第97話:ラオデキヤの教会
アシュフォード王国。その王都はすでに目覚めていた。通りは商人たちで溢れかえり、主要な街道は兵士たちが警備している。武器や魔物の素材を携えた冒険者たちが、せわしなく街を行き交う。オークの侵攻以来、王国はかなりの復興を遂げていた。
だが、たった一箇所だけ、全く異なる空気が漂う場所があった。
ラオディキア聖教会。西方領地において最大の宗教組織である。その白き塔は街を見下ろすようにそびえ立ち、巨大なステンドグラスが朝の光を反射していた。石壁には黄金の聖印が刻まれ、建物全体に神聖魔術の残滓が流れている。
一般の市民にとって、教会は救いと守りの象徴だった。しかし魔族にとって、それは別の意味を持っていた――「警戒」である。
教会は数百年にわたり存在し続けてきた。その長い歴史の中で、幾度も魔王の台頭を目撃している。ある魔王は国を滅ぼし、ある魔王は民を虐殺した。またある魔王は、平和の約束を交わしながらも、最終的にはそれを踏みにじった。教会が学んだ教訓はただ一つ。魔王が微笑んだからといって、決して信用してはならない。
そして今、カイという名の魔王が現れた。
†
大評議会
教会の奥深くには、巨大な円形の会議場があった。大きな石の円卓を、十二の座席が囲んでいる。それぞれの席に座るのは司教たちだ。
部屋の中央に、一人の女性が立っていた。ラオディキア聖騎士団の団長、ソフィアである。彼女の纏う白銀の鎧が、背後の巨大な窓から差し込む光を撥ね返していた。その手は、預言の剣の柄の近くに無造作に置かれている。彼女がここにいるのは司教としてではない。教会から意見を求められたからだった。
一人の老司教が、円卓の上に書類を置いた。「西方領からの報告は事実と確認された」
別の司教がそれを見下ろす。「オークの侵攻によって、三つの都市が破壊されたな」
「そうだ」
「そして現在、その三つの都市すべてが再建されつつある」
「左様」
司教の表情が険しくなる。「――オークたちの手によって」
沈黙が流れた。
また別の司教が口を開く。「魔王カイの支配下において、な」
室内の静寂が一層深まる。
年配の司教の一人が身を乗り出した。「それだけでも、十分に警戒に値するはずだ」
数席離れた場所に座っていた若い司教が眉をひそめた。「何を警戒されるのですか?」
老司教が彼を睨む。「人間の定住地の真っ只中に魔王が勢力を築くのを、そのまま見過ごせというのか。その危険性を言っているのだ」
若い司教は報告書に目を落とした。「では、彼が実際に示した『危険』について議論しましょう」
老司教の目が細められる。「お前は、数百年の歴史を無視するつもりか?」
「いいえ。歴史と、目の前にある事実を切り離して考えるべきだと言っているのです」
若い司教はページをめくった。「カイはオークキングを倒した」誰も反論しない。「彼は侵攻を止めた」誰も口を開かない。「そして、数千人もの難民を保護した」
一人の司教が遮った。「その難民たちが彼にとって利用価値があったからだろう」
若い司教が彼を見つめる。「その証拠はあるのですか?」
司教は黙り込んだ。
「彼は王を倒した後、生き残ったオークの兵士たちを助命しました」
司教の一人が不快そうに眉をひそめる。「そのオークどもは侵攻に加担していたのだぞ」
「そうです」
「処刑されるべきだった」
「そうかもしれません」若い司教は手を組んだ。「しかしカイは処刑ではなく、降伏と都市の再建を選ばせたのです」
別の司教が声を上げる。「慈悲すらも武器になり得る」
「恐怖も同じですよ」
司教の表情が引きつる。「まさか、奴を信用しろとでも言うのか?」
「いいえ。彼の意図を決めつける前に、まずはその行動で判断すべきだと言っているのです」
彼はいくつかの書類を卓上に広げた。「人間がオークと共に街を再建している。難民はカイの保護下で暮らしている。冒険者は彼の領地内で活動し、商人は交易路を確立させつつある。精度高く、カイは人間の王国を一度も攻撃していません」彼は言葉を区切った。「これらの事実が、彼が無害であるという証明にはならないでしょう。しかし、我々の記録にある過去の大戦とは状況が異なるという証明にはなります」
