第98話 - 第1幕:ラオディケイアの毒殺、前編 — 最初の汚点
三日後
アシュフォード王国。ラオディキア聖教会が魔王カイの「監視継続」を正式に決定してから、三日の月日が流れていた。何一つ変わった様子はない。少なくとも、市井の民の目に映る景色においては。
毎朝変わらず鐘が鳴り響き、聖職者たちは儀式を執り行う。巡礼者たちは古代の聖地を目指して旅を続け、聖騎士たちは東庭園の地下で己を鍛え上げる。そして大聖堂の内部では、相変わらず司教たちが議論に明け暮れていた。まだ何も爆発していないうちから物事についてあれこれ言い争うことを、人間の文明はどうやら「安定」と呼ぶらしい。
しかし、教会に漂う空気そのものは確実に変質していた。そこにあるのは、明らかな「不確実性」だ。そして不確実性とは、常に危険を孕むものである。
†
最初の報告
ソフィアは東の訓練庭園に立っていた。腰には「預言の剣」が携えられている。すぐ近くでは、数人の聖騎士たちが打ち合いの最中だった。鋼と鋼が激しく衝突する。
――ガキィン!
一人の騎士が体勢を崩して後退した。ソフィアはその様子を黙って見つめていた。「もう一度」
騎士は即座に剣を構え直し、鋭く踏み込んだ。ソフィアが動く。一歩、そして転身。騎士の得物は彼女の身体をかすめることもなく空を切り、ソフィアの二本の指が彼の肩を軽く叩いた。「終わり(死亡)です」
騎士はがっくりとため息をついた。「……はい、団長」
「もう一度」
騎士が彼女を凝視する。「もう一度、ですか?」
ソフィアは片眉を上げた。「何か聞き取りにくかったですか?」
「いえ、団長!」
彼は再び剣を掲げた。ソフィアの口元に、かすかな笑みが浮かびかける。
そこへ、一人の聖職者が酷く怯えた様子で庭園に駆け込んできた。「ソフィア団長」
ソフィアは振り返った。「何ですか?」
「『黎明の聖域』から、新たな報告が届きました」
彼女の表情が微かに引き締まる。「結界に何か?」
「いえ」聖職者は首を振った。「別のことです」
ソフィアは彼へと歩み寄った。「何があったのです」
「現地に駐在している神官の一人が、病に倒れました」
「病? どの程度の重症ですか」
「朝の祈祷中に、そのまま意識を失ったとのことです」
ソフィアは眉をひそめた。「外傷は?」
「ありません」
「毒の可能性は?」
「分かりません」
「魔術によるものですか?」
「それも、まだ判別がつきません」
ソフィアはしばらく沈黙した。「――症状は?」
聖職者は言葉を濁らせた。「……発熱、です」
「それだけですか?」
「体内の魔力循環が、異常なほど不安定になっています」
ソフィアの目が鋭くなった。「不安定、とは?」
「はい」
聖職者から手渡された報告書に、ソフィアは素早く目を走らせた。その症状は極めて奇妙だった。通常の病であれば肉体が侵される。魔術的な病であれば、肉体の中にある魔力が衰弱する。だが、これは違った。その神官の魔力は、ただ弱まっているのではない。まるで、体内に「異物」が入り込み、魔力そのものが別の何かに書き換えられようとしているかのような挙動を示していた。
ソフィアは顔を上げた。「他に体調を崩した者は?」
「現在のところは、まだ」
「結構です」彼女は報告書を突き返した。「すぐに治癒術師を派遣しなさい」
「すでに手配は済んでおります」
「結果は?」
「派遣した治癒術師では、原因の特定に至りませんでした」
ソフィアの表情が本格的に険しくなる。「ならば、さらに上位の術師を送りなさい」
「はっ、ただちに」
聖職者が踵を返そうとする。
「待ちなさい。もう一つ」ソフィアが引き留めた。
彼は振り返る。「何でしょうか」
「この件、教会内で言い触らすのではないように」
聖職者は目を丸くした。「なぜです?」
「まだ正体が分かっていないからです」ソフィアは大聖堂の方角を睨み据えた。「くだらない噂のせいで、ただの病を『危機』に仕立て上げたくはありません」
「……承知いたしました」彼は足早に去っていった。
ソフィアはその場に立ち尽くした。報告書の何かが、どうしても胸に引っかかる。誰かが病に倒れたからではない。人が病むことなど日常茶飯事だ。問題はやはり、あの魔力の不安定さにある。あれは、通常の現象ではない。
