第99話 - 第1幕:ラオディキアの毒殺、後編 — ありふれたものたち
エリュシオン教区。朝。
塔はすでに活気に満ちていた。居住区の通りを多くの人々が行き交う。商人は店を開け、冒険者たちはギルド本部の周りに集まっていた。子供たちが小走りに通りを駆け抜け、オークたちは建物の間を縫って建築資材を運んでいる。彼らと肩を並べて働く人間の姿もあれば、せわしなく食事の支度に追われる者たちもいた。
それはすっかり日常の光景になっていた。あまりにも、ありふれた日常に。魔王が統治する場所であるにもかかわらず、エリュシオン教区の人々は、何一つ奇妙なことなど起きていないかのように振る舞う見事な才能を身につけていた。
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リンとソラ
塔の内部に広がる森の奥深くで、巨大な何かが数本の木々をなぎ倒して激しく激突した。
――ズドォォォォン!
木の葉が宙に舞い散り、大枝が砕け散る。巨体を持て余した魔物が地面を転がった。全身を分厚い鱗で覆われ、頭部からは四本の角が突き出ている。その爪は大地を深く抉り取っていた。
怪物は立ち上がろうとしたが、その機会は二度と訪れなかった。いつの間にかその上空に姿を現していたリンが、すでに剣を抜いていたからだ。「もらった!」
――シュイン!
彼女の刃が魔物の首筋を正確に捉える。怪物は崩れ落ち、森に再び静寂が戻った。
リンが着地して倒れた魔物を見下ろしていると、ソラがいくつかの魔力結晶を手に近づいてきた。「これで最後の一匹ね」
リンは剣を鞘に収めた。「本当に?」
ソラは頷き、周囲の木々に視線を走らせた。「辺りを索敵したわ。もう魔物の気配はない」
リンが笑みを浮かべる。「いい感じね」
ソラも微笑み返した。「悪くないわ」
リンが彼女を見た。「悪くない、だけ?」
「危うく攻撃を喰らうところだったじゃない」
「そんなわけないでしょ」
「いいえ、喰らいそうだったわ」
「ソラ」
「リン」
「当たってたわよ」
リンは腕を組んだ。「かすっただけよ」
ソラがリンの袖を指差した。生地に小さな裂け目が走っている。
リンは手元を見つめた。「……これはノーカウント」
ソラは楽しげに笑った。「完全にカウント対象よ」
リンはため息をついた。「あんたって、本当に一言多いわね」
「前にも言われたわ」
「きっと、これからも何度も言うと思う」
ソラは微笑んだ。「それは楽しみね」
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一瞬、二人の間に沈黙が流れた。やがてリンが微笑む。「戻りましょう」
二人は森の小道を歩き始めた。これまでに何度も共に戦ってきた彼女たちの動きは、ほとんど本能的なレベルで同調している。リンが攻め、ソラがそれを補う。ソラが呪文を唱えれば、リンが隙を作り出す。もはや指示を大声で出す必要すらなく、ただ互いを理解し合っていた。
ソラが横目でリンを見た。「ねえ――」
「ん?」
「私たち、強くなってるわね」
リンは誇らしげに微笑んだ。「当然でしょ」
ソラが吹き出す。「出たわね」
「何がよ」
「その自信満々な顔」
リンは肩をすくめた。「あんただって、前より強くなってるじゃない」
ソラは嬉しそうに微笑んだ。「ありがと」
二人はさらに道を歩み進める。すると、ソラが不意に足を止めた。「待って」
リンが振り返る。「どうしたの?」
ソラがリンの剣を指差した。「さっきの技、少し使い方を変えた?」
リンは手元に目を落とした。「どの技のこと?」
「あの魔物にとどめを刺した時のやつよ」
リンは少し考えてから、悪戯っぽく笑った。「ああ、あれね。ちょっと練習してたの」
ソラは感心したように頷いた。「成果が出てるわ」
リンは前方の道を見つめた。「冒険者を始めたばかりの頃はね、一人で強くならなきゃいけないって思い込んでたの」
ソラが彼女を見つめる。「今は?」
リンは笑った。「今は、そんなの馬鹿げてるって分かるわ」
ソラは声を上げて笑った。「それが今日あんたが言った中で、一番賢いセリフかもしれないわね」
リンは即座に彼女の脇腹を肘で小突いた。「うるさいわよ」
