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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
オークの侵攻

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第95話:バーでの会話

   昼下がりの小休止、そして『ネロ(Nero)』の真のスペック


――その日の午後、再建されたばかりの都市は、不気味なほどに穏やかな平穏に包まれていた。

ストリートは行き交う人々の活気ある足音で溢れかえり、露店の商人たちは道行く客に向けて威勢のいい声を張り上げている。外縁の大森林やダンジョンから帰還したばかりの冒険者たちは、仕留めた魔物の素材を重そうに担いでギルドへと足を運び、オークたちは相変わらず人間の職人と肩を並べて忠実に建築作業に従事していた。子供たちは、わずか数ヶ月前にこの場所が血生臭い地獄の戦場と化していたことなど、もう綺麗さっぱり忘れてしまったかのように、何の不安もなくストリートを元気に駆け回っている。


開戦以来、この都市がこれほどまでに完璧な「普通の日常(データ)」を取り戻したのは、本当に久しぶりのことだった。


そして、その新しく建て直された建造物群の片隅に、こぢんまりとした小さな酒場(バー)がひっそりと店を構えていた。

店内は決して広くはない。年季の入った木製のテーブル席が数セット並んでいるだけで、背後の棚には様々な銘柄の魔導酒のボトルがズラリとディスプレイされていた。壁にはシンプルな魔法ランプがいくつか灯されているだけで、地上の誰もが、この至極ありふれた空間の内部で「世界の運命を左右するような最高重要会議」が執り行われているなどとは、万に一つも予想できないだろう。


だからこそ、カウンターの最奥に腰掛けている『二人の男女』に対して、怪訝な視線を送る客など誰一人として存在しなかったのだ。


新世代の魔王、カイ。――そして、魔王ニクセラ。


カイは片手で静かにグラスを弄び、ニクセラもまた、自らのグラスを指先で弄んでいた。二人の間には、数秒の心地よい沈寂が流れる。

真横にある巨大なガラス窓の向こう側では、子供たちが無邪気に遊んでいた。その雑踏の真ん中に、エミリアの小さなシルエットもあった。彼女は他の子供たちと一緒にストリートをトトトッと走り回り、互いに追いかけっこをしながら、最高に楽しそうな無邪気な笑い声を響かせている。


カイがなんとなく、その窓の外へと視線を向けた時のことだった。

エミリアが突如、街道の小さな小石に足を取られ、あわや前のめりに激しく転倒しかけたのだ。その瞬間、カイの双眸が物理的にカチリと大きく見開かれ、全身の魔力パラメータが本能的に跳ね上がった。――だが、幼女は何事もなかったかのように驚異的なバランス感覚で即座に体勢を立て直し、再び走り出していく。カイは、はぁ、と小さく胸を撫で下ろして身体の力を抜いた。


