第102話 - 第2幕:教会の聖戦、その2 — 異端審問官たち
調査の幕開け
神官の自白から三日後、ラオディキア聖教会は立ち入り調査の本格的な準備を開始していた。決定は下された。二十名の異端審問官が、エリュシオン教区へと派遣される。
彼らの公式な任務は至ってシンプルだった。――調査。魔王カイの配下のうち、一体誰が神官に聖なる結晶の汚染を命じたのかを突き止めること。その命令がどのように下されたのかを解明すること。なぜ教会が標的にされたのかを明らかにすること。端的に言えば、魔王カイ自身がその陰謀を把握していたのかどうかを判断することだった。
教会はまだ宣戦布告をしていない。現段階ではまだ、していないのだ。その決定的な違いこそが、少なくともエルリック司教にとっては最大の防壁だった。
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エルリックは教会の作戦室の一つに立ち、卓上に広げられた大きな地図を凝視していた。その向かいにはソフィアが立っている。周囲には数人の上位聖騎士たちが控え、選出された二十名の異端審問官たちが静寂の中で待機していた。二十人それぞれが、教会の持つ異なる調査機関の代表者たちだ。
エルリックは彼らを見据えた。「お前たちは軍勢としてそこへ行くのではない」
誰も動かない。
「お前たちは調査員だ」彼は地図の一点を指差した。「エリュシオン教区は、我々の敵ではない」
一人の審問官が怪訝そうに片眉を上げた。「聖地を汚染しろと神官に命じた者が、その組織の内部にいるとされているのにも関わらず、ですか?」
エルリックは彼を真っ直ぐに見つめ返した。「『されている』のだ」
室内がしんと静まり返る。不服そうな審問官は頭を下げた。「……承知いたしました」
エルリックは言葉を重ねた。「現地で決して挑発を行うな」「魔王カイを脅迫するな」「彼の民を攻撃するな」「許可なく教区内の何物にも触れることは許さん」
ソフィアが一歩前に出た。「もし、奴らが協力を拒んだ場合は?」
エルリックは彼女を見た。「その時は、引き返すのだ」
近くに立っていた司教の一人が即座に猛反論した。「引き返すだと!?」
エルリックは彼に冷たい視線を向けた。「そうだ」
司教は不満げに顔をしかめた。「奴らが回答を拒否したからといって、そのまま手ぶらで引き下がれるわけがなかろう!」
「引き下がるのではない」エルリックの表情が峻烈なものに変わる。「我々は、不完全な証拠に基づいて無用な戦争が勃白するのを回避するのだ」
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司教は押し黙った。
ソフィアは審問官たちに視線を走らせた。彼女にはエルリックの意図がよく分かっていた。事態を完全にコントロール下に置き、感情の暴走を食い止め、カイに「協力」という名の最後の機会を与えようとしているのだ。
ソフィアは二十人の調査員に向き直った。「よく聞きなさい」
審問官たちの背筋が伸びる。
「私たちは、カイのどの配下が関与しているのかを知らない」「神官にどうやって接触したのかも知らない」「なぜ彼の記憶がないのかも分からない」「そして、カイ自身がこの件を把握しているのかどうかも知らない」彼女は一度言葉を区切った。「だから、すでに答えを知っているかのような顔をしてエリュシオン教区に乗り込むんじゃないわよ」彼女の瞳が鋭利に光る。「それを突き止めることこそが、貴方たちの仕事よ」
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二十人の異端審問官
選ばれた二十名の審問官は、教会のあらゆる専門機関から網羅的に集められていた。その手法も、性格も、忠誠の対象もあまりに多岐にわたっていたため、エルリックがあえて彼らを混成させたのは、特定の派閥がこの調査を独占するのを防ぐためでもあった。
ガレス・ヴェイル。最年少の現場調査員であり、直感よりも書面による確証を何よりも信頼する。
シスター・メイリン。魔術が残した感情の残滓を追跡できる記憶読解の専門家。
ブラザー・オーレン。神聖な遺物の専門家であり、その共鳴から微かな汚染を感知する。
