第36話 武術の授業03
今日も武術の授業が始まった。
いつもなら、レオーネに武術を教えるのは護衛のストリーガである。だが、この日からは少し違った。
「では、始めましょう」
木剣を手にしたイスズが、レオーネの前に立っている。その少し後ろにはストリーガが立ち、少し離れた場所では侍女のトレミーが二人の様子を見守っていた。
「まずは、いつもの構えを取ってください」
ストリーガが声を掛けると、レオーネは言われた通りに木剣を構えた。
「よし。では、イスズ殿。細かなところはお願いします」
イスズは頷くと、レオーネの構えをじっと見つめた。しかし、すぐには木剣を構えなかった。まずレオーネへ尋ねる。
「レオーネ様は、ご自身でどのような武術を身につけたいと思いますか?」
突然の質問に、レオーネは少し戸惑った。しばらく考えたあと、首を傾げながら答える。
「どのような……ですか。相手を倒す剣でしょうか?」
すると、イスズは珍しく、はっきりと首を横に振った。その思いがけない否定に、レオーネが目を丸くする。
「違います。レオーネ様が覚えるべきなのは、相手を倒す剣ではありません」
イスズは静かに続けた。
「相手に倒されない剣です」
その言葉に、ストリーガの眉がわずかに動いた。
「相手を倒すことよりも、自分が倒されないことを優先する。それが、私がレオーネ様に教えたい武術です」
「……倒されない?」
イスズは頷いた。
「ですから、いざという時には、自分の役目を果たしたうえで、生きて退くことも必要なのです」
思わずストリーガが口を挟む。
「イスズ殿、それは……」
騎士にとって、戦いの最中に敵へ背を向けるというのは、決して褒められたことではない。だが、イスズはストリーガの視線を受けても、少しも動じなかった。
「はい。逃げるのです。それは卑怯なことではありません」
レオーネも納得できない様子で尋ねた。
「でも……戦うべき時に逃げるのは、卑怯な考えなのではありませんか?」
イスズは即座に否定した。「いいえ。レオーネ様は、一人の兵士ではありません」
静かな声だった。
「将来、戦場へ出ることもあるでしょう。魔物や盗賊の討伐に参加することもあるかもしれません。しかし、レオーネ様は、そこで自ら率先して敵を倒すことを目的にしてはいけないのです」
「……どうして?」
「レオーネ様が倒されれば、困る人が大勢いるからです」
イスズはそう言ってから、少しだけ間を置いた。
「では、少し不敬な例えになりますが……もし明日、レオーネ様のお父様が賊に倒されたら、どうなると思いますか?」
レオーネの表情が変わった。
「父上が……?」
「はい。仮に、という話です」
イスズは穏やかな口調のまま続ける。
「まず、お父様が率いていた兵たちは、指揮官を失うことになります。もちろん、次に指揮を執る方は決まっているでしょう。しかし、その方が伯爵様と同じ権限を持っているとは限りません。例えば、賊が隣の領地へそのまま逃げ込んだとしましょう。代理の指揮官が、その領地へ兵を入れる決断を下せるでしょうか」
レオーネは答えられなかった。
「さらに、お父様が亡くなれば、次の伯爵を誰にするのかという問題も起こります。今はまだ、後継となるには幼いご子息が二人。どちらが爵位を継ぐのか、それとも親族の誰かが一時的に爵位を預かるのか。そうした話し合いにも時間が必要になります」
イスズの声は淡々としていた。
「その混乱を賊が知れば、もう一度襲ってくるかもしれません。もし、その時に隣の領地との関係が悪かったらどうでしょう。混乱に乗じて、別の貴族が戦を仕掛けてくるかもしれません」
「……」
「そのうえ、例えば、そこへ魔物のスタンピードまで起きたら?」
イスズは静かに問いかけた。
「この帝国では、数年に一度、どこかの地域でスタンピードが発生しています。いつ、どこで起きるのかは誰にも分かりません。十数年前にも、このインプレッサ伯爵領でスタンピードが起きたと聞いています」
「……確かに、ありましたね」
ストリーガが頷いた。
「スタンピードは、どれほど平穏な領地でも無関係ではありません。今は何事もなくても、明日になれば魔物の群れが押し寄せてくるかもしれない。だからこそ、領主が倒れたとしても、残された者たちだけで領地を守れる体制を、普段から整えておかなければならないのです」