老司教が机を叩いた。「どんな魔王も、最初は理性的であるかのように装うものだ」
そこで、ソフィアがようやく口を開いた。「ならば、彼の行動が変わる瞬間を監視すべきです」
すべての司教が彼女を振り返った。
ソフィアは冷静さを保っていたが、その言葉には自分でも確信が持てずにいた。「疑うことは合理的です」彼女は片手を机に置いた。「ですが、疑惑は証拠にはなりません」
老司教が彼女を観察するように見る。「もし、奴の手が付けられないほど強くなった後で証拠が現れたらどうする?」
「その時は、待ったことが我々の失敗となるでしょう」ソフィアの視線が鋭くなる。「ですが、証拠もないままにこちらから攻撃を仕掛ければ、我々自身の手で、防ごうとしていた戦争を引き起こすことになります」
部屋が静まり返る。
彼女は再び報告書に目をやった。「彼は人間の王国を攻撃していない。西方領を征服しようともしていない。民を虐殺してもいない。現在の停戦協定を破ってもいない。そして、届いているすべての報告によれば――」彼女は間を置いた。「――彼は自分の支配下にある人々を守っています」
一人の司教が怪訝そうに言った。「奴を弁護しているのか?」
ソフィアの返答は、あまりにも早かった。「いいえ」
その言葉が会議場に響き渡るのを聞きながら、彼女はその裏にある不快な真実に気づいていた。自分はカイを弁護しているのではない。教会が間違っているかもしれない、という可能性を守ろうとしているのだ。
「私はただ、観察しているだけです」彼女は続けた。
若い司教が頷く。
ソフィアは年配の司教たちに視線を向けた。「もし魔王カイが人類に牙を剥くなら、その時に我々は動くべきです」
「もし、牙を剥かなかったら?」
誰も答えなかった。
ソフィアは報告書へ視線を落とした。「その時は、我々の恐怖が世界を守っていたのか――」彼女は顔を上げた。「――それとも、我々の古い信仰を守っていただけなのかを、決断せねばなりません」
†
引き裂かれる教会
評議会が結論に至ることはなかった。それどころか、議論はカイの過去の行動から、彼が将来もたらすかもしれない危険性へとすり替わっていった。ある司教は奴がただ好機を待っているだけだと信じ、別の司教はあの魔王が本当に異なる道を歩み始めたのではないかと考えていた。
一人の司教が毅然と言い放つ。「魔王が変わることなどない」
若い司教が返す。「ではなぜ、過去の記録にいくつかの『例外』が存在するのですか?」
「その例外とやらは、すべて裏切りで終わっている!」
「いくつかの例は、そうですね」
「どれも危険な存在だったことに変わりはない!」
「それは、すべてが同じ結末を辿るという意味にはなりません」
議論は円卓を回り続け、もはや同じ問いを繰り返すのではなく、教会が次に取るべき行動について分裂し始めていた。ある派閥はカイの領地との交易を制限することを望み、別の派閥は監視員の派遣を求めた。そして第三の派閥は、聖騎士団に宣戦布告なき開戦の準備を要求した。
その提案が、ソフィアの意識を引き戻した。「誰に対する戦争の準備ですか?」彼女は問いかける。
提案した司教が不満げに顔をしかめた。「脅威が顕在化する前に、その脅威を排除するためだ」
「それは準備とは言いません。密室での独断です」
「慎重と言ってほしいな」
「制服を着た恐怖の間違いでしょう」
司教の顔が怒りで赤くなる。「まるで魔王カイが、我々の信頼を勝ち得たとでも言いたげな口振りだな!」
ソフィアの手が、机の上で固く握りしめられた。「いいえ。彼は我々の『注目』に値する存在だと言っているのです」
彼女はオーク戦の報告を思い出していた。オークキングが襲撃し、カイがそれを打倒した。その後、カイは生き残ったオークたちに降伏を命じたのだ。処刑もなく、虐殺もなく、復讐すらなかった。ただの降伏。
その決断は、凄惨な虐殺が行われるよりも、遥かにソフィアを動揺させた。もし虐殺だったなら、理解しやすかった。自分が教えられてきたことの証明になったからだ。だが、慈悲は難解だった。慈悲は疑問を生み出す。なぜ再び立ち上がるかもしれない敵を生かしたのか? なぜ都市を我が物とせず、再建させたのか? なぜ人間の難民を魔王の保護下で生きることを許したのか?
