第96話:ありふれた日々
あの破滅的なオークの大侵略から、早くも3ヶ月。
灰塵に帰したはずの西側の陥落都市群は、今やかつて人々が暮らしていたあの愛おしい日常のシルエットを完璧に取り戻しつつあった。
瓦礫の山だった場所には頑丈な新しい民家が建ち並び、シャッターの叩き開けられた市場には再び活気ある叫び声が響き渡り、ズタズタに引き裂かれていた街道は綺麗にリペアされ、避難していた旅人や商人の濁流が続々と街へと舞い戻ってくる。そして――人々はゆっくりと、あの戦争の最中にこの地面がどれほど無残な血と硝煙に塗れていたかを、良い意味で「忘却」し始めていた。
それこそが、『平穏』という名のシステムの持つ奇妙な初期設定だった。
それは決して、ファンファーレのような大袈裟なアラートを鳴らして訪れるわけではない。ただ、何でもない、いつも通りの ordinary(普通の)朝の光景の中に、音もなく静かに『同期』されるものなのだ。
◆◆◆
【不条理なる絶対領域――『エリュシオン・オーダー(Elysian Order)』第1階層】
地平線の彼方から太陽の光が微かに差し込む頃、この全100階層からなる巨大な巨塔の最下層は、すでに爆発的な熱量と活気によって駆動し始めていた。
ギルド本部のエントランス前には、未明から長蛇の列をなす冒険者たちがひしめき合い。商店街の商人たちは威勢よく商品を店頭へとディスプレイし。最高学術院から派遣された変執的な研究者たちは、大量の古代魔導書や未知の測定機器を抱えて「おそらくこちらの座標が正しいはずじゃ!」と、自らが信じる方角へ向かってドタドタと大急ぎで大移動を繰り返している。居住区の美しいストリートでは、子供たちが何の不安もなく元気いっぱいに駆け回っていた。
――そして。この巨大な要塞の片隅では、今日も今日とて、世界システムに登録されていないちょっとした『バグ(トラブル)』が発生していた。
「――お、おい! 魔王カイ様!!」
白髪の青年カイが億劫そうに振り返ると、そこには数メートル後方で顔面を完全に蒼白に引きつらせた一人の若き駆け出し冒険者が、直立不動のままガタガタと震えながら直立していた。
「ん? 何だよ。朝っぱらから俺に何か用か?」
若いハンターは、恐る恐る自らの真後ろにある『巨大な壁面』の座標を、震える指先で差し示した。
そこには、何らかの強烈な衝撃によって物理的に激しく粉砕された、直径数メートルはあろうかという文字通りの「クソデカ大穴」が、不気味にパックリと口を開けていたのだ。
「あ、あの……本当に申し訳ありませんっ……!!」
カイはその巨大な大穴をじーっと凝視し、それから目の前の若い冒険者のツラを見つめ、再び大穴へと視線を戻した。「……一体全体、どういう物理演算を経由したら、俺の我が家の壁にそんな見事な風穴を開けられるわけ?」
「そ、それが……ちょっとギルドの演習用モンスターとコンバット(戦闘訓練)をしておりましたら、こちらの攻撃の最大出力パラメータの制御に完全失敗いたしまして……っ」
カイは納得したように、気楽に小さく顎を引いた。「ああ、なるほど。訓練中の不可抗力ってやつか。了解」
冒険者はそのあまりにもラフな反応に、拍子抜けしたように目を丸くしてパチくりとさせた。「……え? あ、あの……激怒されて、今すぐこの空間から完全消滅させられるのでは……?」
カイは面倒くさそうに首を横に振った。「まさか。そんな無駄なエネルギー、俺のシステムには登録されてねえよ」
彼は無残に粉砕された大穴の断面へと近づき、その右手のひらをポン、と軽く石材の表面へと叩きつけた。
「――そいつは、勝手に『自己修復』されるから気にするな」
「……は? 壁が、自己修復……?」
「――起動しろ。『創世の核』」
カイの唇からその真名が紡がれた、まさにその瞬間だった。
粉砕された壁面の最深部から、まばゆいばかりの純白の魔力のライトライン(発光回路)が、まるで生き物のように網の目のごとく爆発的にストリート中へと拡散。次の瞬間、床に転がっていた無数の石材の残骸が、世界の物理法則をあざ笑うかのように重力を完全に無視してフワリと宙へと浮き上がり、パズルピースのように超高速で元の座標へとカチカチカチカチッ!と再結合され始めたのだ。
ひび割れた断面が瞬く間に融解して閉じ合わさり、欠損していた巨大な断面のすべてが完全な自動演算によって再構築されていく。
わずか数秒の後。そこには、傷一つ、汚れ一つ存在しない、完全に新品のままの強固な絶対防衛壁が、何事もなかったかのように直立していた。
若い冒険者は、その目の前のチート不条理劇に、完全に顎が床に激突せんばかりに驚愕し、呆然と立ち尽くす。「……す、凄すぎる。こんなの、ただの便利機能の次元を超えてるぞ……」
カイは唇の端に不敵な笑みを浮かべた。「だろ? 最高に『快適』な初期設定(仕様)だわ」
彼はそれだけ言い残すと、ひらひらと片手を振って気楽にその場を立ち去っていった。
一人残された若いハンターは、自らのパーティーの仲間たちと顔を見合わせ、魂を奪われたように呟いた。
「……おい。俺……ガチでこのタワーのこと、一生の推し(我が家)として愛しちまいそうだわ……」
真横の相棒も、深く、力強く頷く。「ああ、全くの同感だ。ここに住めるなら、外の脆弱な人間の王国になんて二度と戻りたくねえよ」
カイはその背後から聞こえてきたハンターたちの最高にラフな雑談ログを本能のセンサーでハッキングし、歩きながらフッと口元を和らげて微かな笑みを浮かべた。
彼が自らの全魔力を磨り潰してこの『エリュシオン・オーダー』という絶対の巨塔を大地へと構築した時、その真の意図は、外の有象無象を拒絶するための冷酷な『鉄血の要塞(要塞)』などでは決してなかった。
――だが、こうして時間が経過するにつれて、この巨大な構造物の内部が、人間の民や魔物たちにとっての「かけがえのない我が家」へと急速にアップデートされつつある現実を、彼は肌で実感していた。
自動修復される一枚の壁。活気に溢れ返る市場の喧騒。そして国境を越えて舞い戻ってくる旅人たちの足音。そのすべてが、かつて彼が命を賭して、世界の滅亡から守り抜くと誓った『守るべき未来(日常)』そのものの形を成していたのだ。
今、彼はただ闇雲に、見えない破滅の脅威から明日を守るための孤独な防衛戦を演じているわけではなかった。
彼は、自らの手で編み上げたその愛おしい『未来のシルエット』が、今まさに目の前で力強く駆動し、形作られていく有様を、最高に贅沢な特等席から直視していたのだから。
◆◆◆
【エリュシオン・オーダー――某階層・『中央統括研究室』】
同じ頃、この巨塔のさらに中層に位置する、一般の立ち入りが完全に封鎖された秘匿空間。
最高幹部(四天王)の一角、情報統括の絶対者『ユイ(Yui)』は、部屋中央のコントロールシートへと深く腰掛け、自らの周囲を埋め尽くさんばかりに浮遊する大量の『ホログラフィック・スクリーン(魔導画面)』の濁流へと、その鋭い視線を走らせていた。
広域の戦略地図。各階層の戦況報告書。登録住民の人口推移データ。西側諸国との交易ルート。危険魔物の生態アクティビティ。そして陥落都市の建築進捗プロセス。――彼女はその常人であれば一瞬で脳髄が消滅するほどの膨大なマルチタスク(同時演算)を、ただの一秒の遅延すらなく同時にハッキングし、精査し続けていたのだ。
いまや、この『エリュシオン・オーダー』という独立国家の駆動システムは、日に日にその複雑性を限界まで跳ね上げつつあった。それは、内部インフラが不安定に陥っているからでは決してない。――むしろ、その逆だ。
この絶対領域のポテンシャルが、世界のシステム側の予想を遥かに超えるスピードで『拡大』し続けているがゆえのバグ(狂騒)だった。
毎週、毎週、国境のゲートを叩き割る勢いで、新たなる訪問者のデータ(人口)がこの空間へと流入してくる。腕自慢の冒険者、強欲な大商人、変執的な研究者、一流の職人、ただの放浪の旅人、そして――戦争で我が家を失った人間の家族たち。
この全100階層の不条理な巨塔は今や、大陸全体の富と生命が自動的に引き寄せられる、絶対の『終着点』へと格下げ……いや、格上げされつつあったのだ。
ユイは白い指先を滑らせ、一つの方域人口データをパチンと消去した。
「……第1階層から第10階層における住民の登録者数、および一時滞在者の増加パラメータ……依然として右肩上がりのバースト状態を維持、ね」
彼女が次の画面をハッキングすると、そこには黄金のグラフが弾けるように投射される。
「……さらに、外部との魔導物資の交易アクティビティの総出力……先週比で『23パーセント』の超急上昇。――ククク、実に興味深いデータ(結果)だわ」
ピン――ポーン。
その時、彼女のメインインフラの真ん中に、一通の最高警戒のシステム通知がフラッシュバックした。
