第13話 食卓01
夕刻。
インプレッサ伯爵家の食堂には、家族の夕食が用意されていた。長い食卓の中央には焼いた肉と温野菜が並び、その周囲にはスープやパン、果物などが整然と置かれている。
給仕を務める使用人たちは音を立てないように動き、それぞれの席へ料理や杯を運んでいた。
食卓の上座には、当主レヴォーグ・フォン・インプレッサ伯爵が座っている。
四十を過ぎた伯爵は、整った目鼻立ちに金髪を持ち、その奥には濃い赤の瞳を宿していた。
若い頃はかなり女性に人気があったのではないかと思わせる容貌だが、今の彼の表情からは、家族に向ける親しげな感情はあまり読み取れない。
もっとも、それは子供たちを嫌っているからではなかった。
レヴォーグにとって何より優先すべきものは、インプレッサ伯爵家そのものだった。
領地を守り、家臣を養い、家名を維持する。そして、自分の代で預かったものを、次の代へ無事に残していく。それが当主としての務めだと考えていた。
家族がそれぞれ席に着くと、レヴォーグは静かに両手を組んだ。
「主よ、今日も我らに糧を与えてくださったことに感謝いたします」
短い祈りを終えると、顔を上げる。
「では、いただくとしよう」
「いただきます」
家族もそれに続き、静かに食事が始まった。食器とナイフが触れ合う小さな音だけが、広い食堂に響いている。
レヴォーグは黙々と食事を進め、子供たちもまた、父の様子を気にしながら行儀よく料理を口へ運んでいた。
その隣には、正室のエレクトラが座っている。
長い金髪を美しく整えた彼女は、鮮やかな赤い瞳を持っていた。四十歳近い年齢でありながら、年齢を感じさせない美しさを保っており、侯爵家の娘として育っただけあって姿勢も所作も美しい。
その二人の子が、次男のソルテラと三歳になったばかりのジャスティだった。
ソルテラは父母と同じ金髪に、父譲りの赤い瞳を持っている。同年代の子供たちより頭一つほど背が高く、幼いながらもしっかりとした体つきをしていた。
一方のジャスティは、柔らかな金髪に赤みがかった琥珀色の瞳をしている。その瞳が、幼い彼女の愛らしさをいっそう引き立てていた。
そして、少し離れた席には長男レオーネが座っていた。
レオーネも父や弟妹と同じ金髪だったが、瞳だけは違う。母マイアから受け継いだ、淡い緑色の瞳だった。
食事が始まってしばらくした頃、ソルテラがちらりと兄を見る。
何か話したそうに口を開きかけた。
「兄上……」
だが、その声はそこで途切れた。向かいに座る母エレクトラの視線に気づいたからだ。
ソルテラはすぐに視線を皿へ戻し、何事もなかったように食事を続ける。
レオーネは伯爵家の長男である。けれど、嫡男ではなかった。
母のマイアは子爵家の娘であり、側室としてインプレッサ伯爵家へ迎えられた女性だった。
マイアがこの家へ入ったのには、理由がある。
レヴォーグがエレクトラと結婚した当時、二人はまだ若かった。侯爵家の娘であるエレクトラとの婚姻は、家格の上でも申し分なく、インプレッサ伯爵家にとって理想的なものだった。
ところが、結婚して十年近くになっても、二人の間には子供が生まれなかった。
後継者がいないことは、伯爵家にとって軽視できる問題ではなかった。インプレッサ家は代々、火の魔法に秀でた家として知られていたが、この時ばかりは先代伯爵も家の伝統だけを気にしてはいられなかった。
ある日、先代伯爵はマイアの父である子爵の前で深く頭を下げた。
「何としても、次代へ家を繋ぐ子を残さなければならないのだ。もし息子に嫁いでくれるのなら、今後とも子爵家への援助は惜しまぬと約束しよう」
伯爵家当主である男が、一介の子爵家の当主に頭を下げる。
その姿を見たマイアは、しばらく黙っていた。そして、静かに口を開く。
「……お父様。私、インプレッサ家の御嫡男様へ嫁ぎます」
こうして、学院を卒業したばかりのマイアは、インプレッサ伯爵家へ嫁ぐことになった。
茶色がかった金髪と深い緑色の瞳を持つ、まだ少女の面影を残した若い女性だった。
そして伯爵家へ入って間もなく懐妊し、男児を産んだ。
それが、レオーネだった。
ところが、皮肉なことに、レオーネが生まれて間もなく、今度はエレクトラも身籠もった。