ソフィアは長年、脅威が襲いかかる前にそれを察知するための訓練を積んできた。しかし、カイの行動はそのどれの型にも当てはまらない。
それは彼が安全であることを意味しない。ただ、不可解であるという意味だ。核心的に、不可解な脅威こそが、彼女が最も恐れるものだった。
最終的に評議会は、一時的な方針として合意に達した。公式な非難は行わず、軍の移動もさせず、継続して監視を行う。
しかし、その命令には隠された条項があった。もしカイが停戦協定に一度でも違反すれば、教会はただちに総動員をかける。
ソフィアはその文言に目を留めた――「ただちに」。調査の後でもなく、事実確認の後でもない。
教会は、ただ監視しているような顔をしながら、疑惑だけで牙を剥く準備を整えているのだった。
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大書庫
その日の午後遅く、ソフィアは教会内でも特に古い区域に足を運んでいた。大書庫。そこは数千冊もの本が棚を埋め尽くす、広大な部屋だった。数百年前の書物もあれば、さらに気の遠くなるような年月を経たものも少なくない。
ソフィアは机に向かって作業をする数人の歴史学者たちの脇を通り過ぎた。奥の方では、一人の老司教が古い文献に囲まれてぽつんと座っている。
ソフィアは歩み寄った。「評議会では随分と静かでしたね」
老司教が顔を上げた。「私はいつも静かだよ」
ソフィアは小さく微笑んだ。「それもそうですね」彼女は本に目をやった。「何を調べておいでで?」
「昔の魔王に関する記録さ」
ソフィアが片方の眉を上げた。「何か面白いものでも?」
「役に立つものは何もないよ」彼は一冊の本を閉じた。「大半は同じことの繰り返しだ。『古代の戦争』『虐殺』『条約』そして『裏切り』」
ソフィアはため息をついた。「つまり、いつも通り、ですか」
「歴史というやつは、誰かが死なないと面白がり方を知らんからね」老司教は皮肉げに笑った。
ソフィアは別の文献に視線を移した。「カイについての記述はありましたか?」
「いや」老司教は首を振った。「奴は新しすぎる」
ソフィアは頷いた。「では、なぜ魔王の記録を?」
司教は手を止めた。「『型』を探していたのさ」
「型、ですか?」
「歴史は繰り返す」彼はゆっくりとページをめくった。「名前が変わる。王国が変わる。魔王が変わる。――だが、過ちはいつも同じだ」
ソフィアは腕を組んだ。「どのような過ちです?」
老司教が彼女に視線を向けた。「人間が、魔族を信用できると思い込む過ちさ」
ソフィアの表情は動かない。
「そして、魔族が、人間を信用できると思い込む過ちだ」
老司教は静かに微笑んだ。
数秒の間、二人の間に沈黙が流れた。やがて、司教の指がある古い一節の上で止まった。
ソフィアがそれに気づく。「そこには何と?」
老人は手元を見つめた。「古い格言だ」
「どこからの?」
「古代の魔族の魔言(方言)さ」
ソフィアは身を乗り出した。その文字は奇妙で、彼女ほどの教養があっても大半は理解できなかった。
司教はそれをゆっくりと翻訳した。「――秩序の礎は『恐怖』であると信じる魔族がいる」
ソフィアは眉をひそめた。「それは、どの魔族のことです?」
老司教は肩をすくめた。「古い奴らさ」
ソフィアは先を待った。「それだけですか?」
「それだけだ」
彼女は再びそのテキストに目を落としたが、他には何もなかった。名前も、場所も、解説もない。ただ数百年前に記された、たった一行の文。
ソフィアは歩き出した。「興味深いですね」
司教は本を閉じた。「古い言い回しというのは、大抵そういうものさ」
ソフィアは頷き、その場を後にした。二人とも、その時はそれ以上深く考えることはなかった。
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小さな異変
数時間後、一人の聖職者が教会の東回廊を急ぎ足で歩いていた。彼は小さな容器を抱えている。中にあるのは、教会の巡礼地の一つから回収された聖なる結晶だった。