ヴェイラ・ノックス。その穏やかな声で標的に警戒を解かせ、意図以上の情報を引き出す尋問官。
サー・アルドリック・フェン。戦況の分析や防衛陣地の査定に長けたベテラン聖騎士。
リオラ・クイル。一度目を通した書類は決して忘れない緻密な大書庫の記録官。
トマス・リード。魔術の残滓を成分ごとに分解して固有波形を特定する法医学錬金術師。
シスター・ヘスティア。高い治癒魔術を操り、隠された負傷を見抜く不気味な才能を持つ。
コーヴィン・アッシュ。偽りの幻影と改ざんされた記憶を明確に区別できる幻術のスペシャリスト。
ミラ・ソレンヌ。今回の調査を規定する執行令状を預かる、教会の厳格な法執行官。
ブラザー・ペル。嘘に対して異常なまでの感受性を持つ見習い神官(ただし、確信のなさを罪の意識と誤認しがちである)。
ラスク・ダマー。密輸ネットワークや隠密通信の裏を熟知した、元犯罪調査官。
シスター・エリアノール。魔族の契約書とその裏に隠された抜け穴を専門に研究する学者。
ジョレン・パイク。石壁や水面、果ては混雑した雑踏からでも魔術の痕跡を追える追跡者。
ナディア・ヴォス。古代の魔言(方言)や暗号化された祈祷、地方の呪詛に通じた言語学者。
ファザー・カルドゥス。この汚染に宗教的な意図があるのかを解明するために配属された神学者。
セラフィン・ウォード。諸王国が民の恐怖をどう政治利用するかを熟知した、情報戦の専門家。
ブラム・ホロウ。構造物の損壊状況からサボタージュ(破壊工作)の痕跡を読み解く攻城兵器技師。
イリアン・クレスト。断片的なシンボルや未完成の可能性として未来を幻視する予言者。
そして、この部隊の総指揮官を務めるのがレア・マロウ。司教たちと聖騎士団の双方から絶大な信頼を寄せられる、ラオディキアでも数少ない傑物だった。
彼らはラオディキア最強の武力集団ではない。その必要はなかった。彼らの武器は「情報」だ。観察し、詳細に気づき、前提を疑い、誰が嘘をついているかを冷徹に見極める能力。
――少なくとも、理論上はそうだった。人間という生き物は、十分な書類さえ揃えば、いずれ超常の存在すら打倒できると信じたがるものなのだ。
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最終ブリーフィングの最中、ガレスは目の前に並べられた書類に目を落としていた。彼は報告書のページをめくっていく。「ネロ」さらにめくる。「セナ」もう一枚。「エルヴァ」そして「ヴァドス」。彼はそこで眉をひそめた。「……クロエ」
隣に座っていた記録官、リオラ・クイルが覗き込んできた。「それが、私たちの調査対象?」
「ああ」
「一体どんな奴らなの?」
ガレスは首を振った。「それを突き止めるのが、俺たちの仕事さ」彼はさらに読み進める。「ネロは上層階層の一つを管理している。セナは軍事および行政。エルヴァは製造部門の監督。ヴァドスは教区の外に駐留。あるいはクロエは……」彼は手を止めた。「医療部門だ」
リオラの表情が険しくなる。「それだけ?」
「教会が把握している情報は、これが全てだ」
彼女はその薄っぺらいファイルを凝視し、それから隣に積み上げられた膨大な個人調書の山に目をやった。「調査員が二十人に対して、容疑者の候補が五人。しかも、その誰に関する情報もほぼ皆無というわけね」
ガレスはファイルを閉じた。「どうやらそのようだ」
彼は最後のページに目を向けた。そこには、ただ一つの名前が最上部に記されていた。
『カイ』
その下に書かれていたのは、わずか数行の記述のみ。――魔王。エリュシオン教区の統治者。以前の経歴は一切不明。圧倒的な戦闘力を有する。
ガレスはそのページを凝視した。「……少なすぎるな」
リオラが頷いた。「おそらく、意図的なものよ」
ガレスが顔を上げた。「どういう意味だ?」
彼女は声を潜めた。「本当に力のある存在はね、自分たちの都合のいい情報をそこら中に残したりしないものよ。それが『何かを隠している』という意味のこともあれば……周囲が恐怖のあまり、誰もまともに調べようとしなかったという意味のこともあるわ」
ガレスは再びファイルに視線を戻した。どういうわけか、その薄さが彼の胸の動悸をさらに激しくさせるのだった。