彼女はふと空を見上げた。その瞬間、奇妙な感覚が彼女を襲った。微かな、しかし肌にへばりつくような圧力。どこかで見覚えのあるような、既視感。――それも一瞬で消え去った。
ソフィアは不快そうに眉根を寄せた。「……今のは、何だ?」
†
聖なる結晶
教会の研究室の奥深くで、三人の聖職者が巡礼地から回収された結晶を調べていた。結晶は厳重な魔力障壁のコンテナに収められている。本来であれば、それは見る者を魅了するような、穏やかな黄金の光を放つ美しい結晶だった。
だが今、その中心には、不気味な一条の闇がのたうつように走っている。
一人の研究員が眼鏡の縁を押し上げた。「興味深いな」
もう一人が彼を覗き込む。「何がだ?」
「結晶の魔術構造そのものが、根本から変質している」
「どうやって?」
「分からん」彼がコンテナの表面に手を触れた、その時だった。結晶が、脈打った。一度だけ。ドクン、と。
部屋が水を打ったように静まり返る。研究員は、恐る恐る手を引いた。「……今、感じたか?」
相方の聖職者が生唾を飲み込んで頷いた。「ああ」
「何だ、今の波長は」
「分からん」彼は再び結晶を凝視した。「だが……神聖魔術のエネルギーではない」
「なら、何だって言うんだ」
彼らは、その細く黒い線を凝視する。
「分からん……」
沈黙が支配する中、これまで黙っていた三人目の聖職者が、ついに震える声で口を開いた。「――魔族の力(魔力)、ということは」
研究員は眉をひそめた。「……否定はできん」
もう一人の聖職者が即座に首を横に振った。「そんな口にするな!」
「なぜだ」
「もしこれが本当に魔族による『汚染』だとしたら、我々はとんでもない事態に直面していることになるからだ!」
それ以上、誰も言葉を発しなかった。すると、結晶が再び脈打った。今度は、部屋の空気が目に見えて凍りつく。研究員たちは思わず後退した。やがて、結晶は何事もなかったかのように元の静けさに戻る。
最年長の聖職者が、声を震わせながら指示を出した。「……この部屋を封印しろ」
「え?」
「誰もこれに触れさせてはならん」彼は扉の方を振り返った。「大評議会の許可なく、何人たりともこれを外へ持ち出すことは許さん」
こうして研究室は完全に閉鎖された。結晶は暗闇の底で、じっと収められている。まるで、その時を待つかのように。
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ソフィアの記憶
その日の午後、ソフィアは再び大書庫へと足を運んでいた。自分でも理由は分からなかった。答えを求めていたのか、あるいは、ただカイを巡る不毛な議論から逃れたかっただけなのかもしれない。
彼女は古びた書棚の間を歩いた。指先がいくつかの古い背表紙をかすめていく。その時、彼女は足を止めた。またあの奇妙な感覚が這い上がってきたのだ。訓練庭園で感じたものと全く同じ、肌にへばりつくような圧力。見覚えがあるのに、どうしても正体が思い出せない。
ソフィアはそっと目を閉じた。ほんの一瞬、彼女の脳裏に「何か」が浮かび上がる。――戦場。不気味なオーラ。そして、昏い空の下に佇む一人の青年。彼の顔までは見えなかった。
イメージは唐突に霧散した。ソフィアが目を開けると、自身の呼吸が乱れていることに気づく。「……今のは、何だったの?」
周囲を見回したが、誰の目にも留まってはいないようだった。ソフィアは胸に手を当てた。心臓が激しく脈打っている。訳が分からなかった。自分はあの人物に会ったことなどないはずだ。少なくとも、そんな記憶はどこにも存在しない。
ソフィアは頭を振った。「……ただの疲れね」彼女は再び歩き出した。
だから彼女は気づかなかった。書棚の影に潜む、一つの歪な影に。誰かがそこに立ち、じっと彼女を監視していた。その人影は完全に気配を消したまま、やがて、最初から誰もいなかったかのように静かに消え去った。
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穏健派の司教
