第31話 名ばかり貴族
エルミオ家は騎士爵家とは名ばかりで、専属の使用人を何人も雇えるような余裕はなかった。
屋敷に住み込みで仕えていたのは、老いた執事のシビリアンと侍女のリエッセだけである。
炊事や洗濯、畑仕事など人手が足りない時は、村から日替わりで女性たちが通いの手伝いに来てくれていたが、それでも仕事は山のようにあった。
当然、家のことをすべて二人だけに任せることもできない。母のフローリアンも、慣れない家事に戸惑いながら、一生懸命に屋敷の仕事をこなしていた。
料理を覚え、洗濯をし、幼い子どもたちの世話をする。畑にも出て、収穫した野菜を運び、足りないものがあれば村まで買いに出る。弟妹が増えていけば、それだけ母の仕事も増えていった。
それでもフローリアンは、子どもたちの前ではいつも笑顔だった。
そんな母やリエッセが忙しそうに働く姿を見て育ったからこそ、イスズも物心ついた頃には自然と家事を手伝うようになっていた。
洗濯物を畳み、野菜を洗い、食卓を整え、小さな弟妹の面倒を見る。誰かに命じられたわけではない。母とリエッセが忙しそうに働く姿を見て、「私にもできることはない?」と尋ねたのが始まりだった。
その後も、エルミオ家には新しい命が増えていった。
イスズが二歳の時に生まれた弟を始めとして、弟妹は一人、また一人と増えていく。
弟が生まれ、妹が生まれ、さらに妹が生まれた。
そしてイスズが九歳になった頃、末弟のピアッツァが誕生した。だが、その出産が、フローリアンにとって最後の出産となった。
ピアッツァを産んだ直後、フローリアンの容体が急変したのだ。
この辺境では、腕の確かな医師や助産師をすぐに呼べるわけではなかった。そこでベレットは、かつてわずかな縁から知己を得ていた遠方の伯爵へ無理を承知で助けを求めた。
事情を聞いた伯爵は、その頼みを断らなかった。すぐに医師と助産師をエルミオ家へ派遣してくれたのである。
しかし、二人が駆け付け、必死に手を尽くしたものの、母の命を救うことはできなかった。
フローリアンは、最期まで子どもたちのことを案じながら息を引き取った。
そして、その時に派遣された医師や助産師への費用もまた、エルミオ家にとっては新たな借金となった。
妻の命を救うためならば、ベレットにためらう理由はなかった。たとえ借金をしてでも、できる限りのことをする。それが夫として、そして父として当然のことだった。
だが、その借金が後々までエルミオ家の家計を圧迫することになるとは、この時のベレットには考える余裕もなかった。
こうしてエルミオ家には、フローリアンを失った悲しみとともに、返すべき借金まで残された。
「お母様……?」
イスズには、何が起きているのか分からなかった。
ただ、いつも優しく笑っていた母が、二度と目を開けないことだけは理解できた。
屋敷に、母を失った悲しみが広がった。こうしてイスズは、九歳にして母を失い、五人の弟妹を持つ姉となった。
貧しい家ではあったが、それまでは子どもたちの笑い声が絶えることはなかった。
イスズにとって、弟妹たちは前世では決して得ることのできなかった、大切な家族だったのだ。
だからこそ、母を失ってからは、以前にも増して自然と弟妹の面倒を見るようになった。
泣けば抱き上げ、熱を出せば一晩中そばに座り、文字を覚える年頃になれば、自分が覚えていることを教えた。
イスズにとって、それは義務ではなかった。
ただ、大切な家族を守りたい。その気持ちだけだった。
一方で、不思議なこともあった。
父のベレット・フォン・エルミオは、イスズが机に向かって熱心に勉強している姿をほとんど見たことがない。それなのに、文字の読み書きも計算も、人よりずっと早く身につけてしまうのだ。
それには理由があった。イスズの中には、まだ断片的ではあるものの、前世の記憶があった。
もちろん、この世界の文字は前世とはまったく違う。数字の書き方も、言葉も、最初は一から覚えなければならなかった。
だが、一度文字を覚えてしまえば、本を読むこと自体には苦労しなかった。前世で長年、日本語の読み書きをしてきた経験があるからこそ、「文字から知識を得る」という感覚は体に染み付いていたのである。
計算も同じだった。
