第101話 - 第2幕:教会の聖戦、前編 — 告白
尋問
「黎明の聖域」は未だ厳重な警戒下に置かれていた。二番目の汚れが現れてから、すでに三日の月日が流れている。教会は聖域周辺の警備をさらに強化していた。すべての出入り口に聖騎士が立ち、神官たちが許可なく封印された部屋に立ち入ることは固く禁じられている。研究員たちは離れた場所から変質した結晶の調査を続けていたが、誰一人としてそれに触れる者はなく、近づこうとする者さえいなかった。
それにもかかわらず、何かが決定的に狂い始めていた。
東回廊の近くに立っていた一人の聖騎士が、不意に不審そうに眉をひそめた。何かが聞こえたのだ。ごく小さな音。――カチリ。彼は回廊の方を振り返ったが、そこには誰もいない。騎士は身を潜めて待った。
すると、再び――カチリ。確かに聞こえた。
彼は得物に手をかけた。「誰だ、そこにいるのは!」
応答はない。
騎士は他の二人に見境なく合図を送った。三人の聖騎士は物音一つ立てずに回廊を進んでいく。奥へ進めば進むほど、聖域の静寂は不気味に深まっていった。やがて彼らは、封印された部屋の入り口へと辿り着いた。
施錠されているはずの扉が、僅かに開いていた。
「この扉、誰かが開けたのか?」騎士の一人が足を止める。
もう一人が首を振った。「そんなはずはない」
最初の騎士がゆっくりと剣を抜いた。「なら、何者かが中に侵入したということだ」
彼らは音を殺して扉を押し開けた。
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部屋の中、封印された結晶のすぐ傍らに一人の男が立っていた。聖職者(神官)だ。彼は聖騎士たちに背を向けていた。片方の手が結晶へと伸ばされており、法衣の袖の隙間から、不気味な黒い紋様が皮膚に浮かび上がっているのが見えた。
聖騎士たちの身体が硬直する。「結晶から離れろ!」
神官は微動だにしない。
騎士が剣を突きつけた。「離れろと言っている!」
神官がゆっくりと振り返った。その顔は幽霊のように蒼白で、瞳はガラス玉のように虚ろだった。彼は騎士たちをじっと見つめる。数秒の間、言葉は一切発せられなかった。
やがて――「お前たちは、ここにいてはいけないはずだ」
騎士たちは互いに視線を交わし、一人が一歩前に出た。「ここにいるべきなのは、我々の方だ」
神官は結晶に目をやり、それから再び騎士たちを見つめた。その瞳の奥で、何かが激しく揺らめいた。――恐怖。本物の、剥き出しの恐怖だ。
「私は……」彼は後退りしようとした。
騎士が即座に間合いを詰める。「動くな!」
神官の足が止まる。もう一人の騎士が、背後で静かに扉を閉めた。「ここは立ち入り禁止区域だぞ」
神官の呼吸が目に見えて荒くなっていく。「どうして……」
「なぜ結晶に触れていた」
神官は自分の手を見つめた。ひどく混乱しているようだ。「私は……」彼は自身の指先を凝視する。「……分かりません」
聖騎士が眉をひそめた。「分からないとはどういう意味だ?」
「ここにどうやって来たのか、記憶がないのです」
部屋に冷たい沈黙が降りた。
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騎士は剣を僅かに下げた。「お前は誰だ」
神官は声を震わせながら答えた。「ラオディキアの……神官です」
「名前は」
名乗ったその名に、騎士は聞き覚えがあった。「お前、この聖域で執務をしていた神官だな」
「はい」
「なら、この部屋が封印されていることは知っていたはずだ」
「はい」
「ではなぜ入った」
神官は口を開いたが、言葉が出ない。彼の目が恐怖に大きく見開かれ、突頭に己の頭を掻きむしった。「やめろ……!」
騎士が一歩近づく。「どうした?」
「頼む……」神官はその場に膝をついた。呼吸が完全に不規則になっている。「……それを、止めてくれ」
「何を止めろと言うんだ」
神官が顔を上げた。その一瞬だけ、彼の瞳から濁りが消え去り、完全に正気を取り戻したように見えた。しかし直後、袖の奥の黒い紋様がドクンと激しく脈打つ。彼の表情がカチリと切り替わり、先ほどの透明感は霧散した。
彼は呪文のようにつぶやいた。「――私は、ここへ来るよう命令されたのです」
騎士の動きが止まる。「命令だと?」
「はい」
「誰にだ」
神官の呼吸が次第に落ち着いていく。彼は結晶を見つめた。「魔王カイの、配下の一人です」