カイの監視継続を支持した若い司教――エルリックは、自身の執務室にいた。彼は午前中の大半を費やして、西方領から届いた報告書に目を通していた。「エリュシオン教区」。人間の難民。都市を再建するオークたち。交易路。冒険者。襲撃の報告は皆無であり、失踪者も、虐待の兆候すらも存在しない。何もかもが、あまりにも平穏だった。
彼は椅子の背もたれに身を預けた。「……奇妙なほどだな」
その時、扉がノックされた。「入りなさい」
一人の聖職者が入室してきた。「エルリック司教閣下」
エルリックは顔を上げた。「何かあったか?」
「『黎明の聖域』にて、再び魔力の揺らぎが報告されました」
エルリックは眉をひそめた。「またか?」
「はい」
「頻度はどれくらいだ?」
「昨日から数えて、すでに三度目となります」
エルリックは勢いよく立ち上がった。「三度だと?」
「はっ」
「誰か調査に向かわせたのか?」
「現地の神官たちは、結界そのものが一時的に弱まっているだけだと考えているようです」
エルリックは窓辺へと歩み寄った。「あの結界は、数百年にわたり維持されてきたものだぞ」
「存じております」
「それが、なぜ今になって突然不具合を起こす?」
聖職者は答えることができなかった。
エルリックが振り返る。「他に何かあるか?」
聖職者は一瞬言い淀んだ。「……もう一件、気になることが」
「何だ?」
「聖域に駐在している神官の一人が、病に倒れました」
エルリックの表情が一変する。「病だと?」
「体内の魔力が、異常に不安定になっているとのことです」
エルリックは即座に扉へと向かった。「私を現地へ案内しろ」
聖職者は目を丸くした。「今からですか?」
「今すぐだ」
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黎明の聖域
日が沈む頃、エルリックは「黎明の聖域」へと到着した。山頂の空気は肌を刺すように冷たい。夕日に照らされた古代の白亜の建造物が、そこに佇んでいた。数人の神官たちが彼を待ち受けている。
エルリックは入り口をくぐった。「祭壇へ案内しろ」
神官たちは不安げに視線を交わし合ったが、すぐに彼を奥へと連れて行った。
そこには、数百年前から全く変わらない姿で古代の祭壇が鎮座していた。白い石材、黄金の刻印、神聖な紋様。一見したところ、何の異常も見当たらない。
エルリックが近づき、祭壇の近くに手をかざした。何も起きない。――そう思った瞬間、結界が激しく明滅した。パチリ、と。
エルリックの目が大きく見開かれた。「……今のを見たか?」
神官が頷いた。「はい。今では一日に何度もこのようなことが起きます」
「持続時間は?」
「一秒にも満たない、ほんの一瞬です」
エルリックは祭壇の底に目をやった。そこにあった。うっすらとした染みのような変色が。注意深く見なければ見落とすほどの微かなものだ。彼はその場にかがみ込んだ。「これは何だ?」
神官も覗き込む。「分かりません……」
エルリックがその石に触れた瞬間、彼の指先は弾かれたように引っ込んだ。冷たい。ただの冷気ではない。まるで、壁の向こう側から「何か」に直接触れられたかのような、悍ましい冷たさだった。
彼は立ち上がった。「誰もこれに触れるな」
神官たちが彼を凝視する。「分かったな?」
「は、はい」
エルリックは祭壇を見据えた。「何が起きているか判明するまで、この聖域を完全閉鎖する」
一人の神官が躊躇がちに口を開いた。「しかし、明日には何百人もの巡礼者が到着することになっておりますが……」
「分かっている」エルリックの声は断固としたものだった。「だからこそ、命じているのだ」
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最初の過ち
しかし、その命令が王都に届くことはなかった。エルリックの記した極秘の報告書はメッセンジャーの鞄に収められ、伝令兵は真夜中前に聖域を出発した。
だが、彼は二度とアシュフォードへ辿り着けなかった。翌朝、街道の脇で彼の乗馬だけが発見された。伝令兵の姿はなく、報告書も消え失せていた。血痕もなく、争った形跡も、破損した装備品もない。ただ、誰もいない虚無の街道が広がっているだけだった。
