第100話 - 第1幕:ラオディケイアの毒殺、その3 — 第二の汚点
翌朝
翌朝は静かに訪れた。あまりにも静かに。
エリュシオン教区の内部には、これといった異常は見当たらなかった。通りはすでに活気づいている。商人は店を開け、冒険者たちはギルドの周りに集まっていた。子供たちが建物の間を走り抜け、香ばしい焼き立てのパンの匂いが居住区に漂う。どこか遠くの方では、オークが人間の商人と言い争う声が響いていた。建築資材の価格についての揉め事だ。
「三十と言ったはずだぞ」
「二十五って言ったんだよ」
「お前は絶対に三十と言った」
「絶対に言ってないね」
「文字通りここに書き残してあるだろうが」
「気が変わったんだよ」
「契約というのはそういう風にはできていないんだ」
カイは偶然その言い争いの横を通りかかった。彼は足を止め、二人を見つめ、そして何事もなかったかのように再び歩き出した。関わるだけで不毛な戦いというものは、この世に確実に存在する。
だが、そのラオディキアの日常の喧騒の裏で、確実に別の「何か」が蠢いていた。ある物資の輸送ルートが変更され、ある地図に印が付けられ、ある聖遺物が手ぐすね引いて待つ祭壇の底へと配置される。それらの出来事は、一見すると何一つとして繋がっていないように思えた。
それこそが、狙いだった。
敵は、一目でそれと分かる明確な襲撃など望んでいなかった。彼らが求めていたのは、最終的に一人の都合の良い容疑者へと行き着くような、小さな異変の連鎖だ。
容疑者の名は――カイ。
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リンとソラ
リンはギルドの食堂にいた。彼女は朝食を口にしており、その向かいにはソラが座っている。
「あんた、さっきから十分間もその地図を凝視してるわよ」
リンは顔を上げない。「考えてるのよ」
「それは危険な兆候ね」
リンはゆっくりと目を上げた。「何よ?」
ソラは微笑んだ。「ううん、別に」
リンはため息をつき、再び地図へと視線を戻した。そこには塔の内部にあるいくつかの未踏区域が描かれている。「ここに行くべきよ」彼女はある場所を指差した。
ソラが身を乗り出す。「三十二階層?」
「ええ」
「何を探すつもり?」
「何か面白いもの」
ソラは彼女を呆れたように見つめた。「それが、あんたの言う計画?」
「そうよ」
「そんなの計画とは言わないわ」
「最高に素晴らしい計画よ」
「いいえ」
リンは彼女を見た。「どうしてよ?」
「だって『何か面白いもの』っていうのは、お宝かもしれないけれど……」彼女は別の区画を指差した。「……私たちを丸呑みにするような化け物かもしれないでしょ」
リンは少し考えてから、「一理あるわね」と納得した。
ソラは笑みを浮かべた。「まずはギルドに情報がないか聞いてみましょ」
「いい考えね」リンは頷き、地図を折り畳んだ。「そうしましょう」
二人は席を立った。地図の隅に、微かな染みのようなものが浮かび上がっていることには、どちらも気づいていなかった。小さな、黒い紋様。その地図が最初に印刷された時には、存在しなかった印だ。それは、一本の線が交差する割れた円のような形をしていた。
同じ紋様が、その日の朝、二つのギルド報告書の余白にも現れていた。どちらの報告書も、名の知られた冒険者によって提出されたものではなかった。
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七十階層
居住区から遥か高み、ネロは七十階層の訓練場に立っていた。彼の周囲を、いくつかの巨大な訓練用ゴーレム(肉人形)が取り囲んでいる。それらは異なる戦闘スタイルを模倣するように設計されたものだった。一躯は剣士の構えを取り、一躯は魔術を操り、最後の一躯は石を砕くほどの強靭な肉体を有している。
ネロはその中心に佇んでいた。「――始めろ」
ゴーレムたちが一斉に襲いかかる。ネロの姿がその場から掻き消えた。
――シュイン!
一躯のゴーレムの腕が宙を舞う。
――ズドォン!
