第29話 魔法の授業
昼食を終えた午後、いよいよ魔法の授業が始まった。
部屋にいるのはイスズとレオーネ、それにトレミーだけだった。ストリーガは部屋の外に出て、扉の脇で待機している。
トレミーも今回の授業には参加することになっていたが、どこか緊張した様子でイスズの話を待っていた。
「トレミーさんも一緒に聞いて、試してみてくださいね。ただし……今日のお話は、他言無用ですよ?」
イスズが念を押すと、トレミーはこくこくと頷いた。
それを確認すると、イスズはレオーネへ向き直った。
「レオーネ様は、風の属性を授かったそうですね。もう魔法は発動しましたか?」
レオーネは俯き、首を横に振った。
「魔法の先生に何度も教えていただいたのですが……魔力が足りないのか、一度も発動したことがありません」
悔しそうに答えるレオーネに、イスズは微笑んだ。
「では、今から私の言ったことを試してみましょう」
そう言うと、イスズはレオーネの前へ歩み寄った。
「まず、レオーネ様。ここです」
いきなりイスズの手が、レオーネの臍の少し下に触れた。
「えっ? ひゃっ……!」
レオーネは驚いて身体を跳ねさせ、顔を赤くする。
「あ、いきなり触ってしまってすみません」
イスズはすぐに手を離した。
「ですが、覚えておいてください。魔力は、ひとまずこの辺りに溜まっていると思ってください」
「ここに……ですか?」
「はい。そして魔法は、イメージすることが大切です。頭の中で、はっきり想像してください」
イスズはそう言いながら黒板へ向かい、人間の身体を簡単なシルエットで描いた。
「まずは、このお腹の下にある魔力へ意識を集中します。しばらくすると、何か温かいもののような感覚があるかもしれません。それが感じられたら、今度はそれを少しずつ身体へ巡らせていきます」
そう言って、シルエットの身体に太い線を描いていく。
「イメージとしては、こうですね。身体の中には血が流れています。その血を運ぶために、血管という細い管が全身に張り巡らされています」
太い線から枝分かれするように、さらに細い線を描き加える。
「本当は、もっともっと細かい血管が全身に広がっているのですよ。その長さをすべて繋ぎ合わせると、十万キロメートルにも及ぶと言われています」
「十万……? そんなに……?」
レオーネが目を丸くする。
「ええと……十万キロメートル。人が一日に八時間ほど歩くとして……うーん。八年くらい、かかる距離でしょうかね」
レオーネだけでなく、隣で聞いていたトレミーも驚いていた。
自分の身体の中に、それほど長い血管が張り巡らされているなど、二人とも想像したことがなかったのだ。
「傷口を見たことはありますか? そこから血が出ていても、血管そのものは見えませんよね。血管は身体の中で何度も枝分かれして、最後には目には見えないほど細い管になっているのです」
イスズはそう説明すると、机の上に置いてあったハンカチを手に取った。
「魔力を身体へ巡らせるときも、これに近いイメージです」
ハンカチを台の上に広げ、コップの水を少しだけ垂らす。
すると、水は布の上に留まることなく、じわじわと周囲へ染み込んでいった。
「このように、水が布へ浸透していくでしょう? 魔力も同じです。お腹の下にある魔力を、一気に身体中へ流そうとするのではありません。血管を思い浮かべ、その一本一本へ、水が布に染み込んでいくように少しずつ広げていくのです」
イスズはハンカチを指差した。
「『流す』というより、『浸透させる』。そのイメージのほうが近いかもしれませんね」
そして、レオーネを見つめる。
「目を閉じてください。先ほど見たものを、頭の中でもう一度思い浮かべてみましょう」
「はい」レオーネは素直に目を閉じた。
最初は半信半疑だった。
魔法の先生からも、何度も魔力の巡らせ方を教わっている。だが、今まで一度として魔力を感じたことすらなかった。