誰も答えなかった。イスズはレオーネをまっすぐ見つめる。
「そんな状況になれば、一番困るのは誰でしょうか?」
「……領民でしょうか」
レオーネが小さく答えた。
イスズは頷いた。
「そうです。領主が戦場で一人の敵を倒すために無理をして、その結果として命を落とした。そのせいで領地全体が混乱し、大勢の領民が苦しむことになったのなら……果たして、それは立派な戦いだったと言えるでしょうか?」
レオーネは何も言えなかった。イスズは今度はストリーガへ視線を向ける。
「ストリーガ様。私の考えは間違っていますか?」
しばらく黙っていたストリーガは、やがてゆっくりと首を横に振った。
「……いや。過去には、領主が魔物討伐や戦争などで突然亡くなり、その後の混乱によって領地そのものが立ち行かなくなった例は確かにある」
騎士として長く帝国史を学んできたストリーガには、それを否定することができなかった。
イスズは小さく頷いた。
「だからこそ、領主や、その集団の長は最後まで生きなければならないのです」
そして、静かに続けた。
「もちろん、何もせずに自分だけ逃げればいい、という意味ではありません。自分の役目を果たし、残された者たちがどうすれば生き延びられるのかを考え、そのうえで自分がここに留まるよりも、生きて退いたほうが多くの人を救えると判断したのなら、迷わず退くべきなのです」
イスズはレオーネを見つめた。
「その場では卑怯だと罵られても構いません。逃げてもいい。退いてもいい。負けを認めてもいい。大切なのは、ただ自分の命を惜しむことではありません。生き残った後に何ができるのかを考え、そのために退くのです」
「生きていなければ、責任を取ることも、残された者を守ることもできないのですから、自分の誇りや世間の評判など、そんなことにこだわるべきではありません」
「……些細なこと……自分の誇りよりも、ですか?」
レオーネが思わず聞き返す。
イスズは頷いた。
「自分の誇りと、何百人、何千人という人々の命。その二つを比べて、どちらを選ぶべきかという話です」
その言葉に、ストリーガも何も言えなかった。
「領主が立派に戦って死んだ。その結果、領地が滅び、領民が苦しむ。それよりも、領主が恥を忍んで逃げ、生き延び、その後に領地を立て直すほうが、私はずっと立派なことだと思います」
イスズは淡々と言った。
「武人としての誇りよりも、領主としての責任を優先する。それが、レオーネ様に必要な武術です」
ストリーガも、レオーネも、そしてトレミーさえも、すぐには言葉を返せなかった。
先ほどまで柔らかな表情で話していたイスズの言葉が、三人の胸にはひどく重く響いていた。
やがてイスズは、手にしていた木剣を軽く持ち上げた。
「私の教える武術は、そういう武術です」
そう言って、イスズはいつものような柔らかな笑みを浮かべた。
「よろしいですか?」
「……はい」
レオーネが小さく頷いた。
その後、イスズは木剣を置き、今日の授業で話した内容を簡単にまとめることにした。レオーネは机に向かい、イスズから教わったことをノートへ書き留めていく。
「今日のお話は、忘れないように書いておきましょう。特に、自分が生き残ることが、どうして大切なのか。その理由も一緒に書いておくと、あとで読み返した時に分かりやすいですよ」
レオーネは真剣な顔で筆を走らせ、少し離れたところではストリーガとトレミーがその様子を見守っていた。
しばらくして、イスズがレオーネの書いているノートを覗き込んだ。
「どうですか……」
そう言いながら、イスズがレオーネのすぐ横まで近づき、身を屈めてノートを覗き込む。
「ちゃんと書けていますね。ですが、ここはもう少し――」
その瞬間、レオーネはふと気づいた。
すぐ隣に、イスズがいる。
そして、そこから何とも言えない、柔らかく優しい匂いが漂ってきた。ずっと近い。レオーネは思わずペンを止めた。
「……」
なんだろう。花のような、香水のような強い匂いではない。もっと穏やかで、どこか安心するような匂いだった。
レオーネが何気なく顔を横へ向けると、思っていた以上に近いところにイスズの顔があった。
「――っ」
目が合った。あまりにも近い。レオーネの顔が、一気に熱くなった。
「ここは……」
イスズはレオーネの顔が赤くなったことにも気づかず、ノートを指差している。
