56. ふたたび黒い竜人間へ
「ごほん。……では」
気を取り直したように、ミス・キンセラは空咳をしてベイトリーシュに向かい合った。
「それではベイトリーシュ姫、始めたいと思います」
「……はい」
ふかふかおかっぱ頭を揺らして、ベイトリーシュはうなづいた。背筋を伸ばしてから、お腹の上あたりで手を重ねている。十人ほどのリオネス騎士に囲まれる中で、すっと一瞬わたしを見てから、ミス・キンセラを見据えたらしい。
「お願いします」
こんッッ!
ミス・キンセラは杖の石突部分で、自分の立つ魔法陣の中心余白を勢いよく強く打った。その衝突地点から、紫色の光――以前、洞窟で見ていてどうにも嫌な気がした、あの紫がかった光がぼんやりと湧き上がる。
その紫の光は徐々に広がり、ミス・キンセラの魔法陣に浸透していった。魔法陣の円を形成する文字の一つ一つが光り出し、ゆっくり伝わる波のように外側へと向かってゆく。
「ベイトリーシュ姫に植え付けられた≪竜の呪い≫は、純然たるリリリカ古魔術です。わたしはそこに、リオネス魔術の一つ≪解毒の奥義≫を組み合わせることで、姫の身体から≪竜の呪い≫を除去できるかもしれない、と考案しました」
紫の光はいまやミス・キンセラ側の魔法陣全体を、明るく輝かせていた。やがて円の組み合わさった部分から、ベイトリーシュが立つ魔法陣の外側に紫色の光が伸びてゆく。
「あなた方の行方を探るとともに、研究と鍛錬を重ねました。ベイトリーシュ姫が巨大な竜から人間に戻ったのだとは見当をつけていましたが、それは前回わたしの魔術発動が未熟であったからです。むしろ、それで大事にいたらずに済んで幸いでしたが」
――いやッ! あなたの魔術は完璧でした、ミス・キンセラ!
本気で突っ込みたいところを、わたしは必死で我慢した。わたしが祖父の魔法を使って、ベイトリーシュの時間を巻き戻さなければ……。あの島は、いいや大シオルタ湖沿岸の諸国は、竜に滅ぼされていたかもしれないのだ!
紫色の光は、ベイトリーシュの立つ魔法陣を輝かせてゆく。けれどミス・キンセラの方に比べて、その進み具合はだいぶのろかった。ミス・キンセラもそれをわかっているのか、杖を構えたまま、ちらりとわたしの方を見やる。
「……あなたのおじいさまのことも、調べ上げましたよ。ウーニャ・マクナマラさん」
わたしはぎくりとする。
「ユーリ・マクナマラ氏は外国人傭兵の位置づけでしたから、除隊後の情報は全くなかったのです。苦労しましたけれど、前回あなたに会った時の印象を元に、六十年前当時の軍名簿をあさって突き止めました」
「印象?」
「リオネスでもリリリカでもない、と耳が感じましたからね。その話し方」
何と言うことだ。我らがクランドルハ弁でばれてしまっていたのか……って、わりと簡単か!
「そもそも我々があの封印の島へ発掘に向かったのも、前々代皇帝の直筆日記帳がきっかけだったのですよ。ごく最近になって、王室に保管されていたのが学術騎士団のアーカイブに移されたのですけどね。その中に、非常に興味深い記述がありました」
六十年前の災禍当時のリオネス皇帝は、竜がなにものだったのかを知っていたのである。
優秀なるリオネス騎士団、精鋭魔術士隊の強力な魔術でどうにかこうにか退治した、という表向きの発表の裏。実際には一人の若い兵士が、とんちみたいな術で封じただけだとわかっていた。どうして皇帝は、それを知っていたのか?
「あなたのおじいさまと前々代皇帝とは、私的な知人関係だったようですね。どういうつながりであったのかは、それこそ謎のままですが」
かこーん、とわたしは口を四角く開けた。何やそれ? じっちゃんとリオネス皇帝が……その、友達だったと言うことなのか。
「まあ、その二人が共謀してベイトリーシュ姫の生存と封印とを隠したことにより、リリリカ王国滅亡の当事者たちのほとんどは、真実を知ることなくこの世を去りました。ベイトリーシュ姫が何者であるか……竜が何であったのか、と勘繰る人も以降はどんどんいなくなります。さあ、そろそろいいでしょう」
ベイトリーシュを円く囲む魔法陣も、いまや紫色に燦然と輝いている。
「姫。前回と同様、これからあなたの中の呪いを第一段階にだけ発動させます。身体的な苦痛があるでしょうが、そこからわたしの魔術が呪いを吸収するためには、この過程を避けて通れません。少しだけ我慢してください」
「はい……」
「なるべく早く済むように、努力します。それでは」
ミス・キンセラは杖を持ち上げた。
「アンデルデルスワ アンデルデルスワ スイレメン……」
ば・しッッ!
いきなりの強風に、全身をひっぱたかれたような感覚がして、わたしはうッとよろめいた。近くにいる騎士たちも、一歩二歩よろけているのだから、相当の衝撃だったのだと思う。
けれどそれより何より、わたしは目の前の風景にさらなる衝撃を受けていた。
「ベイトリーシュ……!」
のっぽのお姫様の姿は消えていて、魔法陣の真ん中に佇んでいるのは、竜人型のベイトリーシュだった。
ほんの一瞬で変身していたが、……最近わたしの前で見せていた、あのたまご竜の姿ではない。巨大な竜になる前、島の洞窟で変身した時と同じだ。黒っぽい身体に紫色の光をまとっている。蛇のような頭についた、大きな瞳だけが変わらずに青い。その双眸が寂しげに切なげに、わたしを見ている。
「大丈夫なん? ベイトリーシュ!」
思わず声を上げた。こくん、と黒い竜人はうなづいた。
「≪竜の呪い≫第一段階の変身完了」
ミス・キンセラが高らかに言う。するとリオネス騎士らが四名、すらっと彼女の背後に寄って行った。ミス・キンセラの魔法陣ぎりぎりの所に立って、姿見サイズの大きな鏡を彼女に向けている。これも魔術の一環なのだろうか?
「続いて、≪竜の呪い≫を媒体より抽出! ……ウールシュペイラ、マグ・ドールヒエン……」
地響きみたいな低い声調で、ミス・キンセラは詠唱を始めた。さっきまでの詠唱と違うけれど、もちろんわたしに意味はわからない。どっちみち怖い、おどろおどろしい言葉の連なりだ。
しかしその声が響き出した途端、ベイトリーシュが後ろにむけてふわっと翼を広げた。正面から大風に吹かれているような姿勢なのだが、大丈夫なのだろうか? そしてベイトリーシュの身体にまとわりついていた、あの紫色の光が……。どんどんと濃く、強くなってゆく。それはやがて紫色の霧になって、ベイトリーシュの身体の周りに厚い層を作っていく。
「ドランギエンシュ エヴ コールディア……」
竜人は前脚を胸の前でちんまり組み、恐怖に打ち震えているようだった。わたしは痛ましさで、たまらなくなる。ベイトリーシュのそばに行って、前脚でも首ったまでも、何でもいいから抱きしめて支えたかった。唇を噛んで、そうする衝動を抑え、耐える。
「ドランギエンシュ エヴ コールディア!」
もあああーん! ベイトリーシュの身体から、一挙に紫の霧が上昇した!
「あっっ」
「あれっ……?」
騎士達が反応している。わたしも思わず、声を出しそうになった。
――ベイトリーシュが! いつもの白いたまご竜になった!?