ソラはさらに笑い声を弾ませながら、二人は街へと向かって歩き続けた。
遥か離れた枝の上から、一羽の小さな黒い鳥がじっと二人を監視していることには、どちらも気づいていなかった。数秒の後、その鳥は静かに羽ばたき、どこかへ飛び去っていった。
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お風呂の時間
その日の午後遅く、遠征から戻ったリンとソラは、疲労困憊の状態で自分たちの部屋に帰り着いた。
ソラが床に荷物を放り出す。「私、お風呂に入るわ」
リンも頷いた。「私も」
二人は浴室へと向かった。エリュシオン教区が提供する設備は、どういうわけか大半の王族の邸宅よりも遥かに豪華だった。たっぷりの湯、清潔なタオル、魔法による温度管理。さらには、魔力が付与された鏡まで備わっている。
ソラは湯船に身体を沈め、恍惚と目を閉じた。「これがあるなら、魔物と戦う甲斐もあるわね……」
リンが笑った。「疲れてるからそんなこと言うのよ」
「いいえ」ソラはさらに身体の力を抜いた。「この場所を設計した人は、本当の意味で『文明』ってやつを理解してるわ」
リンが彼女の隣に腰掛けた。「すべてユイ様が設計されたらしいわよ」
ソラは片目を開けた。「なら、私は彼女に命を救われたも同然ね」
リンは苦笑した。「本人には言わない方がいいわよ」
「どうして?」
「きっと、やるべき仕事のリストにそれを追加されちゃうから」
二人は声を合わせて笑った。それから数分の間、言葉は途絶えた。心地よい静寂が、湯気の中に満ちていく。
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やがて、ソラがゆっくりと目を開けた。「ねえ、リン」
「ん?」
「またカイ様のことを考えてたでしょ」
リンは急に静かになった。
ソラは彼女を見つめる。「無理に話さなくてもいいけど」
リンは水面に視線を落とした。「自分でも、どうしちゃったのか分からないの」
「どういうこと?」
「言葉にするのが難しいんだけど……」彼女は小さくため息をついた。「あの人の姿を見るとね、不思議と『知っているはずだ』って感覚になるのよ」
ソラは黙って耳を傾けていた。
「でも、知らないはずなのに」リンは自分の両手を見つめた。「少なくとも、あの人を知っているなんて記憶はどこにもないの」
ソラは優しく微笑んだ。「いつか、その理由が分かる時が来るわよ、きっと」
リンが彼女を見た。「そう思う?」
「たぶんね」ソラは湯船の縁に頭を預けた。「それに、時間はたっぷりあるんだし」
リンは少し安心したように微笑んだ。「ありがと」
「さあ、難しいことはおしまいにして、お風呂を楽しみましょ」
リンが笑った。「何よ、私に命令する気?」
「そうよ」
「いつからそんなに偉くなったの?」
「あんたより私の方が賢くなった瞬間からよ」
リンがソラに向けてお湯を跳ね飛ばした。ソラも即座に応戦する。ほんの数秒のうちに、平穏だったお風呂タイムは、全く持って不必要な水掛け論(物理)へと変貌を遂げた。
人類は魔族や竜、そして魔王の脅威を生き延びてきた。しかしどうやら、二人の少女の悪ふざけの方が、世界にとっては遥かに深刻な脅威であるようだった。
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酒場
その日の夜、街の中にある小さな酒場は大変な賑わいを見せていた。テーブルを囲む冒険者たち。熱心に商談を進める商人たち。そして、人間のすぐ隣にはオークが腰掛けている。もはや、そんな光景を気にする者など誰もいなかった。
あるテーブルでは、数人の冒険者が塔の内部で新たに発見された魔物について議論を交わしている。
「二十八階層で妙な噂を聞いたぞ」
「何だ?」
「巨大な大蜘蛛だ」
「そんなの珍しくもないだろ」
「家と同じくらいの大きさだったらしい」
「……それはちょっと、珍しいな」
別の冒険者が身を乗り出した。「俺は、三十三階層に古代の遺跡があるって聞いたぜ」
「誰からだ?」
「実際に行った奴からさ」
「で、どうだったんだ?」
「剣を失くして戻ってきた」