聖職者は不審そうに眉をひそめた。何かがおかしい。結晶が熱を帯びている。異常なほどに。
彼は足を止め、容器に触れてみた。かすかな脈動が手に伝わってくる。彼は思わず手を引いた。「な、んだ……?」
周囲を見回したが、何も変わった様子はない。結晶もまた元の静けさに戻っていた。聖職者は狐につままれたような顔をしながら、再び歩き出した。
数分後、彼は足をもつれさせてよろめいた。通りかかった別の聖職者が彼を支える。「大丈夫ですか?」
「ああ、平気だ」
「顔色が悪いですよ」
彼は首を振った。「ただの寝不足だ」
同僚は彼を近くの椅子に座らせた。「なら、少し休みなさい」
聖職者は頷き、手元の容器を見つめた。中の結晶は完全に静止している。だから彼は気づかなかった。その表面に、髪の毛ほどの細く暗い亀裂が走ったことに。
†
巡礼地
王都から遥か離れた場所に、古代の聖地が存在する。「黎明の聖域」。教会が所有する最も古い巡礼地の一つであり、毎年数万人もの信徒が訪れる場所だ。
聖域は鬱蒼とした森に囲まれた山頂にあり、古代の魔法祭壇を囲むようにして巨大な白亜の建造物がそびえ立っている。その祭壇は現在の教会が設立される遥か昔から存在すると言われ、神官たちが絶え間なく管理を続けていた。聖域を包む魔法結界が破られたことは、ただの一度もない。
――その日の朝までは。
一人の神官が祭壇へ歩み寄り、不意に足を止めた。魔法結界が、一瞬だけ激しく明滅した。一度きり。そして、消えた。
神官は硬直した。「え……?」
慌てて周囲を見渡したが、何も変わっていない。結界はすでに元通りに張られている。
彼が呆然とそれを見つめていると、二人目の神官が近づいてきた。「どうした?」
「結界が……」
「結界がどうしたんだ?」
「消えたんだ」
「どれくらいの間だ?」
最初の神官は躊躇した。「一秒にも満たない。ほんの一瞬だ」
二人目の神官は眉をひそめた。「ただの魔力の揺らぎだろう」
「……かもしれないな」
彼らは職務に戻った。祭壇の底に、うっすらと染みのようなものが広がっていることには気づかずに。それはまるで、影のようだった。
この一件は正午前に「軽微な魔力変動」として記録された。夕方には報告書が処理され、そのまま忘れ去られた。王都で運ばれていた結晶とこの異変を結びつける者は誰もおらず、二つの不穏な動きが同じ日に起きたことに気づく者もいなかった。そして、最初の「綻び」がすでに始まっていることを、まだ誰も理解していなかった。
†
ソフィア
その日の夜、ソフィアはアシュフォードの街並みを見下ろすバルコニーに立っていた。地平線の彼方まで街の灯りが広がり、通りを行き交う人々の賑わいが遠くかすかに聞こえてくる。
彼女は一日の大半を、カイを巡る議論を聴くことに費やした。危険だと断じる者、機会を与えるべきだと言う者、あるいはどう考えるべきか分からずにいる者。
ソフィアには彼らの気持ちがよく分かった。真実は単純だ。誰もカイという存在を知らない。本当の意味では。彼らが知っているのは、その肩書きであり、その圧倒的な力だ。オークの侵攻時に何が起きたか、彼が巨大な塔を支配していること、そして彼に従う魔族たちがいるということだけ。だが、それらの情報のどこをめくっても、彼が「どんな人物か」という答えは載っていない。
ソフィアはバルコニーの手すりに両手を置いた。「疑うことは合理的。ですが、疑惑は証拠にはならない」自分の言葉を呟いてみる。
彼女はそう信じていた。少なくとも、今は。
問題は、その信念がどこか個人的な感情を帯び始めていることだった。彼女が幼い頃、国境沿いの襲撃で家族は魔族に皆殺しにされた。教会は彼女を迎え入れ、訓練を施し、「躊躇こそが罪なき人々を死なせる原因だ」と叩き込んだ。長年、彼女はその教えを疑うことなく受け入れてきた。
しかし今、カイという存在が、教会によって作られた自分と、自分自身の目で培ってきた判断力との間で選択を迫っている。もし自分が監視を支持し、その後にカイが裏切れば、自分が『例外』を信じようとしたせいで数千の民が苦しむことになる。逆に、もし自分が開戦を要求し、カイが平和を望み続けたなら、自分は「人類を守る」という名目で、自ら恐れていた通りの化け物になってしまう。
