第20話 牛乳の授業06
そして翌日から、授業が始まる前に、レオーネとイスズ、ジャスティが厨房の隅に置かれたチーズを観察することが、いつの間にか日課になっていた。
もちろん、そこには料理長のガーラも欠かさず顔を出している。今では小さな帳面を片手に、チーズの様子を興味深そうに記録していた。
ジャスティは相変わらず、付き添いの侍女と手を繋いで厨房へやって来る。レオーネにも侍女のトレミーと護衛のストリーガが付き添っているが、その二人の様子は対照的だった。
トレミーはすっかりイスズの授業に興味を持っており、ときどき侍女であることも忘れたように質問をしてくる。一方のストリーガは、相変わらずどこか疑わしげな目でイスズを見ていた。
そして今日も、三人はチーズの前に集まった。
ジャスティは背が届かないため、侍女に抱き上げてもらいながら、興味津々にチーズを覗き込んでいる。
レオーネがじっと観察しながら言った。
「昨日より、水分が抜けていますね。それに少し締まって、形も安定している感じがします」
イスズは頷いた。
「よく気づきましたね。表面も少し乾いて、全体に締まってきています」
「これは、塩のせいですか?」
「それもあります。塩には味をつけるだけでなく、チーズの中の水分を外へ出しやすくする働きもありますからね。水分が減ることで、少しずつ食感も変わっていきます」
レオーネが感心したようにチーズを見る。
「では、もう食べられるんですか?」
「ええ。実は、昨日の段階でも食べること自体はできましたよ」
その言葉を聞いた瞬間、ジャスティが身を乗り出した。
「たべられるんでしゅか!」
トレミーも、思わずチーズへ視線を向ける。
ガーラも帳面を閉じ、何気ないふりをしながらチーズを見つめていた。
そんな三人の様子を見て、イスズはいたずらっぽく笑った。
「でも、お楽しみはもう少し待ちましょうね」
「……!」
ジャスティの顔が、見る見るうちに絶望に染まる。
「いま、たべられるって、いったのに……」
そのあまりにも分かりやすい表情に、レオーネが吹き出し、トレミーも口元を押さえて笑った。ガーラまで苦笑している。
イスズも笑いながら、チーズを元の場所へ戻した。
「翌日から食べることはできます。でも、もう少し水分が抜ければ、塩味もさらに馴染んできます。せっかくですから、あと三日ほど様子を見てみましょうか」
「みっかでちゅか……さんにち?」
ジャスティが小さく呟いた。どうやら、かなり長い時間に感じているらしい。
「では、三日後のお楽しみですね」
イスズがそう告げると、ジャスティはしょんぼりしながらも頷いた。
そして――三日が過ぎた。
その日も、朝食を終えると、いつもの顔ぶれが厨房の隅へ集まった。
ジャスティは朝から妙に上機嫌だった。
「きょうはチーズをたべたいので、あさはすこししかたべましぇんでした!」
得意げに胸を張るジャスティに、付き添いの侍女が怪訝そうな顔をする。
「だから、今朝の朝食はあまり召し上がらなかったのですね。私はてっきり、お身体のどこかがお悪いのかと思いましたよ」
「えへへ……」ジャスティは笑ってごまかした。
「ジャスティ様。チーズを楽しみにするのは構いませんが、朝食を減らしてはいけませんよ」
イスズが苦笑する。
「はーい……」ジャスティは少しだけ反省したように返事をした。
その様子を見て、レオーネやトレミーも笑っている。
やがて、料理長のガーラが棚からチーズを取り出してきた。
「こちらですな」
周囲では、ほかの料理人たちも朝食の後片付けをしていたが、今日はどうにも気になるらしい。手を動かしながらも、ちらちらとこちらへ視線を向けている。
イスズはチーズを前に置くと、レオーネへ声をかけた。
「では、レオーネ様。今日のチーズを見てみましょうか」
イスズが包んでいた布をゆっくりと開く。その瞬間、周囲から声が上がった。
「わあ……!」
「本当にチーズだ!」
布の中に現れたのは、白く、しっかりとした塊だった。
レオーネたちが知っているチーズよりも白っぽく、表面も比較的なめらかだ。熟成したチーズに見られるような複雑な色や模様はない。それでも、そこには間違いなく、牛乳から姿を変えた一つの食品が出来上がっていた。
イスズはチーズを指先で軽く押してみる。
「昨日よりもしっかりしていますね。水分がさらに抜けて、塩味も馴染んでいると思います」
レオーネが興味深そうに覗き込む。
「これが……牛乳だったんですよね」
「そうですよ」
「すごいな……」
ジャスティも侍女に抱き上げてもらいながら、チーズをじっと見つめている。
「しろいでしゅ……」
「これは、フレッシュチーズと呼ばれるものです。長い時間をかけて熟成させる前の、比較的早く食べられるチーズのことです。今日のものは、酸で牛乳を固めて、水分を抜き、塩で味を整えたものですね」
イスズはチーズを眺めながら続けた。
