第33話 ジェミニ
ここは帝都にある、帝国第二騎士団の駐屯所である。
帝国第一騎士団が高位貴族で構成された近衛騎士団であり、主に儀礼や警護など、華やかな役割を担うことから「見た目重視の騎士団」と揶揄されることもある一方、第二騎士団は実質的な帝国の国防の中枢を担っていた。
実際の戦闘力でいえば、この帝国第二騎士団こそ、最も精鋭が集められている騎士団だった。
その第二騎士団にあって、まだ二十歳になったばかりだというのに、すでに五百人を率いる部隊長となった青年がいる。
ジェミニ・パロ・エルミオである。
その日もジェミニは執務室で、黙々と書類を整理していた。そこへ、部下が声を掛ける。
「ジェミニ隊長殿、そろそろ昼食ではございませんか」
「そうだな。少し休憩をするか」
書類から顔を上げたジェミニがそう答えると、控えていたもう一人の部下が昼食を運んできた。
ジェミニは食卓につき、料理へ手を伸ばす。その中に、珍しいものがあった。フキの煮物だった。
「……フキか」
何気なく一口かじった、その瞬間だった。ジェミニの脳裏に、一人の女性の姿が浮かんだ。
イスズ・エルミオ。ジェミニの姉である。
貧しい騎士爵家に生まれたジェミニにとって、イスズは姉であると同時に、本当の母親のような存在だった。
ジェミニが七歳のとき、母のフローリアンは亡くなった。母と過ごした記憶は、今でもおぼろげながら残っている。優しく抱きしめてもらったことや、声を掛けてもらったことも覚えている。
けれど、「母親」と聞いてジェミニが真っ先に思い浮かべるのは、いつだってイスズだった。
物心ついた頃には、いつも姉がいた。いつも笑っていた。そして、いつも忙しそうに動いていた。
洗濯をして、食事を作り、弟妹の面倒を見て、家のことをこなし、その合間には領地の仕事まで手伝っていた。
思えば、イスズが横になって眠っている姿を、ジェミニはほとんど思い出せない。それほどまでに、姉は働いていた。
ジェミニがある程度の年齢になり、自分も家の手伝いをしようとすると、イスズはいつも同じことを言った。
「あなたは、将来この領の領主になるのでしょう? だったら、剣と槍、勉強と魔法をしっかり学びなさい」
そう言って、ジェミニを家の仕事から遠ざけた。
家はいつも貧しかった。だからこそイスズは、領地の周辺から食べられる野草を摘んできては、家族の食卓に並べていた。
その中でも、早春になると思い出す光景がある。
イスズとジェミニ、妹の長女アスカ、弟の次弟ファーゴ、次女のフィリー。そして末弟のピアッツァ。
まだ幼かったピアッツァの面倒を見ながら、イスズは弟妹たちを連れて、よく野草を摘みに出掛けた。
フキの旬が訪れると、決まってみんなで摘みに行ったものだ。
イスズが粗末な弁当を作り、みんなで手をつないで森や川のそばまで歩いていく。そこで食べられる野草を探し、フキを摘み、昼になると持ってきた弁当をみんなで食べる。
そして、採った野草を大切に抱えて家へ帰る。今思えば、それほど特別なことをしていたわけではない。
イスズとの思い出も、ジェミニにとってはそんなものばかりだった。けれど、とても楽しかった。
貧しい家だったからこそ、家族全員で過ごしたその時間は、ジェミニにとってかけがえのない思い出だった。
そんな姉が、先日、インプレッサ伯爵家の長男の家庭教師になると聞いた。その時、ジェミニは心の底からほっとした。
姉は、才媛だ。それは弟のジェミニが見ても、疑いようがない。
いや、帝国学院で学んだジェミニからすれば、イスズよりも知識があり、教え方も上手い教師には、ついぞ出会ったことがなかった。
ジェミニが帝国学院で常に一番の成績を取れたのは、幼い頃からイスズに教えてもらっていたからだ。
