第16話 牛乳の授業02
そして、イスズは三人の様子を見回すと、次の作業へ移った。
「では、次は簡単なバターを作ってみましょうね」
「バターを?」
思わず声を上げたのは、料理長のガーラだった。
バターは牛乳から作られること自体は知られている。だが、実際にそれを作るとなれば話は別だ。乳製品の加工には経験が必要であり、バターを扱う職人や工房では、それぞれに作り方を工夫している。
イスズはそんなガーラの反応を気にすることなく、声をかけた。
「料理長さん。小さな蓋付きの瓶を四つ、お借りできますか? あと、昼食に出すパンも少し分けてください」
「瓶とパンですか?」
ガーラは首を傾げながらも、イスズの求めるものを用意した。
厨房の者に小さな蓋付きの陶器瓶を四つ持ってこさせると、先ほど牛乳の表面に浮かんでいたクリームを、それぞれの瓶へ少しずつ分ける。
「みなさん、この瓶を振ってみましょう」
そう言って、瓶の蓋をしっかり閉める。
「振るんですか?」レオーネが尋ねる。
「そうです。できるだけしっかりと。瓶を落とさないように気をつけてくださいね」
イスズは一本を手に取り、実際にやってみせる。
「こうやって」シャカシャカ、シャカシャカ……両手で瓶を握り、一定の調子で振り始める。
「なるほど……こうですか?」レオーネも瓶を受け取り、真似をする。
「そうそう。その調子です」
ソルテラも両手で瓶を抱え、懸命に振り始めた。
「こうですか、先生?」
「ええ。焦らなくて大丈夫ですよ」
そして、ジャスティには侍女のトレミーが付き添う。
「ジャスティ様はトレミーさんと一緒に持ちましょう。二人で振れば大丈夫ですからね」
「はい!」ジャスティは嬉しそうに瓶を両手で抱え、トレミーと一緒に振り始めた。
「しゃかしゃか! しゃかしゃか!」
小さな瓶を振る音が、厨房の隅に次々と響き始める。
最初のうちは、全員が面白がっていた。だが、同じ動作を続けていると、次第に腕が疲れてくる。
しばらくして、レオーネが瓶を振りながら小さく息を吐いた。
「先生……これ、結構疲れますね」
イスズは笑った。
「そうでしょう? でも、もう少しだけ頑張ってみましょうね?」
レオーネは一息吐いて、再び瓶を振り始めた。
その隣では、ソルテラも黙々と腕を動かしている。
一方、ジャスティはというと、顔を真っ赤にしながらも、まだまだ元気だった。
「わたしは、まだがんばりましゅ!」
「はい、頑張りましょうね」
トレミーが微笑みながら、ジャスティと一緒に瓶を振る。
「しゃかしゃか! しゃかしゃか!」
小さな腕では思うように力が入らないため、実際にはトレミーの方が大きく動かしている。それでもジャスティは、自分も頑張っているつもりなのか、一生懸命に瓶を振り続けていた。
その様子を眺めていたビークロスが、ふと料理長へ顔を向ける。
「ところで、ガーラ殿、バターというものは、こうして作れるのですか? 私はてっきり、専門の工房で作られるものだと……」
ガーラは少し考えてから頷いた。
「一般的には、あまり知られておりませんな。私も、作り方については何となく聞いたことがございます。しかし、我々の厨房ではバターを作ることはありません。必要な時に買うものだと思っておりました」
「なるほど……」ビークロスは、改めてイスズへ視線を向けた。
子供たちに料理をさせているだけでも驚きなのに、今度は乳製品の作り方まで教えている。
しかも、イスズはまるで特別なことではないかのように授業を進めている。
「……本当に、変わった授業ですな」ビークロスが呟いた。
そんな声をよそに、イスズはしばらくしてから、それぞれの瓶を一つずつ手に取った。
「少し見てみましょうか」
「もうできたんですか?」
レオーネが期待を込めて尋ねる。
「まだですよ。でも、途中でどう変わっているのかを見るのも大切です」
イスズは瓶を光の当たる方へ持ち上げ、蓋がしっかり閉まっていることを確認した。
「では、みなさん。中を見てください」
三人が瓶へ顔を近づける。
「何か変わっていますか?」
レオーネは瓶を覗き込み、目を細めた。ソルテラも首を傾げながら、じっと中を見つめている。
そして、ジャスティが突然、声を上げた。
「なんか、しろいのが、つぶつぶにかたまってましゅ!」
「本当だ!」レオーネも驚いたように声を上げた。
ソルテラも瓶を覗き込み、目を輝かせる。
「本当だ……! さっきとは違います!」
イスズは嬉しそうに頷いた。
「そうですね。では、どうしてこんなふうに変わったのでしょう?」
三人は、瓶の中にできた白い塊を見つめた。さっきまで液体だったものが、少しずつ別の姿へ変わっている。
その変化を、三人は食い入るように観察していた。
レオーネは瓶の中を覗き込みながら考えた。
「……振ったから、ですか?」
「そうです。でも、ただ振っただけではありません」
イスズは瓶を指差した。
「牛乳の上に集まった部分には、牛乳よりもたくさんの脂肪が含まれているんです。牛乳の中の脂肪は、とても小さな粒になって水の中に散らばっています。最初は、それぞれの粒が薄い膜に包まれているので、ばらばらのままでいられるんです」
「膜……?」
ソルテラが首を傾げる。
「そう。ところが、こうして何度も強く振ると、その小さな粒同士が何度もぶつかります。すると、脂肪の粒を包んでいた膜が壊れて、脂肪同士がくっつき始めるんです」
イスズは瓶を軽く持ち上げた。
