第1章。星巡る庭と、灰色のノイズ。第1話。
【読者の皆様へ(まえがき)】
本作を開いていただき、本当にありがとうございます。
この物語は、私が幼い頃に母親に問いかけた「朝日はどこへ行ったの?」「夕日はどこから来るの?」という、ずっと不思議だった純粋な疑問から生まれました。
最初は、異世界に転生した公爵令嬢アサヒの、静かで優雅な日常から物語は始まります。
しかし、彼女が失われた前世の記憶(地球の記憶)をゆっくりと取り戻していくにつれて、物語は異世界「朝日の国」「夕日の国」の壊滅の危機、そして私たちの住む「地球」をも巻き込んだ、地球規模の時空の乱れへと壮大にスケールアップしていきます。
ソル(朝日)とクレピュスク(夕日)という二人の存在の正体。
前世の母が遺してくれた、時空を超える完璧な伏線。そして、やがて対峙することになる世界の理を司る『時間の神々』との壮絶なバトル――。理屈だけではない、心と魂で感動できる、19万文字を超える時計仕掛けのSF大長編ファンタジー。張り巡らされたすべての伏線が「ここか!」と繋がる驚きを、Aiと共に作った、物語です。
ぜひ最後までゆっくりとお楽しみください。日々の更新を楽しみにして、ページをめくっていただければ幸いです!
『ルミナス令嬢の失われた記憶 〜二つの世界を繋ぐ時計仕掛けの神話〜』
第1章:星巡る庭と、灰色のノイズ
~第1話。~
公爵令嬢のひそかな溜息
トントン、トントン……。
どこか遠くから、規則正しく響く心地よい音が聞こえていた。
何かを刻むような、何かを優しく形作っていくような、そんな温かい音。
同時に、鼻腔をくすぐる、少し焦げたような、でもたまらなく食欲をそそる芳醇な匂い。
記憶の底で、私は誰かの服の裾をきゅっと引っ張っている。
その服は、この世界にある上質なシルクやベルベットとは違う、少しゴワゴワとした、でもお日様の匂いがする不思議な布地だった――。
「……アサヒお嬢様、そろそろお部屋へ戻りましょう。夜風が冷とうございます」
背後からかけられた穏やかな声に、私はハッと意識を現実へと引き戻された。
目の前に広がっていたのは、白漆黒の大理石が幾何学模様を描く、広大な『天球の庭園』だ。
ルミナス公爵邸の北側に位置するこの庭園は、夜になると地上の床が夜空の星々を鏡のように映し出す、エルドラド王国内でも一、二を争う神秘的な名所だった。
私が一歩歩くたびに、ドレスの裾から淡い青色の光の粒子が、まるで蛍のようにハラハラと夜気に溶けて消えていく。
ランタンを手に私を見つめているのは、幼い頃から私に仕えてくれている専属メイドのミリーだった。
「ええ、分かっているわ、ミリー。でも、もう少しだけ……この星を見ていたいの」
私は濃紺の夜露に濡れた白いドレスの裾をそっと持ち上げ、夜空を見上げた。
アサヒ・ルミナス。
それが、公爵令嬢である私の名前だ。
16歳になった私は、何不自由のない最高の日々を送っている。
公爵家の人間としての教育を受け、高価なドレスを着て、美味しい異世界の果実を食べ、優しい父に愛されている。
けれど、私の胸の奥には、物心ついた頃からずっと、消えない「小さな棘」のような違和感が刺さっていた。
(私は、何かを忘れている……。とても大切で、温かくて、でも、胸が張り裂けそうに切ない、何かを)
毎日のように、理由の分からない寂しさが心を支配する瞬間があった。
特に、一日の終わりを告げる「夕日」を見るとき、私の目からは、いつも自分でも気づかないうちに一筋の涙がこぼれ落ちるのだ。
それをミリーに指摘されるたびに、私は
「西の光が眩しかっただけよ」
