第23話 突然の呼び出し — マイア —
マイアがレヴォーグの執務室へ入ると、そこにはレヴォーグとエレクトラのほか、レオーネの護衛を務めるストリーガと、侍女のトレミーがいた。
マイアが姿を見せると、二人はすぐにソファから立ち上がり、壁際へと移動する。
その顔ぶれを見た瞬間、マイアには話の内容がほぼ分かった。
――レオーネの新しい家庭教師、イスズ殿のことでしょうね。
マイアは静かにエレクトラへ視線を向けた。
エレクトラはマイアより十数歳ほど年上で、非常に厳格な女性だった。その厳しさは、相手によって態度を変えるようなものではない。誰に対しても一定の礼節と規律を求め、自らもそれを守っている。
もとは侯爵家の娘であり、インプレッサ伯爵家の正室として、貴族の婦人とはどうあるべきかを常に自らに課している女性でもあった。
もちろん、マイアとの間に親しい関係があるわけではない。
エレクトラはソルテラを次期伯爵にすることを望み、その教育にも力を入れている。一方で、レオーネが次期伯爵となる可能性も認めており、だからといってマイアやレオーネを蹴落とそうとするような真似はしない。
二人が争う立場にあることは事実だ。だが、それ以上に、エレクトラにはインプレッサ家を支える正室としての矜持がある。
そしてマイアもまた、自分が側室であることを忘れてはいなかった。互いに一定の距離を保ちながら、それぞれの立場をわきまえて接している。それが二人の関係だった。
やがて、エレクトラが口を開く。
「レオーネの新しい家庭教師、イスズ殿の履歴書を拝見しました。とても異色の経歴ですね」
マイアは黙って続きを待つ。
「面接官から聞きましたが、あの者を選ぶことには、あなたの意向が強く反映されていたとか?」
マイアは穏やかに答えた。
「いいえ。私の意向というより、採用試験で、あの方が最高得点だったからです。でしたら、最も成績の良かった方を選ぶのが自然ではありませんか?」
エレクトラが探るように尋ねる。
「……それだけですか?」
マイアは一瞬だけ目を伏せた。
――本当の理由を、今ここで話す必要はないでしょう。マイアは以前、聞かされた話を思い出した。だが、それを口にすることはなかった。
「ええ。成績が優秀だったからですわ」
エレクトラがわずかに目を細める。
そこへ、今度はレヴォーグが口を挟んだ。
「レオーネの日々の授業の内容は、聞いているのだな?」
「はい。もちろんです」
マイアは落ち着いた声で頷いた。
「ならば聞こう。あのように教科書やノートもろくに開かず、庭や厨房に入り浸る授業を、本当にお前は許しているのか?」
レヴォーグの声には、明らかな疑念があった。
「私は、お前をもう少し聡い女だと思っていたのだがな」
それでもマイアは表情を変えなかった。
「確かに、これまでの家庭教師とは大きく違いますね。ですが、あのレオーネが、毎日の授業を心待ちにしているのです」
エレクトラが言う。
「それは、勉強をせずに庭で泥水を作って遊んだり、厨房で何やら怪しげなものを作ったりしているからではありませんか?」
マイアの後ろでは、ストリーガがわずかに眉を動かした。
「それも、確かにあるかもしれませんね」
マイアがあっさりと認めたため、レヴォーグが怪訝そうに眉を寄せる。しかし、マイアはそのまま続けた。
「ですが、それだけではありません」
「……何?」
マイアは二人を見ながら、静かに告げた。
「算数です。驚くべきことに、レオーネはもう九の段まで、すべて言えるようになっております」
エレクトラの表情がわずかに変わった。
「九の段まで?」
「はい。それだけではありません。例えば『五百三十二掛ける五』と尋ねれば、すぐに答えられるようになりました」
「……」エレクトラもレヴォーグも、言葉を失った。
これまでの家庭教師から報告されていたレオーネの様子を思い返せば、なおさらだった。
レオーネは掛け算の九九を教えようとしても、すぐに注意が別のところへ向いてしまう子供だった。
二の段ですら、きちんと覚えているのか怪しい。それが、短期間で九の段まで覚え、さらに三桁の数字を使った掛け算まで解けるようになっている。
教育に詳しくなくとも、それがどれほど異例のことなのかは分かる。
先ほどまでイスズへの疑念を口にしていたエレクトラも、さすがに反論できなかった。
マイアはそんな二人を見て、穏やかに微笑んだ。
「もちろん、私もイスズ殿の授業が普通のものではないことは分かっています。ですが、少なくともレオーネは以前より明らかに学ぶことを楽しんでおります。そして、実際に身についているものもある」
