第32話 一通の手紙
エルミオ家へ、一通の婚約打診の書状が届けられた。
隣領を治めるソルテラ・フォン・クロストレック騎士爵家からだった。
差出人は当主自ら。内容は、嫡男アセントとイスズとの婚約を望むという正式な打診だった。
クロストレック家はエルミオ家と同じ騎士爵家ながら、領地は豊かで、家格も実力も一枚上の男爵級と評される家だった。
それだけではない。
エルミオ家の領地は帝国の中でも辺境にあり、帝都へ向かうためには、どうしてもクロストレック家の領地を通らなければならなかった。エルミオ家から帝都へ続く街道を実質的に押さえているのが、隣領を治めるクロストレック家だったのである。
そのため、エルミオ家にとってクロストレック家との関係は、単なる隣家との付き合いでは済まない。
もし両家が疎遠になれば、帝都へ向かう道さえ事実上閉ざされてしまう。辺境にあるエルミオ家にとって、それは大きな問題だった。
エルミオ領の領民や、領地を訪れる旅人や商人の間では、イスズは年齢に似合わぬ聡明さを持ち、容姿も整った令嬢として知られていた。
領地経営を手伝う姿や落ち着いた立ち居振る舞いは領民たちの間でも評判となり、その話を聞いた旅人や商人が、領地の外へ持ち帰るようになった。そうして、「エルミオ家には将来有望な長女がいる」という噂は、少しずつ周辺の貴族たちにも伝わっていった。
しかも、イスズはこれまで一度も社交の場に姿を見せたことがない。それも相まって、実際に彼女を知る者が少ないまま、その評判だけが次第に大きくなっていった。
まだ十二歳とはいえ、貴族社会では子どもの頃から婚約を結ぶことは珍しくない。イスズへのクロストレック家からの婚約の申し出は、むしろ良縁と言ってよかった。
だが、その書状は屋敷の机の上で、日を追うごとに別の書類へ埋もれていった。
家畜の売買、麦の納入、借金の返済、税の計算、それに弟妹たちの世話まで、イスズは毎日、それらに追われていた。
一方、父のベレットは領地を駆け回っていた。
エルミオ家の領地は帝国でも有数の辺境にあり、魔物が領内へ侵入してくることも珍しくない。そのたびにベレットは従者たちを率いて討伐へ向かわなければならなかった。
本来なら、もっと多くの従者を抱え、質の良い武器や防具を揃えておきたいところだった。
しかし、エルミオ家は貧しい。ベレットに仕える専属の従者も、わずか二人しかいなかった。武器を新調することも容易ではなく、古くなった装備を騙し騙し使いながら、どうにか魔物を討ち倒しているような有様だった。
だからこそ、ベレットにとっては、領地を守るだけで精一杯だった。家のことまで細かく見る余裕など、とてもなかったのである。
必然的にクロストレック家への返事も、なかなか決められずにいた。
イスズ自身、返事を書くこと自体はできた。だが、婚姻は自分一人の判断で決めてよいことではない。
貴族の娘である以上、自分の処遇について父に相談するのは当然のことであり、とりわけ婚姻ともなれば、家の将来にも関わる最も重要な事柄の一つである。本来ならば父だけでなく、親族にも相談したうえで決めるべきことだった。
そのためイスズは、まずベレットに話をしようと考えていた。
ところが、そう思うたびに別の問題が起きる。今日こそ相談しようと思えば、今度は領民から相談が持ち込まれ、明日こそと思えば、家畜が病気になる。
ようやく父が戻ってきたと思えば、今度は魔物の討伐や領地の問題で、すぐに出ていかなければならない。
そうしているうちに一月が過ぎ、二月が過ぎていった。
やがてクロストレック家から使者が訪れたが、その頃も父のベレットは領地の巡回で不在だった。応対したイスズ本人は恐縮しきりで、「父が戻りましたら、必ず……」と答えるしかなかった。
しかし、その返事さえ、結局は届けられなかった。
クロストレック家は、エルミオ家の沈黙を拒絶と受け取った。同格の騎士爵家からの正式な婚約打診を無視したのだ。そう受け止められても、不思議ではなかった。
それ以来、エルミオ家への風当たりは目に見えて強くなっていった。