沈黙。誰も動かない。三人の聖騎士は、信じられないものを見る目で互いを見合わせた。一人が即座に詰め寄る。「どの配下だ!」
神官は首を振った。「分かりません」
「知らないはずがないだろう!」
「分からないのです……」
「なら、そいつの容姿を言え!」
神官はきつく目を閉じた。「顔は……見えませんでした」
「そいつにお前は何をしろと言われたんだ?」
神官は生唾を飲み込んだ。「聖遺物を……運べと」
「どの聖遺物だ」
「二番目の巡礼地から回収されたものです」
聖騎士の表情が完全に凍りついた。「……では、この結晶は?」
「結晶に干渉しろと命じられました」
「何のためにだ!」
神官は躊躇した。「汚染を……拡散させるために」
部屋は、水を打ったような静寂に包まれた。一人の聖騎士が結晶に目をやると、内部の黒い線が呼応するようにかすかに脈打った。ドクン、と。
騎士は再び神官に向き直った。「どうやって接触された」
「分かりません」
「いつだ」
「分かりません……」
「どこでだ!」
「思い出せないのです……」
騎士の顔に苛立ちが広がっていく。「そんな出鱈目を我々に信じろと言うのか!」
神官は恐怖に怯えきった表情で懇願した。「私にも、何が起きたのか分からないのです……」
そして彼は、不気味なほど静かにこう囁いた。
「――奴らは言っていました。魔王カイ様が気づくことは決してない、と」
聖騎士の目が大きく見開かれる。「なぜ、奴が気づかないと言い切れる!」
「なぜなら……」神官の声は、消え入りそうなほど弱くなっていった。「……カイ様は、彼らを『信用』しているからだ、と」
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大評議会
その報せは、日が沈む前に大評議会へと届いた。ソフィアはすでに席についていた。エルリック司教も同様だ。部屋の中央には、先ほどの神官が立たされている。彼の両手は小刻みに震えており、数人の司教たちがその様子を鋭い目で見つめていた。
やがて、一人の司教が口を開いた。「お前は封印された部屋に侵入したな」
神官は小さく頷いた。
「そして、変質した結晶に干渉しようとしているところを取り押さえられた」
別の司教が身を乗り出す。「さらに、それは何者かの命令によるものだと主張している」
「……はい」
「魔王カイの配下の一人から、な」
「はい」
ソフィアは彼をじっと見つめたまま、一言も発しなかった。
エルリックは神官の顔を観察するように見つめた。「お前は、接触してきた人物を特定できないと言ったな」
「その通りです」
「ならばなぜ、その者がカイの配下だと断言できる?」
神官は一瞬ためらった。「……そう、名乗ったからです」
エルリックは眉をひそめた。「名乗っただと?」
「はい」
「何か証拠になるものを見せられたか?」
「いいえ」
「書状は渡されたか?」
「いいえ」
「紋章は?」
「いいえ」
「魔法契約書は?」
「いいえ」
「お前のその主張を証明できるものは、何一つないということか?」
神官は力なく頭を下げた。「……ありません」
司教たちは一斉に顔を見合わせた。一人がついに口を開く。「つまり、確証なき自白というわけか」
ソフィアが深く頷いた。「その通りです」
司教が彼女を振り返る。「しかし、彼はすべての罪を認めているのだぞ」
「自分がやった、ということは認めました」ソフィアは神官を指差した。「ですがそれは、誰が命令を下したかという証明にはなりません」
司教は不満げに眉を寄せた。「奴が嘘をついているとでも?」
「もしそうなら、それこそ別の問題が浮上します」ソフィアは彼を真っ直ぐに見据えた。
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彼女は神官の方を向いた。「なぜそんな真似をしたのです」
神官は床を見つめたまま呟いた。「命令されたからです」
「誰に」
「魔王カイの、配下の一人に……」
ソフィアの目が鋭くなる。「どの配下ですか」
「分かりません」
「どうやって接触してきたのですか」
「分かりません……」
「どこで会ったのです」
「思い出せないのです……」
ソフィアが一歩近づいた。「その者は、正確には何と言ったのです」