「そうして、小さな脂肪の粒がだんだん大きく集まって、目に見える塊になった。それが、今見えている白い塊です。もう少し振れば、脂肪がさらに集まってバターになっていきますよ」
「じゃあ……振ることで、ばらばらだったものが集まったんですか?」
「その通りです」
イスズは嬉しそうに頷いた。
「これも、牛乳の中にいろいろな成分が入っているからこそ起こる変化なんですよ」
するとジャスティが瓶の中をじっと覗き込んでいたが、やがて顔を上げた。
「ばたーって、うしさんのおちちの、あぶらなにょ?」
その言葉に、イスズはにっこりと笑った。
「そうですよ。よく分かりましたね、ジャスティ様」
そう言って、イスズはジャスティの頭を優しく撫でる。
「えへへ……ぎゅうぎゅうのあぶらが、ばたーになったんでしゅね!」
ジャスティは嬉しそうに笑うと、もう一度瓶の中を覗き込んだ。
「その通りです。牛乳の中にあった脂肪が集まって、バターになったんですよ」
「すごいでしゅ!」ジャスティが目を輝かせる。
その様子を見ていたレオーネも、改めて瓶の中を覗き込んだ。
「牛乳の中に、最初からバターになるものが入っていたんですね……」
「そういうことです」
イスズは頷いた。
「見た目が変わったからといって、まったく新しいものが何もないところから生まれたわけではありません。もともとあったものが集まったり、形を変えたりすることで、別の姿になることもあるんですよ」
ソルテラは興味深そうに瓶を見つめた。
「では、牛乳の中には、まだほかにもいろいろなものが入っているのですか?」
イスズは楽しそうに頷いた。
「ええ。だからこそ、次の実験が面白いんですよ」
その言葉に、三人の視線が一斉にイスズへ集まった。
「では、これを食べてみましょうね」
イスズがそう言うと、料理長のガーラに頼んで、昼食用のパンを小さく切り分けてもらった。
それぞれの前にパンが置かれ、先ほど自分たちで作ったバターを、思い思いに塗っていく。
最初に口へ運んだのはジャスティだった。
「こにょばたー、おいちいです!」
赤みがかった琥珀色の瞳を輝かせ、嬉しそうに頬張る。
「本当だ。おいしい!」レオーネも一口食べると、素直に声を上げた。
ソルテラは口の中で味を確かめるようにゆっくり噛み、やがて感心したように呟く。
「……乳の味が、ちゃんと残っているんですね」
「うん。それなのに、なんだか優しい味がする」
レオーネも頷いた。
その横では、トレミーも誰にも気づかれないように小さくパンを口へ運んでいた。
トレミーの表情が、思わず緩んだ。ほんのりとした乳の甘さと、なめらかな脂の風味が広がる。
「おいしい……」
小さな呟きに気づいたイスズが、ちらりとトレミーを見る。
そして、何も言わずに、にこっと微笑んだ。トレミーは少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
その一方で、少し離れたところから子供たちの様子をじっと見つめていた人物がいた。
料理長のガーラである。
イスズはそんなガーラに気づくと、たっぷりとバターを塗ったパンを一切れ差し出した。
「料理長さんも、どうぞ」
「私が……?」ガーラは戸惑ったようにパンを見つめる。
「ええ。せっかくですから、出来立てを味わってみてください」
ガーラはしばらく迷った末、パンを受け取った。
まず鼻を近づけ、慎重に香りを確かめる。次に、表面に塗られたバターをじっと見つめた。
そして意を決したように、一口。
「…………!」
ガーラの目が大きく見開かれた。思わず、もう一度パンを見つめる。
「なんと……乳の甘みが、そのまま残っている。濃厚なのに、しつこくない……これが出来立てのバターなのか!」
その驚きように、イスズは嬉しそうに笑った。ジャスティも、レオーネも、ソルテラも笑っている。
トレミーもまた、少し離れたところで微笑んでいた。
美味しいものを食べる。それだけのことで、そこにいる人たちの顔には自然と笑みが浮かんでいた。
「ビークロス様も、よかったらどうぞ」
イスズに勧められ、ビークロスは少し躊躇した。しかし、ガーラの反応が気になったのか、やがてパンを受け取る。
「……では」
恐る恐る一口食べた。
「…………」
ビークロスの表情が固まる。しばらく何も言わなかったが、やがて驚いたようにパンを見下ろした。
「……これは……確かに……美味い」
普段の厳格な表情からは想像できないほど、目を丸くしている。
その言葉に、イスズはまた笑った。
「よかったです」
そして最後に、イスズはストリーガへもパンを差し出した。
「ストリーガ様も、どうですか?」
ストリーガは首を横に振った。
「お気持ちはありがたいのですが、勤務中ですので。任務を終えてからいただきます」
「そうですか」
イスズは無理に勧めることなく、笑って頷いた。
ストリーガは、いつものように静かに立っている。
子供たちも、料理長も、ビークロスも、そしてトレミーまでもが笑顔になっている中で――なぜか、ストリーガだけは笑っていなかった。
イスズから勧められたパンも、彼はすぐには受け取らなかった。
そして結局、その日ストリーガがそのパンを口にすることはなかった。
※本作中の授業における説明は、子供たちにも分かりやすいよう、
複雑な仕組みや現象を簡略化して表現している場合があります。
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