第15話 牛乳の授業01
今日の授業は、いつものイスズとレオーネ、護衛のストリーガ、侍女のトレミーだけではなかった。
レオーネの義弟であるソルテラと、その家庭教師を務めるビークロス・ボフダーンも同席している。
ビークロスは、貴族の家庭教師としてはかなり名の知られた人物だった。これまで教えてきた生徒の多くが高位貴族の子弟であり、彼らを優秀な成績で学院へ送り出してきたという評判もある。
そのため、エレクトラが厚遇して迎えた教師でもあった。
年齢は三十代半ば。鋭い目つきと厳格な表情からも、いかにも規律を重んじる教師だということが分かる。
そんなビークロスの隣では、ソルテラが興味津々と厨房を見回していた。
さらにその隣には、侍女に手を引かれたジャスティまでいる。
本来なら、三歳になったばかりのジャスティが授業に参加する予定はなかった。ところが、ソルテラが今日の授業を見学すると聞きつけたジャスティが、自分も見たいと駄々をこね始めたのである。
結局、「侍女と繋いだ手を絶対に離さない」という条件で、見学を許されることになった。
「おりょうりするのでしゅか?」
ジャスティは嬉しそうに厨房を見回している。
その一方で、ストリーガとビークロスは渋い顔をしていた。
そもそも、貴族の子供が厨房へ足を踏み入れること自体が珍しい。料理をするのも、本来なら使用人の仕事である。
ましてや、この場所には食材や刃物などの調理器具だけでなく、火を扱う竈もある。護衛のストリーガとしても、普段以上に気を配らなければならない。
料理長のガーラも同じだった。
厨房は屋敷の中でも、とりわけ外部の者を入れたくない場所である。食事に毒を混ぜられれば、家族の命に直結する。そのため、食材の管理から厨房への出入りまで、料理長には厳重な管理が求められていた。
最初、ガーラは今回の授業にも反対していた。
しかし、イスズが自分から希望して厨房の隅を借りたいと申し出たうえ、何か問題が起きた場合の責任はすべて自分が負うと明言した。
さらに、マイア自身が許可を出した。そこまで言われてしまえば、ガーラも拒み続けることはできなかったのである。
「……そこまで仰るのであれば、どのような授業をするのか、見届けてみましょう。ただし、ソルテラ様。厨房の中では勝手に動かないように」
そう言ったのはビークロスだった。
「はい!」ソルテラは元気よく返事をした。
その様子を見ながら、イスズはいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
「では、始めましょうか」
イスズはレオーネの方を向いた。
「今日の授業は、身近なものを観察して、変化が起こる理由を考えてみる授業です」
レオーネだけでなく、ソルテラやビークロスまで首を傾げる。何をする授業なのか、いまひとつ分からないらしい。
ただ一人、ジャスティだけは目を輝かせていた。
「何をする授業なのですか?」
レオーネが尋ねる。
「今日は料理を作ってみましょう。ただ作って終わりではありません。途中で起きる変化をよく見て、どうしてそうなったのかを一緒に考えてみましょう」
「料理……」ソルテラの表情が明るくなる。
ジャスティも、「おりょうり!」と嬉しそうに声を上げた。
その反応とは対照的に、ストリーガとビークロス、そして少し離れたところで様子を見ているガーラは、まだ納得していない様子だった。
イスズはそんなことを気にする様子もなく、厨房の端に置かれていた大きな蓋付きの陶器の壺へ近づいた。
「まずは、これです」
そう言って、壺を慎重に抱える。
「中には牛の乳が入っています。私は普段、これを『牛乳』と呼んでいます」
レオーネが尋ねた。「先生、どうしてそんなにそっと運ぶのですか?」
イスズは壺を置くと、蓋を開ける。
「いいところに気づきましたね。牛乳は、しばらく静かに置いておくと、上の方に白く濃い部分が集まってくるんです」
ソルテラが身を乗り出す。
「上の方にですか?」
「はい。牛乳の中には、とても小さな脂肪の粒がたくさん浮いています。時間が経つと、その脂肪の粒が少しずつ集まって、上の方に濃い部分ができてくるんです」
イスズは表面を指差した。
「この上の濃い部分を、クリームと呼びます」
「これが……?」
レオーネが興味深そうに覗き込む。
「そうです。牛乳は一つのものに見えますけれど、実際にはいろいろなものが混ざってできています」
「いろいろなもの……?」
ソルテラが首を傾げた。
「それを成分と言うんです」
「成分っていうのは、何ですか?」
ソルテラが首を傾げると、レオーネが先に答えた。
「成分っていうのは、それを作っているもののことだよ。イスズ先生がいつも使う言葉だから、僕はもう覚えたんだ」
「作っているもの?」
「うん。たとえば料理なら、シチューには肉や野菜、それに水や塩なんかが入っているよね。その一つ一つが、シチューを作っているものなんだ」
「なるほど……」ソルテラは納得したように頷く。
「では、牛乳には何が入っているのですか?」
イスズが笑う。
「それも、とてもいい質問ですね。だから今日は、それを実際に確かめてみましょう」
「はい!」ソルテラの声が弾んだ。
だが、その横からビークロスが口を挟んだ。
「ソルテラ様。これはレオーネ殿の授業でございます。質問はほどほどになさい」
「……はい」ソルテラがしゅんとする。
イスズが笑って言った。
「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。授業では、分からないことを質問するのも大切なことですから」
その言葉に、ソルテラが顔を上げる。