ニクセラはその一瞬のシステムエラー(動揺)を、絶対の見落とさなかった。

「――ククク。あなた、今ガチで肝を冷やしていたわね」


カイは気怠げに彼女を見やった。「ん? 何のことだ?」


「あの人間の小さなガキのことよ」


カイは再び、窓の外で元気に跳ね回っているエミリアの背中に視線を走らせた。「……別に。あいつはピンピンしてるだろ」


「思考より先に、肉体の防衛パラメータが完全起動(即応)していたわ。嘘は通用しないわよ」


カイは観念したように両肩をすくめてみせた。「ただの子供だろ。目が離せないのは初期設定(仕様)だ」


ニクセラはグラスに唇をつけ、極上のエールを小さく一口含んだ。

「……3ヶ月前はただの鬱陶しいストーカー扱いだったというのに、随分とあのガキに『愛着(アタッチメント)』を抱き始めてしまっているのね」


カイは彼女の追求から視線を逸らす。「……さあな。そうかもな」


ニクセラは片方の美しい眉をピクリと跳ね上げる。「そうかもな、ねえ?」


カイは質問に答える代わりに、手元に残っていたお酒をぐいっと喉へと流し込んだ。


「……まあ、あいつと一緒にいるのは、退屈しのぎ(プラン)としては悪くない」


「あろうことか、世界滅亡の天災とまで噂される魔王の真後ろを、3ヶ月間も無条件でストーキングし続けているのよ?」


「ああ、その通りだ」


「あなたの口へ、至高の笑みでケーキをあーんしてデリーバーしてくる」


「それも、紛れもない確定データだな」


「――そして、あなたのことを『おもしろカイ(Funny Kai)』なんていう不敬極まる称号で呼ぶわ」


カイの動きがピタリと停止した。「……そのデータに関しては、未だに俺の精神インフラに深刻なバグ(不快感)を与え続けてるんだけどな」


ニクセラはその最高にラフな魔王の弱点に対し、この上なく妖艶な笑みを浮かべた。

「ククク、いい気気味よ。日頃の不条理な行いに対する、世界システムからの正当な報酬(ペナルティ)だわ」


カイは不満そうに彼女を睨みつけた。「最高に失礼な物言いだな、お前」


「安心しなさい。その程度の精神ダメージ、あなたの不条理な耐久力なら余裕で生存(クリア)できるわよ」


カイは、はぁ、と今日何度目か分からないため息を吐き出した。「……まあ、十中八九そうだろうな」


   ◆◆◆


その時、外のストリートで遊んでいたエミリアが、不意にこちらのガラス窓の存在に気づき、満面の天使の笑みを浮かべて小さな手を激しく振り返してきた。

「――おにぃちゃん、カイー!!」


カイは空いている方の片手を、ひらひらと気楽に挙げた。「よお、エミリア」


幼女はそれだけで大満足したように可愛らしく頷くと、再び子供たちの濁流の中へと元気に戻っていった。


ニクセラはその微笑ましい一連のシルエットを静かに見送ってから、その鋭い双眸を再び正面のカイへと完全ロックした。

「……それにしても。カイ、あなたは自らの『四天王(最高幹部)』のキャスティングに関して、本当に最高に興味深い選択(バグ)をしてくれたものね」


カイは片方の眉を跳ね上げた。「セナ、エルヴァ、ヴァドス、それからネロのことか?」


「ええ」ニクセラは椅子の背もたれにゆっくりと体重を預け、冷酷な覇気を瞳の奥に据える。

「――特に、あのナンバー8こと『ネロ(Nero)』よ」


カイは新しく注がれたお酒のグラスを口元へと運んだ。「あいつがどうかしたのか?」


ニクセラは冗談を一切排した絶対の真剣味で、カイの瞳の最深部を射抜いた。

「……あなた、本当の意味であの男がどれほど『規格外の化物(スペック)』であるかを、システム的に完璧に識別(ジャッジ)できているのかしら?」


カイは気楽に肩をすくめてみせた。「まあ、大体のパラメータの最大出力に関しては、それなりに良い線いってる確信はあるけどな」


ニクセラはその回答に対し、底知れぬ含みを持たせた不敵な笑みを、その美しい唇に静かに吊り上げた。


「――ククク。本当に……本当にそう言い切れるかしら、カイ?」

あの男の体内(コア)に眠る真の不条理を、あなたは未だ何一つとして視認できていないのよ――と、彼女の漆黒の瞳が、冷酷にそう物語っていたのだった――。


   ミレラ(Mirella)の予兆と魔王の器


カイは呆れたように彼女を見返した。

「お前、さっきから話を無駄にドラマチックに盛りすぎだろ」


「ドラマチックではなく、純然たる警告(アラート)よ」

ニクセラは重々しい音を立ててグラスをカウンターに置いた。

「いいこと、カイ? あのネロという男は、あなたがたまたま手駒(召喚)しただけの、そこら辺に転がっている有象無象の原初の悪魔なんかでは決してないわ」

カイは無言のまま、彼女の次なる言葉を待った。

「――純粋な魔力出力(スペック)の最大値だけで言うならば、私とネロの実力は『ほぼ互角』よ」


カイの表情が、微かに、しかし確実にピクリと変化した。「……マジか?」


「ええ、大真面目よ」

ニクセラは不機嫌そうに両腕を胸の前で組んだ。

「もしも私と奴が、いかなる世界の補正(システム)も排して、純粋な肉体格闘、魔力制御、そして戦闘技能(スキル)だけで殺し合いを演じたとしたら、そこに決定的な次元の差(格の違い)なんてものは存在しないわ」


カイはゆっくりと顎を引いた。「だったら、何でお前の方が上の席(魔王)に座れてるんだ?」


ニクセラはその問いに対し、最高に妖艶で傲慢な笑みをその唇に吊り上げてみせた。

「決まっているでしょう? 私が世界システムに選定された『魔王(デーモン・ロード)』だからよ」

彼女は自らのグラスを再び指先で持ち上げる。

「魔王としての絶対権能、魂に埋め込まれた魔王核(コア)、そして数万年の進化の過程で私が蓄積し、上書き(アップデート)してきた固有能力の数々――それらすべてのシステム補正があって初めて、私は奴の一歩先を行くことができる。もしもその補正(アドバンテージ)がすべて消滅したとしたら……ネロはあらゆる戦場において、私の命をリアルに刈り取りうる対等の『宿敵(ライバル)』になるわよ」


カイは納得したように頷いた。「なるほどな。つまりネロの素のポテンシャルはお前と同格だけど、お前は魔王としての特権(チート)を余分に持ってるから、その分だけ差が開いてるってわけか」


「その通りよ」

ニクセラは再びエールを口に含む。

「だからこそ、あの男をただの従順な犬だと見くびらないことね。もしもどこぞの黒幕が、奴が自らの意志で『リミッター(制限)』をかけているあの狂暴な魔力を暴走させる数式を見つけ出しでもしたら……この巨塔の防衛システムなんて、私たちが気づく前に内側から完全に崩壊(クラッシュ)するわよ」


カイの眼差しから、完全に甘さが削ぎ落とされた。「……ハナから見くびるつもりなんてねえよ」


「なら良いわ。もしもあのネロが、万に一つでもあなたに対して『反逆(エラー)』を起こしたとしたら……あなたには、奴を信じたことを後悔する時間すら与えられないかもしれないのだから」


   ◆◆◆


重苦しい沈黙が、二人の間に小さく横たわった。カイは再び、なんとなく窓の外へと視線を向けた。


ネロ。セナ。エルヴァ。ヴァドス。

彼はかつて自らの真後ろに立ち、共に地獄の戦場を駆け抜けたはずの『四頭の原初の悪魔』をこの現実世界へと召喚し、自らの直属の最高幹部(四天王)へと据えた。

しかし――彼らの中に、かつての黄金期の記憶データは存在しない。

ネロはあの命名(ネーミング)の瞬間、魂の最深部で奇妙な既視感(アノマリー)を検知してはいたようだが、それでも失われた過去の絆のシステムを完全に復元(リカバリ)するには、到底至っていない。


だが、カイはそんな不条理をこれっぽっちも気に病んではいなかった。むしろ、現状のラフな関係性の方が都合が良いとすら考えている。

過去の残滓を力ずくで押し付けるような真似はしたくない。彼はただ、今この世界に存在している彼らが「どんな奴らなのか」を、もう一度一から知りたいだけだ。かつて彼らが何者であったかなどという過去のログよりも、今そこにいる彼らのパラメータの方が、遥かに価値があるのだから。


