第30話 転生
〈イスズ視点〉
これは、イスズ・エルミオがまだ二歳だった頃の話である。
時は、今から二十年ほど遡る。
目を開けると、見慣れない天井があった。
木の梁がむき出しになった天井。壁は白い漆喰ではなく、粗く塗られた土壁で、窓から差し込む朝日が部屋を柔らかく照らしている。
私は小さく欠伸をして、のそのそと寝台から起き上がった。まだ二歳になったばかりの身体は思うように動かず、寝台から降りるだけでも一苦労だ。
部屋の外からは、慌ただしく人が行き交う音が聞こえてくる。
「お嬢様、お目覚めでございますか?」
扉が開き、年老いた侍女のリエッセが穏やかな笑みを浮かべて入ってきた。その後ろには、大柄な初老の男性が立っている。エルミオ家の執事、シビリアン。リエッセの夫でもある。
「お嬢様、おはようございます」
深々と一礼する姿は、質素な屋敷には不釣り合いなくらい品があった。
「おはよ……」
舌がもつれるような幼い発音。思ったように言葉が出ないことにも、もう慣れていた。
リエッセは優しく私を抱き上げると、顔を洗い、髪を整え、簡素な服へ着替えさせてくれる。
「先程、弟君がお生まれになりましたからね。旦那様も奥様も、とてもお喜びでございますよ」
弟。
その言葉を聞いた瞬間だった。胸の奥が、不思議な熱を帯びた。
――弟。
そのたった一言をきっかけに、頭の奥で何かが弾けた。知らない景色。知らない家。知らない街。車が行き交う道路。夜景。眩しい照明。笑い合う男女。
次々と頭の中に映像が浮かび上がっては、すぐに消えていく。
(え……?)頭がくらくらする。私は思わずリエッセの服をぎゅっと掴んだ。
「お嬢様?」
心配そうな声が聞こえる。けれど、それに答える余裕はなかった。断片的な記憶が、次々と頭の中へ押し寄せてくる。
「……いしかわじま、……いすず」
その名前が自然と浮かんだ。
石川島五十鈴。
それが誰なのか、はっきりとは覚えていない。けれど、その名前だけは胸の奥に強く残っていた。
リエッセは私の額に手を当てる。
「熱はありませんね。急にぼんやりなさって……大丈夫でございますか?」
私は小さく頷いた。
「だい……じょぶ」
幼い舌では、それだけ言うのが精一杯だった。
やがて食堂へ連れて行かれ、温かなスープと柔らかなパンを口に運ぶ。
「今日は少しだけ蜂蜜を入れてみました」
配膳してくれたのは執事のシビリアンだった。この家には料理人などいない。シビリアンは執事だけでなく、馬の世話も荷運びも、ときには料理までこなす。
リエッセもまた侍女だけではなく、洗濯も掃除も裁縫も一人で切り盛りしていた。貧乏騎士爵家には、仕事の区別などないのだ。
その間も、頭の奥では見知らぬ記憶がちらちらと浮かんでは消えていた。会社。電車。病院。白い診察室。優しく笑う一人の男性。
どれもまるで霧の向こう側を見るようで、はっきりとは思い出せない。ただ一つだけ、不思議と胸を締めつける感情だけが残っていた。
何か大切なものを、ずっと望んでいた。そんな切ない想いだけが、心のどこかに引っ掛かっていた。
食事を終えると、屋敷の中はいつも以上に慌ただしかった。使用人たちが忙しそうに行き来し、父の笑い声まで聞こえてくる。普段は領地のことで頭を悩ませている父が、こんなに嬉しそうな声を出しているのは珍しい。
リエッセが微笑みながら私の手を取った。
「さあ、お嬢様。お母様のお部屋へ参りましょう。かわいい弟君がお待ちですよ」
――弟。その言葉を聞くと、不思議と胸が温かくなった。理由は分からない。けれど、早く会いたい。会って、この子の顔を見たい。
そんな気持ちが、自然と込み上げてくるのだった。
リエッセに手を引かれ、私は母の部屋へ向かった。扉の前には、父が落ち着かない様子で立っている。普段は大きな魔物にも眉一つ動かさない父が、今は何度も部屋の中を覗いては、そわそわと歩き回っていた。
私の姿に気づくと、その厳つい顔が一気にほころんだ。
「おお、イスズ! 来たか! ――弟。」
父は私をひょいと抱き上げる。嬉しさを隠そうともしない声だった。