もう一躯が地面へと叩きつけられた。最後の一躯が巨大な拳を振り下ろす。ネロは僅かに首を傾げた。拳が彼の真横を虚しく通り過ぎる。彼はゴーレムの胸元に二本の指をそっと添えた。「停止」
ゴーレムの動きが凍りつき、そのまま崩壊した。
ネロは周囲を見渡した。「退屈だな。動きが読めすぎる」彼は背を向けた。背後では、破壊されたゴーレムたちが自動的に修復を開始している。
ネロはその様子をしばらく見つめていた。塔の持つ再生能力は、彼の知的好奇心を刺激して止まない。その頑強さゆえではない。創世の魔力(創世エネルギー)が、まるで意思を持つ生命体であるかのように振る舞うからだ。それは構造物があるべき「元の姿」を記憶しており、それを違えることなく復元する。
ネロは壁に手を当てた。微かな脈動が石を伝わっていく。ほんの一瞬、彼の中にある「何か」が、それを既視感として捉えた。一つの手。一つの声。一つの名前。
彼は目を閉じた。しかし、何も得られない。
ネロは眉をひそめた。「……またか」感覚はすでに霧散していた。彼は壁から手を離す。「奇妙だな」そう呟くと、彼は再び訓練へと戻っていった。
遥か階下、同じ脈動が塔の基盤を駆け抜けていた。その一瞬だけ、リンの地図に刻まれた黒い紋様が熱を帯び、そして、何事もなかったかのように再び冷たく静まり返った。
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五十階層
エルヴァは、到底平穏とは言えない朝を迎えていた。大掛かりな金属構造物の周囲を、大勢の技術者たちが取り囲んでいる。
「出力を上げろ」
「どれくらいでしょうか?」技術者の一人が制御盤を調整しながら尋ねる。
「五パーセントだ」
「五パーセント、ですか?」
エルヴァは彼を冷たい目で見つめた。「私の言葉に、何か不明瞭な点でもあったか?」
「いえ!」
「なら、やりなさい」
技術者は慌てて機械を調整した。構造物が不気味な光を放ち始め、その中心にある結晶が脈打つ。
ドクン。
機械が起動し、創世の魔力の波動が部屋全体へと広がっていった。
エルヴァは注意深くその推移を見守った。「安定しているな」
技術者が笑みを浮かべる。「はい」
「よろしい」
エルヴァは背を向けた。「結果を記録しておきなさい」
別の技術者が頷く。「すでに完了しております」
エルヴァはその場を歩き去ろうとした。しかし、ふと足を止める。彼女は振り返り、再びあの結晶を見つめた。どういうわけか、何かが変わってしまったような違和感を覚えたからだ。機械の内部ではない。どこか別の場所で。それが何なのか、彼女には特定できなかった。
エルヴァは目をすっと細めた。「興味深いわね……」彼女は再び歩き出した。
彼女の背後、結晶の内部に一本の細い黒い糸が浮かび上がった。それは、いかなる測定器が記録するよりも早く、一瞬で掻き消えた。しかし、機械の出力は正確に「二パーセント」上昇していた。それは、「黎明の聖域」で汚礼された結晶が記録した上昇率と、全く同じ数値だった。
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東方国境
セナはアステリア国内にある、静まり返った諜報室にいた。卓上には何枚もの報告書が広げられている。東方帝国。軍事行動。交易路。外交会談。軍需物資の輸送。
セナはその一枚一枚に注意深く目を通していった。昨日は注意が散漫になっていたが、同じ過ちを繰り返すつもりは毛頭ない。
彼女は新たな報告書を手に取り、ふと手を止めた。ある物資の輸送ルートが変更されている。その変更は極めて些細なもので、一見すれば何の意味もないように思えた。だが、セナの直感がそれに目を留めた。「……なぜかしら?」
近くに控えていた士官が歩み寄る。「何かありましたか?」
「この輸送物資よ」彼女は書類の一点を指差した。「本来なら、北へ向かうはずだったわ」
「はっ」
「なぜ東へルートが変更されているの?」
士官は手元の記録を確認した。「……分かりかねます」
セナは椅子の背もたれに身を預けた。「調べなさい」
「ただちに」
士官は一礼して部屋を退出した。
