第38話 武術の授業05
その日の武術の授業が始まると、まずイスズがレオーネの前に立った。
ストリーガとトレミーも、その少し後ろでイスズの話に耳を傾けている。
「昨日は、体捌きを見ていただきましたが、今日は、そのために必要となる基本からお話ししましょう」
イスズはそう言って、自分の身体を少し斜めに向けた。
「体捌きとは、簡単に言えば、相手の攻撃をまともに受けず、自分が有利な位置へ移動するための身体の使い方です。もうお分かりかと思いますが、剣を強く振ることだけが武術ではありません。相手の攻撃を避け、相手の力を利用し、自分が動きやすい場所へ移る。そのための身体の使い方が、体捌きの基本になります」
昨日、実際に体捌きを体験したストリーガは、興味深そうにイスズの話を聞いていた。
イスズが事前に「ひ弱な子供や女性でも、自分の身を守るために役立つものですよ」と話していたこともあり、トレミーも真剣な表情で耳を傾けている。
剣を振る力では男性に敵わない自分でも、身体の使い方を工夫することで身を守れるかもしれない。そう思えば、自然と話に引き込まれていた。
「体捌きには、立ち方や目線以外にも、上達するために欠かせない基本が四つあります」
イスズは指を一本ずつ立てながら説明していく。
「一つ目は、身体の移動です」
そう言って、イスズは一歩横へ移動した。
「相手が正面から攻撃してきたとき、真正面から受け止める必要はありません。少し身体をずらし、相手の攻撃線から外れる。そして、そのまま相手の側面へ入ります。これを入身といいます」
イスズはストリーガに協力を頼み、向かい合った。
「ストリーガ様、私に向かって一歩踏み込んでください」
「分かりました」
ストリーガが一歩踏み込む。
その瞬間、イスズは身体をわずかに横へずらし、そのままストリーガの側面へ移動した。
「このように、相手の真正面から外れるだけでも、相手はこちらを捉えにくくなります」
「なるほど……」
ストリーガが感心したように呟く。
「では、レオーネ様もやってみましょうか」
イスズがレオーネへ向き直る。
レオーネも返事をして、イスズと向かい合った。
いつもなら、穏やかに微笑んでいるイスズだ。けれど、今は違った。
入身の姿勢を取り、レオーネの正面に立ったイスズは、キリッとした真剣な表情で、じっとレオーネを見つめている。
レオーネは、思わずその顔をまじまじと見てしまった。
普段とは違う表情だったからこそ、いつもなら気に留めることのなかった顔の細かなところまで目に入る。
貴族の淑女にありがちな、手入れされた白い肌とは少し違う。けれど、もともとの肌の色は白いのだろう。頬には、よく見ると小さなそばかすがいくつか浮かんでいる。
それが不思議なほどイスズによく似合っていた。
レオーネは、ふと領地の庭に咲く温室栽培の花を思い浮かべた。温室の中で大切に育てられ、傷一つなく整えられた花。
けれど、目の前にいるイスズから感じる美しさは、それとは少し違っていた。野に咲く花のような、飾らない美しさ。
誰かに美しく見せるためではなく、ただそこに咲いているからこそ美しい。そんなことを考えているうちに、レオーネはすっかりイスズに見入ってしまっていた。
「……レオーネ様?」
「は、はい!」
呼びかけられて、レオーネは慌てて返事をする。
「では、行きますよ」
「え?」
その瞬間、イスズがレオーネへ向かって踏み込んできた。
「っ!」
あまりにも突然だった。しかも、さっきまで目の前にいたイスズが、一瞬で距離を詰めてくる。
レオーネの頭の中が真っ白になる。
避けなければ、そう思った。けれど、何をどうすればいいのか、考えるより先に身体が動いてしまった。
「わっ!」
レオーネは反射的に後ろへ下がった。その足が、もう一方の足に引っ掛かる。
「えっ――」
身体が大きく傾いた。
「危ない!」
イスズがすぐさま距離を詰め、倒れかけたレオーネの手を取った。
そのまま引き寄せられたレオーネの顔が、イスズの胸元へと、ぼふっ、と収まる。
「……っ!」
レオーネは完全に固まった。柔らかな感触と、すぐそばから漂ってくるイスズの匂いに、頭の中がさらに真っ白になる。
「レオーネ様、大丈夫ですか?」
すぐ近くからイスズの声が聞こえた。
レオーネは真っ赤になった顔を上げることもできず、ただ小さく頷くことしかできなかった。
イスズもその変化に気づき、少し心配そうにレオーネの顔を覗き込む。
「……また熱でしょうか?」
「い、いえっ!」
レオーネが慌てて顔を上げる。
その様子を見て、トレミーは小さく息を吐いた。
(このままイスズ様が相手では、レオーネ様はいつまで経っても体捌きを覚えられないわね。困ったものだわ)
そう思いながらも、トレミーの口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。