教会側は山賊の仕業だと判断した。すぐに別の報告書が作成されたが、今回のものは先の報告よりも遥かに詳細が省かれていた。その二度目の伝令は別のルートを通り、無事に王都へと到着した。
その頃には、「黎明の聖域」はすでに何事もなかったかのように再開放されていた。巡礼者たちに異変が知らされることはなく、倒れた神官は個人の医療室へと移された。そして、祭壇の底にある奇妙な変色は、今もそこに残り続けている。
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二人目の神官
翌朝、さらに別の神官が病に倒れた。そして、また一人。今度はその知らせが、即座にソフィアの元へと届けられた。
彼女が医療室に入ると、三人の神官がそれぞれ別のベッドに横たわっていた。顔色は一様に蒼白で、呼吸こそ安定しているものの、体内の魔力波形は尋常ではないほど乱れている。
ソフィアは最も近くのベッドに横たわる神官に歩み寄った。「私の声が聞こえますか」
神官はうっすらと目を開けた。「団、長……」
「何があったのです」
「分かりません……」彼は生唾を飲み込んだ。「私はただ、祈りを捧げていました」
「それから?」
「何かを、感じたのです」
ソフィアは身を乗り出した。「何を」
神官の瞳が恐怖に細かく震える。「酷く……冷たい何か、です」
ソフィアは眉をひそめた。「冷たい?」
「はい」彼は怯えきった声で続けた。「まるで……何かが、自分の中に入り込んできたような……」
ソフィアの表情が硬くなる。「あなたの中に?」
神官が深く頷いた、その直後だった。彼の身体が唐突に激しく痙攣し、体内の魔力が爆発的に暴走した。
――ドォン!
ソフィアは瞬時に手を掲げた。彼の周囲に神聖魔術の結界が展開される。神官は絶叫し、その両腕にどす黒い血管のような筋が浮かび上がっては、またすぐに消え去った。
ソフィアはそれを見つめ、周囲の神官たちは恐怖のあまり後退した。「だ、団長……」
ソフィアは完全に硬直していた。彼女はこれまでに呪詛の魔術も、魔族の悍ましい魔力も見てきた。だが、これは違った。その魔力波形には全く見覚えがない。しかし同時に、何かが奇妙に引っかかる。どこか――近くにあるような感覚。
ソフィアは目を細めた。「教会内の治癒術師を全員集めなさい」
神官の一人が頷く。「は、はい!」
「それから、大評議会へ通知を」
「ただちに!」
ソフィアは再び意識を失った神官を見下ろした。その表情はさらに冷徹さを増していく。「これは病などではないわ」
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大評議会
司教たちが再び集結した。今回は、カイについて軽口を叩いて言い争う者など一人もいなかった。卓上には次々と報告書が並べられていく。三人の発症した神官。繰り返される結界の明滅。変質した結晶。古代の祭壇の底に現れた謎の変色。そして、一人の伝令兵の失踪。
室内には重苦しい沈黙が満ちていた。
中央に立ったエルリック司教が声を大にする。「『黎明の聖域』はただちに閉鎖すべきです」
一人の司教が首を振った。「そのようなことをすれば、民に混乱を招く」
「すでに現地の神官たちが倒れているのですよ!」
「たったの三人だろう」
「我々が把握しているだけで三人、の間違いでは?」
司教は言葉に詰まり、黙り込んだ。
窓辺に佇んでいたソフィアは、その議論を静かに聞いていたが、ついに口を開いた。「我々がすべきは、その『根源』を調査することです」
年配の司教が彼女を厳しい目で見つめた。「これが何者かによる『襲撃』だとでも言うつもりかね、ソフィア団長」
ソフィアはすぐには答えなかった。「分かりません」
「ならば、なぜそれほど警戒する?」
「なぜなら、これが何であれ――」彼女は卓上の報告書を指し示した。「――決して、偶然起きているわけではないからです」
部屋がしんと静まり返る。
ソフィアは続けた。「結界への干渉。結晶の変質。神官たちの発症。そして、極秘報告書の強奪。これらはすべて、繋がっています」
一人の司教が眉をひそめた。「……魔王の仕業だと、そう言いたいのか?」
ソフィアの表情が引き締まる。「私は『繋がっている』と言ったのです」