神官が顔を上げた。ほんの一瞬、彼の瞳が妙に虚ろなものに変わる。そして、彼は答えた。「――カイ様には決して知られることはない、と」
ソフィアの思考が止まった。その言葉が、どうしても胸に引っかかる。それが説得力に満ちているからではない。あまりにも、そう信じ込ませるために作られた(デザインされた)セリフのように聞こえたからだ。
エルリックが彼女の表情の変化に気づいた。「どうしました、ソフィア団長」
ソフィアは神官を見つめたまま言った。「何者かが、我々にこの言葉を信じ込ませようとしている。そう感じたのです」
一人の司教が即座に異議を唱えた。「団長、この男は結晶のすぐ傍らで現行犯逮捕されたのだぞ!」
「分かっています」
「自白もしている!」
「分かっています」
「なら、これ以上何を求めるというのだ?」
「確証です」
司教は激しく机を叩いた。「証拠なら目の前にあるだろう!」
「いいえ」ソフィアの声はどこまでも冷静だった。「ここにあるのは『自白』です」彼女は神官に視線を移した。「そして『主張』です」彼女の視線が鋭利なものに変わる。「ですが、その命令を下したとされる本人の姿は、どこにもありません」
会議場がしんと静まり返る。
エルリックがゆっくりと頷いた。「彼女の言う通りだ」
司教たちの視線が彼に集まる。
エルリックは言葉を重ねた。「どこの誰とも思い出せないという神官一人の供述だけで、一つの組織全体を告発するわけにはいきません」
年配の司教が椅子の背もたれに身を預けた。「ならば、どう提案するのかね?」
ソフィアが答えた。「――調査を」
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神官
その夜遅く、神官は厳重に警備された監禁室へと移された。扉の外には二人の聖騎士が立ち、室内では治癒術師が彼の診察に当たっている。
「やはり、体内の魔力循環が異常なほど不安定です」
傍らに立っていたエルリックが尋ねる。「原因は特定できるか?」
治癒術師は首を振った。「いいえ、分かりかねます」
「また『分からない』か」
「申し訳ありません、司教閣下」
エルリックは重いため息をついた。
術師は続けた。「ただ……彼の魔力神経系の周囲に、何か奇妙な痕跡が見られます」
「魔術的な干渉か?」
「その可能性は高いかと」
「それを取り除くことはできるか?」
「……何とも申し上げられません」
エルリックは観察窓から室内を覗き込んだ。神官は一人、椅子に座って両手で顔を覆っている。その姿からは、ただただ濃い疲労だけが滲み出ていた。
エルリックは声を潜めた。「引き続き、監視を怠るな」
「はっ、司教閣下」
いつの間にか隣に立っていたソフィアが口を開いた。「あの男、何かがおかしいわ」
エルリックが彼女を見る。「貴女も気づきましたか」
ソフィアは頷いた。「彼が命令を下したとされる人物について話す時……」彼女は間を置いた。「……まるで、その黒幕を庇っているようには見えないのです」
「では、どう見える?」
「そこには存在しないはずの記憶を、必死に思い出そうとしている。そんな風に見えるのです」
エルリックは黙って彼女の言葉を噛み締めた。
ソフィアは監禁室を見つめた。「そして、もう一つ問題があります」
「何です?」
「もしこれが、本当にカイの配下による仕業だったとしたら……」
エルリックは先を促した。
「私たちは、それが『誰』なのかを突き止めなければなりません」
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決断
その夜、大評議会が再び再開された。今回の議論は、先ほどよりも遥かに激しいものとなった。神官の自白が、前提のすべてを覆してしまったからだ。
教会は未だに、魔王カイ自身が関与しているという決定的な証拠は掴んでいない。しかし今や、彼の組織の内部の人間に対する、直接的な告発が行われたのだ。
一人の司教が立ち上がった。「これ以上、ただ待っているわけにはいかん」
エルリックが彼を睨む。「何を提案されるおつもりですか」
「エリュシオン教区への、直接の立ち入り調査だ」
ソフィアの表情が引き締まる。「調査とは、具体的にどのように?」
「使節団(調査員)を派遣する」
「現地で尋問を行うと?」
「そうだ」
別の司教が首を振った。「奴らが素直に答えるはずがなかろう」
「ならば、答えざるを得ない状況を作るまでだ」
