第1話 家庭教師の面接
バルカン帝国でも名高い名門伯爵家――インプレッサ伯爵家。
その広大な屋敷の一室には、普段なら顔を合わせることもないような者たちが集まっていた。今回行われているのは、伯爵家長男の家庭教師を選ぶための選定試験である。
帝国の貴族家にとって、子どもの教育は一族の未来を左右する重要なものだった。
文字や計算だけではない。歴史、政治、社交、魔法、剣術、さらには騎士としての心得まで、将来家を背負う者に必要となる知識と教養を身につけさせなければならない。
そのため今回の募集にも、帝国学院を優秀な成績で卒業した者や、高位貴族家で教育係を務めた経験を持つ者など、名のある人材が集まっていた。
そんな候補者たちの中で、ひときわ質素な身なりをした女性がいた。
年齢は二十二歳。イスズ・エルミオ。
爵位だけを見れば、彼女も貴族令嬢の一人である。しかし、身につけているものは、他の候補者たちとは比べものにならないほど質素だった。
それでも汚れはなく、今日という日に相応しい姿に、きちんと整えられていた。
胸元を飾るのも金や銀ではない。磨いた木を花の形に削った小さなブローチであり、髪をまとめているのも銀細工ではなく、竹を細く削って編み込んだ手製の髪留めだった。
エルミオ家は、帝国の辺境に小さな領地を持つ騎士爵家である。
領民は千人にも満たず、帝都の貴族社会では、その家名を知る者のほうが少ない。大きな領地もなければ、多くの使用人を抱える財力もない。貴族とは名ばかりで、暮らしぶりだけを見れば平民と大差のない家だった。
そんな家の令嬢が、帝国でも有数の名門伯爵家の家庭教師試験を受けに来ている。
周囲が疑問に思うのも無理はなかった。
イスズが試験会場を見回していると、その中でもひときわ目を引く女性に気づいた。
その女性の傍らには、身の回りの世話をする侍女まで付き従っていた。着ているドレスも候補者たちの中でひときわ華やかで、仕立ての良さも一目で分かる。
隣にいた候補者が、その姿をちらりと見ながら小声で囁いた。
「……あの方は、ベレル伯爵家のフローリアン様ではありませんこと?」
「まあ。では、どうしてあのような有名な方がここへ?」
「さあ……。まさか、ご自身が家庭教師をされるおつもりなのかしら」
そんな会話を、イスズも聞いていた。
一方、別の候補者たちの視線が、今度はイスズへ向いた。
「……あの方は?」
隣にいた女性が、小さな声で答える。
「エルミオ家の令嬢だそうですわ」
「エルミオ……聞いたことがありませんね」
「辺境の騎士爵家です。かなり小さな家だったはずですよ」
「では、なぜここに?」
ひそひそと交わされる声に、イスズは特に反応しなかった。
こうした視線を向けられることには、幼い頃から慣れている。自分の家が裕福ではないことも、帝都の貴族社会で名の知られた家ではないことも、イスズ自身が一番よく分かっていた。
そして、そんな視線は身なりだけに向けられているわけではなかった。
「あら……」
ふと、別の女性がイスズの顔を見て、小さく声を漏らした。
「どうかしましたの?」
「いえ……あの方の瞳って、随分と濃い灰色ですわね」
「灰色?」
言われて、何人かの候補者がイスズへ目を向ける。イスズの瞳は、一見すれば黒にも見えるほど濃い灰色をしていた。
この世界では、魔力の性質は瞳の色に現れると考えられている。灰色は生活魔法の適性を持つ者に多く見られる色だった。
「……生活魔法、なのかしら」
「ええ。あの色なら、たぶん」
小さな囁きが交わされる。
生活魔法は、庶民の間では決して珍しいものではない。
しかし、貴族社会では事情が違った。より強い魔法属性を持つことこそが才能の証であり、その力は一族の血筋や家の誇りを示すものと考えられている。そのため、灰色の瞳は貴族の間では好まれなかった。
「貴族の令嬢なのに……」
そんな声が、イスズの耳に届く。イスズは聞こえないふりをした。
生活魔法。
その言葉が貴族社会でどのような意味を持つのかは、幼い頃から知っている。けれど、今のイスズにとって重要なのは、周囲からどう見られるかではない。
自分の力で仕事を得ること。そのために、ここへ来たのだ。