と嘘をついて誤魔化していた。
「お嬢様、本当に最近はお顔色が優れませんわ」
ミリーがランタンを掲げ、私の顔を覗き込む。
「三日前に原因不明の高熱を出されてから、ずっと上の空でいらっしゃいます。お食事の時も、スープをじっと見つめたまま動かなくなってしまわれたり……。何か、お悩み事でもございますか? 私でよければ、何でもお聞きしますのに」
「ううん、大丈夫よ、ミリー。心配をかけてごめんなさいね。ただ、少しだけ……不思議な『夢』を見るようになったの」
「夢、でございますか?」
「ええ」
そう、あの激しい熱を出した夜を境に、私の頭の中には、この世界には存在しないはずの「奇妙な光景」が断片的に浮かぶようになっていた。
ガラスでできた、空を突き刺すような巨大な四角い箱が、無数に立ち並ぶ灰色の街。
その間を、目にも留まらぬ速さで走り抜ける、生き物ではない鉄の塊。
そして――薄暗い部屋の台所に立ち、オショウユ?と言われるものとダシ?と言われるものの温かい匂いをさせながら、私の冷たい両手を包み込んでくれた、エプロン姿の優しい女性の背中。
「ミリー」
「はい、お嬢様」
「あなた……『オショウユ』とか『ダシ』という名の、魔法の薬をご存知?」
私の問いに、ミリーは綺麗な眉をひそめ、首を傾げた。
「オショウユ……? ダシ……? いいえ、聞いたこともございませんわ。王都の最高級の薬草店にも、そのような名前の調合薬はございません。もしかして、夢に出てきた言葉なのですか?」
「ええ、そうなの。ただの、他愛のない夢の話よ」
私は笑って誤魔化したが、胸の動悸は激しくなるばかりだった。
ルミナス公爵家の令嬢として16年間生きてきた私にとって、それらの単語はこの世界のどの魔導書をめくっても載っていない、未知の言葉だった。
なのに、その匂いや音を頭の中で思い出すだけで、私の魂が「懐かしい」と激しく泣き叫ぶのだ。
「さあ、本当に夜が更けてしまいましたわ。旦那様に叱られてしまいます。お部屋へ戻りましょう」
「ええ、そうね」
大理石の床を踏みしめ、天球の庭園をあとにしようと、私がミリーに続いて歩き出した、その時だった。
ザザッ、ザザザザッ……!
突如として、私の視界に、不気味な「灰色のノイズ」が走った。
星の光がまたたく美しい庭園の景色が、まるでガラスがひび割れるように歪む。
「え……?」
ハッと息をのんで、自分の足元を見た。
大理石の床に映っていた美しい異世界の星空が、一瞬だけ、激しい濁流のような
「灰色の雨が降りしきる、見たこともない黒い道路」
へと切り替わっていたのだ。
そこには、赤と黄色の光がチカチカと不気味に点滅する、折れ曲がった機械の灯りが倒れている。そして、その壊れた景色の真ん中で、誰かが冷たい地面に倒れているような、息もできないほどの強烈な絶望感が、私の胸をぐさりと貫いた。
「うっ……!」
あまりの頭痛と胸の痛みに耐えかねて、私はその場に激しく膝をついた。
「お嬢様!? アサヒお嬢様、どうされましたか!」
ミリーが悲鳴を上げて持っていたランタンを放り出し、私の体を強く抱きしめる。
私がもう一度、恐る恐る涙目で足元に目をやると、そこには何事もなかったかのように、ただ静かな公爵邸の星空が映っているだけだった。
「いまの、は……幻覚? それとも……」
私は自分の胸を押さえ、激しく息を乱した。
世界の歯車がどこかで狂っている。
この美しい世界の根本が、私の知らないところで激しく波打っているような、そんな不気味な予感が、私の新しい運命の幕開けを告げるように、夜の庭園に冷たく響いていた。
(第1話・おわり)