ニクセラが不意に、自らの思考を口にした。

「……それに、あのネロという男の行動ログには、いくつか奇妙なバグ(異変)が見られるのよ」


カイは視線を彼女へと戻した。「バグ? 何がだ?」


「――奴は、常にあなたのことを『凝視(観察)』しているわ」


カイは目をパチくりとさせた。「あいつが、俺を?」


「ええ」

ニクセラの双眸が、不気味にすっと細められる。

「あなたが同じ空間にいる時、奴の意識パラメータは常にあなたへと完全ロックされている。それは、部下が絶対の主を敬うといった単純な忠誠心のログ(敬意)ではないわ。奴は……まるで、自らの記憶のインフラから消去された『何か絶対のミッシングリンク』を必死に手探りで思い出そうとするかのように、あなたの挙動を一文字一文字、執拗に精査しているのよ。そして、その傾向は日に日に強くなっているわ」


カイは数ヶ月前の記憶のログをハッキングした。

確かに、あの命名の儀式の直後、ネロが見せたあの一瞬の表情。あの男の瞳の奥に宿った、言葉では説明のつかない不気味な光。まるで――魂の檻の向こう側から、何かが今にも這い上がってこようとするかのような、あの視線。


カイは静かに視線を自らの手元へと落とした。

「……まあ、そのうち思い出すんじゃねえの?」


ニクセラは怪訝そうに眉をひそめる。「思い出すって……一体何をよ?」


カイは気楽に自らのグラスを持ち上げた。「さあな。知るかよ」


ニクセラは死んだ魚のようなジト目を彼に向けた。

「……あなた、本当に他人の質問を完全スルー(回避)する技術だけは、大陸最高位のチートスペック(達人)ね」


カイは不敵にニヤリと唇を吊り上げた。「質問に真面目に答えるより、煙に巻くタスク(はぐらかし)の方が、個人的に得意設定だからな」


「――そういう不条理な態度が最高にムカつくって言ってるのよ」


酒場のカウンターに、カイの楽しそうな低い笑い声が小さく響き渡った。


   ◆◆◆


窓の外では、エミリアが再び元気いっぱいにストリートを駆け抜けていくのが見えた。今度の彼女の手には、どこから拾ってきたのか、小さな木の棒が握られており、それをまるで聖剣のように不器用にブンブンと振り回している。カイは、その微笑ましい有様を静かに瞳に映し出し続けた。


ニクセラは、そんな魔王の最高にラフな横顔を見つめ、おもむろに言葉を紡いだ。

「――あなた、本当に『変わった』わね、カイ」


カイはチラリと彼女を見た。「変わった、だと?」


「ええ」

ニクセラは華奢な顎を自らの片手に乗せ、退屈そうに目を細める。

「あなたは……この世界に列柱する、他のどの傲慢なる魔王どもとも、根本的な初期設定(システム)が異なっているわ」


カイはフッと鼻で笑った。「そいつは、人間にしてみれば最高に有り難いバグ(幸運)ってやつだろ」


「さあ、どうかしらね」

ニクセラは再び、窓の外の復興都市へと視線を走らせる。

「……あの戦場で、あなたはあの2万のオークの軍勢丸ごと、ただの経験値(ゴミ)として皆殺しにすることだって余裕でできたはずよ」


カイは静かに頷いた。「ああ、そりゃ簡単だったな」


「奴らはあなたの不可侵領域(テリトリー)を土足で蹂躙した」


「知ってる」


「人間の民を無差別に殺戮し、街を灰にしたわ」


「知ってるよ」


「――にもかかわらず、あなたは奴らを一人残さず『生存(釈放)』させた」


カイは完全な沈黙へと移行した。彼の双眸は、ストリートの向こう側で巨大な建築資材を黙々と担いで運んでいる、数頭のオークの労働者たちのシルエットを静かに追っていた。

「……奴らは、ただの兵卒(ソルジャー)だ」


ニクセラは冷酷に言い放つ。「自らの意志で、この西側への侵略キャンペーンを選択した化け物どもよ?」


「ああ、そうだな」


「だったら、何故生かしたのよ?」


カイは少しの間、自らの思考のインフラをハッキングするように沈黙し、それから極めて淡々と、冷徹な数式を口にした。

「……あの状況から、生き残った有象無象をこれ以上皆殺しにしたところで、死んだ人間側のデータ(命)が元通りに巻き戻る(生き返る)わけじゃねえだろ」

彼の声音は、凪いだ海のように静かだった。

「それに――奴らはすでに、あの戦場で完全に『敗北(チェックメイト)』した。それだけだ」


ニクセラは言葉を挟むことなく、静かに魔王の言葉に耳を傾けた。


「あの破滅的な大侵略の絶対の責任(エラー)は、首謀者であるオークキングにある。幹部(ジェネラル)どもは王の命令に従い、兵卒どもは幹部の命令に従って足を動かしたに過ぎない」

カイは急速に元の姿を取り戻しつつある活気ある街路を見つめた。

「戦争そのものが完全に終了した以上、すでに完全に降伏を申し出て牙を抜かれた2万の捕虜を、ただの感情論で一方的に虐殺(デリート)したところで、今後の広域戦略地図(未来)において何一つの有用(メリット)も生まれねえよ」


ニクセラは片方の美しい眉を跳ね上げた。

「――それで、奴ら一頭一頭に、ご大層な『真名(名前)』まで授けてやったというわけ?」


カイは不敵にニヤリと笑ってみせた。

「……2万頭のオークのむさ苦しい顔面データをいちいち脳内に記憶するより、真名(ネーミング)で管理した方が、圧倒的に脳のメモリ(インフラ)の節約になるからな」


ニクセラは返す言葉を失い、ただただ呆然と魔王の顔を凝視した。


カイは新しく注がれた魔導酒を口に含む。

「……何だよ、そんな怖い顔してジト目で睨むなよ」


「……何でもないわ」

彼女は諦めたように、小さく首を横に振った。

「――あなた、本当に底が知れないというか、最高に頭のネジが数本ぶっ飛んでるバグ(怪物)ね」


カイは満足げに笑った。「そいつは、昔からの誉め言葉として受け取っておくわ」


   ◆◆◆


ニクセラは、再び窓の外の奇跡の光景へと視線を戻した。

オークたちは、完全に街のシステムの一部として駆動していた。ある者は建物の修理に汗を流し、ある者は人間の商人たちの荷物運びを手伝い、あろうことか、何頭かのオークは人間のハンターたちと笑い交じりにカジュアルな雑談(コミュニケーション)を交わしてすらいる。