手すりを握る指に力がこもる。カイが凶悪な存在であってくれれば、答えは簡単だった。だが、彼女の心のどこかは、その逆を何よりも恐れていた。もしカイが本当に人間と魔族の均衡を変えうる存在だとしたら、教会の抱く「絶対的な確信」こそが、平和への道を阻む障害になってしまうのではないか。
背後から聖職者が近づいてきた。「ソフィア様」
彼女は振り返った。「何ですか?」
「西方領から新たな報告が届きました」
「カイについてですか?」
「はっ」
ソフィアは先を促した。「『エリュシオン教区』が、また一団の旅人を受け入れたとのことです」
「規模は?」
「数十名ほどかと」
「揉め事は?」
「ありません」
ソフィアは頷いた。「他には?」
聖職者は一瞬ためらった。「現地の人間たちは、その……」彼は言葉を探すようにして、「――『幸せそう』に暮らしている、と」
ソフィアは再び街の灯りに目を向けた。「幸せそうに、ですか」
「はい」
「興味深いですね」
聖職者は頷いた。「それともう一つ、報告が」
ソフィアが彼を見る。「何です?」
「民が……カイのことを『守護者』と呼び始めているようです」
ソフィアは沈黙した。守護者。その言葉が持つ重みは計り知れない。魔王が、人間から守護者と呼ばれている。それは教会がこれまで、ほとんど目にしたことのない事態だった。
ソフィアは遠い地平線を見つめた。王国の遥か先にあるエリュシオン教区。人間と魔族が共に街を再建している場所。本来なら恐れるべき存在である魔王を、人々が信頼し始めている場所。
それが正しいことなのかどうか、ソフィアには分からなかった。ただ、一つだけ確かなことがあった。
――もはや、目を背けることはできない。
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翌朝
教会は何事もなかったかのように動き続けていた。祈祷、訓練、巡礼、医療活動、そして数々の儀式。何一つ変わった様子はない。あの奇妙な結晶は検査のために保管され、体調を崩した聖職者も回復しつつあった。「黎明の聖域」は通常通り開放されており、司教たちは相変わらずカイについての議論を続け、ソフィアは監視を続けている。
戦争は始まっていない。公式な非難も、敵対宣言も出されていない。教会はただ観察しているだけ。――少なくとも、公式の報告書にはそう記されていた。
しかし現実には、評議会はすでに、カイが停戦協定を破った瞬間に軍を動員するための極秘命令書を用意していた。その命令は、確実な襲撃が確認されるまでは発動しない。
ただ、聖域の底に潜む「隠された脅威」は、それとは全く異なるものだった。それは攻撃を仕掛けてきたわけでも、自らの存在を誇示したわけでもない。あの朝、ただ一度だけ結界を試し、まだ誰にも気づかれていない微かな痕跡を残しただけだった。
教会は、自分たちにはカイを調査する十分な時間があると思い込んでいた。しかし、それとは別の「何か」が、すでに教会そのものを調査し始めていることには気づいていなかった。
そして教会の内部でも、ごく一部の人々が疑問を抱き始めていた。自分たちの持っている魔王への古い認識は、今生きているこの世界を説明するのに、果たしてまだ十分なのだろうかと。
その問いへの答えは出ない。――今は、まだ。
教会の外では、アシュフォードの日常がいつも通りに流れていた。子供たちが通りで遊び、商人が店を開け、騎士たちが交代で警備につき、冒険者たちが新たな一日に向けて準備を進める。世界は平和なままだった。
だが、均衡は確実に、ゆっくりと変化していた。誰かが攻撃を仕掛けたからではない。どこかの王国が滅びたからでもない。かつては絶対に不可能だと思われていた「ある可能性」を、人々が受け入れ始めてしまったからだ。
――魔王は、信用できるのかもしれない。
そして、そのたった一つの思想こそが、いかなる軍勢よりも、古い秩序にとって凶悪な脅威だった。




