第25話 ビークロスの見学02
〈ビークロス視点〉
翌日。
ビークロスは、いつもと変わらぬ時間にソルテラの部屋を訪れていた。机の上には、いつものように教本が並べられている。
「では、昨日の続きから始めましょう」
そう声をかけて教本を開く。文字を読み、その意味を説明し、覚えるべきことを示しながら、ソルテラが理解しているかを確かめていく。これまで何度も繰り返してきた、いつもの授業だった。
しかし、その日のソルテラは明らかに集中していなかった。視線が何度も窓の外へ向かい、教本を見ているようでいて、どこか上の空である。
「ソルテラ様。今、私が何を説明したか、お分かりになりますか?」
「……はい……えっと……」
言葉に詰まるソルテラを見て、ビークロスは小さく息を吐いた。
「昨日のことが気になっているのですか?」
「……はい。ヨーグルトとチーズが、今日はどうなっているのか……気になって」
やはり、そうだった。ソルテラは申し訳なさそうに俯いた。
ビークロスは注意しようとした。今日には今日の授業がある。昨日のことを気にしていては勉強に集中できない。家庭教師として、そう言うべきだった。
「ソルテラ様。昨日の授業は昨日のことです。本日は予定していた勉強を――」
そこまで言いかけて、ビークロスは口を閉じた。
昨日のヨーグルトとチーズ。一晩経った今、どうなっているのだろう。固まったのか、匂いは変わったのか。チーズは、どれほど硬くなったのか。そして、味は――。
「…………」気になる。
自分も、ひどく気になっていた。
ビークロスは黙って教本を見下ろした。これでは、ソルテラだけを責めることなどできない。
「……続きを、見てみたいですね」
思わず口から漏れた言葉に、ソルテラが顔を上げる。
「先生もですか?」
「……」
ビークロスは答えなかった。だが、その沈黙が何よりの答えだった。
結局、その日の授業は予定通り最後まで続けられた。それでも教本を読みながら、ビークロスの頭の片隅には、昨日の厨房がずっと残っていた。
牛乳を温めるイスズ。瓶を振る子供たち。やがて現れた白い塊と、そこから分かれていった黄色い液体。そして、イスズが投げかけた問い。
――どうしてこうなったのでしょう?
その光景を思い出し、ビークロスはふと手を止めた。これまで、自分は子供たちに何を教えてきたのだろう。
もちろん、知識は必要だ。文字を知らなければ本を読めない。算術を知らなければ計算もできない。歴史を知らなければ、自分たちがどのような時代を生きているのかを知ることもできない。
だから、これまで自分がしてきたことが間違いだったとは思わない。自分の教えによって知識を身につけ、学院へ進んだ生徒もいる。それを否定するつもりはなかった。
だが――では、何が足りなかったのか。
そう考えたとき、昨日の授業が鮮明に浮かんできた。イスズは、子供たちに答えを与えなかった。
「どうなると思いますか?」
そう問いかけてから、実際に牛乳を温め、子供たち自身に瓶を振らせ、変化を目の前で確かめさせた。さらに、現れたものに触れさせ、なぜそうなったのかを考えさせる。分からなければ、また考えるよう促す。
その姿を思い出しているうちに、ビークロスは一つのことに気づいた。
自分はこれまで、生徒たちに「なぜだろう」と思わせようとしてきただろうか。
教本に書かれていることを説明し、正しい答えを教える。間違えれば正しい答えを示し、覚えられなければ、もう一度覚えさせる。それで知識は身につく。
だが、それだけで、生徒は自分から答えを探そうとするだろうか。
ビークロスは、ゆっくりと教本を閉じた。
昨日、ソルテラは何度もイスズに質問していた。レオーネもそうだった。そして、自分も同じだった。
イスズの話を聞いているうちに、次から次へと疑問が浮かんできた。もっと知りたい。自分の知らないことを確かめたい。そんな気持ちになっていた。
――これが、学ぶということなのか。
知識は、人から与えてもらうことができる。しかし、「知りたい」という気持ちは、誰かから与えられるものではない。自分の中から生まれるものなのだ。
イスズがしていたのは、知識を教えることだけではなかった。子供たちが自ら考え、確かめたくなるきっかけを作っていたのである。
そして昨日、そのきっかけは子供たちだけでなく、自分の中にも生まれていた。
「……私は、何をしていたのだろうな」
小さく呟いた。だが、すぐに首を振る。
今までの自分の教育が、すべて無意味だったわけではない。自分の教えによって知識を身につけた生徒もいる。学院へ進んだ者もいる。その生徒たちまで否定することはできなかった。
