35. シールみたいには剝がれませんわ
「気持ちの悪さは、壮絶におんなしでしたわ。特に始まる時」
竜への変身は二段階だった。ベイトリーシュはまず、そんなに背丈のたがわない≪竜人間≫になり、次に巨大な竜になったのだ。
「六十年前、母は雇っていた魔術師を呼びませんでしたの。本当は、その魔術師なしに呪文を発動させてはいけないはずでしたのに……」
ベイトリーシュの母妃は、弟が亡くなった直後に我を失って魔術発動の呪文を叫んだと言う。わたしが見た情景と一致するが、あれはやはりベイトリーシュ自身の経験した過去なのだ。信じにくいけれど、竜の呪いが見せたのかもしれない。
「その際わたくしは竜人になってから、すぐに大きくなりました」
「あのリオネス魔術士は、その段階でベイトリーシュを支配するとか何とか言うてたけど?」
「ですわね。……あら」
ベイトリーシュの背中が、ぴくりとした。
「どうしたん?」
くるり、とベイトリーシュは顔を振り向けてわたしを見上げた。丸い瞳が、ちょっと驚いているように見える。
「そう言えば……。わたくし、二回目の時はウーニャさんのとこへ飛べましたわ」
「せやね。わたしの手錠、ぶっちぎってくれたんやな」
そうだった。完全に獣のような大怪獣になってしまう直前、ベイトリーシュは竜人の姿になってはいたけれど、わたしを助けてくれたのだ。
「最初の時は、あの感覚はなかったんですの」
変身した途端に身体の自由が一切きかなくなり、あとは竜の本能の前に抗えなくなったと言う。若かりし頃の祖父に時間逆行巻き戻しの術をかけられるまで、ベイトリーシュの自我は竜の巨躯の奥底に閉じ込められていたのだ。
「いや、でも。ベイトリーシュはでっかく変身した後も、わたしの目の前で、竜の自分の身体に炎をあてようとしててんな? あれは、あんた自身の意志でやったことやろ?」
ふかふか金髪をゆらし、ベイトリーシュはこくりとうなづいた。
「ええ。逃げたり飛んだり、は竜が勝手にやりましたけど……。胸に向けて炎を吐こうとしたのは、わたくしです」
あれは、自滅の試みは、ベイトリーシュが破壊再来に抵抗して行ったのだ。わたしの胸に、ひらめくものがあった。
「それじゃあ。六十年の時間をかけて、ベイトリーシュ自身が竜を、呪いを自分のものにしかけてるっちゅうことでないの?」
つまり希望だ。抗えないはずのものに、ベイトリーシュは抗うことができるようになってきた! 部分的であっても、だ。わたしはお姫様の横にしゃがみ込む。
「呪いの文様が背中にびったし貼りついて痛いのは、そういうことでないの? ベイトリーシュが、自分で自分の呪いを制御できるようになってるんよ! きっと」
「そ、そんな。まさか……」
「でなかったら。わたしを助けるとか、できひんはずやろう?」
「あれは……。もう本当に無我夢中で、あの時は……。ウーニャさんに逃げてもらわなくっちゃ、とそればっかりで――」
ベイトリーシュはふいと前に顔を戻し、深くうつむく。
「……嫌ですわ。思い出しちゃった」
「え?」
「あんなみにくいかっこう……恐ろしい姿を。ウーニャさんに見られちゃったのですわ、わたくし」
「――――あのね、」
低い囁きに反論しようとしたら、へっ……ぶひっっ! とベイトリーシュは勢いよくくしゃみをした。わたしはお姫様の背中から右手を離す。
「あー、あかんね。もうパジャマ着よして」
「むひ」
もそっと、お姫様はこうし柄パジャマの上をかぶった。裾を引っぱって、無数の仔牛もようの上によっていたしわをのばす。そう、格子柄ではなく仔牛プリントのパジャマだ……。誰が考案したんだろう、このデザイン。のどかに牧歌的な意匠の上で、ベイトリーシュの丸顔はきまり悪そうにうつむいていた。
「もうね、……あの姿は二度と、お目にかけたくないんですの。ウーニャさんも、どうか忘れて下さいまし」
わたしの手から軟膏チューブを取ると、そそくさとふたを閉めて壁の棚にしまう。ベイトリーシュは苦笑のような照れ笑いで、わたしにお休みなさいと言い、逃げるように浴室を出て行った。
わたしは唇をひん曲げる。確かに変身前、引き攣れながら苦しんでいたベイトリーシュの姿は痛まし過ぎて、見ているのがつらかったけど。竜人の姿は……。
――あれは、≪みにくい≫言うのとは。全然ちがうと思うけどなあ。
黒い竜の呪いの文様だって、その意味の恐ろしさを知らなければ≪うつくしい≫と思えるデザインだと思う。それがのっている、ベイトリーシュの広い背中と同様。
……いや。彼女はそのせいで苦しんでいる。そんな風に思うのはやめないといけない、……わたしは自分に言い聞かせた。