セナは再び書類に目を落とした。その表情は真剣そのものだった。東方帝国は、表立って敵対的な行動を起こしているわけではない。しかし、こういった小さな動きこそが重要なのだ。特に、何者かが細心の注意を払って「気づかれないよう」動いている時には。
ページの一番下、公式印のすぐ脇に、ごく小さな「割れた円」の紋様が描かれていた。
セナが指先で触れると、インクが微かに滲んだ。新しい。彼女の目がすっと細められた。
物資のルート変更は、単なる偶然ではない。何者かが意図して、特定の国境検問所を通過させようとしているのだ。そこは、最近になって「教会」の物資を受け取ったばかりの検問所だった。
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カイの朝
カイは私室のテーブルについていた。朝食の用意はすでに整っている。ユイが彼の傍らにそっと杯を置いた。「お茶です」
カイはそれを見た。「ありがと」
ユイは彼の向かいに腰掛けた。「本日は三つの会談が予定されています」
カイの手が止まった。「三つ?」
「はい」
「俺の平穏な朝はどこへ行ったんだ?」
ユイはクスリと笑った。「消え去りました」
カイはため息をついた。「悲劇だな」
「ご自身で承諾された会談ですよ」
「分かってる」
「なら、なぜ不満を言うのです?」
「俺が人間だからだ」
ユイが彼をじっと見つめ、カイも見つめ返した。やがて彼女は悪戯っぽく微笑んだ。「厳密に言えば、貴方は人間ではありませんが」
カイは彼女を指差した。「その話を始めるな」
ユイは声を上げて笑い、報告書を開いた。「ギルドが訓練施設の拡張許可を求めています」
「許可(承認)」
「商人たちが、新たな市場区画を求めています」
「許可」
「アステリアからの難民たちが、追加の住居を求めています」
「許可だ」
ユイは顔を上げた。「以上です」
カイは背もたれに寄りかかった。「ほら見ろ、そんなに悪くないだろ」
ユイは報告書を閉じた。「貴方がすべて『イエス』と答えただけです」
カイは肩をすくめた。「どれも妥当な要求だからな」
ユイが微笑む。「貴方もずいぶんと行動が読みやすくなりましたね」
カイは心外そうな顔をした。「それは侮辱か?」
「これくらいで死にはしませんよ」
彼は再びお茶を口に含んだ。その時、ふとある考えが頭をよぎった。「塔の外縁区画の様子はどうだ?」
「安定しています」
「何か妙な動きは?」
ユイは一瞬の間を置いた。「特筆すべきことは何も」
カイは頷いた。「ならいい」彼は朝食に戻った。
二人は、アシュフォードで何が起きているのかを知る由もなかった。そして今のところ、それこそが闇に潜む敵の目論見通りだった。
敵はすでに、カイに関する重要な事実を掴んでいた。彼は「安定」を信頼し、「日常」を守り、「妥当な要求」に応える。だからこそ、計画はエリュシオン教区への直接的な襲撃から始まるのではない。あの教区が、他所で起きる大災厄と「繋がっている」ように見せかけることから始まるのだ。
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黎明の聖域
最初の神官が倒れてから三日後、「黎明の聖域」は新たな巡礼者の一団を迎えていた。エルリック司教の懸念を押し切り、教会は聖域の再開放に踏み切ったのだ。その決定には異論も多かった。しかし、異変の原因も分からないまま教会最古の巡礼地を閉鎖すれば、民の間に疑問が生じる。
そして、疑問はパニックを生み出す。
ゆえに扉は開かれた。神官たちは巡礼者を迎え入れ、聖騎士たちが入り口を警備する。祈祷が始まり、すべてがいつも通りに見えた。
その時、一人の若い神官が不意に足を止めた。彼は祭壇に目をやった。何かがおかしい。何がと言葉にすることはできないが、祭壇の周囲を囲む黄金の刻印が、ほんの僅かに昏く沈んでいるように見えた。
彼が瞬きをすると、それは再び元の輝きに戻っていた。
「どうした?」
別の神官が近づいてくる。若い神官は頷いた。「いえ、何でもありません」彼はもう一度祭壇に視線を向けたが、何も変わっていなかった。「ただの気のせい(疲れ)ですね」彼は職務に戻った。