すると今度は、ジャスティが小さな手を上げた。
「いすずちぇんちぇい。このぎゅうぎゅうは、のめるのでしゅか?」
「牛乳ですね」
「ぎゅうにゅう!」
イスズは笑った。
「では、せっかくですから、少し飲んでみましょうか」
「えっ?」驚いたのはジャスティではなく、ガーラだった。
料理長が慌てて声を上げる。
「お待ちください! 牛の乳は料理の材料として使いますが、そのまま飲むものではありませんぞ。生のまま口にするのは危険ではありませんか?」
イスズは素直に頷いた。
「搾ったばかりの牛乳には、目には見えないほど小さな生き物が入り込んでいることがあります。その中には、人の体に悪さをするものもいるんです」
「そんなものが……あるなどと聞いたことはないぞ?」
ストリーガも眉を寄せた。
「だから、今日は先に温めます」
イスズは持参した荷物から鍋を取り出し、牛乳を注いだ。
「今日は、牛乳をしっかり温めます。沸騰させる必要はありませんが、熱が全体に行き渡るようにしなければいけません」
イスズは生活魔法で竈に火を起こした。鍋を火にかけ、ゆっくりとかき混ぜながら温度を確かめる。
「うん……八十度くらいまで上がったわね。これなら、しっかり熱を通しておけば大丈夫でしょう」
そう呟くと、しばらく鍋をかき混ぜてから火から下ろした。
「少し冷ましてから、飲んでみましょうか」
ガーラはまだ不安そうだった。
「……本当に飲ませるのですか?」
イスズは少し冷ましてから、小さな器へ牛乳を注いだ。
「もちろん、熱いままでは飲みませんよ」
まず自分で一口飲む。
「うん。大丈夫です。これを飲むのは強制ではありません。飲みたい方だけお飲みくださいね」
「では……」レオーネが恐る恐る器を手に取る。
ソルテラも続いた。そして、ジャスティは侍女に支えられながら、嬉しそうに牛乳を口へ運ぶ。
「すこしあまくて……おいしいでしゅ!」
ジャスティの顔がぱっと明るくなった。
「本当に?」ソルテラも一口飲む。
「……あ、本当だ。少し甘さを感じる!」
その様子を見ていたトレミーも、少しだけ興味を惹かれた。
侍女として子供たちの世話をする立場上、勝手に手を出すのは憚られる。けれど、レオーネもジャスティもソルテラも美味しそうに飲んでいる。
トレミーは周囲の様子をそっと窺うと、誰にも気づかれないように自分の器へほんの少しだけ牛乳を取り、一口含んだ。
「……」
ほんのりとした甘さが口の中に広がる。思わず頬の力が抜け、トレミーの表情がふっと緩んだ。
「……おいしい」
その声を聞きつけたイスズが、ちらりとトレミーへ視線を向ける。そして、何も言わずに、にこっと微笑んだ。
トレミーは少しだけ気まずそうに目を逸らす。
イスズは何事もなかったかのように、三人へ視線を戻した。
「そうでしょう? でも、今日大切なのは味ではありません」
イスズは三人を見回した。
「さっき私は、牛乳の中にはいろいろなものが入っていると言いましたね。そして、その中には目に見えない小さな生き物もいることがある、と話しました」
レオーネが頷く。
「では、その小さな生き物は、いったいどこから来るのでしょう?」
「牛の中……ですか?」
「それも可能性の一つです。でも、それだけではありません」
イスズは、牛乳を入れていた壺を指差した。
「牛乳を搾るとき。容器へ移すとき。そして、空気に触れているとき。いろいろなところから入り込む可能性があります」
「空気からも?」
レオーネが目を見開く。
「はい」イスズは頷いた。
「私たちが普段吸っている空気の中にも、目には見えないほど小さなものが漂っています。その中には、人間の目では見えない小さな生き物もいるんですよ」
「では、ずっと空気の中に……?」
「そういうものもあります」
イスズは少しだけ笑った。
「ただし、空気の中にあるものが全部悪いわけではありません。人間に害のないものもたくさんあります。大切なのは、目に見えないからといって、何もないとは限らないということです」
レオーネは真剣な顔で頷いた。
「見えないものも、何かに影響を与えることがある……」
「その通りです」イスズは嬉しそうに笑った。
その横では、ソルテラも考え込んでいる。
「では、牛乳を置いておくと、どうなるのでしょう?」
「それも、今日これから確かめてみましょう」
イスズはそう言って、残った牛乳を別の器へ移した。
「今の牛乳と、少し時間が経った牛乳では、何が変わるのか。見た目や匂い、味がどう変化するのかを観察します」
「明日も見るのですか?」レオーネが尋ねる。
「はい。明日だけではありません。数日後にも見てみましょう」
レオーネの淡い緑色の瞳が、期待に輝いた。
「どうなるんだろう……」
「それを予想するのも授業ですよ」
イスズは笑った。その様子を見ていたビークロスは、明らかに困惑していた。
「……いったい、何なのだ。この授業は」
低い声で呟く。
「牛の乳を温めたり、空気の中に目に見えない生き物がいるなどと言ったり……。これまで私が学んできた学説とは、あまりにも違いすぎる」
だが、その言葉を聞いても、イスズは気にする様子を見せなかった。
「分からないからこそ、観察して確かめるんですよ」
そう言って、イスズは器の並んだ机へ視線を向ける。
「では、ここからは、この牛乳がどう変化するのかを観察していきましょう」
レオーネとソルテラは、顔を見合わせた。
そしてジャスティは、まだ何が始まるのかも分からないまま、嬉しそうに尻尾でもあれば振りそうなほど目を輝かせていた。
厳密には「シチューの肉や野菜=成分」というのは化学的な意味ではかなり大雑把です。