領地の家計や帳簿で必要になるのは、ほとんどが足し算、引き算、掛け算、割り算である。四則演算さえ身につけてしまえば、帳簿を読み解くことは決して難しくなかった。
貴族としての礼儀作法や、この世界ならではの慣習は、シビリアンやリエッセが根気よく教えてくれた。
「お客様には、まずこちらからご挨拶を」
「貴族への手紙は、この書き出しが正式です」
二人は特別に勉強を教えているつもりはなかった。ただ、仕事をしながら当たり前のことを話していただけだった。
イスズはそれを聞き逃さず、一つひとつ覚えていった。
歴史も同じである。
前世では歴史が好きだったこともあり、流れを掴むのは得意だった。一冊の歴史書を読めば、国が栄え、戦争が起こり、王朝が移り変わっていく大きな流れは理解できる。
あとは細かな年代や人物を覚えていくだけだった。そのため、勉強に長い時間を費やす必要はなかったのだ。
空いた時間は家事を手伝い、弟妹と遊び、リエッセやシビリアンの仕事を手伝う。そんな毎日を過ごしていても、自然と知識は増えていった。
やがてイスズは、シビリアンやリエッセと一緒に弟妹へ文字や計算を教えるまでになっていた。
ベレットは、「シビリアンたちがよく教えてくれているのだろう」と考えていた。一方のシビリアンとリエッセは、「旦那様が教えていらっしゃるのでしょう」と思っていた。
互いにそう思い込んでいたため、誰もイスズの飲み込みの早さを不思議には思わなかった。
その小さな思い違いが、やがてエルミオ家の子どもたち全員が優秀に育っていく、最初のきっかけとなるのだった。
そして、イスズが十二歳になった年の暮れ。エルミオ家は、以前とは違う家になっていた。
母フローリアンを失ってから、家の中にはずっと大きな穴が残っていた。それでも、シビリアンとリエッセがいてくれたからこそ、残された家族はなんとか日々の暮らしを続けることができていた。
だが、その二人までもが、いなくなることになる。
長年エルミオ家を支えてきた執事シビリアンと、その妻で侍女のリエッセは、年越しの品を買い揃えるため、隣領へ向かった。二人にはレックスという一人息子がいた。
父の仕事を継ぐため執事見習いとして働いていた青年で、その日も荷馬車の護衛を兼ねて同行していた。
だが、その帰り道だった。
街道沿いの森で、魔物の群れに襲われたのである。救援が駆け付けた時には荷馬車は横転し、三人ともすでに息絶えていた。
突然の訃報だった。屋敷中が泣き崩れた。イスズも泣いた。
幼い頃から、ずっと一緒だった。リエッセは母のようにイスズを抱き締めてくれ、シビリアンは祖父のように優しく本を読んでくれた。二人は、ただの使用人ではなかった。イスズにとっては、もう一人の家族だった。
その喪失は、十二歳になったばかりの少女には、あまりにも大きかった。それでも、二人がいなくなって初めて知ったことがあった。
混乱した屋敷を立て直すため、イスズは残された帳簿を一つずつ確認していた。領地の収支から納品記録、税の計算、使用人への支払いまで目を通していく中で、ふと手が止まった。
「……あれ?」
何度見直しても、ある項目が見つからない。シビリアンとリエッセへの給金だった。
どこにも記載されていない。最初は単なる記入漏れだと思ったが、過去数年分の帳簿まで確認してみても、二人へ給金を支払った記録は一度もなかった。
「……どうして?」
イスズは首を傾げた。執事も侍女も、貴族家に仕える以上、給金を受け取るのが当然である。その疑問を父へ尋ねると、ベレットはきょとんとした顔をした。
「……給金だと?」
「はい。シビリアンさんとリエッセさんのお給金です」
しばらく考えた後、ベレットは頭を掻いた。
「……そういえば、どうなっていたのだ?」
その返事に、イスズは思わず目を丸くした。
「お父様……」
ベレットは困ったように笑った。
「いや、すまんな。帳簿のことは、ずっとシビリアンに任せきりだったのだ……」
領地の見回りや騎士たちの訓練、魔物の討伐など、剣を振るうことなら誰よりも頼りになる父だった。しかし、数字が並んだ帳簿を前にすると、途端に頭が痛くなる人なのだ。
「毎月、問題なく回っていると言われていたからな……」
ベレットはそこで言葉を止め、寂しそうに帳簿へ目を落とした。
「まさか、あの二人が……」