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教会の最初の過ち
その日の午後遅く、ソフィアは変質した結晶が保管されている部屋へと入った。結晶は未だに魔力障壁のコンテナの中に浮遊している。その中心を貫く黒い線は、以前に比べてほんの僅かに太くなっていた。劇的な変化ではない。しかし、確実に肉眼で認識できる程度には。
ソフィアが障壁に近づくと、背後に立っていたエルリックが尋ねた。「まだ変化しているのか?」
研究員が頷いた。「ええ、緩やかにですが」
「止めることはできないのか?」
「不可能です」
「元に戻すことは?」
「それも不可能です」
ソフィアは結晶を凝視した。奇妙な黒い線が、一度だけドクンと脈打ち、そしてまた静まり返る。
彼女は目をすっと細めた。「……これを破壊したらどうなるの?」
研究員は躊躇した。「分かりません」
「それは答えになっていないわ」
「今お答えできる、唯一の誠実な回答です」
ソフィアは重いため息をつき、エルリックを振り返った。「最近、それが定番のセリフになりつつありますね」
エルリックは苦笑した。「偽りの確信にすがるよりは、遥かにマシさ」
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ソフィアは黙って結晶を見つめ直した。汚染そのものではなく、その「タイミング」がどうしても腑に落ちなかった。あの神官が都合よく現れたことも、彼が何も記憶していないことも。 shreds のように、すべての答えがこれ以上ないほど綺麗に、カイの組織へと繋がっていることも。
あまりにも綺麗すぎる。しかし、それを覆す別の仮説(説明)を、彼女はまだ持ち合わせていなかった。
ソフィアは背を向けた。「引き続き、厳重に封印しておきなさい」
「はっ、団長」
彼女は扉に向かって歩き出し、ふと足を止めた。「もう一つ」
研究員が顔を上げる。「何でしょうか」
「もし、何か少しでも変化があれば……」
「ただちに、ですか?」
「ただちに、よ」
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旅路
翌朝、異端審問官たちは出発した。二十名の騎手、二台の輜重馬車。いくつかの通信結晶、そして調査権限を証明する教会直筆の封印文書。
彼らはラオディキアの公式な旗印のもとで進軍した。後を追う軍勢はなく、攻城兵器も、聖騎士の連隊もない。軍事侵攻と解釈されかねない要素は、どこにも含まれていなかった。
少なくとも、まだ、今は。
エリュシオン教区への道のりは長かった。彼らはいくつかの村々を通り過ぎていった。民は教会の紋章を認めると、ある者は手を振り、ある者はただ黙ってその様子を見つめていた。ラオディキアで何かが起きているという噂は、すでに広まり始めている。「黎明の聖域」で何かが起きたのだ。具体的に何が起きたのかを知る者はいなかったが、民の間ではすでに囁きが交わされていた。
「魔族だ」
「汚染らしい」
「魔王カイの仕業だ」
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審問官たちの耳にも、それらの囁きが届いていた。ガレスはその空気を好ましく思わなかった。彼は、元犯罪調査官であるラスク・ダマーの隣を並んで馬を走らせていた。「連中はもう知っているようだな」
ラスクが村の方を向いた。「何を知っていると?」
「カイが関与しているということさ」
ラスクは肩をすくめた。「民というものは、耳にしたことをそのまま信じるものだ」
ガレスは眉をひそめた。「それは危険だ」
ラスクが彼を横目で見た。「お前は、カイが無実だとでも思っているのか?」
ガレスは躊躇した。「……分からない」
「なら、なぜ奴を弁護するような口ぶりなんだ?」
「弁護などしていない」彼は前方を睨み据えた。「俺は、この調査という行為そのものの正当性を守ろうとしているだけだ」
ラスクはニヤリと笑った。「どうやら、結果的には同じことのようだな」
ガレスはそれ以上答えなかった。