「なんでだよ」
「本人は何も覚えてないらしい」
一瞬の沈黙。一人の冒険者がゆっくりと杯を掲げた。「……俺はそこには行かないぞ」
もう一人も深く頷く。「俺もだ」
それを見ていたバーテンダーが声を上げて笑った。「みんな最初はそう言うんだよ」
近くに座っていたオークがニヤリと笑みを浮かべる。「そう言いつつ、結局行くのがお前たちだろう?」
全員の視線が彼に集まった。
オークは肩をすくめた。「冒険者というのは、本当に奇妙な生き物だな」
一人の人間が頷く。「全くだ」
オークは自身の杯を掲げた。「全くな、実に奇妙だ」
彼らは再び酒を酌み交わし始めた。場に漂う空気はどこまでも弛緩しており、平穏そのものだった。この酒場にいる誰も知る由がなかった。ここから数千マイルも離れた古代の教会で、悍ましい闇が静かに広がり始めていることなど。
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セナとヴァドス
アステリア王国。その西方国境は、以前に比べて格段に安定を取り戻していた。アルドレン国王の元には、もはや対処法すら分からないような怪異の報告は届かなくなっている。交易路は次々と再開され、辺境の村々にもかつての日常が戻りつつあった。
そんな王城のバルコニーに、セナが佇んでいた。彼女は地平線の彼方を見つめている。その隣には、静かにヴァドスが控えていた。
セナは腕を組んだ。「カイ様って、本当に凄いわよね」
ヴァドスが彼女を横目で見る。「そうですね」
「ご自身の本当の武器すら使わずに、あのオークキングを討ち倒してしまうなんて」
「ええ」
「私たちのために、こんな立派な器(肉体)まで用意してくださって」
「左様です」
「名前まで授けてくださった」
「はい」
「私たちを最高幹部(至高の将軍)にまで取り立ててくださったわ」
「その通りです」
セナは彼の方を振り向いた。「それに、お顔がもの凄く端正だわ」
ヴァドスは彼女を凝視した。沈黙が流れる。さらにもう一拍、沈黙が重なった。
セナは誇らしげに胸を張って微笑む。「本当に、お美しいわ」
ヴァドスは深くため息をついた。「……セナ。カイ様から、東方帝国の動向を監視せよとの命を受けていたはずですが?」
セナの身体がピキリと凍りついた。その完璧な笑みが一瞬で消え去る。「……」
ヴァドスは無言で彼女の言葉を待った。
セナはロボットのような動きで、ゆっくりと彼の方を向いた。「私――」
ヴァドスが片方の眉を上げる。
セナは両目を大きく見開いた。「――やばっ」彼女は勢いよく己の額を叩いた。「完全に忘れてたわ!」
ヴァドスは再びため息をもらした。「……大したものですね」
セナは即座に口を尖らせて弁解を始めた。「い、忙しかったのよ!」
「何に、ですか?」
「カイ様を全精魂込めて称えることに決まってるでしょ!」
「それは監視活動とは言いません」
「言えるわよ!」
「いいえ」
セナは彼を睨みつけた。「あんた、私を馬鹿にしてるの?」
「はい」
セナの目がすっと細められる。「最近、少し生意気になってきたんじゃない?」
ヴァドスは微かに微笑んだ。「私はただ、あなたの責任を思い出させてあげているだけですよ」
セナは大きくため息をついた。「……分かったわよ」彼女は再び地平線へと目を向けた。「仕事に戻るわ」彼女は一瞬の間を置いた。「――あと一つだけ言ってからね」
ヴァドスが彼女を見る。「何ですか」
セナは満面の笑みを浮かべた。「カイ様は、やっぱり本当にかっこいいわ!」
ヴァドスはそっと目を閉じた。「……お願いですから、早く行ってください」
セナは楽しげに笑い声を残し、その場からかき消えるように転移していった。
バルコニーに一人残されたヴァドスは、遠い地平線を見つめ直した。「本当に、おかしな娘だ」彼は小さく苦笑した。「……だが」その表情に、ふと深い思索の色が混じる。「カイ様が、既存の枠に収まらない稀代の主であることは確かだな」
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エミリアの両親の店
