第34話 武術の授業01
今日は武術の授業だった。
いつもなら、護衛のストリーガがレオーネに剣を教える場だ。
構え方から始まり、足の運び、剣の振り方、相手との間合いの取り方。基礎を一つずつ繰り返し、身体に覚え込ませていくのが普段の授業だった。
しかし、この日は少し事情が違っていた。
その日から、イスズも武術の指導に加わることになったのである。きっかけは、本当に些細なことだった。
ある日の鍛錬で、いつものようにストリーガがレオーネへ木剣を振らせていた。
「踏み込みをもう少し小さく。そうです。足を出しすぎると、次の動きが遅れます」
レオーネは言われた通りに動こうとする。だが、どうしても身体が硬い。
剣を振ろうとするたびに肩へ力が入り、踏み込んだ足に身体が追いつかない。斬り終えた時には上体が前へ流れ、次の動作へ移るまでに、わずかな間が生じてしまう。
ストリーガも何度か動きを変えながら指導した。
「……力を抜いてください。剣を腕だけで振らないように」
そう言われても、レオーネ自身には、どこに力を入れて、どこを抜けばいいのか分からない。
その様子を、少し離れた場所から見ていたイスズが口を開いた。
「ストリーガ様、少しよろしいですか?」
「はい。何でしょうか?」
最初の頃、ストリーガはイスズを、レオーネの家庭教師としては少々頼りない娘だと思っていた。
何しろ、イスズは帝国学院に通ったことすらない。身につけている服も決して上等とは言えず、とても伯爵家の子弟を教えるような令嬢には見えなかった。
しかも、聞けば辺境の名も知られていない騎士爵家の娘で、すでに行き遅れと呼ばれてもおかしくない年齢だという。
そんな娘が、なぜインプレッサ伯爵家の長男であるレオーネ様の家庭教師をしているのか。
ストリーガには、それだけでも十分に不思議だった。そして実際に授業を始めてみれば、さらに疑念は深まった。
イスズが教える内容は、ストリーガがこれまで一度も聞いたことのないような話ばかりだったのだ。
教科書などはあまり使わず、物事の仕組みについて、まるで当たり前のことのように語り、レオーネが疑問を口にすれば、さらにその理由を掘り下げて説明していく。
その内容があまりにも独特だったため、当初のストリーガは、それをまともな授業だとは思っていなかった。
――本当に、こんなことを教えて大丈夫なのか?
それどころか、あまりにも奇妙な教えを繰り返すイスズを見て、レオーネを妙な思想に洗脳しているのではないか、と疑ったことさえあった。
しかし、授業を見守るうちに、少しずつその考えが変わっていった。イスズは、決して適当なことを言っているわけではなかった。
レオーネが理解できていないところを見れば、すぐに気づく。説明の仕方を変え、別の例を出し、それでも分からなければ、さらに噛み砕いて説明する。
そして、レオーネが理解すると、それ以上は余計なことを言わない。その教え方には、妙な説得力があった。何より、レオーネ自身が、以前よりも明らかに物事を理解できるようになっている。
ストリーガは、いつしかイスズの授業を警戒するのではなく、注意深く観察するようになっていた。
そして、そこで気づいたのだ。
――この娘は、ただ頭が良いだけではない。レオーネが何かをするたび、その動きや反応を細かく見ている。
どこで迷ったのか。何を理解できていないのか。身体の使い方に無駄がないか。それを、イスズは驚くほど正確に見抜いていた。
だからこそ、今回もすぐにレオーネの動きの違和感に気づいたのだった。
「差し出がましいのですが、レオーネ様は、踏み込む時に右肩が少し先に動いています」
イスズはレオーネの動きを見ながら続けた。
「剣を振ろうとする意識が強すぎるのかもしれません。腕から動かすのではなく、まず身体を前へ運んで、その動きに剣をついてこさせるようにしたほうがいいのではないでしょうか」
ストリーガは、もう一度レオーネを見た。言われてみれば、その通りだった。
だが、その時、ストリーガは別のことにも気づいた。
イスズの立ち方だった。
いつもなら気にも留めなかった。だが、レオーネの動きを細かく観察していた今、改めてイスズを見ると、妙に隙がない。
ただ立っているだけなのに、身体の軸がぶれていない。重心も偏っておらず、いつでも自然に動き出せるような立ち方をしている。
歩く時も同じだった。足音は小さく、身体が上下に揺れない。狭い場所を通る時も周囲との距離を自然に測り、誰かが近づけば、わずかに身体の向きを変えている。
武術を知らない者なら気にも留めないほどの小さな動きだった。しかし、長年剣を扱ってきたストリーガには、それが偶然とは思えなかった。
――この娘は……何かしらの武芸を心得ているのではないか?