彼らの背後で、情報戦の専門家であるセラフィン・ウォードは、道ではなく村人たちの様子を観察していた。彼女は、広まっている噂が一般的な世間話にしては、あまりにも整合性が高すぎることに気づいていた。どの村でも、ほとんど同じ言葉が、ほとんど同じ順序で使われている。何者かが、審問官たちがラオディキアを出発するよりも前に、このルートに沿って話をあらかじめ仕込んでいたのだ。
彼女はまだ、何も口にしなかった。確証のない疑惑など、流布しているただの噂と同じでしかないからだ。
エリュシオン教区
エリュシオン教区の朝は、至っていつも通りだった。人々は仕事へと向かい、冒険者たちはギルドの周りに集まる。商人は店を開け、オークたちは通りを抜けて物資を運んでいく。子供たちが居住区を走り抜け、塔の内部は平穏そのものだった。
一階層では、メインエントランスが多くの冒険者たちでごった返していた。到着したばかりの者、これから出発する者、クエストを巡って言い争う者たち。
若い冒険者が、地図を上下逆さまに持って固まっていた。「ここが東の区画だと思うんだけどな」
相棒が彼を冷ややかに見つめた。「あんた、地図が逆さまよ」
青年は地図を凝視した。「……道理で、色々と辻褄が合わないわけだ」
相棒は深くため息をついた。人間の文明というやつは、こうして一歩一歩、実に見事に進歩し続けているらしい。一人の人間がやらかすたびに。
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一方、彼らの遥か高みでは、カイが朝食を摂っているところだった。その向かいにはユイが座り、片手に茶杯を携えている。カイは食事を進めていたが、ふと手を止めた。「……何かが妙だな」
ユイが彼を見た。「妙、ですか?」
カイは頷いた。「言葉にするのは難しいんだが」彼は窓の外へと目を向けた。「何かが近づいてきているような、そんな感覚だ」
ユイはそっと目を閉じ、知覚を拡張させた。彼女の索敵網が塔を、都市を、周囲の森を、そして街道を走査していく。しかし、何も引っかからない。
「敵対的な気配は感知できません」
カイは頷いた。「なら、ただの気のせいか」
ユイは微笑んだ。「おそらくは」
カイは朝食を再開した。二人は、すでに二十人もの人間が自らの領地へと近づいていることなど、まだ知る由もなかった。
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審問官たちの到来
数時間後、エリュシオン教区がその姿を現した。二十名の異端審問官たちは馬の歩みを緩めた。誰も口を開かない。
話には聞いていた。報告書にも目を通していた。しかし、事前に読んだいかなる書類も、目の前に広がる光景の衝撃に対して彼らの心を準備させることはできていなかった。
大空へとそびえ立つ、巨大で優美な、そして不可能なほどに巨大な塔。その上層部は遥か雲の彼方へと消えている。その周囲には、完全に機能している一つの「都市」が広がっていた。市場、居住用の建物、訓練場、ギルドの施設、製造工房。そして、何千人もの人々。
ガレスは呆然とそれを見つめた。「これが……」彼は言葉を最後まで紡ぐことができなかった。
隣にいた審問官が低く呟いた。「……ただの都市だ」
ガレスが頷く。「魔王の領地の中に作られた、な」
総指揮官のレア・マロウが片手を掲げると、騎手たちは一糸乱れぬ陣形で停止した。サー・アルドリックは即座に壁の構造を分析し、ブラムは塔の防衛角を査定し、ジョレンは自分たちが追跡されていないか後方の街道に視線を走らせた。
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一団はそのまま前進した。メインエントランスに近づくと、数人の警備兵が彼らに気づいた。警備兵たちは襲いかかってくるような真似はせず、ただ冷徹に彼らを観察した。
一人が一歩前に出た。「要件を伺おう」
ガレスは馬から降りると、法衣の裏から教会の封印文書を取り出した。「我々はラオディキア聖教会の使節である」
警備兵はその書類に目をやった。
「魔王カイ殿との謁見を求めたい」
警備兵は沈黙を保っている。
ガレスは言葉を重ねた。「揉め事を起こすつもりはない」彼は間を置いた。「我々は『黎明の聖域』で起きたある事件について、調査を行うためにここへ来た」