わずか3ヶ月前まで、互いの首を剣で刈り合っていたはずの両者が、今では同じ一つのストリートを元の姿へと巻き戻すために肩を並べているのだ。


ニクセラは美しい双眸を鋭く細めた。「……カイ。あなた、本当に奴らのことを『信頼』しているの?」


カイは激しく首を横に振った。「万に一つも、これっぽっちもしてねえよ」


そのあまりにもストレートな全否定(エラー)に、ニクセラは不意を突かれて驚きに目を丸くした。


カイは淡々と先を続ける。

「『信頼』なんていう最高位のパラメータはな、相手から都合よく要求されたからって、その場で無条件でくれてやるような安っぽい代物じゃねえんだよ」

彼は窓の外のオークの労働者たちを見据えた。

「――あいつらは、これから先、このテリトリーで自らの行動を以て、その信頼を俺から力ずくで『勝ち取る(アップデートする)』のさ。それだけだ」


「……もしも、奴らが再びあなたに向けて牙を剥き、『反逆(裏切り)』を選択した場合は?」


カイは、ただ一言、この上なく不敵で冷酷な笑みをその唇に吊り上げてみせた。


「――その時は、今度こそ一頭残さず、この世界から『完全消滅(デリート)』させるだけだ。……簡単なシステムだろ?」


ニクセラはしばらく彼を見つめ、やがて満足げに小さく頷いた。

その回答(データ)は、最上位生命体である彼女の理を、完璧に納得させるに十分な質量を有していた。

目の前の白髪の魔王カイは、決してただの甘い平和主義者(お人好し)などではない。奴はただ単に、恐怖や暴力といった底の浅い手段だけで世界を『支配(ルール)』することに対して、個人的に一ミリの興味も抱いていないという、絶対の絶対強者ゆえの傲慢の裏返しなのだ。


――と、そこで。魔王ニクセラの表情から一切の余裕が消え失せ、不吉なまでの戦慄の覇気がその場を支配した。


カイは彼女の急激なパラメータ変動(異変)を検知し、チラリと視線を向けた。「ん? 今度は何だ?」


ニクセラは極めて重々しく、世界の終わりを告げるかのような冷酷な声音で告げた。


「――カイ、大変なデータ(問題)が入ったわ。大至急、自らの防衛インフラ(覚悟)を完全起動しなさい。……近いうちに、あなた、あの『ミレラ(Mirella)』と致命的な大トラブルを起こすことになるわよ」


世界の因果律が、再び最悪の方向へと駆動し始めるのを告げるかのように、酒場全体の魔法ランプが不気味にチカチカと激しく明滅したのだった――。


   デミグラ(Demigra)の狡知、そして仕掛けられた見えざる罠


カイの動きが完全にフリーズした。手にしたグラスが、口元へのデリバリーの軌道のちょうど真ん中でピタリと停止(ホールド)する。

「……は? 今、何て言った?」


ニクセラはその最高にラフな動揺を楽しみながら、意地悪く唇を吊り上げ。

「聞こえなかったかしら? ――魔王、ミレラ(Mirella)よ」


カイは数秒の沈黙の後、ゆっくりとグラスをカウンターへと下ろした。「……あの女が、一体どうしたって言うんだよ」


ニクセラは再びエールを一口含む。

「――どうやらあなた、あの女に完全に『気に入られちゃった』みたいよ?」


――シーン。

酒場のカウンターを、再び不自然極まる完全な静寂(エラー)が包み込んだ。


カイは能面の表情のまま彼女を凝視し、ニクセラもまた、極上の愉悦を瞳に宿して見つめ返す。

窓の外では、相変わらず子供たちの無邪気な笑い声が響いていた。露店の商人が焼き立てのブレッドの香りを売り込み、近くの工房からは、金属をリズミカルに叩くハンマーの乾いた音がカン、カン、と響き渡る。地上の誰もが、この空間の気圧の反転に気づいていない。