「……レオーネ様? どうかされましたか?」
「い、いえ……何でもありません!」
レオーネは慌てて顔をノートへ戻した。だが、頬の熱は引かない。
むしろ、イスズが隣にいることを意識するほど、どんどん熱くなっていく。
そんなレオーネの様子を見て、イスズが首を傾げた。
「あら?」
そして、レオーネの顔をじっと見る。
「レオーネ様、顔がかなり赤くなっておりますよ。もしかして、体調が悪いのでは?」
「ち、違います!」
「そうですか?」
イスズは心配そうにレオーネを見つめた。
「少し失礼しますね」
そう言って、イスズがそっと手を伸ばす。
細い指先が、レオーネの額に触れた。ひんやりとした手だった。
「……」
レオーネの身体がぴくりと固まった。額に触れられたことが恥ずかしい。それ以上に、先ほどからずっと近くにいるイスズの存在を意識してしまう。
イスズはレオーネの額に手を当てたまま、少し考えるように眉を寄せた。
「やはり……レオーネ様、お熱があるようですね」
「ち、違……」
「今日は授業も途中ですが、ここまでにしましょう」
「えっ……」
レオーネは思わず顔を上げた。本当は、まだ授業を続けたかった。
イスズに教えてもらえることが嬉しかったし、もっと話を聞きたかった。けれど、なぜ自分の顔がこんなにも熱くなっているのか、その理由が分からない。
まさか、イスズが近くに来たからだなどとは、自分でも思いつかなかった。
「今日はもう休みましょう。無理をしてはいけませんよ」
レオーネは慌てて立ち上がった。「でも、あの! 違うんです。その……あの……」
言いたいことはある。熱があるわけではないし、もっと授業を続けたい。けれど、どうして顔が赤くなったのかを説明できない。
結局、言葉はどんどん小さくなっていった。
「……その……」
イスズはそんなレオーネを見て、ますます心配そうな顔になる。
「やっぱり、少し熱があるのかもしれませんね」
レオーネは何も言えなくなった。
結局、その日の授業はそこで終わることになった。
「レオーネ様、お部屋まで付き添いましょうか?」
イスズが心配そうに声を掛ける。
レオーネは仕方なく頷いた。
イスズがレオーネの腕をそっと取る。その瞬間、レオーネの腕がイスズの身体に触れた。
「……っ」
また、顔が熱くなる。近い。先ほどよりも、さらに近い。
歩くためにイスズが身体を寄せるたび、その存在がはっきりと感じられる。
そして、ふとイスズがレオーネへ顔を向けた。
「大丈夫ですか?」
その声とともに、イスズの吐息が頬にかかった。
「――!」
レオーネの頭が、一瞬で真っ白になった。
何を言われたのかも分からない。ただ、すぐそばにいるイスズのことしか考えられなくなった。
身体から力が抜ける。
「レオーネ様?」
イスズが驚いた声を上げる。レオーネの身体がふらりと傾いた。
その瞬間、後ろからストリーガが素早く身体を入れた。
「レオーネ様!」
ストリーガがレオーネを抱きかかえる。
「レオーネ様は私がお部屋まで運びます。トレミー殿、侍従に医者を呼んでほしいと伝えてくれ」
「はい!」
トレミーが慌てて返事をする。
ストリーガに抱きかかえられたレオーネは、ぼんやりとイスズを見た。
イスズは心配そうな顔で、こちらを見つめている。
「レオーネ様、本当に大丈夫でしょうか……」
その表情は、いつもと変わらない。
ただ純粋に、生徒の体調を心配しているだけだった。
レオーネは何も答えられない。ただ、ストリーガに運ばれていきながらも、何度もイスズの姿を目で追っていた。
そんなレオーネを見ていたトレミーは、ふと何かに気づいたように目を細めた。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。
「……これは、お医者様を呼んでも治らない病かもしれませんね」
そう言って、トレミーは誰にも見られないように、ほんの少しだけ微笑んだ。
イスズは、その意味に気づかない。ただ、遠ざかっていくレオーネの背中を、心配そうに見送っていた。
その日、レオーネはまだ知らなかった。
自分がどうしてイスズを見ると胸が騒ぎ、近くにいるだけで顔が熱くなるのか。
それが何なのかを知るのは、もう少し先のことになる。
ただ、この日からレオーネにとって、イスズという存在は、それまでとは少し違った意味を持つようになっていった。