「それでは答えになっていない!」
「これが、今お答えできる限界です」彼女は言葉を区切った。「我々にはまだ、何の確証もないのですから」
別の司教が声を上げた。「ならば、魔王カイの周辺を洗うべきではないか?」
ソフィアの目が鋭くなる。「なぜです」
「西方領からの報告には、絶えず奴の領地のことが記されている。エリュシオン教区の魔力は異質だ」
ソフィアは先ほど自身が覚えたあの微かな感覚を思い出し、口を噤んだ。
司教は言葉を重ねる。「もし、何者かが魔族の魔術を使って我が教会を陥れようとしているのだとしたら――」彼は周囲の司教たちを見回した。「――魔王の魔力波形を偽装して利用するというのは、極めて効果的な手段だ」
ソフィアの表情から一切の感情が消えた。それは非常に筋の通った合理的な仮説だった。だからこそ、厄介なのだ。人は「そうであってほしい」と強く願う時、その合理的な仮説を事実だと思い込んでしまう。
彼女は最後にこう告げた。「ならば、調査を」
司教が頷いた。「もし、その痕跡がカイへと行き着いたなら?」
ソフィアは彼の目を真っ直ぐに見据えた。「その時は、事実の後に従うまでです」
憶測でもなく、恐怖でもない。ただ、事実。数日前に彼女が評議会で主張したのと同じ原則だ。しかし今回ばかりは、何かがすでに狂い始めているのを、彼女自身も肌で感じていた。
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別の場所にて
教会から遥か離れた場所、薄暗い部屋の中に一つの影が佇んでいた。机の上には、何枚もの書類が散乱している。報告書、地図、名前のリスト、巡礼ルート、そして教会の行動スケジュール。
その人影は一枚の書類を手に取った。その傍らには、小さな結晶の破片が置かれており、結晶は不気味に、かすかな脈動を繰り返している。
人影の口元が、歪に釣り上がった。すべては計画通り。軍勢を動かしたわけでもない。どこかの王国を滅ぼしたわけでもない。魔王が姿を現したわけでもない。人々がパニックに陥る理由など、どこにもないのだ。――まだ、今は。
人影は書類を静かに机へと戻した。「最初の汚れ(シミ)を付ける時が、いつだって一番骨が折れる」
暗闇の奥から、低く静かな声が応じた。「……その次は?」
人影は窓の向こうの昏い空を見つめた。「その次は――」笑みが深まる。「――奴らが勝手に、残りのすべてを汚してくれるさ」
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アシュフォード
その夜、ソフィアは大聖堂の外にただ一人佇んでいた。街は穏やかな静寂に包まれている。通りを行き交う人々、子供たちの笑い声、店を閉める商人たち。何一ついつもと変わらない光景。
だが、ソフィアは知っていた。すでに教会に何かが入り込んでいる。酷く知性的に、そして辛抱強く。
彼女は遠い西の地平線に目を向けた。気がつけば、カイのことに思考が向いている。どういうわけか、彼のことを考えると奇妙な感覚に囚われた。それは恐怖でも、憎悪でもない。もっと別の何か。説明のつかない、妙な既視感。
そっと目を閉じる。またしても脳裏に、あの記憶の中の顔もなき人影が浮かび上がった。歪なオーラ、荒涼とした戦場。そして、聞き取ることのできない誰かの声。
ソフィアは目を開けた。「……あなたは、誰なの?」
応じる声はなく、ただ夜風が吹き抜けるだけだった。
彼女は預言の剣の柄を固く握りしめた。ラオディキアの内部で何が起きていようとも、必ず真実を暴いてみせる。たとえその真実が、自分の望まぬ場所へと繋がっていたとしても。
背後で大聖堂の鐘が鳴り響き始めた。一度、二度、三度。その重々しい音色がアシュフォードの街一帯へとこだまする。
そして同じ頃、遥か彼方の「黎明の聖域」のさらに奥深く――祭壇の底にある不気味な変色は、また一インチ(数センチ)狂おしく広がっていた。
誰も気づかない。誰もその音を聞くことはない。しかし、何かが確実に育ち始めていた。
ラオディキア聖教会は、自らがその存在すら知らぬ未知の戦争へと、取り返しのつかない第一歩を踏み出してしまったのだった。




