第26話 人間の体について01
今日は、体についての授業だった。
いつものように、レオーネ、トレミー、ストリーガの三人が揃ったところで、イスズが授業を始める前に静かに口を開いた。
いつもとは違う真剣な声だった。
「今からの授業は、他言無用です。もしも、それを守れない方がいるのでしたら、今のうちに外へ出てください」
レオーネも、トレミーも、ストリーガも困惑した顔を見合わせる。
いったい、これから何を教えるつもりなのか。三人とも動かないのを確認すると、イスズは念を押すように続けた。
「三人とも外へ出ないということは、これからお話しすることを誰にも話してはいけない。それに同意したと考えてよろしいのですね?」
レオーネたちは顔を見合わせたあと、それぞれ頷いた。
イスズも頷き返す。
「ありがとうございます。それでは、始めましょう」
そう言って、イスズはいつものように授業を始めた。そして、最初の質問は唐突だった。
「レオーネ様。人の体は、何でできていると思いますか?」
突然の質問に、レオーネは少し考え込んだ。やがて、思いついたものを順番に口にする。
「えっと……骨と、肉と、血?」
イスズは、ふふふ、と笑った。
「確かに、それも正解です」
そう言ってから、少し楽しそうに続ける。
「私の知っている本には、女の子は『お砂糖とスパイスと、すてきな何か』でできていて、男の子は『カエルとカタツムリと子犬のしっぽ』でできている、と書かれているものもありました」
「……え?」
レオーネの顔が引きつった。トレミーも目を瞬かせ、ストリーガまで怪訝な顔をする。
そんな三人を見て、イスズはくすりと笑った。
「うふふ。それは絵本でのお話です」
「……冗談だったのですか」
レオーネは、ようやくイスズにからかわれたのだと気づいたらしい。
「はい。ですが、今からお話しすることは冗談ではありません」
イスズは表情を改めた。
「人間の体は、大人であれば半分以上が水分でできています」
レオーネが驚いたように聞き返す。
「はい。人間の体は、骨や筋肉、血液、内臓などからできていますが、その中には非常に多くの水分が含まれているのです」
イスズは卓上の水差しに目を向けた。
「血液も、その大部分は水です。大人の体には、およそ五リットル前後の血液が流れていると考えてください」
「五リットル……」
レオーネが呟く。イスズは、そばに置かれていたコップを手に取った。
「このコップが一杯で二百ミリリットルほどですから……大人の体には、このコップ二十五杯分くらいの血液が流れていることになります」
「二十五杯も……?」レオーネが目を丸くする。
「はい。そして、一度に大量の血を失えば、命に関わります。たとえば、このコップ五杯分――つまり一リットルほどの血を失えば、すでに危険な状態になることがあります」
イスズはコップを五つ並べるように指で示した。
「これだけです」
「……たった、これだけ?」
レオーネの顔から驚きが消えない。
「はい。もちろん体格によって違いますし、出血の量だけで決まるわけでもありません。ですが、人間の体にとって血液がどれほど大切なものなのかは、覚えておいてください」
レオーネは、目の前のコップをじっと見つめた。
普段なら何気なく飲んでいる一杯の水。それと同じ大きさのコップ五杯分。
それほどの血を失うだけで、人は命の危険にさらされるのだ。
「……人間の体って、思っていたよりずっと少ないんですね」
「そうですね」
イスズは優しく微笑んだ。
「だからこそ、怪我をしたときに血を止めることが大切なのですよ」
後ろに控えていたトレミーも、思わず息を呑んだ。
ストリーガも黙ってイスズを見ている。彼も初めて聞く話だった。
この世界では、怪我や病気を治すとき、まず魔法やポーションが頼られる。傷口に回復魔法を施せば肉は塞がり、薬を飲めば熱が下がる。
魔法があまりにも便利だからこそ、誰もが「どうやって治ったのか」より、「どうすれば治せるのか」を重視してきた。
そのため、人体そのものの仕組みを細かく調べる学問は、イスズが知る限り、十分に発達していなかった。