それでも、イスズに言われた通りに意識を集中する。身体の中を想像する。臍の下へ意識を集める。
しばらくすると――。
「……?」
ほんの僅かだった。臍の下あたりに、かすかな熱を感じた。そこに何かがある。これまで気づかなかった何かが、確かにそこにあるようだった。
レオーネは驚きながらも意識を逸らさず、その熱を水のようなものとして想像した。そして、イスズが描いた血管を思い浮かべ、細い管の中へ水が少しずつ染み込んでいくように、その温かな感覚を身体へ広げていく。
一本、また一本。焦らず、ゆっくりと。
やがて、臍の下にあった温かな感覚が少しずつ広がり、身体の中を巡っていった。どれほど時間が経ったのだろう。レオーネは目を閉じたまま、その感覚に意識を集中し、じっと魔力を巡らせ続けていた。
その様子を見ていたトレミーが、ふと目を見開く。
「……え?」
レオーネの身体の周囲に、いつの間にか薄い緑色の靄のようなものが浮かんでいた。それは淡く揺らめきながら、レオーネの全身を包んでいる。
「イスズ先生……!」
トレミーの声に、イスズもレオーネの身体を確認した。
「……これは」
やがてレオーネがゆっくりと目を開く。その瞬間、身体を覆っていた緑色の靄が、ふっと霧散した。
「イスズ先生!」
レオーネは嬉しそうに声を上げた。
「何か……何か温かいものが、身体の中を駆け巡ったような感じがしました!」
イスズは微笑んだ。
「そうですね。全身が薄い緑色の靄に覆われていました。魔力を身体へ巡らせることには、成功したのでしょう」
「本当に……?」
「はい。レオーネ様は、魔法の筋がとてもよろしいですよ」
そう褒められると、レオーネの顔がぱっと明るくなった。今まで、自分には魔法の才能がないのだと思っていた。何度練習しても発動せず、魔力が足りないのだと、ずっと思っていたのである。そ
れなのに、イスズに教えられた通りにしただけで、自分の中に確かに魔力を感じることができた。
「では、次は実際に風の魔法を使ってみましょうか」
「はい!」
レオーネが勢いよく頷くと、イスズは右手を前へ伸ばした。
「レオーネ様は風の属性ですから、まずは最も弱い風を呼んでみましょう」
そう言って、イスズはゆっくりと詠唱を始めた。
「風の御霊よ、我が言の葉を聞き届け給え。
その御力、我が言の葉に宿し――理、此処に顕現せよ。
草葉を揺らすことなく、花を散らすことなく、
ただ柔らかく、静かに、我が頬を撫で渡り給え。
その御名を以て、此処に招き奉る――」
そして最後の言葉を、イスズは静かに口にした。
「アウラ」
「今の言葉を、そのまま真似してみてください」
レオーネもイスズと同じように右手を前へ伸ばし、教えられた詠唱を一語ずつ慎重に繰り返していく。
「風の御霊よ、我が言の葉を聞き届け給え。
その御力、我が言の葉に宿し――理、此処に顕現せよ。
草葉を揺らすことなく、花を散らすことなく、
ただ柔らかく、静かに、我が頬を撫で渡り給え。
その御名を以て、此処に招き奉る――……アウラ」
その瞬間、レオーネの右手から、ふわりと風が吹いた。
レオーネが目を見開く。頬を撫でるような、ごく柔らかな風だった。それは部屋の中をほんの僅かに通り抜けると、すぐに消えていく。
「……発動、した?」
レオーネは信じられないように、自分の右手を見つめた。トレミーもまた、呆然としたままレオーネを見ている。
「す、すごい……」
今まで何度試しても、一度も発動しなかった魔法。それが、イスズに教わってから、ほんの数十分ほどしか経っていない。
レオーネはしばらく自分の手を見つめていたが、やがて満面の笑みを浮かべた。
「イスズ先生! 僕、魔法が使えました!」
「ええ。お見事でした」
イスズが嬉しそうに微笑む。その笑顔を見ながら、トレミーもまた驚きの表情を浮かべていた。
ただ風を起こしただけ。
けれど、レオーネにとっては、それまで一度も届かなかった魔法の世界へ踏み出す、初めての一歩だった。




