第24話 ビークロスの見学01
〈ビークロス視点〉
ビークロスは、正直なところ、今回の授業を見学すると聞いた時点では、時間の無駄だと思っていた。ソルテラがイスズの授業を見学したいと言い出したため、その付き添いとして同行しただけである。
それなのに、案内された場所は屋敷の厨房だった。
「……なぜ、厨房なのですか?」思わず尋ねそうになったが、ビークロスは口を閉じた。
厨房は、子供が勉強する場所ではない。ましてや貴族の子供なら、なおさらだ。
料理をするのは使用人の仕事であり、食材を扱う厨房へ子供を入れる必要などない。
そこには火を使う竈もあれば、包丁などの刃物もある。怪我をする危険もあるし、何より、貴族にとって食事は毒を仕込まれる可能性すら考えなければならないものだ。
だからこそ、子供や関係のない者が理由もなく厨房へ入ることなど、本来なら避けるべきだった。
家庭教師として多くの貴族の子弟を教えてきたビークロスにとって、これはあまりにも異様な光景だった。そして、その中心にいるイスズの姿を見て、さらに眉をひそめる。
粗末なドレスに、相変わらず背負っている大きなリュック。家庭教師というより、旅人か野外で暮らす者のように見える。
――いったい、この女性は何を考えているのだ。
しかも今日は、ソルテラだけではなかった。その妹であるジャスティまで、ジャスティの侍女と手を繋いで立っている。
「おりょうりするのでしゅか?」
嬉しそうに厨房を見回す幼いジャスティを見て、ビークロスは思わず額を押さえた。
――これは、本当に授業なのか?
そんな疑念を抱きながらも、ビークロスは黙って見守ることにした。
イスズは、周囲の困惑など気にした様子もなく、穏やかな笑顔で口を開いた。
「今日の授業は、身近なものを観察して、変化が起こる理由を考えてみる授業です」
ビークロスは眉を寄せた。観察して、考える。言葉だけ聞けば立派だ。だが、具体的に何をするのかと思えば――。
「今日は料理を作ってみましょう」
ビークロスは、思わず厨房を見回した。――やはり遊びではないのか。
しかし、イスズは続けた。
「ただ作って終わりではありません。途中で起きる変化をよく見て、どうしてそうなったのかを一緒に考えてみましょう」
ビークロスは黙った。
「どうしてそうなったのか」を考える。それは一体、どのような意味を持つのだろう。
これまでビークロスが教えてきたのは、すでに答えの分かっている知識だった。歴史なら歴史、算術なら算術、礼儀作法なら礼儀作法。正しい知識を教え、それを覚えさせる。それこそが教育だと思っていた。
ところが、イスズは違う。最初から答えを教えようとしない。
「どうなると思いますか?」そう問いかけるだけだった。
教材として出てきたのは、牛乳だった。大きな陶器の壺から牛乳を取り出し、イスズは子供たちに説明を始める。しばらく置いておくと、表面に濃い部分が集まる。
それがクリームだという。牛乳には脂肪など、いろいろなものが含まれているらしい。
ビークロスは黙って聞いていた。そこまでは、まだ理解できる。だが、その後に出てきた話には驚かされた。
「牛乳の中には、目には見えないほど小さな生き物が入り込むことがあります」
――生き物?ビークロスは思わずイスズを見た。
そんなものが牛乳の中にいるなど、聞いたことがない。さらにイスズは、空気中にも目には見えない小さな生き物がいるのだという。
ビークロスは眉をひそめた。
「見えないものが存在する」と言われても、簡単には信じられない。
しかし、イスズは証明しようとも、無理に信じさせようともしなかった。ただ、「今の牛乳と、時間が経った牛乳では何が変わるのか、実際に見てみましょう」そう言った。
その言葉に、レオーネとソルテラが興味を示す。
「明日も見るのですか?」
「はい。明日だけではありません。数日後にも見てみましょう」
ビークロスは、少し意外に思った。答えを聞いて終わりではない。時間を置き、実際の変化を観察するというのだ。それでも、まだこれが教育になるとは思えなかった。
やがてイスズは牛乳を温め始めた。
「生の牛乳には、体に悪さをする小さな生き物がいることがあります。ですから、今日は先にしっかり温めます」
そう言って牛乳を温め、しばらくしてから子供たちへ飲ませた。
ビークロスは思わず顔をしかめた。牛の乳をそのまま飲む。それ自体、ビークロスには馴染みがなかった。
自分は貴族の家で育った。牛乳は料理や菓子などに使われるものだと思っていたが、わざわざそのまま飲むものだとは考えたことがない。
ところが、レオーネが恐る恐る口をつけた。
「……あ、本当だ。少し甘い」
ソルテラも飲む。「おいしい……」
そしてジャスティまで、「おいちいでしゅ!」と嬉しそうに笑う。
ビークロスは、そんな三人を見ながら少し困惑した。
――そんなに美味いものなのか?
