第22話 突然の呼び出し — ストリーガとトレミー —
その日、長男レオーネの護衛を務めるストリーガと、侍女のトレミーは、レヴォーグの執務室へ呼び出された。
突然の呼び出しだった。
二人が執務室の前まで来ると、扉の脇には護衛が立っていた。
「おう、ストリーガ殿か」
「おう。レヴォーグ様に呼ばれて来たんだがな」
護衛は頷くと、扉をノックした。
「ストリーガ殿とトレミー殿がお見えになりました」
すぐに中から声が返ってくる。「入れ」
護衛が扉を開ける。
二人が執務室へ入ると、正面にはレヴォーグとエレクトラが並んでソファに腰掛け、その後ろには、いつものように執事が静かに控えていた。
「そこへ座りなさい」
執事に促され、ストリーガとトレミーは向かい側のソファへ腰を下ろした。二人とも、どこか落ち着かない。
伯爵夫妻から突然呼び出される理由に、心当たりがないわけではなかった。特にここ最近、レオーネの新しい家庭教師であるイスズの授業は、それまでの家庭教師とはあまりにも違っている。
ストリーガは背筋を伸ばし、トレミーは膝の上で両手を重ねた。
二人とも、レヴォーグが貴族同士の形式ばったやり取りを好まないことは知っている。必要なことだけを尋ね、必要な答えだけを聞く。仕事では、いつもそうだった。
案の定、レヴォーグは前置きらしい前置きもせず、すぐに本題へ入った。
「レオーネの新しい家庭教師は、どうなのだ?」
ストリーガが一瞬だけトレミーへ目を向ける。だが、先に口を開いたのはエレクトラだった。
「私の聞いた話ですと、今までの家庭教師とは違い、まともな授業をあまりしていないようですね」
その声音には、すでに不満が滲んでいた。
「庭で水遊びをしたり、わざと服を土で汚したり。果ては授業そっちのけで厨房へ入り、料理人の邪魔をした挙げ句、牛乳の腐ったものをレオーネだけでなく、ジャスティにも食べさせたと聞きました」
ストリーガは渋い顔で頷いた。
「エレクトラ様のおっしゃる通りです」
レヴォーグが黙ってストリーガを見る。
「詳しく話せ」
ストリーガは一度息を整えると、これまでの出来事を順に話し始めた。
「初日は、ほとんどレオーネ様との雑談で終わりました。二日目は教科書はおろか、ペンやノートすらほとんど使わず、庭へ出て水遊びをしておりました」
「やはり、水遊び……ですか」
エレクトラの眉がぴくりと動く。
「はい。水を火にかけ、それをレオーネ様の手に翳したり、泥水を作って遊んだりもしておりました」
その報告に、レヴォーグもエレクトラも露骨に顔を顰めた。
レヴォーグは何も言わなかったが、わずかに目を動かす。
――話を続けろ。そう促されたのだと察し、ストリーガはさらに続けた。
「その際には、水には引っ張る力があるとか、石を地面に落として、大地にも引っ張られているとか……正直、言っていることが支離滅裂です」
二人の表情が固まる。ストリーガは真剣だった。
「算数では、九九を覚える必要がないとも言っておりました」
「九九を?」
エレクトラが聞き返す。
「はい。それだけではありません。エレクトラ様がおっしゃった通り、牛乳を腐らせてレオーネ様とジャスティ様に食べさせたり、にゅうさんきん、こうぼ、にさんかたんそ、でんぷん……などという、訳の分からない言葉を並べております」
ストリーガは眉を寄せた。
「一体、何を教えようとしているのか私には分かりません。私には、レオーネ様を妙な理論で洗脳しようとしているようにすら見えます」
「洗脳か……」レヴォーグが低く呟く。
ストリーガは自分の胸に手を当てた。
「私はこれでも、帝国学院を上位で卒業いたしました。ですが、イスズ殿が口にするような言葉など、一切習っておりません」
そして、さらに付け加える。
「ソルテラ様の家庭教師をされているビークロス殿も、イスズ殿の話を聞いて驚いておられました」
その名を聞いた瞬間、エレクトラが静かに口を開いた。
「そのビークロスは、本日、辞表を提出いたしましたわ」
「え……?」
ストリーガの顔から険しさが消えた。トレミーも思わず顔を上げる。
エレクトラは大きくため息をついた。
「ですから、ソルテラの家庭教師も、また探さなければならないのです」
「ビークロス殿が……?」
ストリーガは信じられないという顔をした。
ビークロスは、今年で三年目になるソルテラの家庭教師だった。この帝国でも名の知られた教育者であり、貴族の子弟を教える家庭教師として、かなりの実績を持つ人物である。
それほどの人物が、まだ年度の途中とも言えるこの時期に辞表を提出した。普通ではない。トレミーも驚きを隠せず、膝の上で握った手に力を込めた。
やがて、エレクトラがトレミーへ視線を向ける。
「トレミー」
突然名前を呼ばれ、トレミーの肩が跳ねた。
「あなたはイスズ殿の授業を見ていて、どう思いましたか?」
「それは……」
トレミーが口を開く。だが、その瞬間、隣に座るストリーガから鋭い視線が向けられた。
トレミーは言葉を失った。イスズの授業が、本当におかしなものなのか。
最初は自分もそう思っていた。けれど、実際に見ていると、イスズは決して遊んでいるわけではなかった。
水を使い、土を使い、料理を使い、身の回りにあるものを教材にして、レオーネに分かりやすく教えている。そしてレオーネも、以前の授業とは違い、自分からイスズへ質問するようになっていた。
それを、トレミーは知っている。けれど、今ここでそれを口にしていいのかは分からなかった。
結局、トレミーは俯いた。
「……以前よりも、レオーネ様が楽しそうに授業を受けておられるのは分かります。ただ……私はあまり学がありませんので、その……イスズ様の教えていることが正しいのかどうかまでは……よく分かりません」
エレクトラはしばらくトレミーを見つめたあと、小さく息を吐いた。
「そうですか」
そして、ゆっくりと背もたれへ身を預ける。
「私は、レオーネの義母として責任があります。将来、ソルテラかレオーネのどちらかがこの伯爵家を継ぐことになったとしても、二人には、この家を正しく支えられる人間になってもらわなければなりません」
レヴォーグも黙って頷く。エレクトラは続けた。
「ですので、二人には正しい教育を受けさせる必要があります。まずは家庭教師がどのような人物なのか、私たちがきちんと見極めなければなりません。何を教えているのかだけでなく、どのような考えを持ち、レオーネにどう接しているのかまで、しっかりと見ておく必要があるのです」
部屋に重い沈黙が落ちた。やがて、レヴォーグが顔を上げる。
「……レオーネの母、マイアを呼べ」
「かしこまりました」
執事は深々と頭を下げると、静かに執務室を出ていった。
それから、しばらくして――。
コン、コン。控えめなノックが響いた。
「入りなさい」
レヴォーグが答える。扉が開き、先ほどの執事が姿を見せた。
「マイア様をお呼びいたしました」
その後ろから、一人の女性が静かに部屋へ入ってくる。
マイアだった。突然呼び出された理由を知らない彼女は、室内のレヴォーグとエレクトラ、そしてストリーガとトレミーへちらりと目を向けた。
ただならぬ空気を感じ取ったのか、マイアの表情から穏やかな笑みが消える。
「……お呼びでしょうか」
マイアがそう尋ねると、レヴォーグは静かに彼女を見つめた。