祭壇の底では、侵蝕が広がり続けていた。一本の細い黒い糸が石をすり抜け、聖なる結晶の土台へと巻き付く。それは牙を剥くことはない。ただ、耳を澄ませていた。全ての祈り。全ての足音。神官たちが口にする、全ての名前。
聖域はもはや、単に毒されているだけではなかった。それは、教会の在り方そのものを「模倣(学習)」し始めていたのだ。
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エルリック司教
エルリックは聖域の外室に立っていた。彼は二人の研究員を連れて戻ってきたのだ。その傍らにはソフィアが立っている。
「何が分かりました?」彼女が尋ねた。
研究員の一人が首を振る。「ごく僅かです」
エルリックは眉をひそめた。「説明しろ」
「あの変色は、通常の汚染とは異なります」
「どういう意味だ?」
「魔族の魔力(魔気)のような挙動を示さないのです」
ソフィアが彼を見つめた。「ならば、一体何だと言うのです」
研究員は躊躇した。「……分かりません」
エルリックはため息をついた。「最近、それが実にありふれた答えになりつつあるな」
研究員は頭を下げた。「申し訳ありません」
エルリックは祭壇へと歩み寄った。「結晶の方はどうだ?」
「未だ封印されたままです」
「変化はあったか?」
「はい」
ソフィアの表情が硬くなる。「どのように」
研究員は彼女に報告書を手渡した。「黒い線が成長しています」
ソフィアはそれに目を走らせた。「どれくらい?」
「およそ二パーセントです」
エルリックが彼を凝視する。「二パーセントだと?」
「はい」
「どれくらいの期間でだ?」
「三日間です」
沈黙が流れた。
ソフィアは祭壇に視線を向けた。「つまり、何が起きているにせよ、それは現在進行形で進行しているということね」
エルリックが頷く。「そして我々は未だに、その発生源すら特定できていない」
ソフィアは彼を見た。「より多くの情報が必要だということですね」
エルリックは研究員たちを振り返った。「結晶の調査を続行しろ」彼は言葉を区切った。「そして、私の許可なく何人たりともこれに触れることは許さん」
「承知いたしました」
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ソフィアは彼の隣に残り続けた。「もう一件、あります」
「何だ?」エルリックが彼女を見る。
「倒れた神官たちのことです」
「彼らがどうした?」
ソフィアは声を潜めた。「症状が変化しています」
エルリックの表情が引き締まる。「どう変わった?」
「単に魔力が不安定になっているだけではありません」ソフィアは医療室の方角へ目を向けた。「彼らの魔力回路そのものが、内側から崩壊(劣化)し始めています」
エルリックは絶句した。「……治癒は不可能なのか?」
「全力を尽くしています」
「クロエの力を借りることはできんのか?」
ソフィアは一瞬言い淀んだ。「教会はすでに、エリュシオン教区に対して情報の開示を要請しました」
エルリックが頷く。「それで?」
「情報は届きました」
「役に立ちそうか?」
「極めて」
エルリックは医療室の方を見つめた。「ならば、再度要請を送りなさい」
ソフィアは眉をひそめた。「今度は何を?」
「長期的な魔力汚染に関して、彼らが知っているすべての情報だ」
ソフィアは頷いた。「分かりました」
二人は、数メートル背後に立っていた一人の神官に気づいていなかった。彼は会話にじっと耳を傾けていた。その表情には苦悩の色が浮かんでいた。しかし、彼が背を向けて歩き出した瞬間、その手が法衣の下へと滑り込む。彼の手首には、一本の黒い糸が巻き付いていた。それがドクンと一度、脈打つ。神官の顔から苦悩の色が完全に消え去った。
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間違った結論
その夜、大評議会が再び招集された。エルリックは司教たちの前に立った。「汚染は拡大しています」
「どれほどの規模だ?」一人の司教が眉をひそめる。
「分かりません」
「封じ込めることは可能なのか?」
「おそらくは」
「治療法は?」
「分かりません」