そして、イスズはさらに話を続けた。
「人間の体は、先日も少し説明した目には見えないほど小さな『細胞』というものが集まってできています」
「細胞……」レオーネが呟く。
「そして、人間一人の体には、それが数十兆もあると言われています。およそ三十七兆個ほどです」
「三十七……兆?」レオーネは完全に言葉を失った。
「帝国の人口が仮に百万人だとしましょう。それと同じ人数の国を、三千七百万集めたくらいの数です。それほど途方もない数の細胞が、たった一人の人間の体の中に詰まっているのですよ」
レオーネの目が完全に遠くなる。さすがに想像できなかったらしい。
そのときだった。突然、ストリーガが声を上げた。
レオーネがびくりと肩を震わせる。
「イスズ殿! 待て! そのような嘘を、レオーネ様に教えるなど不敬ではないか!」
ストリーガはイスズを睨んだ。
「私は帝国学院を卒業している。騎士として必要な、人間の体についての知識も学んだのだ。しかし、そんな話は一度も聞いたことがない! 人間の体の半分以上が水だと? 目に見えない細胞が三十七兆もあるだと? そんなこと、俺は今まで一度も聞いたことがないぞ!」
イスズは、しばらくストリーガを見つめていた。
そして、やがて穏やかに微笑む。
「なるほど。帝国学院で学ばれたストリーガ様であれば、そう思われるのも無理はありません」
「ならば――」
イスズは、静かに言葉を重ねた。「ですが、誇り高き騎士であるあなたに、一つお伺いしたいのです」
ストリーガが眉を寄せる。
「あなたが戦場で傷ついたとき、あるいは病に倒れたとき。傷を癒やし、命を繋いできたのは何でしょうか?」
「それは……」
「回復魔法や、ポーションでしょうか?」
「……そうだ」
「そうです。この世界では、それで多くの命が救われてきました」
イスズは穏やかな口調のまま続ける。
「ですが、考えてみてください。傷口に手をかざせば肉が塞がる。薬を飲めば熱が下がる。そういう魔法や薬が当たり前に存在する世界で、わざわざ『なぜ肉が塞がるのか』『なぜ熱が下がるのか』を、一から調べようとする人がどれほどいるでしょうか」
ストリーガは答えなかった。
「必要がなければ、学問はなかなか進まないのです」
イスズはそう言って、少しだけ笑った。
「ストリーガ様が帝国学院で学ばれたことが間違っているのではありません。帝国学院では、必要とされている知識を教えているのでしょう。けれど、そこに載っていないからといって、それが存在しない証明にはならないのです。この世界では、魔法があまりにも便利だった。そのため、人々は『治す方法』を知ろうとしても、『人間の体そのものがどうなっているのか』までは、深く調べる必要がなかったのでしょうね」
イスズはレオーネへ視線を向けた。
「だから私は、魔法が発動するよりずっと手前にある、人間の体そのものの仕組みを教えているのです」
そして、今度はストリーガへ目を向けた。
「一つ、お聞きします。傷ついた者が回復魔法で傷口を塞いだにもかかわらず、そのまま亡くなってしまったところを見たことはありませんか?」
ストリーガの表情がわずかに強張った。
「傷そのものを塞ぐことと、失った血液を元に戻すことは、同じではないのですよ。傷口は閉じた。けれど、その人がすでに大量の血を失っていたのなら、体の中を流れる血液そのものが不足している。そうなれば、たとえ傷が塞がっていても、命が危険になることがあります」
「……」
ストリーガは答えなかった。騎士となった以上、戦場に立った経験がない者は少ない。
当然、ストリーガも幾度となく戦場へ赴いている。
そして、思い出した。傷口は確かに回復魔法で塞がった。
それなのに、兵士の顔から血の気が引き、身体が冷たくなっていったことがある。当時は、なぜ傷が塞がったのに助からなかったのか、その理由が分からなかった。
だが――。
「……あれは、傷が治らなかったのではなく……血を失いすぎていた、ということなのか」
ストリーガが、ぽつりと呟く。
イスズは静かに頷いた。
ストリーガは、これまで知らなかった「血を失う」という意味を、初めて理解した。