カイは引きつった声をようやく絞り出した。「……一体、いつの間にそんなバグが発生したんだ?」


ニクセラは気楽に肩をすくめてみせた。「さあね。十中八九、あなたと最初にエンカウントしたあの瞬間からじゃないかしら?」


カイは露骨に不快そうに眉をひそめた。「随分と大雑把な因果データだな」


「詳細な分析(スペック)を提示してやる義理は私にはないわよ」


カイは気怠げにカウンターの木座に肘をついた。「……大体お前、『気に入られた』ってのは、具体的にどういうシステム(意味)で言ってるんだよ?」


ニクセラは、本当にこの男は自分の魅力のパラメータに無自覚ね、と言わんばかりの呆れ顔を向ける。

「そのままの意味よ。――奴は、あなたを完全に『信頼(クレジット)』しているわ」


「そいつは、同じ領土(スペース)にいる以上普通の設定だろ」


「奴は、あなたを絶対の強者として『尊敬(リスペクト)』している」


「それも、魔王同士の最低限のビジネスマナーの範疇だ」


「――そして奴は、これから先もずっと、あなたの『真後ろ(真横)』に居座り続けたいと本気で願っているわ」


カイの思考が一瞬だけフリーズした。「……それは、急激に普通じゃねえな(エラー)」


ニクセラは大爆笑を響かせた。「そうでしょうとも! 完璧なアノマリーよ!」


カイは鬱陶しそうに、自らの白髪の混じる後頭部を乱暴にガシガシと掻きむしった。

「おい、言っとくけどな……俺はあの女に対して、何一つのアプローチ(不条理)も仕掛けてねえからな?」


「分かっているわよ」


「だったら何で俺なんだよ?」


ニクセラは華奢な肩をくすくすと揺らした。「さあね。案外、あの大人びた女はあなたのその気怠げで不条理な『性格(パーソナリティ)』がお好みなのよ、きっと」


カイはガチで心外だと言わんばかりに、完全に困惑しきったジト目を向けた。「……俺の、性格?」


「ええ」


「俺の性格のどこにバグ(問題)があるって言うんだよ、一体」


ニクセラはピタリと笑みを消し、哀れなゴミを見るかのような完全な死んだ魚の目で彼を見つめた。

「……あなた、本気で私からその問いに対する『誠実で冷酷な全開示( honest answer )』を聴取したいのかしら?」


カイは大急ぎで、激しく首を横に振った。「――いや、万に一つも要らん。データ容量の無駄だ。即消去しろ」


「賢明な判断(スルー)よ、カイ」


   ◆◆◆


カイが仕切り直すように魔導酒をもう一口含むと、ニクセラは表情のトーンを一段と落として先を続けた。

「……いいこと、カイ。ミレラはあのナンバー8こと、ネロの『過去のログ(歴史)』に深く関わっているわ」


カイは静かに顎を引いた。「ああ、そいつは俺も把握してる」


「そして今、そのネロは記憶を消去された状態で、あなたの絶対の配下(手駒)としてサーブしている」


「そうだな」


「――ミレラという女はね、あなたの中に、あの最強の悪魔ネロの真真横に並び立つに相応しい、圧倒的な『王の器』を視認してしまったのよ」


カイは無言でグラスを見つめ、思考の海へと沈んだ。

確かに、その解釈であれば因果の数式が通る。ミレラは何千、何万年という気が遠くなるほどの星霜の中を、ただひたすらに失踪したかつての絶対の主(ネロ)を求めて彷徨い続けていたのだ。いつか奴の真横に立っても恥じないだけの圧倒的な絶対強者へと、自らをアップデート(進化)させながら。

そして今、ネロは戻ってきた。しかし、そのネロが自らの意志で首を垂れ、絶対の忠誠を誓っている絶対者が――他ならぬ、この目の前の白髪の魔王カイなのだ。


カイは、はぁ、と小さく息を吐き出した。「……まあ、言いたいことのロジックは理解したよ」


ニクセラは唇の端に不敵な笑みを戻した。「なら、精々その首を刈り取られないよう、警戒パラメータを上げておくことね」


カイはチラリと彼女を見た。「何でだよ?」


「何故って――あなたが本当に監視(オブザーブ)し、牙を研いでおくべき怪物は、あのミレラ『だけ』では決してないからよ」


――その瞬間、ニクセラの声音のボリュームが物理的に反転した。

さっきまで店内に満ち満ちていた、あの最高にラフでカジュアルな戦後処理(日常)の空気が、一瞬にして消滅する。背筋を直接氷の刃で撫で回されるかのような、圧倒的な最高警戒(アラート)の波動。カイはその異常なパラメータ変動を、本能のセンサーで即座にハッキングした。


「……誰のデータが入り込んだ、セナ?」


ニクセラは手元のグラスを、音もなく静かにカウンターへと置いた。


「――魔王、デミグラ(Demigra)よ」


カイの双眸の奥の覇気が、重々しく、真剣なそれへと切り替わる。「……あの、列柱の魔王の一角か」


「ええ」ニクセラは力強く頷いた。「いいこと、カイ? あの怪物のポテンシャルだけは、絶対に、万に一つも甘く見ないことね」


カイはわずかに上体を前へと傾け、彼女の瞳の奥を覗き込んだ。「……奴は、そこまで規格外の『戦闘出力(パワー)』を誇る化物なのか?」


「単純な純粋暴力(攻撃力)のスペックだけで言うなら、必ずしも他の魔王を圧倒しているわけではないわ」

ニクセラの双眸が、不気味にすっと冷酷なそれへと凝固していく。

「――あの男が本当に最悪なのは、その脳内に埋め込まれた、世界の理すら欺く圧倒的な『狡知(カンニング)』よ。奴は標的の生態ログ、日常のルーティン、思考の癖(バグ)、そして魂の最深部にハイドされた致命的な『弱点(エラー)』に至るまでを、何百年もの時間をかけてストーカーのように徹底的にプロファイリング(分析)する。そして、周囲の因果律(シチュエーション)を完璧にコントロールし、標的自身が『自らの意志で選択した答え』のすべてが、結果として奴のプランの都合の良いコマとして駆動するように仕向けるのよ」


カイは無言で、その最悪のスペックを脳内にトレースした。「……中々の陰湿なチートスペックだな」


彼女は息をもつかせぬトーンで先を続ける。

「そして、奴が本当の意味で『次なる一手(チェックメイト)』を執行する瞬間、標的はすでに、奴が何百年も前からデザインしていた『絶対の処刑場(座標)』の上へと、自らの足で進んで立たされているのよ」


カイは完全な沈黙へと移行した。


ニクセラはさらに上体を寄せ、その声を、酒場の魔法ランプが激しくチカチカと明滅するノイズの真下へと滑り込ませた。

「いい、よく聞きなさい、カイ。デミグラという天災は、奴がその醜悪な姿を世界の表舞台へと現した『後(アフター)』に、力ずくで対処できるような底の浅い脅威ではないのよ。奴が姿を現したその瞬間には、こちらの防衛インフラ(未来)はすべてぶっ壊され、すべてが手遅れ(タイムオーバー)になっている。――奴なら、あなたの誇るあの四天王(最高幹部)どもの絆を内側からハッキングして互いに血の果てし合い(内乱)を演じさせ、ミレラのあなたへの『好意』を最悪の罠へと変換し、ネロの消去された記憶の空白(バグ)を都合よく利用し、あろうことか、あなた自身が『大切な民を守るために下した最高の決断』そのものを使って、あなたの守りたかった大切な民を跡形もなく完全消滅(デリート)させることすら、呼吸をするようにやってのけるわよ」