別の司教が激しく机を叩いた。「すべての問いに対して『分からない』で済ませるわけにはいかんのだぞ!」
エルリックは彼を冷徹に見つめた。「ならば、答えを知る者を探し出してくることですな」
司教は言葉を失い、黙り込んだ。ソフィアの口元に、かすかな笑みが浮かびかける。――本当に、かすかな笑みだ。
年配の司教が彼女に視線を向けた。「ソフィア団長」
「はい」
「この一件が、カイへと繋がるような形跡は見つかったのかね?」
ソフィアの表情が真剣なものになる。「いいえ」
「何一つとしてか?」
「何一つありません」
「ならばなぜ、我々は未だに奴の可能性を考慮しているのだ?」
ソフィアは円卓に目を落とした。「それは、人々が怯えているからです」
司教は不満げに眉を寄せた。「それは答えになっていない」
「いいえ、答えです」ソフィアは彼を真っ直ぐに見据えた。「恐怖はね、人々に最も手近な『理由』を探させるのです」
「それがどうした?」
「そしてカイは、今最も手近で都合の良い『理由』なのです」
会議場がしんと静まり返る。
一人の司教が腕を組んだ。「つまり、カイは無実だと言うのだな?」
「いいえ」ソフィアは首を振った。「私は『分からない』と言っているのです」彼女は間を置いた。「そこには大きな違いがあります」
司教は椅子の背もたれに身を預けた。「もし我々が間違っていたらどうする?」
ソフィアの視線が鋭くなる。「その時は、正すまでです」
「では、もしカイが本当に仕組んでいたとしたら?」
「その時は、彼を排除します」彼女は机に手を置いた。「――ただし、確実な証拠を手に入れるまでは、動きません」
エルリックが彼女を見た。この夜、初めて誰かの顔に笑みが浮かんだ。それは、本当に小さな、小さな笑みだった。
そうして、会議は続けられた。
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会議場の外、回廊には先ほどの神官が佇んでいた。彼はすべての言葉を聞いていた。評議会がカイの犯行という可能性を退けたその瞬間、彼の手首に巻き付いた黒い糸が、さらに固く締め付けられた。神官の指先が不気味に曲がる。
敵は、まだ評議会に嘘を信じさせる必要などなかった。ただ、その可能性を彼らの脳裏に刻み込ませておけばそれで良かった。間もなく、証拠が現れる。疑惑を抱くことこそが「英断」であると、彼らに思い込ませるための精巧な罠が。
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二番目の汚れ
その夜遅く、一人の神官が「黎明の聖域」へと足を踏み入れた。その手には小さな木箱が握られている。中にあるのは聖遺物――別の巡礼地から回収されたばかりの神聖な品だった。
彼は祭壇へと近づいた。聖域には誰もおらず、蝋燭の炎が静かに揺らめいている。神官は祭壇の脇に木箱を置くと、その蓋を開けた。中には、小さな黄金の破片が収められている。
彼が低く祈りを捧げると、祭壇がそれに呼応した。微かな黄金の光が室内に広がっていく。
その時、聖遺物の真下に一本の黒い線が浮かび上がった。神官の身体が硬直する。彼は身を乗り出した。「な、んだ……?」
だが、その線はすぐに掻き消えた。彼が瞬きをしても、そこには何も残っていない。聖遺物は変わらず黄金の輝きを放っている。
神官は深く息を吐き出した。「……光の反射か」彼は木箱を閉じると、そのまま歩み去った。
彼が部屋を出た瞬間、あの黒い線が再び姿を現した。今度は、聖遺物から祭壇へと向かって這うように広がっていく。緩やかに、音もなく。聖域の底に眠る古代の魔術がそれに反応した。汚染は新たな経路を見つけ出したのだ。もう一つの聖なる品。もう一つの導管。教会の、新たなる一部。
二番目の汚れ(シミ)が、ここに刻まれた。
しかし、その神官が聖遺物をこの場所へ運んできたのは、決して偶然ではなかった。回収の命令書は書き換えられ、輸送ルートは変更されていた。その木箱は、セナが調査を進めているあの東方の検問所を通過してきたのだ。そして、箱の蓋の裏側に刻まれた黒い紋様は、リンの地図にあったあの印と完全に一致していた。
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闇のどこかにて
