第1章。星巡る庭と灰色のノイズ~第2話。引き出しの仕掛け~
『ルミナス令嬢の失われた記憶 〜二つの世界を繋ぐ時計仕掛けの神話〜』
第1章:星巡る庭と、灰色のノイズ
~第2話~引き出しの奥の時計仕掛け
「……本当に、大丈夫でございますか? お嬢様」
ミリーに支えられながら、私はようやく自分の私室へと戻ってきた。
公爵令嬢にふさわしい、最高級の天蓋付きベッドと、職人が意匠を凝らした薔薇パールの調度品が並ぶ広い部屋。
いつもなら私を安心させてくれるはずのその空間が、今夜はなぜか、ひどく他人の家のように思えて仕方がなかった。
「ええ、大丈夫よ、ミリー。少し立ち眩みがしただけ。心配させてごめんなさい」
私はドレッサーの前に座り、大きなクリスタルの鏡に映る自分の姿を見つめた。
そこにいるのは、混じり気のない漆黒の髪と、深い夜空のような瞳を持つ、美しい16歳のアサヒ・ルミナスの姿だ。
どこをどう見ても、誇り高きルミナス公爵家の血を引く令嬢そのもの。
けれど、鏡に映る自分の瞳の奥をじっと凝視していると、また頭の芯がジリジリと熱くなってくる。
(違う。私はアサヒ・ルミナス。だけど……私は、本当に最初からこの世界の人間なの?)
庭園で見た、あの灰色の雨と黒い道路の幻影。そして、あの壊れた光の灯りの下で、冷たい地面に投げ出されていた「誰か」の体。
思い出そうとすればするほど、記憶の壁に阻まれて、もどかしさと鋭い頭痛だけが襲ってくる。
「お嬢様、今夜はもうお休みになってください。明日の朝、お抱えの白魔導医師を呼びますわ。熱が完全に下がりきっていないのかもしれません」
ミリーが手際よく寝支度の準備を整えながら、痛ましそうな声を出す。
「そうね……。そうするわ。ありがとう、ミリー」
私はミリーに微笑みかけ、彼女が部屋の明かりを落として、静かに扉を閉めて出ていくのを見送った。
部屋が暗闇に包まれる。
大きな窓から差し込む、エルドラドの青い月光だけが、床の上に冷たい影を落としていた。
ベッドに入っても、一向に眠気は訪れなかった。
耳の奥で、あの前に聞いたあの音が、まだ微かに響いている気がしたからだ。
トントン、トントン……。
オショウユ?と、ダシ?の、温かい匂い。
「お母さん」という、この世界の言葉では『母上』と呼ばれる存在を指す、響きの違う不思議な言葉。
私はたまらなくなってベッドから抜け出し、裸足のまま冷たい絨毯を踏みしめて歩いた。
向かったのは、部屋の片隅に置かれた、一際古めかしい意匠の宝箱だった。
ルミナス家に代々伝わるもので、初代聖女が遺したとされる、決して開けてはならないと言い伝えられている秘密の引き出し。
普段なら見向きもしないはずのその場所に、なぜか今夜は、磁石に吸い寄せられるように体が動いてしまった。
「開けては、いけない……」
頭の中でミリーの、そして父の警告がリフレインする。
けれど、手は勝手に動いていた。
重い木製の引き出しを、ゆっくりと引き抜く。
パチ、パチ、パチ、カチカチカチカチ……!
引き出しが半分ほど開いたその瞬間、静まり返った闇の中に、突如として激しい機械の異音が鳴り響いた。
「え……っ!?」
私は息をのんだ。
引き出しの奥に収められていたのは、ネジが巻かれておらず、文字盤に数字すら刻まれていない、古びた金色の「懐中時計」だった。
驚くべきことに、その完全に壊れているはずの時計の2つの針が、激しく火花を散らしながら、
【右回りと左回りに、同時に】、
猛烈な速度で逆回転を始めていたのだ。
「なぁに、これ……? どうして動いているの?」
時計から放たれるのは、夜の青い月光を掻き消すほどの、燃えるような、あの
「朝焼けのオレンジ色」の光だった。
その圧倒的な光の美しさに目を奪われ、私は吸い寄せられるように、その真鍮のボディへと手を伸ばした。
触れてはならない。
そう思ったときには、私の指先は、冷たい金色の時計に触れていた。
ドクン……!
時計の心臓が、私の指先を通じて、私の心臓と完全にシンクロして脈打った。
「きゃあぁぁぁっ!?」
次の瞬間、時計から爆発的なオレンジ色の光があふれ出し、私の視界のすべてを飲み込んだ。
部屋の中に凄まじい暴風が吹き荒れ、天蓋付きのベッドのカーテンが激しく引きちぎれんばかりに揺れる。
足元の床がぐにゃりと水面のように歪み、私は底のない奈落へと、真っ逆さまに落ちていくような強烈な浮遊感に襲われた。
ルミナス公爵邸の部屋が、ミリーの残した匂いが、異世界の日常が、一瞬にして遥か彼方へと遠ざかっていく。
「お嬢様!?」
異変を察したミリーが扉を開けて飛び込んできた悲鳴が聞こえた気がしたが、もう遅かった。
私は光の渦の真ん中で、時間の境界線へと弾き飛ばされていった。
深いオレンジ色の光に包まれ、どれほどの時間が経っただろう。
不意に、激しい風が止み、私の足の裏に
「硬い透明な床」
の感触が戻ってきた。
ハッと目を開けると、そこは公爵邸の部屋ではなかった。
頭上にはどこまでも続く果てしない虚空が広がり、足元には、まるでクリスタルでできたガラスの道路が、十字に交差している。
その透明な道の真下をのぞき込むと、世界の根幹を支えるような巨大な時計の歯車が、軋んだ音を立てて狂ったように回っていた。
「うわあ! 新しい人間が降ってきた!」
「待って……この魔力、まさか、あの時の……!」
正面から、鈴が転がるような、でもどこか神聖な響きを持つ二つの声が聞こえた。
光に目を細めながら顔を上げると、そこには、見たこともないほどに美しい少年と少女が立っていた。
黄金色の髪をなびかせ、未来の光をまとった少年ソル。
そして、
茜色の服を着て、過去の記憶を抱きしめる精霊の少女クレピュスク。
「君、名前はなんていうの?」
ソルが、黄金色の目を爛々と輝かせながら、不思議そうに私の顔を覗き込んできた。
私は、手の中で今も右と左に回り続ける懐中時計を強く握りしめ、震える声で答えた。
「私は……アサヒ。アサヒ・ルミナス」
その名前を口にした瞬間、少女クレピュスクが、まるで雷に打たれたようにハッと息をのんだ。
「アサヒ……!? ルミナス家のお嬢様なのね。じゃあ、あなたがあの『時空の時計』を動かしたの? ……大変よ、ソル! この子の魔力が目覚めたせいで、私たちの世界のレールだけじゃなく、この子が忘れている『もう一つの世界』の時間が、完全に歪み始めてるわ!」
「もう一つの、世界……?」
私が呟いた瞬間、交差点の底から、
ゴゴゴゴゴ……という不気味な地鳴りのような音が響き渡った。
それは異世界の時間の崩壊を告げる音であり、同時に、私の記憶の奥に眠る【地球】という世界が、時空の嵐に巻き込まれていく破滅の足音だった。(第2話・おわり)