気にはなった。だが、自分から飲みたいとは思わなかった。それよりも、イスズが次に何を始めるのかの方が気になっていた。
「では、今度はバターを作ってみましょう」
「バターを?」料理長のガーラが驚いた声を上げた。
ビークロスも思わずイスズを見る。
バター。それは知っている。高級な料理店などで食べたこともある。だが、それをどうやって作るのかまでは知らなかった。
イスズはクリームを小さな蓋付きの瓶へ入れると、子供たちに手渡した。
「これを振ってみましょう」
「振るのですか?」レオーネが首を傾げる。
「はい。しっかり振ってくださいね」
子供たちが瓶を振り始める。しゃかしゃか、しゃかしゃか。
厨房の隅に、妙に間の抜けた音が響いた。
ビークロスは、思わずため息をつきそうになった。
――これは本当に授業なのか? 教本もない。文字を書かせることもない。子供たちは瓶を振っているだけだ。
しかし、しばらくすると様子が変わった。
レオーネが声を上げる。
「先生! 白いものが固まってきました!」
ビークロスも瓶へ目を向ける。確かに、さっきまで液体だったものの中に、小さな白い塊が浮かび始めている。
「どうして、こうなったのでしょう?」
イスズが尋ねた。レオーネは瓶を見つめる。
「……振ったから、ですか?」
「そうです。でも、ただ振っただけではありません」
イスズは、脂肪の粒が集まっていく仕組みを子供たちにも分かるように説明した。
ビークロスは黙って聞いていた。
そして、気づいた。自分も「なぜだ?」と思っている。
なぜ振ると固まるのか。なぜ液体だったものが塊になるのか。イスズが説明を始めるまで、自分自身もその答えを知りたいと思っていた。
――私は、何をしている?
ソルテラの付き添いとして来たはずなのに、いつの間にか自分まで授業に引き込まれている。
それが少し悔しくて、ビークロスはわずかに顔をしかめた。だが、イスズが出来上がったバターをパンに塗って差し出したとき、その気持ちはさらに揺らいだ。
「ビークロス様も、よかったらどうぞ」
「……私もですか?」
「ええ。せっかくですから」
ビークロスはパンを見つめた。教師として、こんな授業を認めてよいのか。
そう思いながらも、結局は受け取った。一口食べる。
「…………」
言葉が出なかった。乳の濃い風味が口の中に広がる。
「……これは……確かに……美味い」
思わず本音が漏れた。子供たちが嬉しそうに笑う。料理長のガーラまで、驚いたようにバターを見つめている。
ビークロスは、自分が食べたパンを見下ろした。
少なくとも、この授業を「ただの遊び」と言い切ることは、もうできなかった。
子供たちは笑いながら瓶を振っていた。
その姿を見ているうちに、ビークロスはふと気づく。笑いながら手を動かしているだけに見えても、子供たちはその変化を自分の目で見て、なぜそうなったのかを考えている。
そして午後。
イスズは、さらにビークロスを驚かせた。
「では、次はヨーグルトとチーズを作ってみましょう」
聞き慣れない言葉に、ビークロスは眉を寄せる。
イスズは、牛乳の中にいる乳酸菌について説明を始めた。目には見えない小さな生き物が牛乳の中の糖を使って働き、酸を作る。その酸によって牛乳の中のたんぱく質が固まり、とろりとしたものへ変化する。それがヨーグルトだという。
ビークロスは、しばらく何も言えなかった。
――乳酸菌。初めて聞く言葉だった。
発酵という言葉自体は知っている。だが、それが目に見えない小さな生き物の働きによって起こるとは知らなかった。