カイの双眸が、不気味に鋭く、鋭く細められた。

「……つまり奴は、一振りの武器すら抜くことなく、こちらの国家(オーダー)を根底からクラッシュできる、と」


「その通りよ」

ニクセラの白い指先が、グラスの縁をパキリと小さな悲鳴が上がるほど強く締め付けた。

「だからこそ、奴が未だ目立った軍事行動(パラメータ)を起こしていないからといって、それを『平和(安全パイ)』だと定義して思考停止しているなら……あなたは奴に、首を刈り取るための最高の猶予(時間)を無償でプレゼントしているのと同じよ。この3ヶ月間の温かな平穏が、奴の『待機ログ』だなんて思わないことね。――奴の最悪のシナリオ(侵略)は、もうとっくの昔に『完全始動』していると仮定しなさい」


地獄の終わりのカウントダウン(警告)が、二人の間の空間へと、鉛のような質量を伴って重々しく沈殿していった。


   ◆◆◆


カイは数秒の間、自らの思考のインフラをハッキングし、やがてフッと息を吐き出した。

「なるほどな……。要するに奴は、『戦いが始まる前に、すでに勝利の因果を確定させている』っていう、最高にめんどくさい人種(タイプ)ってわけか」


「――まさにその通りよ」


カイはゆっくりと椅子の背もたれに体重を預け、呆れたように首を横に振った。

「だったらさ、あいつの初期設定の名前、ガチで変えた方がいいだろ」


ニクセラはパチリと大きく瞬きをした。「……は? 名前のアップデート(変更)?」


カイは至って真面目なトーンで先を続ける。

「ああ。デミグラ(Demigra)なんていう大層な文字列じゃなくて、今すぐ『狡猾(Cunning)』っていう名前にシステム上から上書き(リネーム)してやるべきだわ、絶対に」


――シーン。

再び、酒場のカウンターに不条理な静寂が舞い戻った。


魔王ニクセラは死んだ魚のようなジト目でカイを凝視し、カイもまた、最高に大真面目な顔で見つめ返す。「……何だよ、何不満そうな顔してんだよ」


ニクセラは呆れたようにゆっくりと頭(こうべ)を横に振った。「……本当に、あなたって男は……」


カイは不快そうに目を細めた。「お前、今ガチで『このクソ白髪、本当に空気読まねえな』って脳内で呟いただろ」


「万に一つもそんなこと考えてないわよ」


「いや、十中八九考えてた。ログに残ってるぞ」


「残ってないわよ」


カイは、はぁ、と大きいため息を吐き出した。「まあ、いいけどさ」


ニクセラは気を取り直すように再びグラスを持ち上げ、表情から一切のジョークのパラメータを消去した。

「……けれど、本当に、冗談抜きで言っているのよ、カイ」


カイは彼女の瞳の最深部を見つめ返し、今度はその唇から一切のラフな笑みを消し去ってみせた。「――ああ、分かってるよ。甘く見るつもりはねえわ」

彼は視線を、再び窓の外の美しい復興都市の青空へと向けた。

「安心しろ。ここにある日常(我が家)をぶっ壊されるくらいなら……その前に、俺の防衛パラメータを限界まで完全起動(フルブースト)させておくさ」


しかし――ニクセラは、そんな彼の決意に対し、最高に冷酷な全否定(エラー)を突きつけた。


「いいえ。――そんな生温い『防衛(ガード)』の次元では、到底足りないと言っているのよ」

彼女の声は、かつてないほどの鋭さと覇気を帯びて、カイの鼓膜へと容赦なく突き刺さる。

「あなたがこの酒場を出ていく前に、これだけは魂のコアに刻み込んでおきなさい。――デミグラという化け物は、万に一つも、あなたに対して正々堂々とした正面衝突(オープン・バトル)なんていう脳筋な選択肢は選ばない。奴が狙い撃ちにするのは……あなたがこれまで必死に紡ぎ上げてきた周囲との『絆(リンク)』よ。あなたが無条件で信頼している『背後の人間(仲間)』よ。そして、あなた自身が『大したバグではない』と直視を拒否(スルー)している、あなた自身の魂の『空白(エラー)』そのものよ」


彼女はカイの瞳を真っ向から射抜き、冷酷なる因果の数式(結末)を宣告した。


「――もしもあなたが、奴にただの一ミリの『隙(オープニング)』でも開示してみせなさい。奴はその小さなバグを、あなたと、あなたのテリトリーにいる大切な者たち全員の首を永遠に締め上げる、抗うことのできない最悪の『絶対の鎖(チェーン)』へと変換してみせるわよ」


世界の因果律が、その最悪のデミグラの狡知によってすでに侵食され始めているかのように――彼らの背後の棚に並ぶ無数の魔導酒のボトルが、キィィィィンと、不気味で不吉な共鳴音を低く響かせ始めたのだった――。