『――新規リクエスト検知:西側諸国最高商業ギルド・連合会(Western Merchant Association)』
ユイがその魔導暗号を瞬時に解読すると、そこに記されていた要求数式は、驚くほどシンプル、かつ強欲なものだった。
――我が商業連合会と、魔王カイ様の絶対領域『エリュシオン』との間に、いかなる関税も排した永遠の『永久特権交易ルート(パーマメント・ルート)』を正式に構築する許可を授かりたい。
ユイは、その強欲な人間の書類をじーっと見つめ、やがてその美しい唇に、この上なく不敵で楽しそうな笑みを浮かべた。
「――ククク。これは、近いうちに、我が愛しき主のデスクの上が、処理し切れないほどの大量の『書類仕事』の瓦礫の山で完全クラッシュすることになりそうね」
彼女はフッと画面を閉じる。――と、そこで、自らの思考のインフラに致命的なバグ(気づき)が発生し、その動きが完全にカチリとフリーズした。
「……待って。あのクソ白髪、十中八九……この大量のクソめんどくさい政治書類の山、全部『ユイ、あとは適当にオールグリーン(処理)しておいて』って言って、私のデスクへ丸投げしてくる確率が……『99.8パーセント』ね」
ユイははぁぁぁぁ、と、心底嫌そうに椅子の背もたれへと身体を崩し、特大のため息を吐き出した。
「……当然の初期設定(仕様)よね、あの男なら。本当に、最高に人使いの荒い魔王様だわ……」
◆◆◆
【エリュシオン・オーダー――下層階層・『冒険者居住区』】
同じ頃、ユイのいる中央統括室から遥か数階層下にある、活気ある大通り。
人間の少女『リン(Rin)』と『ソラ(Sora)』の二人は、ギルドから受注した新たなるクエストに向けて、それぞれの装備パラメータの最終チェック(プロファイリング)を行っていた。
ソラは屈み込み、自らの愛用する魔導ブーツの革紐をギュッギュッと強く締め付け。リンは腰元に吊るした白銀の聖剣の刀身を引き抜き、その刃の切れ味を鋭い視線でハッキングしている。
「――ねえ、ソラ。万に一つも『回復ポーション』のインベントリ(所持数)に不足はないでしょうね?」
ソラはブーツをトントンと地面に叩き、立ち上がって胸を張った。「もちろん! 完璧にオールグリーン(準備万端)だよ、リン!」
「……具体的に、何本のポーションを持ち込んだの?」
「――『6本』だよ!」
リンの動きがカチリと停止し、その端正な顔面を死んだ魚のジト目へと切り替えて相棒を凝視した。「……6本?」
ソラは当然だと言わんばかりに、コクコクと元気よく首を縦に振る。
「……何故、たったの6本なのよ?」
「何故って、これから私たちが侵入(潜入)するのは、あの外縁の『大原生林セクター』だよ?」
「だったらなおさらよ。あそこの危険魔物の戦闘出力パラメータ、初期設定の段階から無茶苦茶に跳ね上がってるのよ?」
ソラはへへっと最高にラフな笑みを浮かべた。「だからこそ、わざわざ行く価値があるんじゃん! 最高の経験値だよ!」
リンははぁ、と重いため息を吐き出した。「あなた、最近、だんだんとあの我が家の白髪の魔王か、あるいはそこら辺の脳筋冒険者どもと全く同じ『戦闘狂の思考ログ(バグ)』がハッキングされ始めてない?」
「バグじゃないよ! 私は正真正銘、大陸最高位を目指す『冒険者』だもん!」
「……まあ、それは紛れもない確定データ(ファクト)だけどさ」
するとそこで、ソラは何かの数式の矛盾に気づいたかのように、パチリと大きく瞬きをして動きを止めた。「――あれ? 待って、リン」
リンが怪訝そうに見つめる。「何よ、急に」
「……よくよく考えたらさ、私、最高位の『神聖回復魔術』の固有スキル、初期設定の段階で完璧にマスター(完全起動)してるよね?」
リンは思考を数秒間フリーズさせ、脳内の数式をハッキングした。
「……ええ。あなたの魔力残量(MP)が完全に底を突かない限り、どんな致命傷でも指先一つで一瞬で完全修復できるわね」
「じゃあ……なんで私たちは、わざわざお金を払ってまで、こんな重くてかさばる薬品のボトルを6本も持ち歩く必要性があるわけ?」
リンは再び数秒の間、深海のような沈黙へと移行した。
彼女は真面目な顔のまま、ぽつりと応じた。「……正直に言うわ。私にも、その因果の数式(理由)は一ミリも分かんないわ」
ソラは椅子の背もたれに盛大にずっこけた。「――ガチで勘弁してよぉっ! ただのデッドウェイト(無駄な荷物)じゃん!!」
◆◆◆
二人は楽しそうな笑い声を響かせながら、それぞれのマイルーム(居住区)を後にした。
この『エリュシオン・オーダー』という不条理な巨塔の中での暮らしは、彼女たちがこれまでの人生で培ってきた「冒険」という言葉の定義そのものを、根底から完全に上書き(アップデート)してしまっていた。
階層を一つ上がるだけで、そこには人間の脆弱な王国一つが丸ごとすっぽりと収まってしまうほどの、規格外の「大原生林エリア」が広がり。古代の超魔導文明の残骸たる「広大な遺跡群」、底の知れない「地下大迷宮」、神秘的な魔力を湛えた「巨岩の湖」、天を衝く「極寒の山脈」、そして――地上の老練なS級ハンターすらも一瞬で敗走( retreat )せしめるほどの、狂暴な未知の魔物たちがひしめき合っている。
そして何より――この全100階層の内部には、未だ人類の誰一人として足を踏み入れたことのない、完全な未踏の「暗黒領域」が、無限にハイドされたまま残されているのだ。
リンは、その果てしなき不条理の環境が、個人的に決して嫌いではなかった。
この巨塔の内部へと足を踏み入れて以来、彼女の肉体と魂のポテンシャル(戦闘出力)は、狂ったようなスピードで進化を遂げていたからだ。
我流だった剣技の数式は完璧に洗練され、放つ魔術の起動スピードは神速の域へと達し、ただ闇雲に素の腕力だけに頼るのではなく、戦況のパラメータ変動に対して脳細胞が「即応」する術を、彼女は完全にマスターしつつあった。
――だが。そんな自身の驚異的な成長データ(ファクト)のすぐ真下に。
未だに、自らの知性ではどうしても解説を拒否してしまう、不気味な『アノマリー(バグ)』が一つだけ、頑固に居座り続けていたのだ。
他でもない、あの白髪の魔王――『カイ』という男の存在。
彼の白髪のシルエットが、自らの感覚センサーの射程圏内(近く)に入り込む度、リンの魂の最深部にある、世界のシステムに登録されていないはずの『ある一つの防衛回路』が、ドクドクと狂暴なビートを刻んで激しく即応を始めるのだ。
それは、絶対強者に対する「恐怖」などでは決してない。そんな底の浅いものではない。
もっと――魂の根源からの、言葉では説明のつかない底知れぬ『既視感』。
――私は、この白髪の男の横顔を、すでに知っている。
――私は、この男の真後ろに直立し、共に世界の破滅を直視していたはずだ。
そんな、狂った脳内バグのメッセージが、精神のインフラを執拗に侵食してくるのだ。
リンには、その不条理の正体が、どうしても理解できなかった。
だからこそ彼女は最近、その答えのない暗黒の問いに対して、力ずくで数式(答え)を導き出すタスクを、一時的に完全フリーズ(放棄)させていたのだ。現時点においては、それしか防衛策がなかったからだ。
真横を歩いていたソラが、リンのその酷く真剣な横顔を本能のセンサーで察知し、意地悪くニヤニヤと笑いながら覗き込んできた。
「――あー! リン、またあの人のこと考えてたでしょー?」
リンは弾かれたようにパチリと大きく瞬きをし、防衛パラメータを跳ね上げた。「……は? 何のことよ、急に」
「決まってるじゃん! 私たちの我が家の主――『魔王カイ様』のことだよ!」
リンは大急ぎで、不自然なほど素早く顔を明後日の方角へと背けてみせた。「……万に一つも、これっぽっちも考えてないわよ」
ソラはさらにニヤニヤと距離を詰める。「嘘だね! 考えてた! 脳内データにバッチリ残ってるもんね!」
「……私はただね、これから潜入するあの大原生林セクターの、危険魔物の出現予測パターンについて思考演算を巡らせていただけよ」
「へえー? 大原生林セクターの出現パターンを調べるために、何もない居住区の『ただの真っ白な壁』のことを、恋する乙女みたいな切ない目でじーっと凝視してたんだ?」
リンの動きがカチリと完全に停止した。
「……も、もしかしたら……あの白亜の壁の構成マテリアル(石材)のシルエットが、原生林の木々のシルエットを、私の脳内で奇跡的にフラッシュバック(連想)させたのかもしれないでしょう?」
ソラは完全に死んだ魚のようなジト目で、哀れな相棒を見つめた。
「……リン。言っとくけどさ、その言い訳、世界システムのどんなAIを以てしても、一ミリの論理的整合性も通らないレベルのクソ言い訳だからね?」
リンははぁぁぁぁ、と顔面を真っ赤に染め上げながら、今日一番のクソデカため息を吐き散らした。