仕方のないことだと思う一方で、あれほど分かりやすく動揺しているレオーネの姿が、どこか微笑ましくもあった。
「イスズ様、レオーネ様の相手は私がいたしましょう。その方が、レオーネ様の動きを見ながらイスズ様が指導できますし、私もよろしければ護身として覚えてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。では、お願いしますね」
イスズが頷いた。
レオーネは一瞬だけ残念そうな顔をした。だが、確かにイスズが相手では、恥ずかしくてそれどころではない。
「そ、そうだね。では、トレミーを相手にして覚えるので、イスズ先生、よろしくお願いします」
「はい。それでは、もう一度やってみましょう」
今度はレオーネとトレミーが向かい合った。イスズは二人の横に立ち、動きを見ながら説明する。
「では、レオーネ様。トレミーの正面に立ってください。そして、トレミーがこちらへ踏み込んできたら、真正面から下がるのではなく、身体を少し横へずらします」
「はい」レオーネは素直に頷いた。
「トレミーさん、お願いします」
「はい」トレミーが一歩踏み込む。
レオーネは先ほどとは違い、落ち着いてトレミーの動きを見ることができた。
踏み込んでくる足。身体の向き。そして、自分との距離。
イスズに言われたことを一つずつ思い出しながら、身体を横へずらす。
「そうです。そのまま、もう一歩だけ横へ」
レオーネが足を運ぶ。
「今度は、相手の側面へ入ってみましょう」
レオーネはトレミーの動きを邪魔しないように身体をずらし、そのまま側面へ回った。
「そうです。今の動きで大丈夫ですよ」
イスズに褒められ、レオーネの表情が少し明るくなる。
「もう一度お願いします」
トレミーが頷き、再び踏み込む。
今度はレオーネも迷わなかった。相手の攻撃線から外れ、足を運び、そのまま側面へ入る。
何度か繰り返すうちに、最初はぎこちなかった足運びも、少しずつ滑らかになっていった。
「いいですね。では、次は私が言葉で指示しますから、その通りに動いてみましょう」
「はい!」
レオーネは真剣な顔で頷いた。イスズが指示を出す。
レオーネが動く。トレミーが踏み込む。レオーネが身体をずらす。そして、側面へ入る。
先ほどまでイスズを前にして固まっていたとは思えないほど、練習は順調に進んでいった。
トレミーはそんなレオーネを見ながら、内心で小さく苦笑する。自分が相手なら、こんなにも普通にできるのに。
それでも、レオーネが真面目に練習している以上、余計なことは言わず、黙って相手を務めた。
「では、もう一つ、転換という動きもあります」
イスズがそう言うと、レオーネたちは動きを止めた。
イスズは今度は前足を軸にして、身体を回す。
「相手がこちらへ向かってきたとき、その力に逆らって押し返すのではなく、身体の向きを変えて攻撃を受け流します。身体を大きく動かしているように見えても、実際には足を運びながら身体の向きを変えているだけです」
イスズは何度か、ゆっくりと動きを繰り返した。
「そして、こうした足の運びと手の動きを一緒に行う練習もあります。手だけを動かすのではなく、足と身体を連動させることが大切です」
レオーネはイスズの動きをじっと見てから、トレミーと向かい合った。
「では、やってみましょう」
「お願いします」トレミーが踏み込む。
レオーネは足を運びながら身体の向きを変え、トレミーの正面から外れる。
「そうです。足だけではなく、身体も一緒に動かしてください」
「はい」
もう一度。今度は少しだけ動きが滑らかになった。
トレミーもレオーネの動きに合わせて踏み込み方を変えながら、何度も練習に付き合う。
「もう少しだけ、足を早く運んでみましょう」
イスズの声が飛ぶ。
「はい!」
レオーネは返事をすると、もう一度身体を動かした。
足を運ぶ。身体の向きを変える。手を動かす。
それぞれを別々に動かすのではなく、一つの動きとして繋げていく。少しずつではあるが、レオーネの身体にもその感覚が身についていった。
「はい、ここまでにしましょう」
しばらく練習したところで、イスズがそう告げた。
レオーネは軽く息を吐きながら、頷いた。
「ありがとうございました、イスズ先生」
「こちらこそ、よく頑張りましたね」
イスズが微笑む。その笑顔を見て、レオーネはまた少しだけ顔を赤くした。
それでも、今度は先ほどのように動けなくなることはなかった。
トレミーを相手にしている間は、最後までしっかりと集中して練習することができたのである。
イスズはそんなレオーネの様子を見て、満足そうに頷いた。
授業では、まず身体の移動と転換を中心に、体捌きの基本を学んだ。
そして次の授業からは、倒れたときに身を守るための受け身、身体の動きを安定させるための中心線の意識、そして身体全体を連動させるための呼吸力へと、さらに細かな身体の使い方を学んでいくことになる。