警備兵の表情が微かに変わった。彼は他の警備兵たちと視線を交わし、再びガレスを見た。「ここで待て」
彼は踵を返し、中へと歩いていった。
その警備兵の姿が消えると、記録官のリオラ・クイルは手元の書類の印章を精査し、コーヴィン・アッシュは入り口のアーチの下に広がる影をじっと観察した。目に見える異常は何一つ見つからなかったが、コーヴィンは空気の中に微かな歪み(違和感)を感じていた。まるでその書類が、魔術が正常に機能しないような、異質な場所を通過してきたかのような感覚だった。
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カイの反応
カイが二杯目のお茶を半分ほど飲み干した時、その報せは届いた。
警備兵が部屋に入ってきた。「カイ様」
カイが顔を上げた。「ん?」
「ラオディキア聖教会の使節が到着いたしました」
カイは目を瞬かせた。「教会が?」
「はい」
「なぜだ?」
「謁見を要求しております」
カイはユイを見た。ユイも見つめ返す。二人とも、理由に心当たりはなかった。
カイは背もたれに身を預けた。「要件は何だと言っていた?」
警備兵が頷く。「『調査』という言葉を口にしていました」
カイは眉をひそめた。「調査? 一体何の調査だ」
警備兵は少し躊躇した。「……『黎明の聖域』、だそうです」
カイの表情が一変した。彼は茶杯を机に置いた。「……教会の、聖域だと?」
「はい」
カイはユイを凝視した。ユイの目がすっと細められる。「何かが起きましたね」
カイは立ち上がった。「連中を一階層へ通せ」
ユイが彼を見る。
カイは肩をすくめた。「話し合いに来たって言うなら、話を聞こう」彼は言葉を区切った。「それに、一階層はパブリックな入り口だからな」
ユイが頷いた。「妥当な判断です」
カイはエレベーターに向かって歩き出し、ふと足を止めた。「……待て」
ユイが彼を見た。「何か?」
「俺、もう少しマシな服に着替えた方がいいか?」
ユイは彼をじっと見つめ、「……いえ、そのままで結構です」と答えた。
カイは自分の服を見下ろした。「……そうか」彼は再び歩き出した。
一階層
二十名の異端審問官は、広大なエントランスホールの内部で待機していた。彼らは何か威圧的な光景を予想していた。しかし、そこにいたのは「普通の人々」だった。冒険者、商人、子供、労働者。オークと人間。誰もがそれぞれの日常を、いつも通りに送っている。
ガレスは静かに周囲を観察した。「……思っていたのとは、随分違うな」
審問官の一人が頷いた。「俺もだ」
その時、場の空気が一変した。ホールに一人の男が姿を現した。
――カイ。
彼は気負う様子もなく、ふらりと彼らに向かって歩いてくる。数歩後ろにはユイが従っていた。
審問官たちは即座に彼が「魔王」であると認識した。
ガレスが一歩前に出た。「魔王カイ殿」
カイの足が止まる。「ああ、俺だけど」
ガレスは僅かに一礼した。「我々はラオディキア聖教会の使節だ」
「みたいだな」
ガレスは少し躊躇した。「『黎明の聖域』で起きた事件のことで、お耳に入れたいことがある」
カイは首を傾げた。「何があったんだ?」
ガレスは彼の反応を冷徹に見つめた。「我々の封印された部屋の中で、一人の神官が捕らえられた」
カイは眉をひそめた。「……何をしてたんだ?」
「変質した結晶に干渉しようとしていた」
カイはパチクリと目を瞬かせた。「……そうか。それで?」彼は先を促した。
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ガレスは言葉を重ねた。「その神官はね、何者かの命令によって動いていたと自白したんだ」
カイの表情が、一気に真剣なものへと切り替わった。「誰の命令だ?」
ガレスが答えた。「――貴方の、配下の一人だ」
沈黙。
カイは彼を凝視した。それから――「……今、何て言った?」
数人の審問官たちが互いに視線を交わし合う。
カイは自分自身を指差した。「俺の、配下?」
「そうだ」
カイはユイの方を振り返った。ユイは終始、無表情を貫いている。
カイは再び審問官たちに向き直った。「そいつが、一体何をしたって?」