一方その頃、エリュシオン教区の街中にある小さな菓子店に、カイの姿があった。彼のすぐ隣には、エミリアが座っている。いや、「隣に座っている」と言うよりは、ほとんど彼に文字通り「くっついている」状態だった。彼女は小さなケーキを頬張りながら、カイの腕をがっしりと抱え込んでいる。
カイは困ったように手元を見下ろした。「なあ、お前にはお前の椅子があるだろう?」
エミリアはぶんぶんと首を振った。「ううん、ない!」
カイはため息をついた。「どうしてだよ」
「だって、こっちの方がいいもん」
彼女はさらに身体をカイに預けてくる。カイは思わず吹き出した。「……まあ、いいか」
カウンターの向こう側では、エミリアの両親がその微笑ましい様子を見守っていた。母親が優しく微笑む。「あの子、本当にカイ様にべったりですね」
カイは彼女に視線を向けた。「いえ、構いませんよ」彼は手元のエミリアを見つめ直した。「この子の面倒を見るのは、俺としても楽しいですから」
両親は顔を見合わせ、父親が静かに笑みを浮かべた。――もし、あの魔王カイ様がエミリアの側にいてくださるのなら。彼は我が娘を見つめた。――この子は今、世界中の誰よりも安全な場所にいるに違いない。
母親もまた、全く同じことを考えていた。エミリアはきっと、世界一安全な子供なのだ。
二人はカイに向かって深く頭を下げた。「カイ様、どうかあの子をよろしくお願いいたします」
カイはパチクリと目を瞬かせた。「ええ、お任せください」
エミリアは幸せそうにケーキを食べ進めている。カイは彼女を見下ろし、それから再び両親に目をやった。何だろう、この妙な感覚は。なぜ俺は今、子供を一人養子に迎えたかのような気分になっているのだろうか。
その時、エミリアが不意に顔を上げた。「ねえ、カイ」
カイが彼女を見る。「ん? 何だ?」
彼女は純真無垢な笑顔を咲かせた。「わたし、カイとおっけっこん(結婚)したい!」
――静寂。完全なる静寂。
店内の空気が一瞬でカチコチに凍りついた。スプーンを口元まで運んでいた客の動きがピタリと止まる。店の外を歩いていた通行人が足を止め、別の客がゆっくりと窓の方を振り返った。店主の手さえも、カウンターの上で完全に静止している。
カイはエミリアを凝視した。「……え?」
エミリアは無邪気な笑みを崩さない。「カイと結婚するの!」
カイの思考回路が一時的に完全に停止した。……待て、この状況で俺は一体全体なんて返せば正解なんだ?
同じ頃、街の反対側を歩いていたユイの足が、不意にピタリと止まった。背筋を奇妙な戦慄が駆け抜ける。彼女はゆっくりと首を巡らせた。「……何かしら。今、私の『絶対的な領域』が脅かされるような、不穏な気配を感じたのだけれど」彼女は目をすっと細めた。どこかの誰かが、自分の立場に挑戦しようとしている。
店内に戻り、カイはエミリアを見つめ直した。お前があと十歳、いや十五歳年上だったなら――彼は心の中で深くため息をついた。――なら、何の問題もなかったんだがな。
代わりに、彼は大人の余裕を持って優しく微笑みかけた。「お前がもっと大きくなったら、もう一度俺に言ってくれるか?」
エミリアは嬉しそうに何度も頷いた。「うん、わかった!」
カイは笑った。「よし、約束だ」
店内の人々が、そこでようやく肺に溜まっていた息を吐き出した。一人の客が小声で囁く。「……死ぬかと思ったぞ」
もう一人が激しく同意する。「ああ、魔王様がその場で大爆発でも起こすんじゃないかとヒヤヒヤしたわ」
カイは彼らの方に冷たい視線を向けた。「……全部聞こえてるぞ」
客は即座に目を逸らした。「な、何も言っておりません!」
カイはそんな彼らの反応を見て、楽しげに声を上げて笑った。
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帰り道
その日の夜遅く、カイはエミリアを抱きかかえて街を歩いていた。彼女はカイの肩に頭を預けたまま、すやすやと眠りについている。
いつの間にか、彼の隣にユイが姿を現した。その表情は、怪しいほどに穏やかだった。
カイは彼女を横目で見た。「……怒ってるか?」
「怒っていません」
「絶対に怒ってるだろ」
「怒っていません」
「じゃあ、なんでそんな目で俺を凝視してんだ?」
