第○話 求婚
ここは、バルカン帝国。
帝都の華やかな貴族街から遠く離れ、貧民街にもほど近い一角に、その小さな建物はあった。
石畳はところどころ崩れ、細い路地には古びた家々が肩を寄せ合うように並んでいる。
建物の壁には幾筋ものひびが走り、木枠の窓には何度も修繕された跡が残っていた。屋根も新しい板と古い板が入り混じり、雨漏りを防ぐための継ぎ当てまで見える。
周囲にある家々と比べても、とりわけ古びた建物だった。それでも入口だけは不思議なほどきれいに掃除されており、扉の脇には小さな木製の看板が掛けられている。
『ひだまりの学び舎』
少し歪んではいるものの、一文字一文字、丁寧に書かれた文字だった。学び舎の中からは、今日も子どもたちの元気な声が響いている。
「先生、これ分かりません!」
「ここは昨日やったところですよ」
「ええっ、もう忘れたの?」「だって難しいんだもん!」
「もう一度、一緒にやってみましょうね?」
笑い声の混じる賑やかな空気が、学び舎いっぱいに広がっていた。ここは、誰でも無料で通える小さな学び舎だった。
貧しい家に生まれた子どもたちにも学ぶ機会を与えたい――そんな一人の女性の思いから始まり、細々と続けられている場所である。
その教壇に立つ女性が、子どもの答えを覗き込んで微笑んだ。
彼女は二十七歳。茶色の髪と濃灰の瞳を持ち、顔立ちは整っているものの、目を引くほど華やかな美人というわけではない。どちらかといえば地味な印象で、背丈もごく普通、体つきは少し細かった。
貴族令嬢らしく肌は白いものの、日焼けを気にして暮らしているわけではない。その頬には、頬には薄い雀斑が残っていた。
そして、よく見れば、眉間には薄い火傷のような跡がある。普段は髪や表情に紛れて気づかないほどの、小さな傷だった。
身につけているのも、何度も仕立て直された質素な服である。胸元を飾っているのは宝石ではなく、磨いた木を花の形に削った小さなブローチだった。花びらは少し歪み、ところどころに不器用な削り跡が残っている。
髪をまとめているのも銀細工ではない。竹を細く削って編み込んだ、手製の髪留めだった。
その姿だけを見れば、貴族令嬢だとは思われないかもしれない。それでも、子どもたちに向ける笑顔は明るかった。
彼女の名は、イスズ・エルミオ。
帝国の辺境に小さな領地を持つ、貧しい騎士爵家の令嬢だった。
エルミオ領の領民は千人にも満たない。帝都の貴族社会では、エルミオ家の名を知る者のほうが少ないほどの家だった。
そんなイスズが、なぜ帝都の片隅で子どもたちのための学び舎を開いているのか。
その理由を知る者は、ほとんどいなかった。
「先生!」
突然、窓際にいた子どもが大声を上げた。
「ん?」「外!」「先生、外!」
何事かとイスズが振り返ると、子どもたちが一斉に窓へ駆け寄っている。
「どうしたんですか?」
「馬車!」「すごい馬車が来た!」「うちの前に止まった!」「どこのお貴族様だろう!」
子どもたちに促され、イスズも窓へ近づいた。
そして、思わず目を見開いた。学び舎の前を通る細い道に、明らかに場違いなほど豪華な馬車が停まっていた。
黒塗りの車体。磨き上げられた金具。そして、扉に刻まれた家紋。
イスズには、その家紋に見覚えがあった。インプレッサ伯爵家。帝都でも名高い名門貴族の家紋だった。
「な、なんで……?」
思わず呟いたイスズの横で、子どもたちはますます興奮する。
「先生、誰が来たの? お貴族様? ねぇ、先生も来て!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
子どもたちに手を引かれ、イスズも慌てて外へ出た。
やがて、馬車の扉がゆっくりと開く。最初に降りてきたのは、仕立ての良い服を着た従者だった。
続いて、一人の青年が馬車から姿を現した。
帝国学院の制服に身を包み、背筋はすっと伸びている。立ち姿には自然と身についた気品があり、片手には一枚の卒業証書が握られていた。
青年はそのままイスズへ視線を向けた。
イスズも、その顔をじっと見つめる。面影はある。けれど、記憶の中にいる少年とは、あまりにも雰囲気が違っていた。