「――うるさいわね! もういいから大至急行くわよ、ソラ!!」
「あはははは! はいはい、仰せのままに、我がツンデレ騎士様!」
ソラの大爆笑の笑い声が、白亜の美しい回廊の奥へと活気よく響き渡り、二人のシルエットは、次なる未知の冒険のゲート(暗黒)の向こう側へと、楽しそうに消え去っていったのだった――。
最高幹部(四天王)の駆動と静寂なる侵食
【エリュシオン・オーダー――某階層・『中央医療区域』】
同じ頃、巨塔の下層部に位置する広大な最高医療施設の一角。
かつて『ナンバー2』と恐れられ、今はその慈愛の魔力で多くの生命を救う美しき癒し手『クロエ(Chloe)』は、白亜のベッドに腰掛けていた一人の若いハンターの前に直立していた。
彼の右腕は、魔物の凶悪な爪によって肉が裂け、骨が見えるほどの深刻な致命傷を負っていた。
クロエは何も言わず、その華奢で美しい右手を少年の負傷箇所へと優しくかざした。
「――リペア(修復)」
彼女の唇から淡々とシステムコマンドが発信された刹那、彼女の白い手のひらから、見る者の魂を奪うほどにまばゆい『真紅の神聖魔力』が爆発的に照射された。
次の瞬間、裂けていた肉が世界の理をあざ笑うかのように超高速で融解・結合し、砕けていた骨の破片が瞬く間に元の座標へと再結合されていく。わずかコンマ数秒の自動演算。
光が収まった時、そこには傷痕一つ、汚れ一つ存在しない、完璧に新品の状態へと巻き戻された(アップデートされた)頑強な腕が直立していた。
若い冒険者は、自らの右腕を信じられないといった様子で何度も何度も握り締め、驚愕に目を丸くした。「……う、嘘だろ!? たったの一瞬で……。痛みが、完全に掻き消えた……っ」
クロエはその驚異的なチート劇に対し、ただいつも通りの柔らかな聖母の笑みを浮かべてみせた。
「もう大丈夫よ。システムに異常は見られないわ」
ハンターは跳ねるようにベッドから立ち上がり、深く頭を垂れた。「あ、ありがとうございます、クロエ様……っ! まるで神様の奇跡だ!」
クロエは小さく首を横に振る。「ふふ、お礼なら我が主に言いなさい。……それと、次からはもう少し、自らの防御パラメータを意識して立ち回ることね」
少年はバツが悪そうにポリポリと頬を掻いた。「はは……。善処(最善を尽くす)します!」
彼が最高に元気よく部屋を退室していくのを見送り、クロエはすぐさま、次のベッドで苦しそうに呻いている別の負傷冒険者へと視線をスライドさせた。そしてその次にも、また次のベッドにも、魔物との戦闘で深刻なエラーを吐き出した有象無象のハンターたちがズラリとひしめき合っている。
彼女は、はぁ、と小さく可愛いため息を吐き出した。
ここ最近、この巨塔の人口バーストに伴って、彼女の医療セクターの駆動率(忙しさ)は限界を突破しつつあった。信じられないほどのマルチタスクだ。
――しかし、彼女の魂のインフラは、その過酷な労働に対して不快感のパラメータをただの一ミリも起動させてはいなかった。
かつて黄金期と呼ばれた遥か過去のタイムラインにおいて、彼女は常に、血を血で洗う絶望の戦場だけを直視し続けてきたのだ。それに比べれば、目の前の生命が自らの指先一つで次々と元の健やかな姿へと『復元』されていくこの光景は、彼女にとって、何物にも代えがたい至高の『平穏』そのものだった。
クロエはふと、手を休めて巨大なガラス窓の外を見やった。
眼下に広がる第1階層の広大な居住区は、今日も眩いほどの生命のビートを刻んで駆動している。
人間の民。オーラをハイドしたオークの労働者たち。道に迷ってウロウロしている最高学術院の学者。一攫千金を狙う高位の冒険者。強欲な大商人。そして、無邪気な足音を響かせて駆け回る人間の子供たち。
本来であれば、世界のシステムのどこを探しても絶対に交わるはずのなかった多種多様な生命のログが、今、あの白髪の魔王カイが構築した『エリュシオン・オーダー』という絶対の秩序の元で、完璧な調和を保って共生している。
クロエの端正な唇に、愛おしそうな優しい笑みが咲いた。――と、その瞬間だった。
ピリリン――。
彼女のデスクの片隅に設置されていた、外部通信用の最高位魔導結晶から、不気味で微弱な魔力パルスがチカチカと明滅し始めたのだ。
クロエは怪訝そうに眉をひそめ、結晶へと歩み寄ってその白い指先でそっと触れた。
パチパチパチ……と、空間に一条のホログラフィック・テキスト(暗号文字)が投射される。
『――外部データハッキング検知:ラオディキア聖教会(Holy Church of Laodicea)』
クロエはその聖なる文字列を一文字一文字、冷徹に精査していく。
記されていた要求数式の内容は、極めてシンプル、かつ遠回しなものだった。
――我が聖教会は、新たなる独立領域『エリュシオン』が保有する、既存の神聖魔術の定義を遥かに超越した「不条理な超治癒能力」の構成数式に関して、純粋な学術的興味から最低限の情報開示を要求する。
クロエの表情から、一瞬にして聖母の笑みが消え失せ、冷酷な元・ナンバー2としての覇気がその双眸へと据わった。
彼女は無言のまま数秒間テキストを凝視し――次の瞬間、白い指先で画面をパチンと冷酷にスクラップ(完全消滅)した。
「……ククク。ラオディキアの羽虫どもが、ついに我が王の『聖域』に向けて、薄汚い触手を伸ばし始めたというわけね。実に不愉快なデータだわ」
彼女はフッといつもの柔らかな表情へとシステムを巻き戻すと、何事もなかったかのように次の負傷者の治療タスクへと舞い戻った。
そんな地上の教会の浅知恵など、我が絶対の主・カイの敵ではない。彼女の脳内インフラには、すでにその程度のバグを処理するための迎撃プランが、オールグリーンで登録されていたのだから。
◆◆◆
【エリュシオン・オーダー――第40階層・『絶対防衛統括府』】
同じ頃、巨塔の中層に位置する、鉄血と規律の重圧が支配する絶対の軍事エリア。
最高幹部(四天王)の一角、防衛統括の絶対者『セナ(Senna)』は、自らの重厚なオフィスデスクにズラリと広げられた、膨大な『最新広域戦略報告書』の束と対峙していた。
危険魔物のアクティビティデータ。冒険者ギルドの動向ログ。諸国との交易リクエスト。防衛インフラのセキュリティ稼働率。オークたちの都市建設進捗プロセス。――そして。
大陸の東の最果てに位置する絶対の軍事大国――『シミズ帝国(Eastern Empire)』に関する、最高隠密斥候部隊からのリアルタイム通信ログ。
彼女は、その最新の偵察書類を1枚つまみ上げ、その漆黒の双眸を鋭く細めた。
「……異常パラメータ、一切なし(オールグリーン)、ね」
記されているデータは、あまりにも静かだった。
シミズ帝国の国境線において、大規模な軍隊の移動ログ(兆候)は皆無。高位の将軍クラスの配置転換もなし。新たな西側侵略キャンペーンに向けた、目立った物資の集積やインフラ構築の動きも、何一つとして検知されていない。
セナは不快そうに、その美しい唇の端を吊り上げた。「――不気味なほどに、静かすぎるわね」
オフィスデスクの真後ろで直立不動の姿勢を取っていた直属の隠密部隊が、緊張に声を震わせる。「……セナ様? 何かハッキングデータにバグ(懸念)でも?」
セナは冷酷に書類をデスクへと放り捨てた。
「あの『ナオ・シミズ』という傲慢な女帝が統べる軍事大国が、あのオークの大侵略という最高のお楽しみ(データ)を特等席で傍観しておきながら――開戦から3ヶ月もの間、我が領域に対してただの一ミリの軍事介入も、挑発パラメータすらも起動させてこない。……これがアノマリー(異常)でなくて何だと言うのよ」
「はっ! では、直ちに東側境界線への偵察インフラを倍化し、最高警戒網へとアップデートいたしますか?」
セナは静かに顎を引いた。「ええ、大至急やりなさい。一瞬の遅延も許さないわ」
「御意!!」
臣下は恭しく一礼すると、影に溶け込むように大急ぎで部屋を退室していった。
一人残されたセナは、椅子の背もたれに身体を預け、冷徹な視線を窓の外の広大な空間へと走らせた。
彼女は、世界誕生の黎明期から、何千、何万年という星霜をただ『戦争(殺し合い)』のためだけに磨り潰してきた絶対の怪物だ。だからこそ、地上の脆弱な一般兵卒どもがすぐに失念してしまう、戦場の冷酷な初期設定(絶対の真実)を誰よりも理解していた。
――『平穏(静寂)』とは、必ずしも安全を意味するデータではない。
時としてそれは、次なる最悪のハルマゲドンを執行する何者かが――標的の首を一撃で確実に刈り取るための最高の座標を、じっと息を潜めて『待機』しているという、最悪のカウントダウンのログなのだ。
セナは再び、冷酷に次の軍事書類へと手を伸ばした。
今はこの不気味な静寂のインフラを逆ハッキングし、敵の隙を抉り出すための数式を編み上げ続ける。――現時点において、彼女の果たすべきタスクはそれ以外に存在しなかったからだ。