そのまま部屋へ入ると、母は寝台で少し疲れた表情を浮かべながらも、優しく微笑んでいた。その腕の中には、小さな小さな赤ん坊がいる。
まだ目もほとんど開いていない。小さな手、小さな足。そして、小さな胸が規則正しく上下している。
(……かわいい)胸がじんわりと温かくなった。
初めて見るはずなのに、懐かしい。ずっと会いたかったような、不思議な気持ちだった。
私は夢中になって赤ん坊を見つめる。すると、赤ん坊が小さく指を動かした。その仕草だけで、思わず頬が緩む。
(守ってあげたい)
その想いが、自然と胸に湧き上がった。理由なんて考えなかった。ただ、この小さな命が愛おしかった。
父が豪快に笑う。
「どうだ、イスズ。抱いてみるか?」
私は慌てて首を横に振った。
私はまだ二歳になったばかりだ。歩くのだって、たまによろける。こんな小さな赤ん坊を抱けるはずがない。しかし父は、そんな私の反応を照れだと勘違いしたらしい。
「はっはっは! 遠慮するな!」
「……ち、ちが……」
言葉になる前に、父は赤ん坊を私の前へ差し出した。
「今日からお姉ちゃんなんだからな!」
そのまま、私の腕へそっと……いや、父としてはそっと置いたつもりなのだろう。
けれど、二歳児の腕には赤ん坊は思った以上に重かった。
「……あっ」腕が下がり、身体がぐらりと後ろへ傾く。
倒れる。そう理解した瞬間、私の頭から一つの考えが消えなかった。
(この子だけは!)私は反射的に両腕へ力を込めた。自分が痛い思いをしてもいい。でも、この子だけは守る。
胸へ赤ん坊を抱き寄せ、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
次の瞬間――。
――ゴンッ。後頭部へ強い衝撃が走った。
視界が真っ白になる。父と母の叫び声が遠く聞こえた。
「イスズ!」
「赤ちゃんを!」
誰かが駆け寄る音がする。
「リエッセ! 坊ちゃんを!」
執事シビリアンの低く響く声が聞こえた。次の瞬間、私の腕から赤ん坊がそっと抱き上げられる。
「お嬢様!」リエッセの悲鳴が耳に届いた。
(よかった……)(よかった……)
その一言だけを心の中で呟き、私の意識は深い闇へ沈んでいった。
◇ ◇ ◇
どれほど眠っていたのだろう。
暗闇の中で、一つ、また一つと光が灯り始める。それは記憶だった。断片ではない。一人の女性の人生、そのものだった。
石川島五十鈴。
日本という国で生まれ、両親に愛され、学校へ通い、社会人となり、やがて一人の男性と恋に落ちた。結婚式を挙げ、新婚生活を送り、笑い合いながら食卓を囲み、何気ない休日を二人で過ごす。どれも穏やかで、幸せな日々だった。
けれど、一つだけ、どうしても叶わない願いがあった。
子供が欲しい。
その願いを胸に病院へ通い、検査を受け、治療を続けた。期待しては落胆し、それでも諦めきれずに前を向く。そんな日々を何年も繰り返した。
やがて医師から厳しい現実を告げられ、夫婦で話し合った末、二人で生きていくことを選んだ。
夫はいつも優しかった。
「子供がいなくても、僕は幸せだよ」「君がいてくれるだけで十分だから」
そう笑ってくれた夫に、私も笑って頷いた。本当に幸せだった。
それでも、街で親子連れを見かけるたび、小さな赤ちゃんを抱く母親を見るたび、胸の奥が少しだけ痛んだ。
一度でいい。
「お母さん」と呼ばれてみたかった。その願いだけは、生涯叶わなかった。
そして、記憶はそこで途切れる。
次に目を開けた時、私の中には二人の人生があった。石川島五十鈴として生きた人生。そして、イスズ・エルミオとして歩み始めた二年間。その二つの記憶は、まるで最初から一つだったかのように自然に溶け合っていた。
私は静かに天井を見つめる。部屋の隅では、父と母が心配そうにこちらを見ていた。リエッセは胸の前で両手を組み、何度も神へ祈りを捧げている。
その様子を見て、私はゆっくりと微笑んだ。
(そうか……私は、もう一度生きる機会をもらえたんだ)そして、心の中で静かに誓う。
今度こそ、この小さな家族を大切に育てよう。
前世で叶わなかった願いを、この世界で叶えるために。