そのとき、レオーネの視線がふとイスズの眉間へ向けられた。
髪に隠れるように残った、小さな傷。それを見た瞬間、レオーネの表情がわずかに曇った。
その傷を見つめる瞳には、どこか苦いものが浮かんでいた。
「……」
レオーネは何も言わず、そっと視線を逸らす。
イスズはそんな彼の様子に気づくことなく、ただ目の前に立つ青年を見つめていた。
十二歳だった頃とは比べものにならないほど大人びている。それでも、その目元を見た瞬間、イスズの記憶の中に、かつての姿が鮮明に蘇った。
算数の問題を前にして、難しい顔をしていた。分からないことがあれば、何度でも「どうしてですか?」と尋ねてきた少年。
「……レオーネ様?」
青年の表情がふっと緩んだ。そこには、懐かしさと嬉しさが浮かんでいた。
「お久しぶりです」
その声を聞いた瞬間、イスズの中に、三年前の記憶が鮮明に蘇った。
家庭教師として過ごした二年間。算数を教え、文字を教え、ときには魔法について話したこともあった。
庭で一緒に遊んだこともあれば、机の上に木の棒を並べながら、二人で算数の問題を解いたこともある。
そして、十二歳になったレオーネが帝国学院へ進む日。
『先生、また会えますか?』
別れ際に、あの少年が口にした言葉まで鮮明に蘇ってきた。
――あれから、三年。
目の前にいるのは、もうあの日の少年ではない。帝国学院を卒業した十五歳の青年が、そこに立っていた。
レオーネはイスズを見つめたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。やがて目の前まで来ると静かにその場へ跪き、周囲からは驚きと戸惑いのざわめきが広がった。
子どもたちも従者たちも、何が始まるのか分からないまま二人を見つめている。
レオーネは手にしていた卒業証書へ一度視線を落とすと、それを脇へ置き、イスズの手をそっと取った。
「レオーネ様……?」
イスズの声が震えた。
レオーネはイスズの手を両手で包み込み、まっすぐに彼女を見上げる。
その瞳には、十五歳の青年としての決意が浮かんでいる。
「ようやく、探し出せました。会いたかった……」
「探し出した……?」
イスズには、まだ何が起きているのか分からなかった。卒業したばかりのレオーネが、なぜ自分の前で跪いているのか。その意味を、どうしても理解できない。
レオーネは一度だけ深く息を吸った。
「イスズ先生」
そこで、ほんの少しだけ言葉に迷う。だが、すぐに顔を上げた。
「……いや、イスズ殿」
呼び方を改めた声には、以前にはなかった落ち着きがあった。
「僕――いや……私と…」
イスズの心臓が、大きく跳ねた。
「結婚してください」
時間が止まったようだった。イスズは目の前に跪くレオーネを見つめたまま言葉を失い、握られた手の感触だけが妙にはっきりと伝わってくる。あまりにも突然の言葉に、頭の中は真っ白だった。
周囲の子どもたちも、何が起きたのか理解できずに固まっている。やがて、一人の子どもが小さな声で呟いた。
「先生……結婚って……何?」
その声を聞いても、イスズはすぐには反応できなかった。目の前にいる青年を見つめるうちに、三年前の姿が記憶の中からゆっくりと浮かび上がってくる。
立派になった。本当に、大きくなった。
それでも、その瞳だけは、あの日、算数の問題を前にして一生懸命に答えを探していた少年と、少しも変わっていなかった。
「……なぜ、こんなことになったんですか?」
ようやく絞り出した言葉に、レオーネはどこか懐かしそうに微笑んだ。
「それを、これからお話しします」
イスズは目の前にいる青年を見つめたあと、ふと胸元へ視線を落とした。そこには、肌身離さず身につけている木製のブローチがある。
指先でそっと撫でると、早春の風が二人の間を静かに吹き抜けていった。
どうして、こんなことになったのだろう。
その答えは、五年前へと遡る。
イスズが初めて、インプレッサ伯爵家を訪れた――あの日へ。
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