エルリックが不快そうに眉をひそめた。「言葉が過ぎますぞ」
司教が彼を振り返る。「何だと?」
「我々は今、魔王の領地へと足を踏み入れる話を colleagues しているのですよ」
沈黙。その言葉の持つ絶対的な重みが、会議場に重くのしかかった。
カイは教会を攻撃したわけではない。停戦協定を破ったわけでも、アシュフォードを脅かしたわけでもない。しかし、彼は教会が最も忌み嫌うものを持っていた。――「力」だ。強力な配下たちを従えた魔王。拡大を続ける都市。機能している魔族の社会。そして今、ここに一つの自白がある。
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年配の司教が、重々しく口を開いた。「我々は、どの配下が関与しているのかを知る必要がある」
ソフィアは円卓を見つめた。「どうされるおつもりですか」
司教は断固とした口調で答えた。「――特別調査団を編成する」
別の司教が同意の笑みを浮かべて頷く。「通常の神官や聖騎士では生ぬるい」
「ならば、聖騎士団の精鋭ですか?」
「いや。……その道の『専門家』だ」
ソフィアは、その言葉の裏にある不気味な意味を瞬時に理解した。「――異端審問官、ですね」
司教が頷いた。「隠密かつ強制的な調査権限を持つ、異端調査部隊だ」
エルリックは終始、沈黙を守り続けていた。
ソフィアが彼に視線を向けた。「エルリック司教、貴方も同意されるのですか?」
エルリックは深く、長い息を吐き出した。「……我々には答えが必要だ」彼は会議場を見渡した。「ただし、目的はあくまで『調査』であるはずだ」
一人の司教が薄笑いを浮かべた。「当然ですとも」
エルリックはその笑い声を無視した。「そして、不必要な暴力は一切認めん」
司教が頷く。「合意だ」
ソフィアは静かに目を落とした。胸の奥の違和感は、未だに消えてはくれない。あの神官、あの自白、そしてこのタイミング。何もかもが、あまりにも出来過ぎている。しかし、なぜそう感じるのかを説明する言葉を、彼女は持っていなかった。そして確実な証拠を掴むまでは、彼女自身もまた、他の誰かを告発することなどできないのだった。
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聖なる審問
その命令は、真夜中を待たずに下された。結成されたのは、不穏な影を追うための特別調査部隊。彼らに課せられた任務は至ってシンプルだった。――エリュシオン教区に潜入し、カイの配下たちを調査すること。そして、ラオディキア聖教会を内側から蝕む「侵蝕」の手引きをした不届き者を突き止めること。
彼らは魔王カイへの襲撃を命じられたわけではない。誰かを無差別に抹殺せよと言われたわけでもない。彼らの大義名分は、あくまで「真実の究明」だった。
少なくとも、教会の表向きの人間たちはそう信じていた。
ソフィアは選出された異端審問官たちの名簿に自ら目を通していった。修羅場をくぐり抜けてきた聖騎士の精鋭。魔術的な追跡の専門家。嘘を見破る訓練を受けた聖職者。そして、尋問のプロフェッショナル。強力な人外の存在を相手にしても、決して怯むことのない者たちばかりが選ばれていた。
ソフィアはリストを見つめた。「……規模は?」
「二十名です」
彼女は顔を上げた。「二十名、ですか」
「調査を行うだけであれば、十分な数かと」
ソフィアは静かに頷いた。それから、彼女は窓の外の夜空を見つめた。地平線の彼方、山々と鬱蒼とした森を越えた先には、今日も変わらずエリュシオン教区が平穏に佇んでいる。民は眠りにつき、冒険者たちは宿へ戻り、商人は店を閉め、オークたちは一日の労働を終えている。リンとソラも今頃は夢の中だろう。そしてカイ自身、アシュフォードの密室で今まさに何が動き出そうとしているのか、知る由もない。
ソフィアは昏い闇の先を睨み据えた。「……もし、あの神官の言葉が事実なら」彼女は言葉を区切った。「……私たちは、それが『誰』なのかを突き止めなければならないわ」
しかし、審問官たちに下された密命は、評議会が公表した奇麗事よりも遥かに生々しく、そして具体的だった。彼らは単に真実を求めて派遣されるのではない。彼らの真の目的は、孤立させ、尋問し、魔王カイと教会汚染の「直接的な繋がり」を証明するための都合の良い身代わり(配下)を特定すること。もし該当する容疑者が見つからなければ、エリュシオン教区が「組織的に犯人を匿っている」という決定的な証拠をでっち上げてでも探し出すことだった。教会が求めていたのは、一つの名前、一つの自白。そして、カイへの圧力を正当化するための確固たる大義名分だった。
