第21話 牛乳の授業07
そのときだった。
厨房の奥から、別の料理人がそっと近づいてきた。
「料理長……そのチーズ、私たちも味見してよいのでしょうか?」
どうやら、ずっと気になっていたらしい。
ガーラがレオーネとジャスティを見る。
「……皆も食べてみたいようですな」
イスズは少し考えてから、レオーネとジャスティへ向き直った。
「レオーネ様、ジャスティ様。このチーズ、ほかの料理人の方にも味見していただきましょうか?」
二人が顔を見合わせる。
「このチーズを皆さんが美味しいと思ってくれたら、これからも作ってもらえるかもしれませんよ」
レオーネは少し考えてから、嬉しそうに頷いた。
「そうですね。僕たちだけじゃなくて、皆さんにも、この美味しさを知ってもらいたいです!」
ジャスティも大きく頷く。
「です!」
料理人たちが二人へ頭を下げる。
「ありがとうございます」
ガーラがチーズをさらに小さく切り分け、一人ずつに手渡していった。
料理人たちはそれぞれチーズを手に取り、まず匂いを確かめる。指先で硬さを確かめ、それから慎重に口へ運んだ。
「……これは食べやすいな」
「確かに、臭みがほとんどない」
「この味なら、パンにも合いそうだ」
「甘いものと合わせても面白そうだな」
「生野菜に添えてもいいでしょう」
次々と声が上がる。どうやら、料理人たちにも受け入れられたらしい。
その様子を見ていたイスズは、嬉しそうに笑った。
そして、ふと思いついたようにレオーネの手を取る。
「レオーネ様!」
「え?」
イスズはレオーネの手を軽く掲げ、自分の手をパチンと合わせた。
乾いた音が厨房に響く。レオーネは何をされたのか分からず、ぽかんとする。
「……?」
しかし、イスズが満面の笑みを浮かべているのを見て、なんとなく意味を察したらしい。
「……うふふふふ」
レオーネの顔にも、嬉しそうな笑みが浮かんだ。
その様子を見ていたジャスティが、すぐに右手を高く上げる。
「いすずちぇんちぇい! わたしも!」
「もちろんですよ」
イスズはしゃがみ込み、ジャスティと目線を合わせる。そして、小さな手に自分の手をそっと合わせた。
すると、レオーネも慌ててジャスティの反対側へ手を添える。
「僕も!」
ジャスティは嬉しそうに二人の顔を見たあと、今度はトレミーとガーラを交互に見る。
二人は顔を見合わせて苦笑した。
「これは……私たちも参加しなければいけませんな」
ガーラがしゃがみ込み、ジャスティの手に自分の手を重ねる。トレミーも笑いながら手を添えた。
「では、私も」
小さな手を中心に、次々と手が重なっていく。
「せーの!」
ぺちん。そして、厨房の隅に笑い声が広がった。
その光景を眺めながら、イスズは改めて子供たちへ話しかけた。
「今日の授業で、いろいろな食べ物に、目には見えない小さな生き物が関わっていることが分かりましたね」
レオーネが頷く。
「ヨーグルトでは、乳酸菌が働きました。今回はやりませんでしたが、小麦粉をふっくらさせるパンでは、酵母という小さな生き物が働きます。酵母は、糖を使って二酸化炭素を作るので、その気泡が生地の中にたまって、パンがふっくらするんですよ」
料理人たちも興味深そうに耳を傾けている。
「お酒を作るときにも酵母が使われます。ただし、お酒によっては、酵母だけでなく、麹菌が穀物のでんぷんを糖に変える働きも必要になります。作り方によっては、乳酸菌が関わることもあります」
イスズは嬉しそうに頷く。そして、少しだけ笑った。
「ただ、今お話しした酵母や二酸化炭素、でんぷんや糖といった言葉は、今すぐ全部覚えなくても構いませんよ」
レオーネが少し驚いたようにイスズを見る。
「今は、『目には見えない小さな生き物にも、それぞれ違う働きがある』ということが分かれば十分です。これから授業の中で、パンを作ったり、いろいろな作り方を見たりしながら、実際に目で確かめていきましょう」
イスズは、レオーネとジャスティを見た。
「何度も見て、触って、変化を確かめていけば、今日聞いた難しい言葉も、少しずつ分かるようになります。急いで全部覚える必要はありませんからね」
レオーネは、ほっとしたように笑った。
「……はい。今は、ちゃんと覚えられる自信がありません」
「それでいいんですよ。分からないことを、分からないままにしておくのではなく、あとで自分の目で確かめられるようにしておけばいいんです」
レオーネは嬉しそうに頷いた。
「そして、チーズの中には、特定のカビを利用して作るものもあるんです。白いカビを表面に生やして熟成させるチーズもあれば、青いカビを使って独特の香りや味を作るチーズもあります」
「チーズにカビをつけるんですか?」
レオーネが驚く。
「はい。でも、何でもいいわけではありません。食べ物を作るために使える種類のカビを、きちんと管理して使います」
ガーラが深く頷いた。
「なるほど……。ただ腐らせているのではなく、目的に合ったものを働かせているのですな」
イスズは答えた。
「そうです。だから、料理では『どの菌を、どのように働かせるか』が大切なんです。変わったところでは、東の国だと、豆を蒸して藁で包むと、納豆菌という菌が働いて、納豆というものになります。糸を引くようになって、独特の匂いも出ます。私は好きですけど、苦手な人も多いと思います」
ジャスティが目を丸くする。
「なっとうも、ちっちゃいのが、つくるんでしゅか?」
「そうですよ」
「じゃあ、くさってるんじゃないんでしゅね?」