そう考えると、先ほどの指摘にも納得がいく。ただレオーネの剣を見ているだけではない。身体の動きそのものを見ているのだ。
ストリーガは、初めてイスズのことを、家庭教師としてではなく、一人の武人として意識した。
「……なるほど」
ストリーガは小さく呟いた。そして、少し考えてからイスズへ声を掛ける。
「イスズ殿。一度、手本を見せていただけますか?」
「私が、ですか?」
イスズは少し驚いたように目を瞬かせた。
「ええ。今おっしゃったことを、実際に見せていただければ分かりやすいでしょう」
「ですが、私は武術の専門家ではありませんよ?」
「それでも構いません。先ほどの指摘が正しいか、私も見てみたいのです」
そう言われ、イスズは少し困ったような顔をした。だが、断る理由もない。
「……分かりました」
イスズはストリーガから木剣を受け取ると、レオーネの前に立った。
「では、先ほどお話しした動きを、実際に見ていてくださいね」
イスズはそう言って木剣を構えた。
そして、レオーネのほうへ一度だけ木剣を振ってみせた。
前へ出る足が地面を強く蹴るというより、身体全体が滑るように前へ移動する。その動きに合わせて腰が動き、肩が遅れてついてくる。そして最後に、腕が動いた。
ヒュッ――。
木剣が鋭く振り下ろされる。ストリーガの目がわずかに見開かれた。
大きく振りかぶったわけではない。腕を後ろへ引くような余計な動きもない。それでも、剣は速かった。
しかも、斬り終えたところで身体の軸が崩れていない。そのまま次の一歩へ移れる姿勢が残っている。
イスズは剣を止め、レオーネへ向き直った。
「身体を先に動かして、剣はその後からついてくるようにします。腕だけで振るのではなく、身体全体の動きを剣へ伝える感じです」
イスズは木剣を手にしたまま、少しだけ首を傾げた。
「実は、私には弟が三人いまして。幼い頃から、弟たちが剣や槍を振るところをよく見ていたのです」
「弟が三人?」
レオーネが尋ねる。
「はい。正式な剣術や槍術の型を知っているわけではありません。ただ、弟たちが武器を振るのを見ていて、もっと短い動きで、もっと強く、もっと正確に攻撃できないかと思って、いろいろ指摘していただけです」
「……」
「例えば、振りかぶる動作が大きければ、それだけ相手に動きを読まれます。身体が先に流れてしまえば、次の動きも遅れます。だから、できるだけ無駄をなくして、身体が自然に動くようにしていっただけで……」
そこでイスズは苦笑した。
「弟たちに説明するために、私自身も木剣を持って、身振り手振りで教えているうちに、いつの間にかこうなってしまったのです」
ストリーガは、思わずイスズの木剣へ視線を落とした。
型を知らない。流派も知らない。
それなのに、今の動きには、武術を長年修めてきた者にも分かる合理性があった。
そして、そのことがストリーガには気になっていた。
イスズは、いったいどこまで自分の力を理解しているのだろうか。
「……なるほど」
ストリーガは小さく呟くと、レオーネへ目を向けた。
「では、レオーネ様。一度、イスズ殿の動きを真似してみてください」
「はい」
レオーネは木剣を構えた。
先ほど見たイスズの動きを思い出しながら、身体を前へ運ぼうとする。
だが、足を意識すれば身体が遅れ、身体を意識すれば剣に力が入る。言われたことを意識しているつもりなのに、身体は思うようについてこなかった。