ユイは意味深に微笑んだ。「少し、考え事をしていました」
「何を?」
「別に、何も」
カイは目をすっと細めた。「その返しをする時のお前は、大抵ろくなことを考えてない」
ユイはエミリアに視線を落とし、それから再びカイを見つめた。「それで――」
カイはため息をついた。「やめろ」
「私はまだ何も言っていませんよ」
「言おうとしてただろ」
「……さあ、どうかしら」ユイは楽しげに微笑んだ。
カイはそのまま歩き続けた。数秒の沈黙の後、ユイが再び口を開いた。「あの子、貴方のことが大好きなのね」
カイは彼女を見た。「子供の言うことだぞ」
「分かっています」
「ただ頭に浮かんだことを、そのまま口にしただけだろう」
「ええ、分かっていますとも」
カイは頷いた。「ならいい」
ユイの笑みが深まる。「でも――」
「だから、やめろって」カイが遮った。
ユイはくすくすと声を上げて笑った。「貴方って、時々本当に鈍感になりますね」
カイはまたため息をもらした。「……お前に話しかけるんじゃなかった」
「そんなこと、思ってもいないくせに」
「……どうかな」
ユイは微笑み、彼の隣に寄り添って歩いた。しばらくの間、二人に言葉はなかった。街の灯りが通りを優しく照らし出している。人々はまだ行き交い、子供たちは名残惜しそうに遊び、店には明かりが灯っていた。
エリュシオン教区は、冒険者の定住地であり、発展途上の都市であり、そして自分たちの「家」でもあるという、不思議な場所になりつつあった。そしてカイ自身、その奇妙な日常にますます馴染んでいくのを実感していた。
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クロエ
医療区の区画内にて、クロエはその日最後の患者の治療を終え、医療用の手袋を外した。
一人の治癒術師が彼女に近づいてきた。「クロエ様」
「何かしら?」
「ラオディキア聖教会から、また新たな要請が届きました」
クロエは差し出された書類に目を落とした。また? 彼女はそれを開いた。要請の内容は至ってシンプルだった。教会側は、高度な治癒技術、および「魔術的な疾患」に関する情報を求めていた。
クロエは不審そうに眉をひそめた。「魔術的な疾患?」
「はい」
「珍しいこともあるものね」
術師が頷く。「……応じるべきでしょうか?」
クロエは少しの間考えを巡らせた。「ええ」彼女は書類を机に置いた。「こちらから提供できる範囲の情報は、すべて送ってあげなさい」
「承知いたしました」
クロエは窓の外へ視線を向けた。ほんの一瞬、世界の魔術構造に微かな「歪み(さざ波)」が走ったような気がしたからだ。しかし、その根源がどこにあるのかまでは判別できない。彼女はそっと目を閉じて感覚を研ぎ澄ませたが、何も捉えられなかった。
クロエは再び目を開けた。「……ただの気のせいかしらね」彼女は自身の作業へと戻っていった。
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夜
夜が更けるにつれ、エリュシオン教区の塔は静まり返っていった。冒険者たちは遠征から帰還し、商人たちは店を閉め、ギルドは一日の業務報告を締めくくる。リンとソラは自分たちの部屋に戻り、夕食を摂りながら、リンがどれほど危うく攻撃を喰らいそうだったかについて不毛な議論を戦わせていた。
結局どちらの言い分も通らず、やがて二人は眠りについた。
街の反対側では、エミリアが安らかな寝息を立てていた。彼女の両親は翌朝に向けて静かに店の支度を進めている。カイは自身の階層へと帰還し、ユイは塔の管理報告書に目を通す。クロエは医療の仕事を片付け、セナは東方帝国の監視業務を再開していた。ヴァドスはアステリアに留まり、ネロは七十階層で相変わらず何事かを企み、エルヴァは製造施設の監督に当たっている。
すべてがいつも通り。退屈と言ってもいいほどの平穏。しかし、それこそがエリュシオン教区が瑞々しく息づいている何よりの証拠だった。
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アシュフォードの片隅にて