「ええ。ただし、納豆菌が働いた納豆と、食べ物が腐った状態は同じではありません。見た目や匂いが変わったからといって、全部が同じというわけではないんですよ」
レオーネは、しばらく黙って考えていた。
そして、今日までの授業を振り返るように、ヨーグルトとチーズを見比べた。
「でも、目には見えない小さなものが働いたり、作り方を変えたりすると、まったく違う食べ物になる。パンも、お酒も、きっと同じなんですよね。見えないものが、それぞれ違う働きをしている」
レオーネは少し考えたあと、ゆっくりと言った。
「同じ『菌』でも、何をするかが全然違うんですね」
イスズは頷いた。
「その違いに気づけたなら、今日の授業は大成功です」
レオーネは嬉しそうに笑った。
もう一度、目の前のチーズを見る。「それに……食べ物って、最初から今の形をしているわけじゃないんですね。牛乳の中にあったものを集めたり、菌に働いてもらったり、時間をかけたりして、別の食べ物に変えていける」
イスズは何も言わず、優しく微笑んだ。
「だから料理って、面白いんですね」
レオーネがそう言うと、ガーラも深く頷いた。
「ええ。私も、これほど料理の根本について考えさせられる授業は初めてですぞ」
そしてガーラは、目の前のチーズをもう一度見つめた。
「牛乳から、これほど違うものが作れるとは……。料理人として、まだまだ知らぬことが多いようですな」
厨房には、穏やかな笑い声が広がっていた。
その中でストリーガだけは、相変わらず少し離れた場所に立っている。だが、その表情も昨日までほど険しくはなかった。
酸っぱい牛乳。目には見えない小さな生き物。そして、そこから生まれたヨーグルトとチーズ。
少なくとも、イスズが子供たちに教えているものが、ただの奇妙な遊びではないことだけは、彼にも少しずつ分かり始めていた。
そして、授業の終わりが近づくと、イスズはふと思い出したように、厨房の奥へ目を向けた。
「そういえば……ソルテラ様とビークロス様の分も、少し残しておきましょうか」
イスズは料理長のガーラに頼み、ヨーグルトとチーズをそれぞれ小さな器に取り分けてもらった。
「明日、ソルテラ様にも味わっていただけるといいですね」
そう言って、イスズは嬉しそうに笑った。
しかし、その願いが叶うことはなかった。
それでもイスズは、特に残念そうな顔をすることはなかった。
「また、いつか機会があれば食べてもらいましょうね」
そう言って、いつものように穏やかに笑った。
ただし――イスズもレオーネも知らないところで、別の話が進んでいた。
ヨーグルトやチーズを口にした料理長のガーラは、その味をすっかり気に入っていた。自分たちで作ったバターも含め、これらを屋敷の食卓に出せないものかと考え、家令に相談していたのである。
「自家で作れるのであれば、ヨーグルトをデザートとして出すのもよいでしょう。チーズやバターも、料理に使えます。あれほど食べやすいものであれば、食卓に出しても問題ないかと」
ガーラとしては、料理人として何とか正式な料理に加えたいと思っていた。ところが、その話をどこからか耳にした正室のエレクトラが、難色を示した。
「自家で作った腐った牛乳を、食卓に出すのですか?」
「しかし、あれは腐っているのではなく――」
家令が説明しようとすると、エレクトラは首を横に振った。
「聞きましたわよ。酸っぱく腐った牛乳なのでしょう? そのようなものを、わたしたちや当然、子供たちの食事に出してはいけません。チーズも同じです。そのような怪しげものを正式な食卓に出すのは認めません」
その言葉に、料理長のガーラは何も言い返せなかった。
ガーラとしては、あの味をもう一度食卓で味わってもらいたかっただけに、無念そうに肩を落としたという。
こうして、イスズが作ったヨーグルトやチーズ、そしてバターが、インプレッサ伯爵家の正式な食卓に並ぶことはなかった。
――ただし。厨房では、別の形で残っていた。
料理人たちはすっかり気に入ってしまったのである。
ヨーグルトは果物や蜂蜜を添えてまかないのデザートに。チーズはパンに挟んだり、料理に添えたりする。バターも、料理やパンに使われるようになった。
正式な食卓には出せなくても、料理人たちのまかないとしてなら、わざわざ禁じる者もいなかったのだ。
そして、それをどこからか嗅ぎつけた者たちがいた。
「あの……今日も、ありますか?」
厨房の戸口から、こっそり顔を覗かせるレオーネ。その隣には、もちろんジャスティもいる。
「ちーじゅ、ありましゅか?」
「声が大きいですよ、ジャスティ様」
トレミーとジャスティの侍女が慌てて口元へ指を当てる。
「しー、でしゅね」
ジャスティも真似をして小さな声になる。
料理人たちはそんな二人を見ると、苦笑しながらも、まかない用に残していたチーズやヨーグルトを少しだけ分けてやるのだった。
「お二人とも、くれぐれも内緒ですぞ」
「はい!」「でしゅ!」
二人は嬉しそうに頷く。そして、こっそり味見をしては、満足そうな顔で厨房を後にする。
そんなことが、一度や二度ではなくなっていった。
表向きには、イスズが作ったヨーグルトもチーズもバターも、インプレッサ伯爵家の食卓には存在しない。
けれど厨房の料理人たちの間では、いつの間にかすっかり馴染みの味になっていた。
そしてレオーネとジャスティと次女達にとっても――。
それは、授業で学んだ「目には見えない小さな働き」が生み出した、ちょっとした秘密の味になっていたのである。
次からの更新は週1〜2回かなぁ。。




