第19話 牛乳の授業05
そして今日の授業も、厨房の隅から始まった。
ジャスティは侍女としっかり手を繋ぎながら、今日は何が始まるのかと楽しみにしている。赤みがかった琥珀色の瞳は、すでにきらきらと輝いていた。
少し離れたところでは、料理長のガーラが腕を組みながら待っている。昨日まではどこか警戒するようにイスズの授業を見ていた料理長だったが、今は明らかに違っていた。
イスズが今日は何を見せるのか、それを楽しみにしているようにも見える。
その後ろには、ガーラの部下である料理人たちの姿もあった。皆、手を動かしながらも気になって仕方がないのか、時折こちらへ視線を向けている。
「イスズ先生。今日もよろしくお願いします」
レオーネがいつものように挨拶をした。すると、その横でジャスティが慌てたように口を開く。
「よ、よろしくおねまいしましゅ!」
「ふふ。ジャスティ様も、今日もよろしくお願いしますね」
イスズはにっこりと笑い、レオーネへ挨拶を返した後、ジャスティにも優しく微笑みかけた。
レオーネの後ろには、侍女のトレミーと護衛のストリーガが控えている。
ただ、ソルテラがイスズの授業に参加していたのは、昨日の特別な見学だけだった。今日は再びいつもの授業へ戻っているため、家庭教師のビークロスとともに、この場にはいなかった。
その一方で、ジャスティは違った。
昨日の授業が終わったあとも、「明日もイスズ先生の授業を見たい」と泣いて訴え、なかなか諦めようとしなかったのである。結局、今日も侍女と手を繋いでいることを条件に、特別に授業の見学を許されていた。
「では、昨日の続きを見てみましょうか」
イスズがそう言うと、ガーラが待っていたように昨日の鍋を運んできた。昨日、イスズが仕込んだ牛乳である。
「うまくできていれば、少し酸味が出ていると思います」
その言葉に、ガーラが怪訝そうに眉を寄せた。
「……酸っぱいのですか? それは、腐っているのではありませんかな?」
イスズは笑って首を横に振った。
「昨日もお話ししましたが、腐っているのではなく、発酵しているんです。うまくいっていれば、昨日とは違うものになっているはずですよ」
そう言って、イスズは鍋の蓋へ手を伸ばした。
「では、開けてみましょう」
蓋がゆっくりと持ち上げられる。途端に、昨日までの牛乳とは違う香りが周囲に広がった。
イスズは鍋の中を覗き込みながら、小さく頷く。
「……少し酸味のある香りがしますね」
表面には、薄く透明がかった液体が浮いていた。
「上に少し浮いているのは、牛乳の成分が分かれて出てきた乳清です。そして、うまく発酵していれば、中の牛乳は固まっているはずです」
イスズはガーラから借りた匙を手に取ると、鍋の中へそっと差し入れた。そしてゆっくりとすくい上げる。
「うわっ……!」
真っ先に声を上げたのはレオーネだった。
匙の上には、昨日までのさらさらとした牛乳とはまったく違う、白く柔らかな塊が乗っている。
鍋の中を覗き込んだレオーネは、すぐに目を見開いた。
「昨日とは全然違います!」
昨日まで液体だった牛乳は、今では全体が白く、とろりとまとまっていた。イスズが鍋をそっと揺らしてみせると、中身もゆっくりと揺れる。
「ほら。ちゃんと固まっていますよ」
その様子を見ようと、ジャスティがぴょんぴょんと背伸びを始めた。
「ジャスティ様、危ないですよ」
侍女が慌てて声をかけると、もう一人のジャスティ付きの侍女が、すぐに彼女を抱き上げた。
「みえましゅ!」
抱き上げられたジャスティは、嬉しそうに鍋の中を覗き込む。そして、目を丸くした。
「ぷるんぷるんでしゅ!」
「そうですね」
イスズが楽しそうに笑う。
さらに近づくと、昨日までの牛乳とは違う、ほんのりと酸味を感じさせる香りがした。
「これは、牛乳の中で小さな生き物が働いたからです」
イスズは鍋の中を見ながら微笑んだ。
「昨日、牛乳に加えたヨーグルトの中には、牛乳を発酵させる小さな生き物がいました。その小さな生き物が働くことで、牛乳は少しずつ変わっていきます。そして、こうしてヨーグルトになるんですよ」