翌年に生まれたのが、ソルテラである。
ほぼ一年違いで生まれた二人の男子を前に、当時のレヴォーグはまだ後継者を決めなかった。
「まだ幼い。今から決める必要はないだろう」
そう言って、二人の成長を見守ることにした。
だが、成長するにつれて、二人の間には少しずつ差が表れ始めた。
「兄上、見てください!」
庭から元気な声が響いた。幼いソルテラが木剣を握り、嬉しそうにレオーネのもとへ駆けてくる。
「父上に褒めてもらいました!」
「そうか。よかったね」
レオーネが笑うと、ソルテラも嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、レオーネは先ほどまで見ていた稽古を思い出した。ソルテラは自分より年上の少年を相手にしていた。一歳しか違わないのに、もう自分より強い。
それだけではない。勉強でもソルテラの成績は良く、魔法の適性を調べた時には、インプレッサ家が代々得意としてきた火属性まで授かった。
「さすがインプレッサ家の子だ」「これほど見事な火属性とは」
周囲からそう褒められるたび、ソルテラは嬉しそうに笑っていた。レオーネも兄として一緒に喜んでやろうと思ったが、胸の奥には小さな痛みが残った。
自分には風属性の適性がある。それも決して悪い才能ではない。それでも、剣も勉強も魔法も、弟の方が自分より優れている――いつしかレオーネは、そう感じるようになっていた。
「ソルテラ様は、将来が楽しみですな」「ええ。あの剣の腕に火属性までお持ちだ」
そんな声を聞くたび、レオーネは何も言わずにその場を離れるようになった。
ソルテラ自身は、兄のそんな気持ちなど知らない。
「兄上! 明日、一緒に遊びませんか?」
後ろから呼ばれて、レオーネが振り返る。
「……明日は勉強があるから」
「では、勉強が終わったら?」
「……考えておくよ」
「分かりました!」
ソルテラは嬉しそうに笑った。その笑顔を見れば、弟が自分を嫌っているわけではないことくらい、レオーネにも分かる。むしろ、ソルテラは兄である自分を慕ってくれていた。
だからこそ、余計に苦しかった。兄である自分に悪意を向けるわけでも、自分を追い越そうとしているわけでもない。それなのに、レオーネは弟を見るたびに、自分には敵わないという気持ちを抱くようになっていた。
そして、ソルテラが生まれて七年後、エレクトラは思いがけず再び身籠もり、ジャスティを産んだ。難産の末にようやく授かった娘だけに、エレクトラは彼女をことさら大切にしていた。
一方、マイアはレオーネを産んだことで、伯爵家から求められていた役目を果たしていた。
すでに二人の男子がいる以上、これ以上子供を増やせば家督をめぐる思惑が複雑になる。そのため、マイアとレヴォーグはそれ以上子をもうけることを控えていた。
レオーネは、周囲がソルテラへ向ける期待を何度も目にしてきた。
「次の伯爵は、ソルテラ様になるのでしょうな」
そんな言葉を聞いても、今では以前ほど胸が痛まない。むしろ、そうなるのが当然なのだと思うようになっていた。
ある日、庭を歩いていたレオーネのもとへ、ソルテラが駆けてきた。
「兄上! 今度の休みに、一緒に出かけませんか?」
「……どこへ?」
「城下町へ。父上にお願いしてみようと思っているんです」
「僕と?」
ソルテラは嬉しそうに頷いた。レオーネは少しだけ笑う。
「……そうだね。父上が許してくれたらね」
「きっと許してくださいますよ!」
ソルテラはそう言うと、楽しそうに走っていった。
その背中を見送りながら、レオーネは小さく息を吐く。弟に悪意があるわけではない。
むしろ、自分を兄として慕ってくれていることは分かっている。
それでも、兄でありながら弟に何一つ勝てないという劣等感は、いつの間にかレオーネの中に根付いていた。
もし自分が伯爵になったところで、本当にこの家を守れるのだろうか。
そう考えれば、自分より優秀な弟がいるのなら、自分が継ぐ必要はない。
その方がインプレッサ伯爵家のためにもいい。
――いつしかレオーネは、伯爵になるのはソルテラなのだと、そう思うようになっていた。