高位貴族の子弟であれば、幼少の頃から家庭教師をつけ、十分な教育を受けるのが当たり前だった。だが、騎士爵家は領地も小さく、収入も限られている。
そのため、よほど裕福な家でもなければ、幼い子どもに専属の家庭教師をつける余裕などない。それはエルミオ家に限った話ではなく、多くの騎士爵家に共通する事情だった。
そんな環境で、ジェミニに学問を教えていたのがイスズだった。
イスズは、ただ答えを教えるだけではなかった。なぜそうなるのか、その理由や仕組みまで噛み砕いて説明してくれた。
しかも、ジェミニが理解できていないところを見つけるのも驚くほど早かった。同じことでも教え方を変えながら、ジェミニが理解するまで根気よく教えてくれたのである。
そのため、学院で授業を受けるようになってから、ジェミニは何度も驚かされることになった。
一年生に上がって間もない頃から、教科書に書かれている内容や教師の説明と、イスズから教わってきた知識との間に、食い違いを感じることが何度もあったのだ。
イスズから教わった知識は、教科書に書かれている内容よりも深く、物事の仕組みまで踏み込んでいた。
しかも、イスズから教わった言葉の中には、乳酸菌、窒素、二酸化炭素、重力、表面張力、細胞など、ジェミニがどれほど高度な研究をしている教師に尋ねても、答えられる者がいなかったのだ。
当然、授業で教えられる内容との違いも大きかった。
教師の説明を聞いていても、「なぜそうなるのか」という部分が抜けているように感じることがある。そんな時には、イスズから教わった知識をもとに、教師の説明に足りない部分を自分の中で補いながら、授業の内容を理解していかなければならなかった。
さらに困ったのは、イスズから教わったことを、そのまま試験の解答に書くことだった。
イスズの教えてくれた内容のほうが深く、正確であっても、それが学院で教えられている「正しい答え」と一致するとは限らない。むしろ、そのまま書けば「不正解」とされてしまうことさえあった。
そのためジェミニは、教科書の記載と教師の説明を確認しながら、学院で正しいとされている解答に合わせて、自分の知識をあえて簡略化し、精度を落として答えなければならなかった。
イスズから教わった知識のほうが正確なのに、それをそのまま書けば間違いになる。それが一年生の頃には、何度も繰り返された。
それでも、ジェミニの成績は常に学年トップだった。
学院で教えられる内容を理解すること自体は、ジェミニにとって難しいことではなかった。幼い頃からイスズに、答えだけではなく、その理由や仕組みまで教え込まれていたからだ。
そして、それは勉強だけではなかった。
イスズは自分では生活魔法しか使えないと言っていたが、その魔法の技量も尋常ではない。威力だけでなく、細かな制御まで自在に行う。ジェミニには、姉の魔法は、とても「生活魔法しか使えない」という一言で片付けられるような技量には思えなかった。
ジェミニ自身、幼い頃はそれが特別なことだとは思っていなかった。イスズに教えられた通りに魔法を使い、それが普通なのだと思っていた。
ところが、帝国学院へ入学して初めて、それが普通ではなかったことを知った。
イスズから教わった通りに魔法を使ったジェミニは、その威力、精度、発動までの速さのすべてにおいて周囲と大きな差をつけることになった。その実力は学院でもすぐに評判となり、本人にとっては当たり前だったことが、周囲からすれば驚くべき技量だった。
あまりの違いに、当時のジェミニはむしろ困惑したほどだった。勉強も、魔法も、イスズから教わっていたものが、自分にとっての「普通」だった。
だからこそ、学院へ入って初めて、その「普通」がどれほど特別なものだったのかを思い知らされたのである。
ジェミニにとってイスズは、ただ知識が豊富な姉ではなかった。