レオーネは真剣な顔で鍋を見つめていた。
「昨日の牛乳が……本当に別のものになったんですね」
「はい。でも、昨日の授業でもお話ししましたよね。何もないところから、突然、別のものが生まれたわけではありません。牛乳の中にあったものが、小さな生き物の働きによって変化したんです」
「発酵……」
レオーネは、その言葉を確かめるように呟いた。
「では、少し食べてみましょうか」
イスズは小皿を用意すると、ヨーグルトを少しずつ取り分けていく。
「もちろん、食べるかどうかは自由ですよ。少し酸っぱい味がしますからね」
ジャスティが首を傾げた。
「おいちいでしゅか?」
「そのままだと、少し酸っぱいと思います。でも、まずはヨーグルトそのものの味を確かめてみましょう」
イスズは自分の皿を手に取り、まず一口食べた。口の中で味を確かめると、満足そうに頷く。
「うん。うまくできていますね」
その様子を見て、レオーネも躊躇なく小皿を手に取った。
だが、匙を口へ運ぼうとしたところで、
「お待ちください!」
ストリーガが慌てて声を上げた。
「レオーネ様。それは腐っているのではありませんか!」
レオーネの手が止まる。
「ですが、イスズ先生は……」
「匂いも昨日とは変わっております。それに酸っぱいのでしょう? どう考えても、牛乳が傷んだ状態ではありませんか!」
ストリーガの言葉に、周囲の者たちも改めてヨーグルトを見つめた。確かに、昨日までの牛乳とはまったく違う。見た目も、香りも、味も変わっている。
その横で、ジャスティがじっと小皿を見ていた。
そして突然、侍女の腕の中から身を乗り出す。
「それ、くだしゃい!」
「えっ? ジャスティ様?」
侍女が止める間もなく、ジャスティは目の前に置かれていた自分の小皿へ手を伸ばし、匙を取った。そして、そのまま口へ運ぶ。
「ジャスティ様!」
思わず侍女が声を上げる。
ジャスティは口をもぐもぐと動かし、しばらく考えるような顔をしていたが、やがて首を傾げた。
「なんか、たべたことのある、あじでしゅ」
「……どうですか?」
イスズが尋ねる。
「すこし、しゅっぱいでしゅ。でも、へんじゃないでしゅ」
周囲が呆気に取られている中、ジャスティはもう一口食べた。
その言葉を聞いて、レオーネも意を決したように匙を口へ運ぶ。
「レオーネ様!」
ストリーガが再び声を上げた。しかし、レオーネはすでにヨーグルトを口に入れていた。
「……あ」
少しだけ驚いたように目を瞬かせ、ゆっくりと味を確かめる。
「本当だ。酸っぱいけど……優しい味ですね」
イスズはにこりと笑った。
「そうでしょう? これは、この帝国でどのくらい知られているかは分かりませんが、北の国ではごく普通に食べられているものですよ」
「北の国では……」
トレミーが興味深そうに呟く。
「ヨーグルトは、お腹の働きを手助けして、お通じをよくするとも言われています。それに、お腹の調子が整うことは、体全体の調子にも関わります。肌荒れや吹き出物などにも、良い影響があると言われていますよ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
「肌荒れに……?」
「吹き出物にも、ですか?」
トレミーとジャスティ付きの侍女の目が、同時に変わった。
イスズは思わず笑う。
「必ず治るという意味ではありませんよ。ただ、お腹の調子を整えることは、体にとって悪いことではありません」
それでも、二人の興味はすでに十分だった。
トレミーがそっと小皿を手に取り、もう一人の侍女も恐る恐る匙を口へ運ぶ。
二人は酸味に少し驚きながらも、思ったほど食べにくいものではないと分かったのか、もう一口食べた。未知の食べ物への不安よりも、美容への期待の方が勝ったらしい。
その様子を見ていたガーラも、ついに小皿へ手を伸ばした。
「では、私も……」
慎重に皿を持ち上げ、まずしげしげと見つめる。次に鼻を近づけ、香りを確かめた。