さらにイスズは、発酵と腐敗についてまで話し始めた。どちらも目には見えない小さな生き物が食べ物を変えることで起こる。人間にとって好ましい変化なら発酵、困る変化なら腐敗なのだという。
ビークロスは思わず腕を組んだ。そんな考え方があるとは思わなかった。
隣を見ると、料理長のガーラも真剣な表情で聞いている。そして、子供たちはというと、疑問が浮かぶたびにイスズへ質問していた。
「パンにも小さな生き物の働きが関わっています」
「キノコもそうですよ。菌が作る大きな体のようなものなんです」
次々と質問が飛ぶ。ビークロスは、その光景を眺めながら、ふと自分の胸の内に生まれた感情に気づいた。
――もっと聞きたい。
発酵とは何なのか。乳酸菌とは何なのか。なぜ腐るのか。どうして同じような仕組みなのに、一方は発酵と呼ばれ、一方は腐敗と呼ばれるのか。
質問したい。だが、自分が口を開くのは妙に気恥ずかしく、ビークロスは黙っていた。
そんな彼の前で、今度は牛乳からチーズが作られていく。温めた牛乳へ酸味のある液体を加える。
すると、さらさらだった牛乳が、目の前で白い塊と黄色い液体に分かれていった。
「……これは……」
ビークロスは思わず身を乗り出した。白い塊を集め、水分を絞る。塩を加える。それがチーズになるという。
――牛乳が、チーズに? 知識として聞くのと、実際に目の前で見るのとでは、まるで違った。
さっきまでただの牛乳だったものが、目の前で姿を変えていく。それをイスズは、まるで特別な技術でも何でもないように子供たちへ見せている。
ビークロスは、白い塊を見つめながら呆然とした。
――この娘は、一体どこまで知っているのだ。しかも、ただ知識を披露しているわけではない。
子供たち自身に見せ、触れさせ、考えさせている。
そして最後には、「明日、どうなっているのかを見てみましょう」
ビークロスは、その言葉を聞いてしばらく黙っていた。
明日。
今日の授業は、そこで終わらない。明日になれば、何かが変わっている。どんな匂いになっているのか。どんな硬さになっているのか。味はどうなるのか。
――自分も、見てみたい。そう思った瞬間、ビークロスは小さく息を吐いた。
自分はいつから、この授業の続きを待つ側になったのだろう。
帰る時間になっても、ソルテラは何度もヨーグルトとチーズを振り返っている。レオーネも同じだった。
「明日、どうなっているんだろう……」
その呟きを聞いたビークロスは、答えを返さなかった。
自分にも分からない。
だからこそ――気になって仕方がなかった。
厨房を出る直前、ビークロスは一度だけ振り返った。
作業台の上には、明日のために残されたヨーグルトとチーズがある。その隣には、今日、自分たちの手で作ったバターの残りも置かれていた。
たった一日の授業だった。
教本を開くこともなかった。計算問題を解くことも、暗記をすることもなかった。
それでも、ビークロスの頭の中には、朝からずっと疑問が渦巻いている。
牛乳はなぜ変わるのか。目に見えないものとは何なのか。発酵とは何なのか。そして、明日になればヨーグルトとチーズはどうなっているのか。
ビークロスは、そこでようやく少しだけ理解した気がした。
イスズは、答えを教えているのではない。
「知りたい」と思う心そのものを、子供たちの中に育てているのだ。
そう気づいたとき、ビークロスはわずかに目を細めた。
けれど、それが自分自身の教育を根底から揺さぶることになるとは、この時の彼はまだ知らなかった。