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別の場所にて
神官は監監室の暗がりに、ぽつんと座っていた。部屋の中は静まり返り、扉の外には聖騎士が直立不動で立っている。
室内で、神官はゆっくりと自分の手を持ち上げた。彼は自身の手首を凝視する。あの黒い糸は、今もそこに巻き付いていた。彼が指先でそれに触れると、脳裏に激しい混乱が渦巻いた。「なぜ……私は……」
思い出せなかった。誰が自分に接触してきたのか。どこで出会ったのか。なぜ自分がそんな恐ろしい命令に従うことに同意してしまったのか、その動機すらも。
ただ、たった一つの記憶だけが、呪いのように脳裏にこびりついて離れなかった。一つの声。低く、静かな声。絶対的な命令。――結晶へ向かえ。
神官がきつく目を閉じると、その声は消え去った。代わりに、また別の記憶が水面に浮かび上がるように現れる。たった一つの名前。――カイ。
神官が目を開けた時、その表情は完全に切り替わっていた。彼は小さく呟いた。「カイ様……」
次の瞬間、彼の瞳から再び光が消え、完全に虚ろなガラス玉へと戻った。手首の黒い糸が、さらに不気味に締め付けられる。
扉の外に立つ聖騎士には、その微かな呟きすら届かない。教会は、二番目の汚れをもたらした実行犯を完全に捕らえたと思い込んでいた。だが、それは大いなる誤りだった。神官は最初から最後まで、自らの意思で動いてなどいなかった。彼は、教会が「最も見つけやすい場所」に精密に配置され、彼らが「最も聞きたがっている言葉」を完璧に自白させられたに過ぎない。
そして今、教会は自ら、用意された次のシナリオの舞台へと足を踏み入れようとしていた。
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エリュシオン教区
朝が静かに訪れた。カイは百階層の私室に立ち、巨大な窓の向こうに広がる街並みを見下ろしていた。
ユイが一枚の報告書を手に、背後から近づいてくる。「おはようございます、我が主」
カイは振り返った。「ああ、おはよう」
彼女はテーブルの上に書類を置いた。「ギルドから、また新たな報告書が届いています」
カイはそれに目をやった。「何か重要なことか?」
「いえ、特筆すべき異常はありません」
カイは頷いた。「ならいい」彼は再び、眼下に広がる平穏な都市へと視線を戻した。
ユイはその横顔をしばらく見つめていた。「……静かですね」
「考えてるのさ」
「何をです?」
カイは小さく微笑んだ。「大したことじゃないよ」
ユイもそれ以上は追及せず、静かに頷いた。
二人は、教会が新たな特別調査部隊を結成したことも、あの神官が「偽りの自白」を遂げたことも知る由はなかった。間もなく、二十名もの異端審問官たちがこのエリュシオン教区へと向かって進軍してくることも。そして、その自白そのものが、まさにこの最悪の事態を引き起こすためにデザインされた罠であることすらも。
教会は、真実を暴くための正しい第一歩を踏み出したと信じて疑わなかった。しかし現実には、彼らは引き返せない「戦争」への第一歩を踏み出してしまったのだ。
そしてラオディキア聖教会の奥深く、封印された結晶が不気味に脈打った。一度。ドクン、と。二番目の汚れは確実にその根を広げている。自白は受理された。調査は開始された。そして「魔王カイ」という名が、ついに教会の重大容疑者名簿へと厳重に記録された。
敵としてではない。まだ、今は。しかし、自らの最も信頼する配下に教会の汚染を命じた、最悪の黒幕の容疑者として。
今の段階では、それで十分だった。
異端審問官たちは間もなく、「調査」という名の大義名分を掲げた旗のもと、国境を越えてやってくる。彼らの手にある命令書には、引き返すための余白など一寸たりとも残されてはいなかった。彼らの到来は、カイとエリュシオン教区に、残酷な二択を迫ることになる。教会の突きつける不条理な尋問が「純粋な調査」なのか――あるいは、容赦なき開戦の狼煙なのかを。
TO BE CONTINUED...