一度言葉を切り、マイアは静かに頭を下げた。
「ですから私は、今のところイスズ殿に任せたままで問題ないと思っておりますわ」
執務室に、しばし沈黙が流れた。やがて、レヴォーグが小さく息を吐く。
「……よかろう」
短い言葉だった。それ以上、イスズを咎める理由を見つけられなかったのだろう。
マイアは一礼する。
「ありがとうございます」
ストリーガとトレミーもそれぞれ頭を下げ、マイアとともに執務室を後にした。
扉が閉じる。その向こうで、三人の足音が遠ざかっていく。
そして執務室には、レヴォーグとエレクトラだけが残された。
エレクトラはしばらく閉じた扉を見つめていたが、やがて小さく呟いた。
「……九の段、ですか」
その声には、先ほどまでの厳しさとは違う、わずかな驚きが滲んでいた。
エレクトラは、先ほどまでの話を頭の中で整理するように、しばらく黙っていた。
やがて、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば、先ほども言いましたが……ビークロス殿が、このような時期に家庭教師をお辞めになりました」
その言葉に、レヴォーグが顔を上げる。
「ビークロスがな……」
エレクトラは苦渋の表情を浮かべた。
「このような時期に辞められては、早急にソルテラの次の家庭教師を決めなければなりません」
レヴォーグは眉を寄せた。
「ふむ……辞めた理由は聞いているのか?」
「私も、なぜこのような時期に辞めるのかと尋ねました。ですが、ビークロス殿は――」
エレクトラは、あの日のやり取りを思い出すように一度言葉を切る。
「『まことに申し訳ありません。私の教育では、ソルテラ様の可能性を伸ばしきれないと判断いたしました』……と」
レヴォーグが怪訝そうに繰り返した。
「可能性を伸ばしきれない? それだけか?」
「ええ。何度理由を尋ねても、それ以上は話してくださいませんでした」
レヴォーグは眉を寄せた。
「ふむ……あのビークロスがな」
「ええ。何度理由を尋ねても、それ以上のことは話してくださいませんでした。ビークロス殿は、この帝国でも名の知れた家庭教師です。少なくない給金もお支払いしておりました。それこそ、この帝国で我が家より高い給金を出せる家など、そうそうないでしょう」
レヴォーグも腕を組みながら頷いた。
「その通りだ。金の問題ではないということか」
「おそらくは」
「それにしても、急だな」
レヴォーグは首を傾げる。
エレクトラも同じように考え込んでいたが、そこで何かに気づいたように顔を上げた。
「……ただ、一つだけ気になることがあります。ビークロス殿が退職を申し出たのは、ソルテラと一緒にイスズ殿の授業を見学した翌日なのです」
レヴォーグの眉がわずかに動いた。
「イスズ殿の授業を見学した翌日、その日の授業が終わったあとで、退職したいと申し出てきました」
「ふむ……」レヴォーグはしばらく黙り込んだ。
イスズの授業を見た翌日、帝国でも名の知れた家庭教師が突然辞表を出した。
偶然とも考えられる。しかし、あまりにも出来すぎていた。
しばらく考えていたレヴォーグが、別のことを思い出したように口を開く。
「……そういえば、レオーネの家庭教師を決める採用試験で、次点だった者も優秀だったと聞いているな。確か、ベレル伯爵家の……フローリアン殿と言ったか」
レヴォーグはエレクトラへ視線を向けた。
「お前は面識があっただろう?」
「もちろんです」
エレクトラはすぐに答えた。
ベレル伯爵家のフローリアンは、貴族の間でもその賢さで知られている。
家庭教師としての経験こそビークロスに及ばないが、学問への造詣は深く、何よりレオーネの採用試験ではイスズに次ぐ成績を収めていた。
今は、改めて多くの候補者を集め、長い時間をかけて選び直している余裕はない。
エレクトラは少し考えたあと、静かに頷いた。
「確かに、フローリアン殿でしたら問題なさそうですね。では、そのような話で進めていただけますでしょうか」
レヴォーグは大きく頷いた。
「うむ。それがよかろう」
そして、背後に控えていた執事へ視線を向ける。
「すぐにベレル伯爵家へ使いを出せ。フローリアン殿が家庭教師を引き受ける意思があるか、確認しろ」
「かしこまりました」
執事は深く頭を下げると、すぐに部屋を出ていった。
こうして、突然辞表を提出したビークロスに代わり、ソルテラの新たな家庭教師を迎えるための話が動き始めたのだった。




