30. 過去が追いかけて来る
家に帰った後のベイトリーシュは、あからさまにおかしかった。
「すみません、ウーニャさん。わたくし、さっきのご本の続きを読みます」
マロニエ森の伯母の屋敷に帰りついて、台所の食卓に本の詰まった角籠を置くやいなや、あの『リリリカ人の系譜』を胸に抱きしめて、自分の部屋にあがって行ってしまったのだ。
竜の呪いを解除するための手掛かりがあった、とはベイトリーシュは一言も言っていない。けれどもしかしたら、自分なりに何か思う所があったのかもしれない……そう考えて、わたしは追って聞くことはしなかった。
一人でお茶を淹れて飲んで、一人で読み続ける。
窓の外が薄暗くなっているのに気づいて、夕食の準備をしようかと思った。地下倉庫からじゃが芋の袋を持ってきて、少し不安になる。これまでベイトリーシュは、いつも率先して食事の準備を手伝ってくれていたのに。
あんまりべたべた干渉したくはなかった。けど、……まあ自分も上着を置きに行くしな、と言い訳を作って上階にゆく。けれどベイトリーシュの部屋の前を通った時、低い嗚咽が耳に入った。お姫様が泣いている? わたしはどうしても、扉をノックせずにはいられなかった。
「……ベイトリーシュ、どうしたん? 入ってええ?」
ほんの少し押した扉は、開いた。その隙間からやはり嗚咽が、……ベイトリーシュの鼻をすする音が聞こえてくる。
「――ウーニャさん」
小さく呼ばれて、わたしは部屋の中に踏み入った。ベイトリーシュは細い寝台の縁に腰かけて、自分の胸を抱きかかえるように縮こまっている。狭い部屋は、サイドテーブル上のランプだけで明るく照らされていた……青ざめて涙を流している、くしゃくしゃお姫様の顔もはっきりと。わたしはベイトリーシュの脇にしゃがみ込んだ。
「どうしたん」
「もう。わたくし本当に、どうしたらいいの?」
ベイトリーシュは震える両手で、膝の上に載せていた本を持ち上げた。それを受け取って、開かれていたページにさっと目を走らせ、……わたしは唇を噛む。
少女の証言::
≪わたしのお母ちゃんは、生まれたばっかりの妹を背なかにおぶってました。そうしてさいごに羊小屋の戸を開けていくから、先に父ちゃんばあちゃんと行けと言って、走ってったんです。わたしはおばあちゃんの手を引いて、道の真ん中を歩きながらふうっと振り返りました。すると空がさっと暗くなって、どしーんと大きな柱みたいな足の先っぽが、羊小屋を踏みつぶすのを見ました。うちに着地した竜は、その後もう一度、すごい風をまき散らしてとび上がり、裏手にある化石油採掘場の方にむかって、があと咆えました。何が起こったのかはわかりません。まわり全体どこもかしこも燃えるみたいに赤く明るく熱くなって、重いものが天から覆いかぶさってきたんです。でもわたしは、おばあちゃんの下にかばわれて無事でした。あとで這い出したら村のあった場所には、ほこりか灰みたいなのが厚く積もっていて、その下でたくさんの人が動かずに寝ていました。わたしのおばあちゃんも、掘りあてたお父ちゃんも起きませんでしたから、わたしは泣きながら隣町の方へ一人で歩きました。竜はどこかへ行ってしまってて、その後見たことはありません。けれどわたしは家族みんなをころした竜を、一生ゆるせない。助けられてここへ来てから、竜はリオネスの騎士さまに退治されたと聞きました。竜がひどい目にあって、苦しんでしんだのならいいと思います。竜がしんでも、わたしは生きている限り竜をにくみ続けますが≫
「……」
わたしはざっと周辺ページを繰り、そして目次を見た。『リリリカ人の系譜』は冒頭こそリリリカ王国の形成民族に言及する歴史書だったが、あとは滅亡後の難民についての実態調査だったのだ。クランドルハを含む周辺国に逃げ延びた人々に、当時の状況について聞き取った採話を数多く載せている。竜と言う災厄に対する生々しい記憶、リリリカ難民の怨念が、どす黒くこもっているような本だった。
わたしは茫然とした。……なんだって、ベイトリーシュにこんな本を読ませてしまったのか。
「あんまりたくさんあり過ぎて。もう一つ一つの出来事は、はっきりと憶えていないんです」
ベイトリーシュがかすれた声で低く言った。
「わたくしは何もできませんでした。ただ竜の目を通して、小さな小さなごま粒のような人たちを、自分の手足が踏みつぶしていくのはわかりました。お願いやめて、殺すのも壊すのももうやめて、すぐやめてと頭の中では叫んでいたのに……。身体は勝手に動いて逃げまどう人たちを追いかけたんです」
ぽとぽと、とベイトリーシュの伏せた顔から滴が膝に落ちた。わたしはベイトリーシュの隣に座る。もう、何て言葉をかけたらいのかわからなかった……。右手をのばして、背中に触れた。
「嫌だったんですよう……」