ただ――足りなかった。その事実だけは、認めなければならない。
十数年も教師をしてきた。それなのに、自分自身がまだ「学ぶ」ということを、本当の意味では理解していなかった。
そのことが、ビークロスには重かった。その日の授業を終える頃になっても、ソルテラはどこか落ち着かない様子だった。
「先生……昨日のヨーグルトとチーズ……レオーネ様が見てくださっているでしょうか」
ビークロスは、少しだけ笑った。
「ええ。きっと、見てくださっていますよ」
「どうなったのかな……」
ソルテラが呟く。ビークロスも、同じことを考えていた。
――どうなったのだろう。
知りたい。確かめたい。その気持ちを、今度は否定しなかった。
その日の授業が終わった後、ビークロスはエレクトラのもとを訪れた。
「ビークロス。何か用ですか?」
「本日は、お願いがあって参りました」
ビークロスは静かに頭を下げた。一瞬だけ、昨日のことを話すべきか迷った。イスズの授業を見て、自分の教育について考え直したこと。それをきっかけに、家庭教師を辞めたいと思ったこと。
しかし、結局それを口にすることはなかった。
イスズにはイスズの事情がある。自分が退職することで、彼女に余計な負担をかける必要はない。それに、十数年にわたって家庭教師を務めてきた自分の誇りもあった。
一日の授業を見ただけで、それまでのすべてを否定するつもりはない。だから、ビークロスは余計なことを語らず、ただ頭を下げた。
「まことに申し訳ありません」
「私の教育では、ソルテラ様の可能性を伸ばしきれないと判断いたしました」
エレクトラが目を見開く。「……どういうことです?」
ビークロスは静かに答えた。「そのままの意味でございます」
「それで……辞めたいと?」
ビークロスは深く頭を下げた。
「ソルテラ様に問題があるわけではございません。奥様にも、何一つ不満はございません。すべて私自身の問題でございます」
エレクトラは、しばらくビークロスを見つめていた。だが、彼がそれ以上を語るつもりがないことを察すると、無理に問いただすことはしなかった。
「……分かりました」
「ありがとうございます」ビークロスは、もう一度深く頭を下げた。
それ以上、昨日の授業について語ることはなかった。
屋敷を出る。夕暮れの道を歩きながら、ビークロスは空を見上げた。
これから何をするのか。具体的には、何も決まっていない。幸い、これまで働いてきた蓄えは多少ある。実家へ相談すれば、しばらくの間なら何とかなるだろう。だから、急ぐ必要はなかった。
まずは、自分自身が学べばいい。これまで読んできた教本を、もう一度読み直してもいい。別の考え方を学んでもいい。そして、これまでとは違う目で、身の回りのものを見てみよう。
なぜこうなるのか。どうしてそうなるのか。分からないことがあれば、自分で確かめてみる。
いつか再び誰かを教える日が来るのなら――そのときは、ただ知識を与えるだけの教師にはなりたくない。
生徒が自分から疑問を持ち、自分で確かめ、考えられる。そんな学び方を教えられる教師になりたい。
正しい答えを覚えさせるだけではなく、答えの分からないものに出会ったとき、自分の力で進んでいける人間を育てたい。
――そのためにも、まずは自分自身が学ばなければならない。
ふと、昨日のイスズの言葉が蘇った。
――分からないからこそ、観察して確かめるんですよ。
ビークロスは、思わず小さく笑った。昨日までは、その言葉を子供たちへ向けたものだと思っていた。だが、違ったのかもしれない。
今、その言葉を一番必要としているのは――自分自身なのだ。
「……まずは、私自身が学び直すところからだな」
ビークロスはそう呟き、歩みを進めた。
十数年間、教師として歩いてきた道を、今日で一度止める。
それは敗北ではない。ようやく自分が、本当の意味で学び始めるための一歩なのかもしれなかった。
昨日の厨房で生まれた、小さな疑問。
それは一晩経っても消えることなく、今度はビークロス自身の人生を動かし始めていた。
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それから、幾十年もの時が流れた。
バルカン帝国には各地に学院がある。その中でもひときわ高い評価を受ける学院があった。
その学院を長年率いてきたのが、学長ビークロス・ボフダーンである。
老年となった彼は、ある日、教師たちを集めた講話の中で教育について語っていた。