ガレスは冷静さを保ったままだ。「神官の主張によれば、貴方の配下の一人が、聖なる結晶を汚染しろと彼に命じたそうだ」
カイは彼を凝視したまま、数秒の間、何も言わなかった。やがて、彼は深いため息をついた。「……俺の仲間がそんなことするはずがない」
ガレスが眉をひそめた。「貴方はまだ、我々が誰のことを指しているのかすら聞いていないはずですが」
「そんなの、あいつらのことを知ってるからに決まってるだろ」カイは腕を組んだ。「みんな忙しいんだよ」
「それは無実の証明にはならない」
「ああ」カイは頷いた。「だが、確実な証拠もないのに、俺が仲間を疑う理由にはならん」
ガレスは彼の目をじっと見つめた。「我々がなぜここへ来たのか、その意味は分かっているな?」
「分かってるさ」
カイは二十人の審問官たちを見渡した。「だが、もし『どの配下がやったのか』と俺に聞いているんだとしたら――」彼は首を振った。「――俺には分からん」
ガレスの表情は動かない。「我々は貴方の配下たちに、直接尋問を行いたい」
カイはゆっくりと頷いた。「妥当な要求だな」彼は僅かに身体を巡らせた。「手配しよう」
ガレスの顔に驚きが走った。「……応じてくれるのか?」
カイは振り返った。「断る理由があるか?」彼は言葉を区切った。「もし本当に俺の仲間の誰かがそんな真似をしてたんだとしたら、それこそ俺自身が一番知りたいからな」
審問官たちは驚愕のあまり顔を見合わせた。この教区に足を踏み入れて以来初めて、彼らの想定は根底から覆された。魔王カイは調査を拒むどころか、威嚇する様子もなく、誰かを匿おうともしていなかった。彼は、本当に心底から困惑しているように見えた。
そしてその事実こそが、この状況を「不可解」なほど複雑にさせていくのだった。
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最初の問い
カイは彼らを一階層のさらに奥へと案内した。審問官たちはその道すがら、あらゆるものに目を光らせていた。建造物の構造、行き交う人々、警備の配置、そして張り巡らされた魔法のインフラ。尋問が始まる前から、彼らの調査はすでに開始されていた。
ガレスはあることに気づいた。そこには、明確な「恐怖」の兆候が一切存在しないのだ。ここに暮らす人々は、決して無理やり住まわされているわけではなかった。誰もが自由に会話を交わし、中にはカイに向かって気安く声をかける者すらいた。
「おはようございます、カイ様」
カイは片手を挙げた。「ああ、おはよう」
別の商人が大声で呼びかける。「カイ様、また倉庫の空き容量が足りなくなってきました!」
カイの足が止まる。「行政の担当に言ってくれ」
「もう言いましたよ!」
「じゃあ、ユイに言ってくれ」
ユイが彼を睨んだ。「なぜ私に振るのですか?」
「お前の方が書類仕事が得意だろ」
ユイは彼をじっと見つめ、「……認めましょう」と溜息をついた。
商人は満足そうに頷き、その場を去っていった。
審問官たちはその一連のやり取りを凝視していた。ガレスは静かに手帳を取り出し、文字を書き殴った。――『住民は極めて協力的である』。さらに一行を加える。――『強制や脅迫の明確な兆候は見られない』。彼は一瞬手を止め、最後にこう記した。――『魔王カイは、驚くほど日常の行政運営に溶け込んでいる』。
調査はすでに多くの情報を生み出していた。しかし、そのどれもが何かの証明になるわけではなかった。
一方、記録官のリオラ・クイルは、商人の不満が恐怖や賄賂、あるいは過剰な儀礼を挟むことなく瞬時に解決された事実に目を留めていた。ヘスティアは労働者たちがホールを不自由なく行き交う様子を観察し、レア・マロウは警備兵たちが一度も得物に手をかけることなく自分たちを監視していることを見抜いていた。
二十人の調査員がそれぞれ異なる印象を記録していった。そして、それらの断片が組み合わさることで、彼らの誰もが予想していなかった一枚の絵が完成しつつあった。エリュシオン教区は、単なる従僕たちが詰められただけの要塞などではない。完全に秩序だった一つの「社会」であり、カイはその日常に、確かに息づいていた。