◆◆◆
【エリュシオン・オーダー――第50階層・『超魔導兵器生産プラント』】
一方、巨塔の中央境界線に位置する、轟音と鉄血の熱量が支配する巨大な工業セクター。
最高幹部(四天王)の一角、生産統括の絶対者『エルヴァ(Elva)』は、セナとは全く異なる種類の『爆発的なバグ(マルチタスク)』と正面から対峙していた。
広大なプラント内部では、無数の巨大な超魔導重重機が完全にシンクロして駆動し、 Genesis(創世)の膨大なエネルギーラインが、網の目のように床面を走り抜けて中央の巨大な炉へと注ぎ込まれている。自動制御された大量の魔導ゴーレム(構築体)たちが、一糸乱れぬ神速の手際で、次々と最高位のマテリアル(特殊鉱石)を搬送していく。
エルヴァは、その生産プロセスの心臓部にあたるキャットウォークの頂部に直立し、冷徹に眼下のパラメータを監視していた。
そこへ、一人の人間の最高技術職人が、額の汗を拭いながらハァハァと息を切らせて階段を駆け上がってきた。「――エ、エルヴァ様っ!」
エルヴァはゆっくりと振り返る。その白銀の軍服には、一微塵の汚れも付着していない。「ええ、何かしら? 技術ラインにシステムエラーでも?」
「いいえ! 完璧にオールグリーン(順調)です! 先ほど、主から要求されていた最高位魔導アーマーおよび特殊エンチャント兵器の『最新バッチ(第33ロット)』の製造プロセスが、不備なく完全完了いたしました!」
エルヴァは眼下にズラリとディスプレイされた、既存の王国のテクノロジーをあざ笑うかのような完璧な出来栄えの超兵器群を視線でハッキングし、満足げに小さく顎を引いた。
「素晴らしいわ。さすがは我が王の絶対領域のクラフトマンね。――いささかの遅延も挟むことなく、直ちに『次なる第34ロット』の全力生産キャンペーンへと移行しなさい」
「ははっ、了解です!」
職人は即座に応じたが――そこでほんの一瞬だけ言葉を詰まらせ、恐る恐る、美しき四天王の顔色を窺うように問いかけた。
「……あの、エルヴァ様。不躾な質問で大変恐縮なのですが……」
「何よ。言いなさい」
「……我々のアトリエは、一体いつまで……どれほどの規模の超兵器を製造し続ければ良いのでしょうか? 正直、現在の備蓄量だけでも、大陸の小国家を三つ同時に完全消滅させられるほどの過剰スペック(軍事パラメータ)に達しているのですが……」
エルヴァはその人間の素朴な疑問に対し、冷酷な、しかし揺るぎない絶対の覇気を宿した瞳を向けた。
「――そんなの、決まっているでしょう? 我が絶対の主、カイ様が『もう十分』というリクエスト(命令)を発信してこられない限り――私たちは世界の終わりまで、ただこの生産ラインを最高出力で駆動させ続けるだけよ」
技術職人はその王の器の格の違いに魂を捩じ伏せられ、直立不動で深く頭を垂れた。「――は、ははっ! 愚問にございました! 直ちに次なる生産タスクへと移行いたします!」
彼がドタドタと大急ぎで現場へと舞い戻っていくのを見送り、エルヴァは再び、轟音を立てて駆動する広大なプラントへとその視線を戻した。
ここ数ヶ月の間、この場所の統括をサーブしていく中で、彼女の脳内インフラには、あの白髪の魔王カイが何故自分をこの『生産の心臓部』へとキャスティングしたのか、その真の意図が完全に同期されつつあった。
この全100階層の巨塔は、ただ魔王が気怠そうに引きこもるための「ただの家」などでは決してない。
ここは、自らの手で最高位の軍事装備を無限に内製し、無限の資源を自給自足し、絶対の防衛パラメータを単独で維持できる、世界システムから完全に独立した最強の『絶対自給大国』そのものなのだ。
そして――その圧倒的な内政出力の総量は、やがて地上のいかなる王国の歴史をもあざ笑うかのように、大陸全体のパワーバランスを力ずくで書き換える、最強の『絶対の影響力』へと昇華していくことは、もはや確定した未来のデータだった。
◆◆◆
【西側の人間王国――『アステリア王国(Asteria)』・国王執務室】
一方その頃、不條理な巨塔『エリュシオン・オーダー』から物理的に遥か遠く離れた、人間の歴史あるアステリア王国の王宮。
そこでは、巨塔の内部とは比較にならないほど、最高に『静かで、気怠い日常のバグ(小休止)』が駆動していた。
アステリア王国の最高統治者、アルドレン国王(King Aldren)は、大量の政治書類が山積みにされた自らのデスクの前に座り、心底疲れ切った様子で、はぁ、と大きいため息を吐き出していた。
そして、その王のデスクの真向かいには――この人間王国の最高警備エリアであるはずの空間において、これ以上ないほど完全にリラックスした様子で、ソファにその長い脚を組んで優雅に腰掛けている、一人の絶世の美男子のシルエットがあった。
最高幹部(四天王)の一角、第70階層の絶対管理者にして『原初の悪魔』――ヴァドス(Vados)。
彼は、自らの白い指先で上品に磁器のティーカップを持ち上げ、優雅に紅茶の香りを愉しんでいる。
アルドレン国王は、そんな我が物顔で居座る絶対の化け物をジト目でロック(凝視)した。
「……おい。ヴァドス殿、お前、たったの一口の紅茶を飲むために、さっきからかれこれ『20分間』もその姿勢のまま微動だにしていないんだが?」
ヴァドスは、切れ長の美しい双眸をゆっくりと国王へと向け、至って優雅に微笑んでみせた。「おや……? そうでしたかね、アルドレン陛下」
「ああ、そうだ。私の執務室の時計の針のデータ(時間)は正確だわ」
ヴァドスはフッと唇の端を吊り上げる。「ククク。美しい空間(日常)の中では、時間の経過パラメータというものは、得てして神速で過ぎ去ってしまう仕様(初期設定)のようですね」
アルドレン国王は、はぁ、と今日何度目か分からないクソデカため息を吐き散らした。「……まあ、お前のような規格外の化物と雑談を交わしていると、こちらの精神メモリが削られて時間が歪む感覚(錯覚)に陥るのは、十中八九間違いなさそうだがな」
彼は気を取り直すように、デスクの上の数枚の特権外交書類へと視線を落とした。
「――例の、魔王カイ様の絶対領域『エリュシオン・オーダー』と我がアステリア王国との間に締結される、最新の『関税撤廃・商業協定』のプロセスだが……。おかげさまで、極めて順調に進行しているぞ」
ヴァドスは優雅に小さく首を縦に振った。「それはそれは。我が愛しき王も、そのデータを耳にすれば、きっと満足げに白髪の首を縦に振る(顎を引く)ことでしょう」
「ああ。それと……これだけは、お前という化物に対して公式の感謝データ(ファクト)として伝えておかねばならんな」
アルドレン国王は真面目な統治者の顔になり、デスク越しに彼を見据えた。
「――お前という『原初の悪魔』のシルエットが、このアステリア王国の王宮に常駐(存在)しているという、ただそれだけの圧倒的な事実が……。我が国境線の防衛パラメータを極限まで跳ね上げ、周辺の不穏な近隣諸国や強欲な貴族どもの軍事行動を、完璧に『完全停止』させているよ。これ以上の抑止力(防衛インフラ)は、この世界のどこを探しても存在しんわ」
ヴァドスはその人間最高の誉め言葉に対し、ただただフッと、この上なく不敵で優美な笑みをその唇に深く、深く咲かせるだけだった――。
第七十階層の静寂と市場の狂騒
アルドレン国王は、外交書類を握りしめたまま、ほんの一瞬だけその言葉の続きを出力するのを躊躇した。
「……ヴァドス殿。実はな、私が以前からずっと、自らの脳内インフラで答えを出せずにいる『一つの疑問』があるんだ」
ヴァドスはティーカップを優雅に傾けたまま、切れ長の美しい双眸を微かに動かした。「ほう? 何でしょうか、アルドレン陛下。私に答えられる範疇のシステムであれば良いのですが」
「……何故、魔王カイ様は、お前のような規格外の絶対強者(化物)を、わざわざ我がアステリア王国の王宮へと常駐(派遣)させたのだ?」
ヴァドスはその人間の素朴な疑問に対し、この上なく優美で、この上なく不敵な笑みをその唇に深く咲かせてみせた。
「ククク。そんなの、決まっているでしょう? 我が絶対の主が、陛下の元に最も『信頼に足る優秀な手駒』を配置しておきたいと考えたからですよ」
アルドレン国王はそれを聞き、なるほどな、と深く納得したように白髪の混じる首を縦に振った。「……ふむ。我が国と巨塔との間の、絶対の信頼の証明というわけか。ありがたいことだ」
ヴァドスは上品に紅茶をもう一口含む。――と、そこで、至ってカジュアルに、何でもない雑談ログをシステムへと追加した。
「――ああ、それとね。陛下がこれ以上、くだらない瑣末な政治案件で『自らの貴重なプライベートタイムを邪魔しに来てほしくないから』、というのも極めて強力な理由の一つにございますよ」
ガタッ!!!!!