そして、意を決したように一口。
「ふむ……」
ガーラはしばらく口の中で味を確かめていた。
「確かに酸っぱい。しかし……食べられないものではありませんな」
さらにもう一口食べる。
「むしろ、この酸味なら料理にも使えそうです。肉料理の隠し味にしたり、何かの味を整えたりするのも面白いかもしれません」
料理長らしい感想に、イスズは嬉しそうに笑った。
「そうですね。料理にも使えますよ」
そしてイスズは、いつものリュックを手元へ引き寄せた。
中から取り出したのは、小さな瓶が二つ。一つには透明で黄金色の液体が入っており、もう一つには紫色のどろりとしたものが入っている。
「でも、せっかくですから、もう少し食べやすくしてみましょうか」
イスズは再びヨーグルトを小皿へ取り分けると、黄金色の液体を少しずつ垂らした。
「こちらは蜂蜜です」
続いて、紫色のものも少し加える。
「そしてこちらは、ブルーベリーを甘く煮たものです」
「ブルーベリー……?」
ガーラが首を傾げる。
「果実を甘く煮て、少し煮詰めたものですよ」
イスズは匙でゆっくりと混ぜた。白いヨーグルトの中に、紫色がゆっくりと広がっていく。
「今度は、混ぜてから食べてみてください」
すると今度は、なぜか真っ先にガーラが皿を手に取った。先ほどの酸っぱいヨーグルトを食べたことで、興味が抑えきれなくなったらしい。
料理長は皿を手に取り、しげしげと眺めてから香りを確かめる。そして、一口食べた。
「……!」
ガーラの目が大きく見開かれた。次の瞬間、厨房に大きな声が響く。
「美味しい!」
周囲の者たちが驚いて振り返る。ガーラはもう一口食べると、興奮したようにイスズを見た。
「これは……なんと素晴らしい味だ!」
その言葉を聞いた途端、レオーネとジャスティの視線が一斉に小皿へ向いた。トレミーとジャスティ付きの侍女も、すかさず皿を手に取る。
「わたしも!」
「ジャスティ様、慌てなくてもありますよ」
イスズが笑う中、皆が次々に口へ運んだ。
真っ先に声を上げたのはジャスティだった。
「はちみちゅ! 甘くておいちいでしゅ!」
レオーネも目を丸くする。
「さっきとは全然違います!」
「ブルーベリーの味が良いアクセントに……!」
トレミーも思わず声を漏らした。
「美味しいです……!」
ジャスティ付きの侍女も、嬉しそうにもう一口食べる。
「もっと食べたいでしゅ!」
ジャスティがすぐにイスズを見上げた。
「ふふ。あとで少しだけですよ」
イスズが笑う。その横では、ガーラがすでに興奮を隠せなくなっていた。
「イスズ殿! これはもう、立派なデザートですぞ!」
料理長は小皿を持ったまま、勢いよく声を上げる。
イスズが笑顔で振り返る。
「そうですか?」
「そうですとも!」
ガーラは力強く頷いた。
「牛乳がヨーグルトになり、そこに蜂蜜の甘さが加わる。そしてブルーベリーの味と香り……さらに、あの酸味が全体をまとめている!」
料理人として、完全に火がついてしまったらしい。
「優しい甘さの中に、ほんのりとした酸味がある。これは素晴らしい!」
ガーラは感心したように何度も頷いた。
「私は、このようなものを初めて食べましたぞ!」
ジャスティが元気よく手を上げる。
「わたしも! もうすこしたべたいでしゅ!」
「ジャスティ様は、さっきからそればかりですね」
トレミーが思わず笑う。
厨房の隅には、いつの間にか笑い声が広がっていた。レオーネも笑い、侍女たちも嬉しそうに皿を見つめている。料理長のガーラは、すでに頭の中で料理への使い道を考え始めているようだった。
だが、その輪の外で、ただ一人だけ。
ストリーガだけは、渋い顔をしたままだった。
酸っぱい牛乳。目には見えない小さな生き物。そして、それを子供たちは嬉しそうに食べている。
護衛であるストリーガには、まだその光景を素直に受け入れることができなかった。
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