もっとも、それだけが理由ではない。
ベレットは若い頃、知人を信じて事業へ出資し、その結果、多額の借金を背負っていた。騙されたとはいえ、借金は借金である。
さらに、フローリアンがピアッツァを出産した際には、伯爵から紹介されたとはいえ、遠方から医師や助産師を呼ぶ必要があった。その費用も、当時のエルミオ家にはとても一括で支払えるものではなく、借金として残っていた。
貴族の社交の場では、「あの家は借金が多い」「娘を嫁がせたら、援助を求められるぞ」などという噂が、半ば事実のように語られていた。
そこへ、クロストレック家との一件が重なった。
「礼儀も知らない家」
「娘も高望みをしているらしい」
「借金だらけなのに選り好みをしている」
噂は尾ひれをつけながら、次第に広がっていく。
もちろん、イスズはそんな噂など知らなかった。毎日を生きるだけで精一杯だったからだ。
それでも、縁談がまったく来なかったわけではない。
資産家の商人、妻を亡くした男爵、幼い子どものいる貴族の後妻――そうした話が、時折エルミオ家へ持ち込まれていた。
しかし、イスズはそのたびに相手方へ一つの確認をした。
「もし私が嫁いだ場合、この家の弟妹たちのことを気に掛けることは許されますでしょうか」
返ってくる答えは、決まっていた。
「……失礼ながら、奥方になられるのですから、まずは嫁ぎ先の家を大切になさるべきでしょう」
「実家のことは、ご両親や残された者たちが考えることではありませんか」
それは、貴族社会では決して間違った考えではなかった。嫁いだ女性が新しい家に尽くす。それが当たり前の価値観だった。
けれど、イスズには分かっていた。もし自分がこの家を離れれば、父だけでは領地を支えきれない。まだ幼い弟妹たちは、誰かが守らなければならない。
だから、イスズは静かに頭を下げた。
「申し訳ありません。その条件では、お受けできません」
イスズは一度だけ、父へ尋ねた。
「もし私が嫁いだら、この家は困りますか?」
ベレットはしばらく黙り込んだ。娘を嫁がせることは、本来ならば喜ぶべきことだった。しかし、現実を見れば分かっていた。イスズがいなくなれば、この家を支える者はいない。
母を亡くし、シビリアンとリエッセたちまで失った今、この家で弟妹たちをまとめられるのはイスズしかいなかった。
「……困らんと言えば嘘になる」
その一言で十分だった。イスズは静かに微笑んだ。
「でしたら、今はまだ無理ですね」
それからも、縁談が来るたびに、イスズは同じように考えた。
嫡男のジェミニが学院を卒業し、騎士として歩み始めるまで。次女のアスカが学院を卒業し、幸せな嫁ぎ先を見つけるまで。次男のファーゴが自分の力で生きていけるようになるまで。三女のフィリーが望んでいた魔法省へ進むまで。そして、末弟のピアッツァが学院へ入学するまで。
一つの願いが叶えば、また次の願いが生まれる。それでも、イスズはそれを苦労だとは思わなかった。弟妹たちが成長していく姿を見ることが、何よりも嬉しかったからだ。
そして、年月は流れた。
気づけば、ジェミニは帝国第二騎士団の騎士となっていた。アスカは子爵家へ嫁ぎ、ファーゴは辺境伯騎士団へ入った。フィリーは魔法省へ進み、末弟ピアッツァは帝国学院へ主席で入学した。
誰もが胸を張れる未来を手に入れた。その時になって、家族は初めて気づいた。
――姉だけが、ずっと自分の人生を後回しにしていたことに。
イスズ・エルミオ、二十二歳。
貴族令嬢としては、もう若いとは言えない年齢だった。社交界では「行き遅れ」と呼ばれ、以前なら届いていた縁談も、今ではほとんどなくなっていた。
しかし、イスズ自身は穏やかに笑っていた。
「私は、この家でずっと生きていくんでしょうね」
それは諦めではなく、長い間家族を守ってきた者だけが浮かべる、静かな笑顔だった。
――そんなイスズの元へ、一通の手紙が届いた。
『伯爵家嫡男の家庭教師を募集』
差出人は、帝国でも名高い名門伯爵家。
その一通の手紙が、止まっていたイスズの人生を再び動かし始めることになる。