アルドレン国王の肉体が、文字通り凍りついたようにフリーズ(エラー)を起こした。「……は? い、今、何て言った……?」
ヴァドスは最高に美しい天使の笑みを浮かべる。「ええ。陛下が来ると最高にめんどくさい、というのが我が主の物理演算(本音)であったと、私は記憶しております」
アルドレン国王ははぁぁぁぁ、と、椅子の背もたれへ盛大にずっこけながら、今日一番の特大のため息を吐き散らした。「……なるほどな。あのクソ白髪……相変わらず最高にラフで、最高に失礼な初期設定の魔王様だわ……」
ヴァドスは何事もなかったかのように優雅に紅茶を嗜み続ける。
確かに、この『原初の悪魔』が王宮に常駐して以来、アステリア王国の国家インフラ(安全性)は完璧にスタビライズされていた。しかし――アルドレン国王の脳内センサーは、自らのすぐ目の前のソファに、世界を数回は軽く完全消滅させられるほどの化物が気楽にお茶をしばいているという絶対の現実に対し、最大級の「安心」と、最大級の「絶望(恐怖)」を同時に検知し続けていた。……まあ、今更それを深く追求したところで、こちらの精神メモリがクラッシュするだけであるという数式を、老練な国王はすでに学習していたのだが。
◆◆◆
【エリュシオン・オーダー――第70階層・『不滅の王座の間』】
同じ頃、アステリアの王宮から遥か物理的に離れた、この巨塔の深層。
漆黒の静寂と、凍りつくような圧倒的な覇気が支配する絶対領域の真ん中に、最高幹部(四天王)の一角――ナンバー8こと『ネロ(Nero)』が、ただ一人で直立していた。
この全100階層の巨塔において、この広大な第70階層は、彼という絶対の個体をスタビライズするためだけに割り当てられた絶対のテリトリー(領域)だった。
ネロは巨大な神殿のような回廊を、一歩、一歩、静かに歩陣を進めていく。
空間には、一切の生活音が存在しない。完全なる、静寂。そして、ネロという最高位生命体は、個人的にその無音の初期設定(環境)を、この上なく愛していた。
ネロは白亜の巨大な窓の真横で、ピタリと足を止めた。
眼下を見下ろせば、我が家たる『エリュシオン・オーダー』の強固な建築インフラが、地平線の彼方まで果てしなく、果てしなく展開している。
彼はその窓越しに、遥か遠く離れた第1階層の活気ある復興都市のシルエットへと視線を走らせ――そして、脳内のインフラの真ん中へと、あの白髪の魔王『カイ』の文字列をフラッシュバックさせた。
――あの、魂の最深部を執拗に侵食してくる『奇妙な逆流の波動』は、3ヶ月が経過した今もなお、消滅するどころか日に日にその出力を限界まで跳ね上げつつあった。
他ならぬ自らの主の姿を、そのセンサーでハッキングする度。
彼の魂のコア(魔王核)の奥底にある、世界のシステムに登録されていないはずの『未知の記憶回路』が、ドクドクと狂暴なビートを刻んで激しく即応を始めるのだ。
――記憶の残滓。言葉にならない感覚。そして、魂の檻の向こう側から響く、誰かの絶対の声音。
しかし――ネロがそのミッシングリンクを掴み取ろうと、自らの全精神メモリをフルブーストして手を伸ばしたまさにその刹那、そのデータは霧のようにすっと、何事もなかったかのように掻き消えて(ハイドされて)しまうのだ。
ネロは静かにその漆黒の双眸を閉じた。
(……我が愛しき主、カイ様。あなたは本当の意味で……一体全体、何者(どの次元の絶対者)なのですか?)
彼はゆっくりと目を開く。
その問いの数式の中に、主に対する不信や猜疑のパラメータ(エラー)は、ただの一微塵も登録されてはいなかった。そこにあるのは、純然たる、魂の根源からの『至高の好奇心』だけだ。
ネロはカイのことを、これっぽっちも疑ってなどいない。むしろ、その逆だ。
あの白髪の青年の真後ろに直立し、その絶対の命令に従って手足を動かすという一連の駆動ログ(忠誠)が――彼という個体(生命)にとって、あまりにもナチュラルで、あまりにも心地よく、あまりにも完璧に『同期』されてしまっているからだ。
ネロの端正な唇の端が、不敵に、優雅にフッと吊り上がった。
「……ククク。実に、実に興味深いバグ(因果)だわ」
彼は巨大な窓から視線を逸らし、踵を返して漆黒の回廊の奥へと歩み出す。
その失われた最高位の答えがどれほど霧の向こう側にハイドされていようとも――彼は至高の臣下として、その数式が完全開示(開示)される瞬間を、世界の終わりまでいくらでも待つ覚悟があったのだから。
◆◆◆
【エリュシオン・オーダー――第1階層・『中央大市場』】
昼下がりの時間が経過するにつれて、復興都市の中央市場の熱量と駆動率は、さらに限界突破のバースト状態へと突入していた。
白髪の魔王カイは、その活気溢れる雑雑としたストリートの真ん中を、気楽に歩陣を進めていた。
当然、彼は一人ではなかった。彼の空いている方の右手には、エミリアの小さな、温かな手がギュッとこれ以上ないほど力強く握り締められて(ロックされて)いた。
彼女は午前中の大半の時間を、ストリートの他の子供たちとの全力の「ごっこ遊びタスク」に磨り潰していたはずなのだが――昼過ぎになるや否や、今度は「カイ、お買い物行くよ!」と言って、魔王を専属の荷物持ち(デリバリー)として強制連行することを選択したのだ。
カイは、自らの空いている方の左手に握られた、大量の食材や雑貨でパンパンに膨れ上がった重い買い物カゴをジト目で凝視した。
「……おい。エミリアお嬢様。何で俺が、お前の個人的なお買い物キャンペーンのデリバリーナロク(荷物持ち)を全力でサーブさせられてるわけ?」
エミリアはそんな魔王の正論を完全スルー(回避)し、目の前にある一軒の shops(商店)をビシッと小さな指先で差し示した。「――あそこ! 次はあそこ行くの!」
カイは差し示された座標へと視線を走らせた。そこは、新鮮な果物がズラリと並ぶ甘味露店だった。
「おい、待て。お前、さっき隣の店でクアクアの実の袋をインベントリ(購入)したばっかりだろ。まだ買う(アップデートする)つもりか?」
幼女は最高に元気よく、コクコクと首を縦に振る。
カイははぁぁぁぁ、と特大のため息を吐き出した。「……はいはい、分かりましたよ。行けばいいんだろ、行けば」
二人が露店のカウンターへと近づくと、店主の商人は、その白髪のシルエットに気づくなり、満面のビジネスの笑みを咲かせた。「――おや! これはこれは、我が巨塔の絶対の主、魔王カイ様ではありませんか!」
カイは片手をひらひらと挙げた。「よお、おっちゃん。繁盛してるみたいじゃねえか」
店主はすぐさま、本日採れたてのみずみずしい最高位の赤林檎を数玉、カウンターへとディスプレイした。「ええ、おかげさまでオールグリーン(絶好調)ですよ! さあ、お嬢ちゃん、今日の一番美味い最高の発育データ(果物)だよ!」
カイが腕の中のエミリアへと視線を落とした瞬間、すでに幼女の小さな手は、世界の物理演算をあざ笑うかのような神速のスピード(移動パラメータ)で、赤林檎の1玉へと直接エンゲージ(ホールド)していた。
カイは呆れたように目を細める。「……おい。お前、せめて『買っていい?』っていう最低限の外交交渉のポーズを演じる努力くらいしろよ」
エミリアはそんな魔王のツッコミなど意に介さず、満面の天使の笑みを浮かべ、その小さな口で林檎へとガブリッ!と豪快に噛み付いた。
そして、シャキシャキと美味しそうに咀嚼したかと思うと――あろうことか、自らが噛み付いて思いっきり歯型の残ったその林檎を、カイの唇の前へとクイクイと突き出してきたのだ。
カイの動きがカチリとフリーズする。「……おい。それ、お前が今リアルタイムで半分以上咀嚼したあとのエラーデータ(食べ残し)だろ」
エミリアはそんな正論を無視し、さらに林檎を押し付けてくる。「はい、あーん! おにぃちゃんも食べて!」
カイは、はぁ、と今日何度目か分からないため息を吐き出した。
「……お前、ガチでこの『魔王給仕アクティビティ』をルーティンワークとして定着させるつもりだな?」
エミリアは大真面目な顔で、コクコクと激しく首を縦に振る。
カイは諦めて口を小さく開け、エミリアのデリバリーした林檎の果肉をガブリと一口齧り取った。
そのあまりにも最高にラフな魔王の日常劇を目の当たりにし、露店の店主は思わずブッ!と吹き出し、クスクスと大爆笑を漏らし始めた。
カイは林檎をモグモグと噛み砕きながら、不満そうに商人を睨みつけた。「……おい、おっちゃん。何がそんなにおかしいわけ?」