ラオディキア聖教会は静寂に包まれていた。あの奇妙な結晶は厳重に封印されたままであり、倒れた神官たちの治療は続けられ、「黎明の聖域」の調査も継続している。エルリック司教は古代の祭壇のさらなる徹底的な検査を命じ、ソフィアは一連の異変に関するすべての報告書を静かに精査し始めていた。
これらすべての事象をカイへと結びつけるものは、未だ何一つとして存在しない。確証も、襲撃も、宣戦布告もない。そこにあるのはただ、奇妙な症状。奇妙な魔力の揺らぎ。そして、膨らみ続ける「答えのない疑問」の数々だけ。
ソフィアは大書庫の中に一人立ち、また新たな古代の記録を開いていた。彼女の瞳がページの上を追っていく。しかし、何も見つからない。彼女は重いため息と共に本を閉じた。
その時、またしてもあの感覚が彼女を貫いた。あの、正体不明の不気味な圧力。彼女は大聖堂の扉の方を見つめた。一瞬、誰かの「声」が聞こえたような気がしたのだ。言葉ではない。ただ、強烈な存在の気配。自分はそれを「知っているはず」なのに、どうしても思い出すことができない。
ソフィアは胸にそっと手を置いた。「……どうしてかしら。まるで、何か大切なことを忘れてしまっているような……」
その問いに答える者はなく、ただ静寂だけがそこに満ちていた。彼女は小さく頭を振ると、再び自身の孤独な作業へと没頭していった。
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最初の汚れ
「黎明の聖域」の遥か奥深く、祭壇の底に潜む闇が静かに蠢いた。うっすらとした変色は石の表面を侵食し、古代の土台に刻まれた髪の毛ほどの細い溝に沿って広がっていく。その中の一本の溝へと、汚染された魔力の糸が滑り込んだ。
それは爆発することも、襲撃を仕掛けることもしなかった。ただ、濡れた紙にしみ込むインクのように、聖域の結界網へと浸透していった。祭壇の魔術がそれを吸収する。結界が一瞬だけ明滅し、すぐに安定を取り戻した。
地上では、神官たちは何も気づかなかった。それこそが、何よりも恐ろしい危険だった。
汚染は空気や水、あるいは食物を通じて教会を毒しているのではなかった。古代の祭壇を「導管」として利用していたのだ。聖域で捧げられる全ての祈りは祭壇の構造へと魔力を注ぎ込み、汚染された糸はその魔力の流れをひそかに変質させてから、結界へと送り返していた。
最初に神官たちが倒れたのは、長時間の浄化儀式を執り行った後だった。彼らの肉体が直接攻撃されたわけではない。祭壇から引き出した魔力そのものが汚染されていたため、彼らの魔力回路が侵されてしまったのだ。神官たちは高熱と疲労に苛まれたが、それがただの過労なのか、あるいは魔力中毒の初期症状なのか、誰一人として区別がつかなかった。
結晶は単なる発生源に過ぎない。祭壇が導管であり、結界こそがその拡散ネットワークだった。そして教会自身が、自らの儀式を通じて、知らず知らずのうちに一つの聖地から別の聖地へと毒を運ぶ役割を果たしていた。
その地上では、巡礼者たちが祈りを捧げ続けている。彼らは何も感じていない。神官たちも何も見ていない。教会は何一つ知らない。
しかし、聖域から遥か離れた場所で、ある人物が情報の流れを注視していた。神官の病に関する報告、結晶に関する報告、結界に関する報告。三つの独立した事件。三つの異なる説明。だが今、それらは一つの「型」を形成しつつあった。
監視者は報告書を精査し、歪な笑みを浮かべた。教会は未だ、自衛するに足りる健全さを保っている。悪意ある誘導に抗うだけの団結力も残されている。まずは、それを変えなければならない。
緩やかに。一人ずつ。疑惑を一つずつ。不可解な異変を一つずつ。そうして最終的に、教会が「間違った問い」を抱くようになるまで。
「我々に何が起きているのか?」ではなく。
「我々にこんな真似をしたのは誰だ?」という問いを。
その答えはすでに用意されている。たった一つの名前。一人の魔王。――カイ。
そして祭壇の底で、汚染された魔力は最初の封印へと到達した。古代の石がひび割れる。音は小さく、地上の誰の耳にも届かない。しかし、その亀裂の向こう側から、ある存在が静かにその眼を開いた。
侵蝕は、すでに始まっていた。