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核心の問い
やがて、一団は足を止めた。
ガレスがカイを見つめた。「魔王カイ殿」
「ん?」
「どうしても、一つだけ確認しておきたいことがある」
カイは言葉を待った。
「あの神官はね……『魔王カイ様が気づくことは決してない、なぜなら彼は自分たちを信用しているからだ』と、貴方の配下が言っていたと証言したんだ」
カイの表情から一切の緩みが消え、静止した。彼は一瞬だけ視線を落とし、すぐにガレスを見据えた。「――確かに、信用しているよ」
ガレスが眉をひそめた。「彼らを完全に、盲信していると?」
カイは首を振った。「いいえ」
審問官の顔に意外そうな色が浮かぶ。
「信用するっていうのはね、そいつが絶対に間違いを犯さないと盲目的に信じ込むことじゃない」カイは自分たちを包み込む巨大な塔の構造を見上げた。「そいつが『何者であるか』を証明するための機会を、与え続けるということさ」
ガレスは言葉を失い、黙り込んだ。
カイはユイに視線を向け、それから再び審問官たちを見つめた。「だが、もしあいつらが本当にやっていないのだとしたら――」彼の表情に、ふと深い思索の影が落ちた。一つの疑問が脳裏に浮かび上がる。彼自身にも答えの出せない問い。
もし、あいつらがやっていないのだとしたら……一体、誰が仕組んだ?
カイの目がすっと細められた。この瞬間、この調査は初めて、彼にとって極めて個人的な(パーソナルな)事件へと変貌を遂げた。教会を恐れているからではない。告発を恐れているからでもない。何者かが、自分の仲間と教会との対立の真っ只中に勝手に割り込み、自分の名前をこれ以上ないほど綺麗にその中心へと配置したのだという、明確な悪意に気づいたからだ。
カイは審問官たちを見据えた。「――暴いてみせようじゃないか」
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二十人の異端審問官は、静寂の中で立ち尽くしていた。ガレスが抱えている教会の封印文書の裏側に、いつの間にか細く黒い紋様が刻まれていることに、気づく者は誰一人としていなかった。それが一体いつからそこにあったのかも。そして、自分たちのこの調査そのものが、最初から精緻に予測されていたのだということも。
その紋様は、教会の印などではなかった。一本の線が交差する割れた円のような、三つの直線が不気味に噛み合った歪な印。それは、あの変質した結晶の内部で一瞬だけ明滅し、掻き消えたものと全く同じ形状をしていた。そこからは、いかなる魔族の魔気も、神聖な波長も、通常の魔術の残滓すらも感知できない。だからこそ、教会のいかなる専門家もその存在に気づくことができなかったのだ。
しかし、その紋様はガレスを呪うために刻まれたのではなかった。この場にいる、二十人の審問官全員を「追跡」するために配置されていたのだ。その書類は、任務を承認した司教の手を、命令を書き写した書記官の手を、ケースに封印を施した警備兵の手を、そしてガレス自身の手を経由してきた。あらゆる段階においてその印は透明なまま身を潜め、調査団がエリュシオン教区の境界をまたぐその瞬間を、じっと待ち伏せしていたのだ。
あの神官は、単に結晶を汚染するためだけに操られたのではなかった。彼は、すべての容疑をカイへと向かわせ、教会を激昂させ、選び抜かれた精鋭の調査員たちをこの教区の真っ只中へと直接送り込むための「生け贄」として利用されたのだ。失われた記憶、都合の良すぎる自白、街道沿いの不自然な噂、そして彼らの許可証に刻まれた黒い印。それらは決して、偶然起きた別々の事故などではなかった。
すべては、たった一つの、精巧な計画の歯車。
何者かが、教会に調査をさせたがっていた。何者かが、カイに協力をさせたがっていた。何者かが、双方が「この調査そのものが罠である」という真実に気づく前に、二十人の審問官をこの魔王の領地の中に閉じ込めたがっていたのだ。
教会とエリュシオン教区の最初の対峙は、極めて平穏に幕を開けた。
しかしそれこそが、闇に潜む者が何よりも奪い去りたがっている「平穏」そのものだった。
TO BE CONTINUED...