物事を深く理解し、それを相手が分かるように教えることができる。そして、魔法ならその威力だけでなく、精度や制御まで極めて高い水準で扱える。
それが、ジェミニにとっての姉、イスズだった。
だからこそ、今でも不思議でならない。あれほど貧しく、帝国の中でも辺境にある騎士爵家だった。家にある本も決して多くはなかった。
それなのに、なぜイスズは、あれほどの知識を持っていたのか。ジェミニには、今でも分からなかった。
誰にも言ったことはない。けれど、ジェミニは本気でこう思ったことがある。
――イスズは、神から遣わされた使徒なのではないか。
それほどまでに、姉は特別な人だった。
そして、そんな姉に、ジェミニはずっと苦労を掛けてきたと思っている。だからこそ、学院では常に努力した。
武術も学問も一切手を抜かず、主席で学院を卒業した。その後、実力主義の帝国第二騎士団へ入り、異例ともいえる二十歳という若さで部隊長にまで昇進した。
これは、帝国の歴史を見ても例のない若さでの昇進だという。
しかも、騎士団長からは「このまま問題なく部隊長を二、三年ほど務めれば、その後は大隊長、あるいは方面隊長への昇進も検討する」とまで言われている。
まだ二十歳のジェミニにとって、それはあまりにも異例の評価だった。そこまで昇れば、一代限りではあるが、名誉男爵の爵位が与えられる。
父が持ち、やがて自分が継ぐ騎士爵位に加えて名誉男爵位まで授かれば、帝国から受け取る俸給も増える。それだけではない。貴族位が上がれば、領地に課せられる税の一部が免除されるなど、家の財政にも大きな恩恵がある。
そして、第二騎士団で築いた人脈もまた、領地を支える力になるだろう。魔物の大規模な発生や賊の襲撃など、領地だけでは対処できない事態が起きた際には、帝国や騎士団からの援軍を得るうえでも、これまで築いてきた繋がりが大きな助けになるはずだった。
そうなれば、家族のためにしてやれることも増える。
もちろん、父のためだけではない。ジェミニには、イスズにもしてやりたいことがあった。
もし自分が爵位を継ぐ頃になって、イスズ自身がどこかへ嫁ぎたいと望むのなら、その望みを叶えてやりたいと思っている。
確かに、二十二歳を過ぎたイスズは、貴族社会では決して若いとは言えない。だが、あの容姿と、長年家を支えてきた知性、そして何より、家族を思いやる温かな優しさを正しく理解してくれる者がいるのなら、嫁ぎ先がないはずはない。
自分のことを後回しにして、弟妹たちのために尽くしてきた姉。その優しさまで理解してくれる相手なら、きっとイスズを幸せにしてくれるはずだ。
一方で、イスズがこのまま領地に残りたいと望むのなら、それも構わない。
これまで姉は、自分たち弟妹のためにイスズ本人のことを後回しにしてきた。家のことを引き受け、弟妹を育て、誰よりも家族のために尽くしてくれたのだ。
ならば、これから先は自分が姉を支える番だった。
イスズがどこで、どのように生きたいと望んでも、その意思を尊重する。そして、この領地に残ることを選ぶのなら、生涯、不自由なく幸せに暮らせるようにする。
それが、これまで家族のために生きてくれた姉に対して、ジェミニができる恩返しだと思っていた。
そうなれば、父にも、そしてイスズにも、ようやく報いることができる。そのために、ジェミニは今日も励んでいるのだった。
昼食の膳に置かれたフキの煮物を見つめながら、ジェミニは小さく笑った。
――あの頃は、ただ楽しかった。
だが、今なら分かる。あの楽しい時間を作るために、姉がどれほど働いていたのかを。
「……姉さん」
誰に聞かせるでもなく、ジェミニは小さく呟いた。
そして再び食器を手に取り、フキの煮物を口へ運んだ。
美味しかった。けれど、その味には、どこか少しだけ苦みがあった。
まるで、姉との思い出のように。