「本当の教育とは、知識を教えるだけではありません。自分で問い、自分で考え、自分で判断する。そうして、自らの力で生きていける人間を育てること。それこそが、教育なのです」
教師たちは、静かに耳を傾けていた。
「もちろん、知識は必要です。読み書きも、算術も、歴史も、魔法も、科学も。知識がなければ、考えることすら難しいでしょう」
ビークロスは、ゆっくりと教師たちを見渡した。
「ですが、知識を与えるだけでは足りません」
「大切なのは、生徒自身に問いを持たせることです。分からないものに出会ったとき、すぐに答えを求めるのではなく、自分の目で確かめ、自分の頭で考える。その習慣を身につけさせることです」
教師たちは黙って聞いている。
ビークロスは、少しだけ笑った。
「私は若い頃、そのことを身をもって教えられました。ある授業を見学したことがあります。教本も使わず、子供たちに牛乳を温めさせ、瓶を振らせ、できたものを観察させる。私には、最初は何の授業なのか分かりませんでした」
教師たちの中から、小さな笑いが漏れる。
「ところが、気づけば私自身が、その結果を知りたくなっていた」
ビークロスは懐かしそうに目を細めた。
「なぜこうなるのか。明日になれば、どう変わるのか。次から次へと疑問が浮かんできたのです。そのとき私は、教師でありながら、生徒たちと同じように学んでいました」
そこで、ビークロスは一度言葉を止める。
「そして私は、教師として歩んできた自分自身を見直すことになりました。それまでの教育が間違っていたわけではありません。知識を教えることには、確かな意味があります。ただ、知識を与えるだけでは、人の中に『もっと知りたい』という気持ちまでは生まれない。そのことを、私はあの日に知ったのです」
教師たちは、誰も口を挟まなかった。
「その授業をした女性の名を、教育者として知る者は、今ではほとんどいないでしょう。高名な学者でも、学院で教えた教師でもありません。そもそも、本人は学院に一度も通ったことすらないのです。ただ、辺境の小さな騎士爵家の娘だったと聞いています」
ビークロスは、少し遠くを見るような目をした。
「ですが、その人が私に残したものは、名前ではありませんでした。一つの疑問です」
ビークロスは静かに続けた。
「なぜだろう、と。私は、その疑問を抱いたまま教師を辞め、そして自分自身が学び直すことから始めました。やがて再び教壇に立つようになり、その考えを少しずつ授業へ取り入れていった。それが正しかったのかどうか、私にも分かりません。ただ、教え子たちが自分から本を開き、実際に試し、失敗し、また考える姿を見るたびに、あの日のことを思い出しました」
ビークロスは、穏やかに笑う。
「だから、皆さんにも伝えておきたい。生徒に、正しい答えだけを与えないでください。必要な知識は、きちんと教えてください。その知識を土台にして、生徒自身が問いを持てるようにしてあげてください」
「なぜだろう。どうしてだろう。本当にそうなのだろうか、と。その疑問を、自分の目で確かめ、自分の頭で考える。それが、自ら学び続ける人間を育てるということです」
ビークロスは、最後に静かに告げた。
「教育の目的とは、人格の完成を目指すことなのだと、私は考えています」
その言葉は、後の世まで語り継がれることになった。
そして、その理念を礎の一つとして発展していった学院は、やがて世界最高水準の教育機関と呼ばれるようになる。
各国から集まった生徒たちは、そこで学び、考え、卒業していった。
商人となる者。学者となる者。技術者となる者。官僚となる者。そして、自らの国を導く立場となる者。
彼らは世界各地へ散り、それぞれの場所で新しいものを生み出し、社会を支え、また次の世代を育てていった。
その学院の教育理念が、どこから始まったのかを知る者は、ほとんどいない。
ただ、ビークロスだけは知っていた。自分の人生を変えたのは、名も残らない一人の女性が行った、たった一日の授業だったことを。
その女性の名は、歴史には残らなかった。けれど、彼女が残した一つの疑問は、消えなかった。
ビークロスから、その教え子たちへ。そして、その教え子たちから、また次の世代へ。
そうして、あの日の小さな「問い」は、幾十年もの時をかけて世界へ広がっていった。
「なぜだろう」
それは、たった一人の教師の胸に生まれた、小さな疑問だった。
けれど、その疑問から始まった学びは、やがて多くの人々の人生を変え、世界の教育そのものを変えていったのである。
あっと、、、ここで終わりではありませんよ!
続きますからね。