   誓いと刹那の光景、そして静かに研ぎ澄まされる絶対の牙


カイの双眸の最深部に宿った真剣な覇気は、もはや一ミリも揺らいではいなかった。

「――奴の思い通り(プラン通り)には、絶対にさせねえよ」


ニクセラはその魔王としての覚悟を証明する眼差しをもう数秒だけ見つめ返し、やがて満足げに深く顎を引いた。

「……良いわ。なら、私が今授けたすべての警告(データ)を、一文字たりともその脳内インフラから消去(忘却)しないことね」


   ◆◆◆


絶対者たる二柱の魔王は、何事もなかったかのように自らの手元のグラスへと意識を戻した。

しばらくの間、酒場のノイズの真下で、心地よい静寂の因果がただ静かに流れていく。


やがて、カイが少しだけ口元を緩めて沈黙を破った。

「……それにしてもさ、お前、今日は随分と熱心に俺へ警告(アドバイス)をデリバリーしてくれるじゃねえか」


ニクセラはグラスを弄びながら、不機嫌そうに視線を逸らす。「それが何か?」


カイの唇に、からかうような不敵な笑みが浮かび上がる。

「――もしかして、お前……ガチで俺の心配をしてくれてるパラメータ(優しさ)でも起動させてるのか?」


ニクセラは弾かれたように顔を完全に背けた。「万に一つも、これっぽっちもあり得ないわよ」


カイは片方の眉を意地悪く跳ね上げた。「随分と説得力(ソース)の低い全否定だな」


「私はただね、自らの制御も満足にできない新たな『強力な大バカ野郎(イレギュラー)』が、この大陸で無駄な二次災害(トラブル)を引き起こす有様を見たくないだけよ」


カイは至って大真面目な顔で、人差し指を自らの胸へと向けた。「……大バカ野郎って、俺のことか?」


ニクセラは重々しく首を縦に振った。「ええ、他に誰がいるのよ」


「おい。俺の設定データに『大バカ』なんていうバグ(属性)は存在しねえよ」


ニクセラが完全な死んだ魚のジト目で彼を凝視すると、カイもまた、真っ向からその視線を見つめ返した。

数秒の視線のラリーの後――カイは気まずそうに、ふっと視線を逸らした。

「……まあ、大半の部分に関しては、だけどな」


プッ、とニクセラの唇から、我慢しきれなかった小さな笑い声が漏れ出た。

カイもそれにつられるように、フッとラフな笑みをその端正な顔に咲かせる。

さっきまで店内を限界まで圧迫していたあの最悪のハルマゲドンの緊律(プレッシャー)は、今度こそ完全に綺麗さっぱりと消滅した。――しかし、魔王ニクセラが提示したあの『デミグラの狡知』という名の戦慄のデータだけは、カイの脳内インフラの最深部において、決して消えない絶対のアラートとして刻まれ続けていた。


   ◆◆◆


その時、窓の外からトトトッと足音が近づいてきたかと思うと、エミリアがその小さな顔面をガラス窓へと不器用にピタリと力一杯に押し付けてきた。鼻を潰したその最高にユーモラスな表情のまま、彼女は狂ったように激しく小さな手を振り返してくる。

「――おにぃちゃん、カイー!!」


カイは空いている方の片手をひらひらと挙げた。「よお、エミリア」


幼女は窓越しに、今度は店内のフロントドアの方を指先で何度も何度も力強く差し示した。

カイはその身振り(ログ)を即座にハッキングする。

「……なるほどな。要するに、今すぐ俺にそこから『外へ出てこい』っていう強制イベント(命令)か?」


エミリアはガラスの向こうで、コクコクと激しく首を縦に振った。


カイは真横のニクセラをチラリと見た。「……どうやら、俺に対する公式の強制召喚(イベント)が確定したらしいわ」


ニクセラは肩を揺らしてクスクスと笑った。「見ての通り、オールグリーン(確定)のようね」


カイはよっこらしょと億劫そうに席を立った。手元に残っていた魔導酒を綺麗に飲み干すと、空のグラスをトントンと静かにカウンターへと置く。


彼が歩き出そうとしたその瞬間、待ちきれなかったと言わんばかりに、カチャリと酒場のドアを叩き開けてエミリアが元気に店内へと直接突入してきた。彼女は一直線にカイの元へと突撃し、その衣服の裾をギュッと掴み取る。「カイ!」


カイは少しだけ腰を落とし、彼女の目線に合わせた。「何だよ、そんなに急いで。何か不条理なトラブル(エラー)でも発生したか?」


エミリアは最高に得意げなドヤ顔を浮かべながら、自らの小さな背中の後ろに隠していた両手を、じゃじゃーん!と目の前へと突き出した。

そこにあったのは――再建中の路地の片隅にひっそりと咲いていたであろう、小さく、可憐な一輪の野の花だった。


カイの唇から、自然と柔らかな笑みが溢れ出た。「へえ……素晴らしいな。奇麗な花じゃねえか」


エミリアは胸を張る。「これね、おにぃちゃんにあげる!」


彼女はその小さな花を、カイの手のひらの上へと優しく手渡した。

カイは自らの無骨な手の上に鎮座したその小さな生命のデータを、愛おしそうに見つめた。「……おう。ありがとな、エミリア。大切にするわ」


エミリアは最高に誇らしげに、満面の天使の笑みを咲かせた。

カウンターの席からは、魔王ニクセラがその不条理ながらも美しい共生の光景を、顎を乗せたまま静かに瞳に映し出している。


すると次の瞬間、エミリアは当然の権利を行使するように、カイの手をその小さな両手で力一杯に握り締めた。「さあ、早く行こう! 一緒に遊ぶの!」


カイは目をパチくりとさせた。「おいおい、お前、さっきまでストリートの真ん中で他の子供たち(友達)と元気に走り回ってたんじゃねえのかよ?」


幼女は一切の妥協を排した絶対の瞳で言い放った。「他の子じゃダメなの! ぼくは、カイと一緒に遊びたいの!!」


カイは、はぁ、と今日何度目か分からないクソデカため息を吐き出した。「――はいはい、分かりましたよ。お嬢様」


エミリアは彼が承諾した瞬間に、その小さな肉体からは想像もつかないほどの腕力(パラメータ)を発揮し、カイの身体をフロントドアの方へと力ずくでグイグイと引っ張り始めた。


