをお持ちなのですね……」
「トレミー?」
思わずレオーネが声を上げる。
「いえ、何でもありません」
トレミーは何食わぬ顔で視線を逸らした。
その横で、レオーネは何とも言えない顔をしていた。
「そして、呼吸力です」
「呼吸力ですか?」
レオーネが聞き返す。
「はい。これは、腕や肩の力だけに頼らず、全身を連動させて力を出すことです」
イスズは肩の力を抜き、腕を軽く前へ伸ばした。
「肩や腕に力を入れすぎると、身体が固くなってしまいます。逆に、余計な力を抜いて身体全体を連動させれば、自分が思っているよりも大きな力を出すことができます」
そう言いながら、イスズはストリーガの腕を軽く押した。
その動きに、レオーネはまたしても意識を乱されそうになった。だが、すぐに気を取り直し、イスズの説明へ集中する。
さらにイスズが両腕を前で組むと、乗馬服によって胸の一部が強調され、レオーネは思わず声を上げそうになった。
しかし、ここでも何とか耐える。
今日はイスズが髪を頭の後ろで一つにまとめている。普段とは少し違うその姿が妙に目を引き、今度はそちらへ見入ってしまいそうになる。
「集中……集中……」
レオーネは小さく呟き、なんとか意識をイスズの説明へ戻した。
ストリーガも実際に身体を動かしてみる。
「……確かに。腕だけで押すより、身体全体を使ったほうが自然に力が伝わりますね」
「はい。呼吸も大切です。身体を固めるのではなく、息をしながら自然に動く。そのほうが身体全体を一つにつなげやすくなります」
イスズはそう説明すると、ゆっくりと息を吸い、身体を動かしてみせた。
またしても意識を逸らされそうになったレオーネは、慌ててイスズの顔へ視線を戻す。
集中しろ。これは武術の授業だ。そう自分に言い聞かせながら、レオーネはなんとか説明へ意識を戻した。
「そして、こうした動きを身につけるために、まず覚えてほしいのが立ち方です」
イスズは身体を完全に正面へ向けず、少し斜めに構えた。
「この立ち方を半身といいます」
前の足を相手へ向け、後ろの足を少し外へ開く。
「身体を正面に向けるよりも、こうして少し斜めに立ったほうが、相手から見た身体の面積が小さくなります。それだけ攻撃を受けにくくなります」
レオーネもイスズを真似して半身になる。
「ただし、足を固めてはいけません。前後左右へ、いつでも動けるように膝を軽く緩めておきます」
イスズはまず、正面を向いて立った姿勢を見せた。
その立ち姿があまりにも綺麗で、レオーネは思わず見入ってしまう。細い腰から伸びる身体の線が美しく、その細身の身体に対して、胸だけは驚くほど豊かだった。
だが、イスズが身体を斜めに向けると、今度はその横から見た姿が目に入る。
「……綺麗だ」
思わず、小さな声が漏れた。幸い、イスズには聞こえなかったらしい。
レオーネは慌てて周囲を見渡した。ストリーガは自分の足元を確認している。
イスズも気づいていない。だが、トレミーだけは違った。レオーネを見つめ、何とも言えない目で微笑んでいる。
「……」
レオーネはすぐに視線を逸らし、何事もなかったかのようにイスズの構えへ意識を戻した。
「こうですか?」
レオーネが少し膝を曲げる。
イスズが頷く。
「はい。いいですよ。上半身も力を入れすぎないでください。背筋は伸ばしますが、肩は楽に。身体の中心を意識して、いつでも動ける状態にしておきます」
レオーネは言われた通りに姿勢を整える。
イスズが呼吸をしながら身体を動かすたび、その動きが乗馬服越しにも伝わってくる。
レオーネは今度こそ視線を逸らさないよう、必死にイスズの顔を見つめた。
「……」
「レオーネ様?」
「はい!」
「どうしましたか?」
「い、いえ。何でもありません」
イスズは少し不思議そうに首を傾げたものの、すぐに説明を続けた。
「最後に、もう一つ大切なのが目線です」
イスズは二人を見た。
「相手の手や剣だけを見てはいけません」
そう言うと、イスズはストリーガの手ではなく、その身体全体を見る。
「遠山の目、と呼ばれる見方があります。近くの一点を凝視するのではなく、遠くの山を見るようなつもりで、相手の身体全体を見るのです」
イスズは少し離れた場所へ視線を向けた。
「そうすると、相手の手だけでなく、肩や腰、足の動きまで同時に捉えやすくなります。相手がどこへ動こうとしているのかを、身体全体から感じ取るのです」
「目を動かしすぎない、ということですか?」
ストリーガが尋ねる。
「はい。顔だけを動かして相手を追うのではなく、自分の身体の中心を相手へ向けたまま、全体を見るようにしてください」
イスズはそう言って、ストリーガの周囲をゆっくりと動いた。
「相手が動いたら、自分も身体全体で動く。目だけで追いかけないことです」
ストリーガはイスズの動きを目で追いながら、自分でも身体を動かしてみる。
レオーネも真似をし、トレミーも少し遅れながら同じように身体の向きを変えていた。
イスズが動くたび、レオーネは必死にその全身を見る。
顔だけを見るのではない。身体全体を見る。
それは先ほど教わったばかりのことだ。だから、これは決してイスズの姿を見ているわけではない。
武術の訓練なのだ。そう自分に言い聞かせながら、レオーネはなんとか集中を保ち続けた。
イスズは三人の様子を見ながら、時折足の位置や身体の向きを手で示し、必要なところだけ軽く直していく。
「体捌きは、力の強さだけで相手を制するためのものではありません。相手の力をまともに受けず、自分が動きやすい位置へ移り、身体全体を使って相手を制する。そのための土台になるものです」
そう説明しながら、イスズはもう一度、半身に構えた。
レオーネとトレミーも、その横で同じ構えを取る。
そしてストリーガもまた、興味深そうに自分の足元と身体の向きを確かめていた。
「はい。今日はここまでにしましょう」
イスズがそう言った瞬間だった。
「……はぁぁ……」
レオーネが大きく息を吐いた。肩を落とし、ひどく疲れたような表情をしている。
「レオーネ様、大丈夫ですか?」
イスズが心配そうに尋ねる。
「はい……大丈夫です」
そう答えるものの、レオーネの表情は明らかに疲れていた。
イスズは不思議そうに首を傾げる。今日の授業は、身体を激しく動かしたわけではない。
それなのに、なぜレオーネはこんなにも疲れているのだろう。
イスズには、その理由がまったく分からなかった。
すると、トレミーがレオーネへ近づいていった。
「レオーネ様。今日で多少は精神が鍛えられたのではないですか?」
そう言って、トレミーはにっこりと微笑む。
レオーネはトレミーを見る。
そして、何とも言えない苦い顔をした。
「……そうかもしれない」
「ふふっ」
トレミーは小さく笑った。
その二人のやり取りを見て、イスズも微笑む。
何を話しているのかまでは聞こえなかったが、二人とも以前よりずいぶん打ち解けているようだった。
それが、イスズにはなんとなく嬉しかった。