ある手がページをめくった。収集された記録の中に、また新たな報告書が追加される。聖域、聖遺物、神官たち、結晶、結界。情報はかき集められていた。手当たり次第にではなく、極めて辛抱強く。
二枚目の書類が開かれた。そこには教会の高官たちの名簿が記されている。いくつかの名前に印が付けられており、一つの名前には丸が囲まれていた。
影はその名前を数秒間見つめた後、書類を傍らに退けた。まだだ。まだ動く必要はない。教会は未だに自らの指導部を信頼している。穏健派の司教たちはまだ調査が可能だと信じており、ソフィアは依然として証拠を求めている。エルリックもまた自制を主張したままだ。
それらの関係性は、今はまだ壊さずに維持しておく必要があった。
影はフォルダを閉じた。「……あと、一つだ」
暗闇の奥から、静かな声が応じた。「あと一つ、何をしておくのだ?」
影は歪に微笑んだ。「あと一つ、事件を起こすのさ」
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蝋燭の炎が揺らめいた。一瞬だけ、フードの奥からその顔が露わになる。――あの、評議会の言葉に耳を傾けていた神官。彼の手首には、同じ黒い糸が巻き付いている。しかし、彼に応じたその声は、彼の口から発せられたものではなかった。彼の背後に広がる、濃密な暗闇そのものから響いていたのだ。
「その次は?」
影は最後の一枚の書類を机の上に置いた。そこには、「エリュシオン教区」の公式印が捺されていた。「その次こそ、奴らに『痕跡』を掴ませてやるのさ」
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エリュシオン教区の夜
百階層のバルコニーに、カイは立っていた。彼の見下ろす先には、数千の灯りに彩られた街並みが広がっている。彼は静かにそれを見つめていた。
隣に立つユイが口を開く。「平穏ですね」
カイが頷く。「ああ」
一瞬の間、二人に言葉はなかった。
ユイが彼を見つめた。「少し、嬉しそうですね」
カイは微かに微笑んだ。「そうだな」彼は街の灯りを見渡した。「人々が、本当にここで生きてるんだからな」
「ええ」
「俺にとっては、それだけで十分さ」
ユイは微笑んだ。しかし、すぐにその表情を引き締める。「カイ」
「ん?」
「一つ、伝えておきたいことがあります」
彼が振り返る。「何だ?」
ユイは僅かに躊躇した。「先ほど、極めて微かな『歪み』を感知しました」
カイの表情が真剣なものに変わる。「どこでだ?」
「塔の外です」
「敵か?」
「そこまでは分かりません」
カイは地平線の彼方に目を向けた。「こちらに近づいてきているのか?」
「いいえ」
「なら、放っておけ」
ユイは彼を見た。「気になりませんか?」
「気になるさ」彼は苦笑した。「だが、この世の全ての奇妙な出来事が、俺の問題にならなきゃいけない訳じゃないだろ」
ユイは小さく声を上げて笑った。「貴方にしては、驚くほど合理的な判断ですね」
「俺だって日々学んでるのさ」カイは肩をすくめた。
二人は再び街を見つめ直した。数百キロメートルも離れた場所で、教会が内側から変質し始めていることなど、二人は知る由もなかった。聖なる遺物が汚染されていることも、一つの「名前」がすべての身代わりとして着々と用意されていることも。そして、エリュシオン教区の偽の刻印が捺された「偽りの痕跡」が、すでに教会に向けて動き始めていることすらも。
今この時、カイの世界は平穏なままだった。そして敵が何よりも望んでいたのは、彼がその平穏の中に浸り続けていることだった。なぜなら、最後に真実(罠)が突きつけられた時、その平穏とのギャップこそが、嘘を何倍も信じ込ませやすくする最高のスパイスになるからだ。
そして「黎明の聖域」の遥か奥深く、汚染された聖遺物が脈打った。一度。ドクン。そして、もう一度。ドクン。
二番目の汚れが祭壇を侵食していく。教会は何も知らずに祈りを捧げ続け、ラオディキアの内側のどこかで、誰かが不気味に微笑んでいた。
ゲームはまだ始まっていない。しかし、盤面はすでに、ほぼ整いつつあった。