カイは連行されながら、真後ろのニクセラへとチラリと苦笑いを向けた。「……じゃあな、ニクセラ。また後で」


ニクセラは自らのグラスを優雅に少しだけ掲げてみせた。「ええ、精々その人間のガキに『圧殺(デリート)』されないよう、命懸けで生存(クリア)してくることね」


カイは不敵にニヤリと唇を吊り上げた。「ああ、最善を尽くすわ」


彼はそのまま、エミリアに手を引かれるままに賑やかな外のストリートへと歩み出た。

彼らの両足が舗装された街道へと着地したまさにその刹那、幼女は待機状態を解除されたロケットのように猛烈なスピードで、他の子供たちの濁流の中へと魔王を直接引きずり込んでいったのだ。カイはあまりの超展開(神速の移動パラメータ)に、まともな反応パラメータを起動させる猶予すら与えられなかった。


   ◆◆◆


魔王ニクセラは、一人静まり返った酒場のカウンターに居座り続けていた。

彼女は巨大なガラス窓の向こう側、昼下がりのストリートで繰り広げられているその不条理なチェス盤(光景)を、ただ無言で見つめ続けている。


世界を震撼させている、正体不明の新世代の魔王。

世界の誕生から存在するあの最上位生命体『原初の悪魔』を、あろうことか四頭同時に強制エンゲージして自らの四天王へと書き換えた絶対の怪物。

天災のごときオークキングの肉体を、指先一つで一瞬にしてこの世界から直葬せしめた、絶対不可侵の破壊者。

――そんな、世界の因果律の頂点に君臨する神のごとき怪物が、今。

たった一人の11歳の人間のガキに手を引かれ、ただ「一緒に遊んでほしい」という極めて底の浅いタスクを完遂するためだけに、ストリートの真ん中で無様にドタドタと走り回らされているのだ。


ニクセラは手元に残っていたエールを再び一口含むと、呆れたように、しかしどこか狂おしいほどの愛おしさをその瞳に宿して、小さく首を横に振った。

「……ククク。本当に、この世界(リアル・ワールド)の初期設定っていうのは、どこまでも狂っていて、最高に『奇妙なバグ』に満ち溢れているわね」


窓の外では、エミリアに引っ張られていたカイが、唐突に街道の小さな窪みに足を取られ、無様におっとっと!と派手にバランスを崩してよろめいていた。


それを見たエミリアが、最高に楽しそうにケラケラとお腹を抱えて大爆笑する。「あはははは! おにぃちゃん、カイ、最高にかっこ悪いー!!」


カイは体勢を立て直すなり、恥ずかしそうに露骨に不機嫌なツラをしてみせた。「おい! 今のは世界システム側の物理演算(バグ)のせいだろ! 笑うな!」


幼女はそれを見て、さらに狂ったように激しく大爆笑を響かせる。

カイは、はぁ、と大きいため息を吐き出したが――やがて、その唇の端には、この上なく穏やかで優しい、ラフな微笑みが自然と浮かび上がっていたのだった。


今のこの瞬間において、この戦場(座標)には、世界を滅ぼす大戦争などどこにも存在しなかった。

血生臭い鉄血の戦場も、死体の山も、蹂躙を繰り返す破滅の軍勢も、領土拡大に強欲な牙を剥く傲慢なる魔王の姿すらも、そこには何一つとして登録されてはいない。

そこにあるのは――ただ驚異的なスピードで息を吹き返しつつある、ありふれた復興都市の雑踏。

ストリートの真ん中で、何の不安もなく無邪気な笑い声を響かせて走り回る子供たち。

――そして、どういう因果律のバグなのか、昼下がりの穏やかな木漏れ日の中で、たった一人の小さな女の子に手を引かれて、最高にラフな「ごっこ遊び」のタスクを従順にサーブさせられている、一人の白髪の魔王のシルエットだけだった。


――しかし。

その美しく、あまりにも眩い平穏な氷の水面のすぐ真下においては。

あの不穏なる軍事大国『シミズ帝国(東の帝国)』は、未だ不気味な完全沈黙(サイレンス)を保ったまま、世界のパワーバランスの裏側で牙を研ぎ澄まし続けていた。

あの破滅的なオークの軍勢に超高度な最高軍事装備(アーティラリ)を直接横流しし、大戦争の絵図を描いた真のマスターマインド(黒幕)の個人名は、依然として深い霧の向こう側にハイドされたままだ。

列柱の魔王の一角、狡知の天災『デミグラ』は、今この瞬間も世界のどこか暗黒の深淵において、カイの首を刈り取るための絶対の鎖(チェーン)を着実に編み上げ続けている。

魔王『ミレラ』の、カイという男の器に対する底知れぬ興味と好意のパラメータは、日に日にその出力を跳ね上げ。


――そして何より。

あの巨塔の第70階層の玉座に直立する絶対の悪魔――ネロ(Nero)の魂のコアの最深部には、未だに、いかなる魔導数式を以てしても解説不可能な『奇妙な逆流の波動(バグ)』が、生々しく脈動し続けていたのだ。

彼が遠く離れたあの白髪の魔王のシルエットを凝視する度に、消去されたはずの過去の記憶のインフラの底から、冷酷なまでの絶対の絶対の覇気の声音が、ずっと、ずっと低く囁き続けている。

――いいか、ナンバー8。お前は……お前という個体は、世界が誕生するよりも遥か昔の黄金期において、すでにこの男に……この『カイ』という絶対者に、自らの魂のすべてを捧げてサーブしていたのだ、と。


しかし――その失われた過去の最高位の絆のシステム(記憶データ)は、世界の強固な封印の檻の向こう側にあって、未だ彼らの指先には、万に一つも届いてはいなかった。

現時点においては、本当に、ただそれだけだった。


そして――当の魔王カイ自身もまた、この目の前の最高にラフで、最高に温かな昼下がりの『平穏な猶予(一時停止)』が、これから先、一体どれほどの時間のパラメータ(長さ)を残されているのかなど――万に一つも、知る由はなかったのだった――。

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