何度か繰り返してみても、結果は同じだった。
「……難しいです」
レオーネが困ったように呟く。
イスズはそんなレオーネの動きを見て、少し考えるように首を傾げた。
「……やはり、頭で理解するだけでは難しいですね。少し触れてもよろしいですか?」
そう言うと、イスズはレオーネへ近づいた。
イスズはレオーネの肩に手を添えた。
「失礼しますね。ここを少し下げて……そうです。それから、足はもう少しだけ近くに」
イスズはレオーネの足の位置を直し、身体の向きを整えていく。
「身体を前へ運ぶときは、足だけで踏み込もうとしないでください。身体全体を一緒に動かすような感じです」
そう言いながら、今度はレオーネの背後へ回った。
「では、もう一度」
イスズが背後からレオーネの腕に手を添え、身体の動きをゆっくりと導く。
「それから、相手をよく見てください。剣だけを見ていてはいけません。肩や肘、腰、足、視線……そういうところを見ていると、次に何をしようとしているのか、少しずつ分かるようになります」
レオーネが尋ねる。
「次の動きが、分かるのですか?」
「完全に分かるわけではありません。でも、人は何かをしようとすると、身体のどこかが先に動きますから。だから、その小さな変化を見逃さないようにするのです」
そのとき、レオーネはふと気づいた。すぐ近くから、何かいい匂いがする。
「……匂いがする」
イスズの動きが止まった。
「えっ? わ、私、臭いますか? 毎日ちゃんと身体を拭いているのですが……」
イスズは少し慌てた様子で、自分の服の袖を嗅いでいる。
「いえ、そういう意味ではなくて……」
レオーネはどう説明すればいいのか分からず、口ごもった。
「その……イスズ先生から、良い匂いがしてきて」
「えっ? 私、香水とか高価なものは何もつけていませんよ?」
「そういうものじゃないと思います……」
「そうなのですか?」
イスズは首を傾げた。レオーネにも、それ以上は分からなかった。
ただ、上位貴族の家では、母親が常に子供のそばにいて育てることは、むしろ珍しいことだった。
レオーネにも幼い頃から乳母がついていたが、五歳を迎えた頃には役目を終え、今ではもうそばにはいない。今のレオーネの身の回りには、侍女と護衛がついている。
そのため、レオーネにとって、女性とこれほど近い距離で接すること自体が珍しかったのだ。
――これが、母の匂いなのかな。
そんなことを、ぼんやりと思った。
その時のレオーネには、それくらいにしか思えなかった。
「……では、もう一度やってみましょうか」
イスズが何事もなかったように言う。
「はい」
レオーネも頷いた。
肩の力を抜く。足を大きく踏み出さない。
先ほどイスズに導かれた動きを思い出しながら、身体を前へ運ぶ。
その動きに合わせて、木剣を振った。
ヒュッ――。
木剣が鋭く走った。
レオーネ自身も驚いたように目を見開く。
先ほどとは違う。
肩に余計な力が入らず、身体の動きに合わせて剣がついてくる。斬り終えたところでも身体の軸は崩れていなかった。
「……すごい」
レオーネが呟いた。
ストリーガも、しばらく言葉を失っていた。
説明を聞いただけではできなかった動きが、イスズに身体を導かれたことで、レオーネは自然に再現できるようになっていた。
ストリーガは、目の前の二人を見つめた。
イスズはそんな二人の様子を見ながら、いつものように柔らかく微笑んでいた。