しばらくして、試験官が候補者たちへ向かって告げた。
「では、魔法属性の確認を行います」
候補者たちが一人ずつ前へ呼ばれ、魔法属性が告げられていく。
「火属性です」
「水属性です」
「土属性になります」
「火と風、二つの属性を持っています」
優れた属性を持つ者が現れるたび、周囲から感心する声が漏れた。
そして、イスズの番が来る。
「次の方。イスズ・エルミオ殿ですね。魔法属性を教えてください」
「はい」イスズは静かに前へ進み出た。
自分の属性なら、九歳のときに受けた鑑定の儀ですでに知っている。だから、隠すことなく答えた。
「生活魔法です」
一瞬、部屋が静まり返った。次いで、後方から小さな笑い声が聞こえてくる。
「やっぱり生活魔法ですって」「伯爵家のご子息の家庭教師試験で?」「それだけしかないのかしら」
試験官もわずかに戸惑った様子を見せた。
「生活魔法……ですか……。失礼ながら、それのみで今回の家庭教師を?」
「はい。魔法の価値は、属性だけで決まるものではないと思っております」
イスズは落ち着いた声で答えた。
また、どこかで小さな笑い声が起こった。けれど、イスズは俯かなかった。
生活魔法しか持たない。
それが自分にとって変えようのない事実であることは分かっている。だからこそ、今さら恥じるつもりもなかった。
それから数日後。
インプレッサ伯爵家の応接室に集められた候補者たちへ、最終面談へ進む者の名前が告げられた。
「イスズ・エルミオ殿」
その名前が読み上げられた瞬間、室内に小さなどよめきが広がった。
「彼女が?」「まさか……」「生活魔法の……?」
誰もが意外そうな顔をしている。しかし、イスズ自身は静かに一礼した。
「ありがとうございます」
その時だった。
先日会場で噂されていた女性――ベレル伯爵家のフローリアンが、まっすぐイスズのもとへ歩み寄ってきた。
華やかなドレスの裾を揺らしながら近づいてくる姿に、周囲の候補者たちも自然と口を閉ざす。
そして、イスズの前で立ち止まると、フローリアンは周囲にも聞こえる声で言い放った。
「生活魔法しか使えない、学院にも通っていない貧乏騎士爵家の行き遅れ令嬢に、伯爵家の長男の家庭教師が務まるとでも?」
イスズは目を瞬いた。あまりにも唐突な言葉だった。
「明らかにおかしいわ。今回の試験が、何のために行われているのか分かっているのかしら?」
フローリアンはそう言い残すと、イスズの返事を待つこともなく踵を返した。
残されたイスズは、ただ呆然とその背中を見送る。室内には気まずい沈黙が落ちた。
誰もがフローリアンの言葉に驚きながらも、同時にイスズがなぜ最終候補に残ったのかという疑問を抱いているようだった。
しばらくして、ようやく部屋の空気が落ち着きを取り戻す。
その様子を見ていた試験官の一人が、イスズへ声を掛けた。
「エルミオ殿。あなたを最終候補に選んだ理由を、ここでお伝えしておきましょう」
「はい」
イスズが向き直ると、試験官は手元の答案へ視線を落とした。
「あなたは帝国学院を卒業されたわけでもなく、高位貴族家で教育を担当した経験もありません。それでも、今回の筆記試験では他の候補者を大きく上回りました」
試験官が答案を一枚めくる。
「特に魔法理論については、既存の知識をただ記憶しているだけでは出てこない考え方が多く見られました。内容にも筋が通っていた。あなたは、どこでこれほどの知識を?」
イスズは少しだけ考えた。そして、静かに答える。
「学ぶ機会があっただけです」それ以上は語らなかった。
自分がどれほどのことを知っているのか。そして、その知識をどこから得たのか。すべてを説明することはできない。
ただ、学ぶことだけは、昔から好きだった。本を読み、考え、分からなかったことを調べる。それを繰り返してきただけだ。
「なるほど……」試験官はそれ以上追及しなかった。
「では、最後の面談へ進んでいただきます」
「はい」
イスズは静かに頭を下げた。
その胸元では、木のブローチがかすかに揺れていた。
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