「いやいや、滅相もございません!」店主は涙を拭いながら笑う。「ただね、世界を滅ぼす6枚翼の天災とまで噂されている最強の魔王様が、昼下がりの市場で小さな女の子に林檎の『あーん』をサーブさせられている有様なんて……。この市場の住民の誰が予想できたかって話ですよ!」
カイは周囲のストリートへと視線を走らせた。
確かに、すれ違う高位の冒険者も、人間の民も、オークの労働者たちも、自分たちのこの不条理な凸凹コンビのシルエットを目にする度に、思わずフッと目元を和らげて楽しそうに微笑みながら通り過ぎていく。
カイははぁ、と大きいため息を吐き散らした。「どいつもこいつも、他人のプライベートログ(日常)を娯楽データ扱いしやがって……。まあ、いいけどさ」
彼は手際よく魔導財布から代金のコインを決済すると、再びエミリアの手を引いて市場の雑踏へと歩陣を進めていった。
◆◆◆
彼の周囲を展開する広大な都市システムは、生々しいほどの圧倒的な生命のビートを刻んで力強く駆動していた。
そして――本当に、奇跡的なほどに、今の彼のメインインフラ(脳内)には、大至急対処しなければならないような最悪の軍事案件や、世界滅亡のハルマゲドンのカウントダウン(エラー)は、ただの一つも登録されてはいなかった。
押し寄せる破滅の軍勢もなし。決死の防衛戦もなし。世界を灰にする大災害もなし。
そこにあるのは――ただの、衣食住を全力で謳歌し、普通の日々を懸命に生きているありふれた「人間の民( ordinary people )」のログだけだ。
そして、白髪の魔王カイは、自らの魂の最深部において、その何の変哲もない、愛おしい「普通の日常」の有様を――個人的に、最高に心地よく、最高に楽しんでいた(エンジョイしていた)のだ。
歩陣を進めるにつれて、市場を行き交う膨大な数の住民たちが、彼の白髪のシルエットへと気づき、次々と自発的な敬意のパラメータ(挨拶)を発信してきた。
ある長屋の入り口からは、人間の小さな子供が「カイおにぃちゃん、おっはよー!」と元気いっぱいに小さな手を振り返し。
ある工房の門前からは、新しく最新のアトリエを無償で提供してもらった人間の老職人が「魔王様、最高の仕事場をありがとうございます!」と、ハンマーを掲げて感謝のログを呼びかけ。
そして、街道の真ん中で巨大な石材を運搬していた2頭のオークの労働者たちが、彼の通過をハッキングするなり大急ぎで直立不動の姿勢を取り、胸に拳を当てて深く頭を垂れて平伏する。
カイはそのすべてのアクセス(挨拶)に対して、ある時は気楽に空いている方の片手をひらひらと挙げ、ある時はラフな一言のジョークを返し、ある時は静かに頷いて見せることで、完璧にすべてのレスポンスを返していった。
彼らが通り過ぎていった後も――カイの左胸のインフラ(心臓)の最深部には、地上のいかなる最高位の魔導ヒール魔術を以てしても再現不可能な、この上なく温かな、この上なく愛おしい『平穏』のパラメータが、静かに、優しく、そして永遠に灯り続けていたのだった――。
これこそが――地獄のいかなる戦場を以てしても、白髪の魔王カイのインフラに事前登録されていなかった、『統治者』としての未知のパラメータだった。
圧倒的な暴力やチート権能は、確かに目の前の戦争を終わらせ、勝利の数式を確定させることはできる。だが――人間の民や魔物たちが、その領土に自発的に留まり続け、そこを自らの我が家だと定義するための決定的な数式は、他ならぬ『信頼』という最高位のパラメータによってのみ構築されるのだ。
不条理なる巨塔『エリュシオン・オーダー』は今や、ただ魔王カイによって一方的に「保護」されているだけの無機質な避難所ではなかった。
ここは――そこに暮らす有象無象の生命のすべてが、心の底から彼という絶対者の器を『信頼し、信仰している(ビリーブ)』、聖域そのものへと昇華を遂げていたのだから。
◆◆◆
【復興都市――『東側国境ゲート(イースト・ゲート)』・同日夕刻】
昼下がりの活気が少しずつ落ち着きを見せ始めた頃、その都市の東側境界線の検門所へと、一風変わった奇妙なパラメータを持つ『小規模な集団』が静かに着地した。
奴らは一糸乱れぬ純白の神聖法衣を身に纏い、その胸元には、大陸最高の絶対権力を誇る『ラオディキア聖教会(Holy Church of Laodicea)』の聖なる紋章が、金糸の刺繍によって厳重に暗号化されていた。
ゲートの防衛を統括していた巨塔の衛兵たちが、一斉に槍の先端を突き出して奴らの行く手をカチリとロックする。
「――止まれ。これより先は魔王カイ様の絶対不可侵領域『エリュシオン』の管轄にございます。大至急、自らの身元ログ(属性)および、入国目的の要求数式を開示しなさい」
白衣の集団の最前列から、最も老練なパラメータを持つ一人の老司祭がゆっくりと歩み出た。
「――我々は、聖地ラオディキアより遥々この地へと赴いた、ただの無害なる『巡礼者』にございます」
老人は懐から、教会の公式な暗号署名が施された最高位の特権通行証の魔導書類を提示した。
「我が聖教会の信徒たちのために、この新しく生まれ変わりつつある奇跡の復興都市の有様を、純粋な信仰の観点から見学・視察させていただきたい」
衛兵のハンターたちは、その書類の魔導数式をセンサーで徹底的にハッキングした。
……改ざんパラメータ、一切なし(オールグリーン)。すべての権限、完全に合法。
衛兵たちは渋々といった様子で槍を引き戻し、ゲートの通行許可を承認した。「……了解いたしました。ただし、内部インフラにおいて我が王の法を乱す不条理を働いた場合は、即座にこの空間から完全消滅させますので、その覚悟でご入場ください」
「ええ、重々承知しておりますよ」
純白の巡礼団は、静かに都市の内部へと足を踏み入れた。
奴らは街道を歩み進めながら、周囲の景色を信じられないといった様子で何度も何度もハッキング(見回)した。
人間の民。オーラをハイドしたオークの残党。高位の冒険者。強欲な商人。そして、元気にストリートを駆け回る無邪気な子供たち。
一人の若い司祭が、真横の建築現場で巨大な木材の梁を軽々と両肩に担いで運んでいる、一頭の巨大なオークのシルエットを直視し、その瞳を驚愕に大きく見開いた。あろうことか、その醜悪な化物は、真真真横を歩く人間の大工職人と肩を叩き合いながら、ハハハッと最高にカジュアルな爆笑を響かせていたのだから。
若い司祭は不快そうに、あるいは脳内インフラに激しいシステムエラーを起こしたように、不自然に眉をひそめた。
「……これは、一体全体どういう物理演算だ? ――あまりにも、我々の事前予測データ(データ)とは『かけ離れすぎている(アンエクスペクテッド)』」
別の司祭も、その青ざめた顔を戦慄に引きつらせて同意のログを返す。
「……教会の最高首脳会議(円卓)のハッキングデータでは、この西側の陥落都市群は、新世代の魔王による鉄血と恐怖の暗黒支配( tyrantry )によって完全に蹂躙されていると、そう報告されていたはずですが……」
「ああ、魔王がこの地を完璧に支配しているという点に関しては、紛れもない確定データ(ファクト)だわ」
「ならば、あのオークの化け物どもは一体何なのですか?」
「奴らは全員、魔王カイに魂をエンゲージし、自らの絶対の主として従順にサーブしているのよ……」
最年長の老司祭は、自らの唇を血がにじむほど強く噛み締め、完全な沈黙を保ち続けた。
彼の視線の先では、一頭の巨大なオークの労働者が、足元の覚束ない人間の老女の腕を優しく支え、街道の向こう側へと快適に連れていってあげるという、この上なく不気味な共生劇がリアルタイムで展開されていたのだ。
人間の老女は、満面の感謝の笑みを浮かべてその化物の顔を見上げた。「――まぁ、ありがとうねぇ。助かったよ、オークさん」
オークは醜悪な頭を恭しく深く垂れ、流暢な人間の言語で応じた。「はっ! 我が偉大なる王のテリトリーにおいて、民の安全を確保するのは我らの絶対の初期設定(義務)にございます。どうぞ、お気をつけて」
老司祭の表情から、完全にすべての余裕が掻き消え、その瞳の奥に冷酷なまでの最大警戒アラートが据わった。彼は無理やり視線を逸らし、声音のボリュームを落とす。
「……思考ルーティン(無駄話)はそこまでだ。我々の真のタスク(職務)を遂行するぞ。進むわよ」
純白の集団は、さらに都市の最深部へとその歩陣を進めていった。
――しかし、奴らの誰一人として、全く気づいてはいなかった。