後になって分かったことだった。シビリアンもリエッセも、自分たちから給金を求めることは一度もなかった。父の代から仕えてきた二人は、この家がどれほど苦しい状況にあるのかを誰よりも理解していたのだろう。
ベレットは帳簿を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……あいつらは、本当に何も言わなかったのだな」
家の細かな部分を支えていた者たちの苦労に、ベレットは気づけていなかった。その事実が、今になって胸に突き刺さった。
シビリアンとリエッセは、そんな家の苦しい事情を知りながらも、文句一つ言わず、この家と共に生きることを選んでいたのだ。
その事実を知った時、イスズの胸は締め付けられた。自分は、どれほど多くの人に支えられて生きてきたのだろう。
そう思うと、涙が静かに頬を伝った。しかし、悲しみに浸る時間は残されていなかった。
三人の喪が明けると同時に、屋敷は混乱へ陥った。朝食が出てこない。帳簿が見当たらない。納品の日付が分からない。倉庫の鍵がどこにあるのかも誰も知らない。
今まで当たり前のように回っていた日常は、実はシビリアンとリエッセの二人が支えていたのだと、その時になって初めて家族は知ることになった。
しかも、エルミオ家には二人の代わりとなる者をすぐに雇う余裕もなかった。
あまりにも辺境にあるため親族との付き合いもほとんどなく、寄親との関係さえ、今では名ばかりになっている。
領地が遠く、付き合いのある貴族も少ないため、文官たちも辺境の騎士爵家に過ぎないエルミオ家の事情に親身になってくれる者など、ほとんどいなかった。
そして、シビリアンとリエッセを失ったことで徴税も思うように進まなくなっていた。領民から税を集める者も、それを取りまとめる者もいない。収入が滞れば、新たに執事や侍女を雇うための金を用意することもできなかった。
そのため、エルミオ家は人手が足りないまま、残された者たちだけで屋敷と領地を回していくしかなかった。
父ベレットは、領地の見回りや騎士たちの訓練で毎日のように家を空けている。剣を握らせれば誰にも負けない男だったが、帳簿を一冊読めと言われれば半日かかる。
母フローリアンはすでに亡くなっている。それまで家の中を支えていた彼女と、領地の実務を担っていたシビリアンを相次いで失ったことで、エルミオ家には以前にも増して大きな穴が開いていた。
それでもベレットは、残された子どもたちを守るために必死に動いた。だが、一人で領地と家のすべてを支えることなど、到底できるものではない。
そこで最初に動いたのは、十二歳になったばかりのイスズだった。
「お父様、この請求書は今日までです」
「お父様、この布はもう残りが少ないですよ」
「この小麦は湿気ています。早く使わないと傷んでしまいますわ」
誰に教わったわけでもない。前世の朧げな記憶と、シビリアンやリエッセから教わったことを思い出しながら動いただけだった。
それでも、イスズが一つずつ仕事を引き受けていくにつれて、少しずつ屋敷は落ち着きを取り戻していった。
洗濯物はきちんと干され、食卓には温かな食事が並び、滞っていた帳簿にも再び数字が戻り始める。
気づけば、家族全員がイスズへ尋ねるようになっていた。
「イスズ、今日の予定は?」
「イスズ、この書類はどこへ出せばいい?」
「姉さん、お腹すいた」
まだ十二歳の少女だった。
それでも、誰も悪気はなかった。イスズが一番よく分かっているから。家のことならイスズに聞けばいい。いつの間にか、家族の中にそんな認識が自然と出来上がってしまっただけだった。
春が近づく頃、イスズの机には一通の封筒が置かれた。
バルカン帝国立学院の入学案内だった。
貴族の子女なら誰もが憧れる学院であり、イスズ自身も幼い頃から楽しみにしていた場所だった。けれど、その封筒を手に取った時、彼女はふと屋敷を見回した。
父は領地の揉め事で朝から出掛けたまま、まだ戻っていない。幼い弟妹たちは、イスズがいなければ誰が世話をするのか分からない。
イスズはしばらく封筒を見つめた後、静かに閉じた。
「……今は、まだ無理よね」
その日、イスズは学院へ進学する夢を、自ら胸の奥へしまい込んだ。
その選択が、この先の人生を大きく変えることになるとは、この時の彼女はまだ知る由もなかった。