「もちろん、チーズにはもっといろいろな作り方があります。何週間、何か月、ものによっては何年もかけて熟成させるものもあります」
「では、これはまだ途中なんですか?」
レオーネが尋ねる。
「そうとも言えますね。ただ、これはこれで食べられるチーズとして完成しています。ここからさらに熟成させるかどうかは、どんなチーズにしたいかによって変わります」
イスズはそう説明すると、チーズを少し持ち上げた。
「では、まず匂いを確かめてみましょう」
レオーネとジャスティが順番に顔を近づける。
「……あれ? 僕が知っているチーズより、匂いがきつくないです!」
レオーネが目を瞬かせた。
ジャスティも鼻を近づける。
「ほんとでしゅ。へんなにおい、しないでしゅ」
イスズは頷いた。
「これも、このチーズの特徴ですね。今日は熟成期間が短いので、比較的穏やかな香りになっています」
ガーラが身を乗り出した。
「では、味のほうはどうなのでしょうな?」
「それは食べてみましょう」
イスズは料理長に頼み、チーズを食べやすい大きさに小さく切り分けてもらった。
そしてまず、自分で一切れをフォークに刺して口へ運ぶ。
「うん……」
ゆっくり味を確かめてから、イスズは頷いた。
「さっぱりしていますね。ほんのりとした酸味に、塩気が効いていて、牛乳の優しい甘みも残っています。水分が抜けたことで、食感もしっかりしてきていますね」
イスズは一同を見渡した。
「強制はしませんので、食べてみたい方はどうぞ」
その言葉を待っていたかのように、レオーネがすぐにフォークを手に取った。
「僕、食べます!」
ジャスティも手を上げる。
「わたしもでしゅ!」
ガーラも続いた。
「もちろん、私もいただきましょう」
トレミーも興味深そうに一切れを取り、恐る恐る口へ運ぶ。
「……」
最初に目を見開いたのは料理長のガーラだった。ガーラは口の中でじっくり味を確かめる。
「これは……! まろやかですな。ほどよい酸味と塩気があって……それに、後からほんのり甘みまで感じます」
ガーラはもう一口味わってから、感心したように続けた。
「それに、香りが軽い。私たちが普段扱っているチーズとは、かなり違いますな」
ガーラは感心したようにチーズを眺めた。
「チーズの匂いが苦手な方もおりますが、これなら気にならないという方も多いでしょう。生野菜と合わせても良さそうですし、パンに塗ってもいい。料理にも使えそうです」
「おいちいでしゅ!」
ジャスティは頬を緩ませ、嬉しそうにもう一口食べる。
トレミーも目を細めながら味わっていた。「……美味しいです」
レオーネも頷いた。
「僕、チーズは少し匂いが苦手だったんです。でも、これは全然気になりません。それに、さっぱりしていて美味しいです!」
イスズは嬉しそうに笑った。
「それなら作った甲斐がありましたね」
レオーネは改めてチーズを見つめる。
「これが……あの牛乳からできたものなんですね」
「そうですよ」
「牛乳を酸で固めて、水分を抜いて、塩を加える。それだけで、こんなに違うものになるんだ……」
その言葉に、イスズは頷いた。
「そうですね。食べ物は、もともと持っている成分をどう変化させるかによって、姿も味も大きく変わります」
イスズはチーズを指先で示した。
「今回のチーズは、牛乳に酸を加えて固めました。先日作ったヨーグルトとは、ここが少し違います」
レオーネが顔を上げる。
「ヨーグルトとは違うんですか?」
「ええ。ヨーグルトは、乳酸菌という小さな生き物が牛乳の中で働いて、牛乳を発酵させることでできます。その結果、酸味が生まれて、牛乳も固まりやすくなります」
イスズは分かりやすい言葉を選びながら続けた。
「一方で、今日のチーズは、牛乳に酸を加えて、牛乳の中のたんぱく質を固めたものです。ヨーグルトのように乳酸菌の発酵を待つ必要はありません。ただ、固まったものから水分を抜き、塩をなじませるために、こちらにも時間が必要なんです」
レオーネはチーズとヨーグルトを見比べた。
「同じ牛乳なのに、作り方が違うと、こんなに違うものになるんですね」
イスズは笑った。
「そういうことです。そして、ここからさらに時間をかければ、また別の味になります。水分がもっと減れば硬くなりますし、熟成させることで香りや味が変わっていくチーズもあります」
「じゃあ、チーズって、時間そのものも材料みたいなものなんですね」
レオーネの言葉に、イスズは少し驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。
「素敵な考え方ですね。料理には、火や水だけでなく、時間を使って変化させるものもありますからね」
レオーネは、もう一度目の前のチーズを見つめた。
昨日まで牛乳だったものが、酸によって固まり、水分を抜かれ、少しずつ味を変えていく。
料理とは、ただ手を動かして作るだけではない。待つこともまた、料理なのだ。
そんなことを、レオーネは知った。