あの最年長の老司祭の腰元、法衣のインフラの死角にハイドされていた、一見ただの安物の装飾品にしか見えない『小さな携帯用の魔導結晶』の表面が。
数分に一度、キィィィンと不気味に、微弱なまでの暗黒魔力パルスをチカチカと明滅させながら、周囲の空間データ(復興都市の全マテリアル構成数式)を、霧のようにストリート中から執拗に逆ハッキングし、内部へと完全自動格納し続けている、その最悪のバグ(異変)にだけは――。
◆◆◆
巡礼団を偽装した教会の隠密部隊は、都市の中央メインアベニューへと到達していた。
この座標まで来ると、もはやあの天を衝く不条理な巨塔『エリュシオン・オーダー』が大陸全体へと放つ、絶対の支配権の波動を無視することは、世界のいかなるシステムを以てしても完全不可能だった。
市場のあらゆる露店の天幕の真真横には、エリュシオンの漆黒と白銀の絶対の軍旗が誇らしげに掲げられ、すべての交差点の検問所(座標)においては、多種多様な異種族のハンターたちが、完璧にシンクロして都市の最高警備をサーブしている。
ラオディキア聖教会の司祭たちは開戦前、この場所が「暴君によって恐怖と拷問で捩じ伏せられた、化け物どもの醜悪な巣窟」であるという最悪のプロファイリングを脳内に構築して足を踏み入れたのだ。
しかし――実際に奴らの感覚センサーがハッキングした真実は、完璧に、正常に、かつ高度な経済システムを以て自律駆動している『美しき楽園(都市)』であり、そこに暮らす有象無象の民たちが、あの白髪の魔王カイの名前を、最大級の感謝と歓喜のパラメータを以てストリート中で囁き合っているという、最高に狂った日常のログ(現実)だった。
その絶対の真実の発見は、奴らにとって、正面から数万の魔物の軍勢に直接宣戦布告(正面衝突)されるよりも遥かに、魂のインフラを根底から恐怖でクラッシュせしめるに十分すぎるほどの最悪のバグ(戦慄)だった。
大通りの突き当たりには、かつての大侵略で半壊し、今はオークたちの怪力によって見事にリペアされたばかりの、旅人や住民のための素朴な礼拝堂がひっそりと佇んでいた。
そのフロントドアは活気よく叩き開けられており、一人の人間の街司祭が、一組のオークの労働者ファミリーの直近で、この上なく穏やかに、この上なくカジュアルな日常の雑談を交わしている。
巡礼団の面々は、その光景を視界にロックした瞬間、完全にその両足を石化させた。
「――ば、馬鹿な。我が聖教会の末端のインフラ(司祭)までもが、すでにあの魔王の不条理な秩序を無条件で受け入れ、完全同期してしまっているというのですか……?」
一人の若い司祭が、恐怖に声をぶるぶると震わせながら、老司祭の背中に向かってそう密告した。
老司祭の漆黒の眼差しが、世界の理を射抜くかのように冷酷に凝固していく。
「……愚か者め。奴ら有象無象の甘い『寛容( tolerance )』を、教会の公式な『承認』などという最高位のデータと混同するな」
「し、しかし……ストリートにいる民たちの幸福度パラメータ(幸福度)、明らかに初期設定の段階から限界突破のバースト状態(満面の笑み)ですよ!?」
「――それこそが、それこそがこの『魔王カイ』という怪物が孕む、世界システム上最も凶悪で、最も最悪な不条理そのものなのだわ」
老人はゆっくりと顔を上げ、都市の真ん中に絶対の絶対強者として君臨する、あの巨大な要塞のシルエットをその瞳の最深部へと射抜いた。
「いいこと? ただ恐怖や暴力といった底の浅い手段だけで民を支配するような、分かりやすい『暴君』であれば、地上の王国や我が聖教会の軍事力を以て、後からいくらでも力ずくで排除する数式を編み上げることができるわ。……けれどね、民に対して圧倒的な『安全』をサーブし、莫大な『繁栄』をデリバリーし、そして魂の拠り所たる『我が家( Belonging )』を無条件で構築してやるような絶対の王(支配者)は――地上のいかなる聖典や絶対の法を以てしても、民の魂から引き剥がすことなど、万に一つも完全不可能なのよ……っ」
その冷酷なる統治のロジック(結論)は、真ろ後ろの司祭たちのすべての思考回路を完全にシャットダウン(完全沈黙)せしめた。
今、この瞬間。奴らの潜入視察キャンペーンの真の目的は、完璧に、冷酷にアップデートされたのだ。
奴らはただ単に、エリュシオン・オーダーが保有する「不条理な超治癒能力」の魔導数式を逆ハッキングするために来たのではない。
新世代の魔王カイという絶対の不條理が、この西側の民たちの『日常のインフラ』のどれほど深い最深部まで、その強固な絶対の牙(根)を侵食(同期)させてしまっているのかを――その戦闘出力の総量を、正確に『計測』するために、この処刑場(都市)へと足を踏み入れたのだ。
そして――その計測器が弾き出した不気味な答え(パラメータ)は、もはや教会の絶対権力を以てしても、直視を拒否することのできない限界値にまで、とっくに達しつつあったのだった――。
◆◆◆
【復興都市――某建造物の屋上・同日夜】
地平線の彼方へと太陽のデータ(光)がゆっくりと沈み込み、世界のタイムラインは『夜』へと完全移行を完了した。
都市のすべての街路灯(魔法ランプ)が、一斉に、連鎖的にパチパチパチパチッ!とまばゆい光を灯して起動し、ストリートを黄金の光の海へと書き換えていく。
広場で遊んでいた子供たちは大急ぎで自らの我が家へと帰還し、市場の商人たちは活気よくshopsのシャッターを叩き閉め、巨塔の深層から帰還した高位の冒険者たちはギルドの酒場へと雪崩れ込み、オークの労働者たちも一日の過酷なタスクをオールグリーンで完了して自らの居住区へと歩陣を進めていく。
広大な都市システム全体が、急速に、優しく、『静寂』のフェーズへと移行しつつあった。
白髪の魔王カイは、新しく再構築されたばかりの中央庁舎の、遮るものの何もない広大な屋上の縁に、気楽に両脚を投げ出して腰掛けていた。
そして、彼の真横の座標には――当然のように、本日最後の一皿となるであろう、極上の甘味『特製ベリーケーキ』の切れ端を、これ以上ないほど幸せそうにモグモグと頬張っている、エミリアの小さなシルエットがあった。
カイは能面の表情のまま、真横の幼女の咀嚼パラメータをじーっと見つめた。
「……おい。お前、昼の市場であれだけ大量の林檎やクアクアの実を脳内にデリート(完食)しておきながら、夜になっても未だにそのお菓子をモグモグできるわけ?」
エミリアはケーキのクリームを鼻の頭に付着させたまま、コクコクと激しく首を縦に振る。
カイはハハッと低い爆笑を響かせた。「お前さ、ガチでその小さな肉体の、一体全体どこのインフラ(胃袋)にそんな膨大なデータ容量(食べ物)を格納してやがるんだ?」
エミリアはドヤ顔を浮かべ、自らのぽんぽこりんに膨らんだ小さなポンポンの座標を、白い指先でポンポンと叩いてみせた。「――ここ! ぼくのお腹のインフラは、無限容量なの!」
カイは唇の端に優しい笑みを咲かせた。「……ああ、そうかよ。そいつは最高に無敵の初期設定(仕様)だな」
幼女はモグモグと最後の一口を飲み干すと、そのまま広大な地平線の彼方、完全に沈み込みつつある美しい夕日の残照へと、その無邪気な瞳を向けた。「……ねぇねぇ、カイ。お空、無茶苦茶きれーい」
カイもまた、彼女の視線を追うように、ゆっくりと紫藍の夜の帳が降りつつある広大な世界の地平線を見つめた。
「――……。ああ、そうだな。最高のデータ(景色)だわ」
数分間の間。二人の絶対的な凸凹コンビの間に、いかなる言語のログ(雑談)も挟まない、極上の沈黙の因果がただ静かに流れていった。
やがて、一日の労働(遊び)で限界まで電池の切れたエミリアの小さな身体が、睡魔のバグによってウトウトと揺らめき、カイの頑強な左肩の元へとフワリと、全面的に寄りかかって(ハイドされて)きた。
カイはその重みを感知したが、自らの肉体の防衛パラメータをただの一ミリも起動させることなく、ただいつも通りの気怠げな姿勢のまま、幼女が完全に眠りに落ちるのを許した。
彼はただ静かに、世界のシステムから太陽の光が完全に掻き消え、世界のすべてが漆黒の夜の平穏へと同期されていくその美しき有様を、いつまでも、いつまでもその瞳の最深部に映し出し続けていた。
この瞬間の世界は、どこまでも、どこまでも『平穏』に満ち溢れていた。
……あるいは、あまりにも完璧にスタビライズされすぎている、不気味なまでの前兆のようでもあったが。
けれど――白髪の魔王カイは、自らの脳内インフラが吐き出し始めたその不吉な不条理の数式を、今夜だけは、冷酷にスクラップ(完全スルー)することを選択した。
少なくとも、今夜この腕の中で無邪気な寝息を立てているこの小さな生命のデータ(温もり)の真真横にいる間だけは――。
世界の因果律の歯車が、次なる最悪の大崩壊(デミグラの狡知)に向けて激しく火花を散らし、逆流を始めるその直前の――これ以上ないほどにラフで、これ以上ないほどに愛おしい、最高の『黄昏の猶予(一時停止)』が、そこにただ静かに横たわっていたのだった――。
【不条理なる絶対領域――『エリュシオン・オーダー(Elysian Order)』】
広大な復興都市全体へと不気味で優しい夜の帳が同期されていく中、この巨塔の各階層に配置された最高絶対の歯車(四天王・最高幹部)たちは、それぞれのタスク(駆動)を静かに完了させつつあった。
下層部の医療セクターにおいては、癒し手『クロエ(Chloe)』が本日最後となる負傷ハンターの修復プロセス(治療)をオールグリーンで完了させ、白衣の袖を優しく整え。
第40階層の統括府においては、防衛の絶対者『セナ(Senna)』が東の軍事帝国に関する最新の監視報告書をパチンと静かに閉じ、冷徹な漆黒の双眸をギロリと虚空へと走らせ。
第50階層の工業セクターにおいては、生産の絶対者『エルヴァ(Elva)』が Genesis(創世)の全エネルギーラインの出力を限界まで跳ね上げ、完成したばかりの第33ロットの超兵器群の完璧な仕上がりを最終精査し。
遥か離れたアステリア王国においては、原初の悪魔『ヴァドス(Vados)』が、未だに執務室で魂を削られているアルドレン国王の真ん前で、優雅に、最高に気怠げに夜のハーブティーを嗜み続け。
第70階層の神殿回廊においては、絶対管理者『ネロ(Nero)』が、窓の外の漆黒の深淵を見つめながら、自らの魂のコアに刻まれたあの白髪の魔王に対する『既視感』の数式を静かに研ぎ澄まし。
そして、ゲートの向こう側からは、大原生林セクターでの過酷なクエスト(経験値稼ぎ)を無事にクリアした『リン(Rin)』と『ソラ(Sora)』の二人が、相変わらず楽しそうな凸凹の笑い声をストリートに響かせながらマイルームへと帰還し。
最上層に近い統括室の真ん中では、情報統括の『ユイ(Yui)』が、これらすべての生命の駆動パラメータ(日常)を、ただ一秒の遅延もなくその全スクリーンで愛おしそうに見守り(ウォッチ)続けていた。
この巨塔に集いしすべての者たちが、今。自らの明確な『座標(居場所)』を保有し、自らの『初期設定(責任)』をサーブし、自らの『生命(日常)』を全力で謳歌していたのだ。
そして――人類の歴史始まって以来、本当に初めてのことだった。
彼らはただ、見えない破滅の脅威から明日を生き延びるために泥水をすするような「生存」のフェーズを、とっくに超越していた。
彼らは、魔王カイという絶対の不條理が構築したこの聖域の元で、ただ当たり前に、ただ愛おしく、自らの意志で「生きている(リブ)」のだった。
◆◆◆
――しかし。その眩いほどの楽園のタイムラインから、物理的に遥か遠く離れた『地上のどこか(暗黒の座標)』。
年季の入った重厚な木製デスクの上へと、音もなく、一通の完全に封印された『最高機密の魔導書簡』が静かにデリバリー(配置)された。
その書簡の表面には――他ならぬ、大陸の絶対権力『ラオディキア聖教会』の、あの禍々しくも聖なる最高位の紋章が、漆黒の蝋によって厳重に暗号化されていた。
部屋の主は、感情のパラメータを一切起動させることなく、白い指先でその封印の数式をパチンと冷酷に解読(叩き割り)し、書簡を開いた。
内部のインデックスに記されていたのは、都市へと潜入していたあの純純白の巡礼団(隠密部隊)が、命懸けでハッキングして持ち帰った、極めて短く、極めて冷酷な最新の『視察報告書』。
『――不条理領域、エリュシオン・オーダー。内部人口、日に日に限界突破のバースト(増加)傾向を維持。人間の民、および魔物種族間の、完璧な共生・協力アクティビティを現地のストリートにて公式確認。首謀者たる魔王カイの、西側領土全体に対する絶対の影響力の総出力……教会の許容限界値を完全に突破しつつあり』
読み手は、その最悪の不条理のテキストを一文字一文字、ただ静かに、深海のような沈黙を保ったまま精査していった。
……やがて。老人は何も言わず、ただ無言のまま、その最高機密の書類を元の形へと静かに折り畳んだ。
そこには、劇的な演出など何一つとして発生しなかった。
即座の聖騎士団の出撃キャンペーン(襲撃)が執行されるわけでも、西側世界への公式な宣戦布告が叩きつけられるわけでも、世界を脅かす凶悪な脅威のログが発信されるわけでもない。
ただの、静かな情報開示。
ただの、ありふれた最低限の事実の観測。
世界システムの中に毎日、何万通と自動生成されては処理されていく、有象無象のありふれた一通の『業務報告』。――現時点における因果の数式は、本当に、ただそれだけだった。
◆◆◆
そして。さらに全く異なる別の座標においては。
一台の、何の変哲もないごくありふれた大商人の馬車隊が、西側の王都『アシュフォード(Ashford)』のメインゲートへと向かって、ガラガラと車輪の音を響かせながら単調な駆動(移動)を続けていた。
その馬車の広大なコンテナ(荷台)の最奥にハイドされていたいくつかの重厚な木箱の表面には、教会の公式な物流コード――『ラオディキア聖教会・御用達物資』の文字列が、厳重にタイピング(刻印)されていた。
だが――そのうちの一箱だけが、長旅の過酷な物理演算(振動)のせいで、その防衛シール(木箱の端)をパキリと不自然に粉砕させ、小さな隙間を開けてしまっていたのだ。
馬車を駆動させていた一人の人間の大商人が、ふと、その荷台のアノマリー(破損)に気づいて歩み寄った。
「……ん? あれ、おかしいな。何だ、この箱の封印、いつの間にシステムエラー(破損)を起こしてやがるんだ?」
男は怪訝そうに眉をひそめ、その隙間の奥へと自らのセンサー(視線)を滑り込ませて、中身のマテリアルを徹底的に精査した。
……欠損データ、一切なし(オールグリーン)。盗難パラメータの形跡も皆無。
商人は「なんだ、ただの経年劣化の物理バグか」と納得し、ハンマーを取り出すと、その隙間を塞ぐように乱暴に釘を叩き込んで木箱を完全密閉した。
「ちぇっ、人騒がせな。まあ、中身が無事なら『何の問題もない』だろ」
キャラバンは何事もなかったかのように、再び王都の最深部へと向かってその車輪を駆動させ始めた。
奴らの真真後ろを追尾する隠密斥候など、地上のどこを探しても存在しない。
奴らに向かって不意打ちの軍事介入を仕掛けてくる魔物の群れも皆無。
そして――地上の誰も、万に一つも気づいてはいなかった。
先ほどまで叩き割られていたあの木箱の暗黒の隙間の内壁に、既存のいかなる高位魔導師の魔力センサーを以てしても逆ハッキング完全不可能な――あの白髪の魔王カイのインフラにのみ登録されている不条理魔力、**『 Genesis(創世)』の微弱なる未知の魔力残渣**が、まるで不気味なウイルスのように、生々しく、冷酷に、ネットリと付着し続けている、その最悪のバグ(異変)にだけは――。
現時点のタイムライン(現在)においては。このデータは、何一つの意味も成してはいない。
少なくとも、この世界の有象無象の誰もが、自分たちの駆動しているこの日常は、完璧に安全であると、そう盲信していた。
世界は相変わらず、その初期設定の通りにただ単調に自転を続け。
不条理な巨塔『エリュシオン・オーダー』は、狂ったスピードでその領土を拡大し続け。
ラオディキア聖教会の監視の目は、静かに、冷酷にその絶対の標的をロックし続け。
人間の王国群は、灰の中から自らのインフラを必死に巻き戻し(リビルド)続け。
――そして。これらすべての生命の認識パラメータの遙か、遙か彼方の深淵において。
世界の理をチェス盤のごとくあざ笑う、狡知の天災による最悪の『絶対の遊戯』は――もうとっくの昔に、オールグリーンで完全始動していたのだ。
ただ――この盤面の上に配置されたコマ(登場人物)たちの誰一人として。
自らがすでに、その最悪の処刑場の上で踊らされている一粒の『手駒』に過ぎないという冷酷なファクトにだけは、未だ、万に一つも気づいてはいなかったのだった――。




