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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
聖戦

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第103話 - 第2幕:教会の聖戦、その3 — 調査の開始

 七十階層の王


 一階層での対峙は、そのまま続いていた。二十人の異端審問官がカイの前に立ち、その傍らにはユイが静かに佇んでいる。周囲では、相変わらずありふれた日常が流れていた。冒険者たちがエントランスホールを行き交い、商人が店の間に箱を運び、オークたちが貯蔵区へと資材を移動させている。聖教会の代表者たちを特別に気にかける様子など、誰一人として見せなかった。


 その事実こそが、何よりも審問官たちを困惑させた。魔王の領地といえば、息も詰まるような重苦しい空気に満ちているものと予期していたのだ。しかしここは、あまりにも普通だった。


 あまりにも、普通すぎた。


 総指揮官(キャプテン)のレア・マロウが、手元のファイルをパタンと閉じた。「魔王カイ殿」


 カイが彼女を見た。「ん?」


「まずは、我々の立ち入り調査に協力していただけることに感謝します」


 カイは頷いた。「あんたたちは、自分たちの仲間に起きた事件を調べてるんだろ。俺だって、もし同じ立場なら答えが欲しいさ」


 レアは彼を観察するように見つめた。「我々の調査には、貴方の配下たちへの個別の尋問が含まれます。その点はご理解いただいているな」


 カイは少し考えてから、「構わんよ」と答えた。彼はユイを振り返る。「手配できるか?」


 ユイが頷いた。「可能です」


 カイは再び審問官たちに向き直った。「ただ、少し待ってもらうことになるかもしれないがな」


 ガレスが眉をひそめた。「なぜです?」


「みんな仕事中だからな」


 沈黙が流れた。


 審問官の一人がパチクリと目を瞬かせた。「……仕事、ですか?」


 カイは当然のように頷いた。「ネロは訓練中――まあ、あいつが何のために訓練なんてしてるのかは俺にも分からんが。セナは行政手続き、エルヴァは製造部門の監督、ヴァドスはアステリア国内、クロエは医療業務の対応だ」彼は言葉を区切った。「だから、全員が部屋の隅に座って、誰かが自分たちを犯罪者扱いして呼び出しにくるのを大人しく待ってるわけじゃないんだよ」


 レアはゆっくりと頷いた。「……承知いたしました」


 カイは彼女を見た。「で、最初に誰の話を聞きたいんだ?」


 レアはファイルに視線を落とした。「――ネロを」


 カイが頷く。「分かった」彼はエレベーターへと歩き出した。「まずはあいつのところへ行こう」


-


 最初の容疑者


 エレベーターが上昇を始めた。審問官たちは静かに直立し、カイは壁に背を預けている。その隣にはユイが控えていた。


 ガレスが階層表示のインジケーターを見つめた。表示が『70』を超え、さらに数字が切り替わっていく。『71』、『72』……。彼は眉をひそめた。「この塔は、七十階層以上あるのですか?」


 カイが彼を見た。「百階層だ」


 ガレスの目が丸くなる。「百階層?」


「そうだぞ」


「……どれほどの広さなのですか」


 カイは少し考え、「階層によって違うな」と答えた。


 ガレスが目を瞬かせる。「違う、とは?」


 カイは肩をすくめた。「普通の階層もあれば、そうじゃない階層もあるってことさ」


 ユイがインジケーターに視線を向けた。「補足しますと、七十階層は主たる戦闘訓練用の区域。百階層が、この塔の全機能を統括する中央管制室となっております」


 ガレスは二人交互に見つめた。「では、なぜ『普通の階層じゃない』などと言ったのですか?」


 カイは微かに微笑んだ。「その答えが、今も変わらず事実だからさ」


-


 エレベーターはさらに上昇を続けた。『80』、『90』……そして『100』。扉が開いた瞬間、場の空気が一瞬でカチリと切り替わった。


 百階層の光景は、下層階層のそれとは完全に一線を画していた。そこに広がっていたのは、言葉を失うほど広大な訓練場。漆黒の石材で組まれたプラットフォーム、空中に浮遊する構造物。圧倒的な開放感。そのフロアのすべてが、「戦闘」のためだけに設計されているかのようだった。


 ガレスが一歩踏み出し、そして足を止めた。訓練場の中央に、一人の男が佇んでいた。


 ――ネロ。彼は微動だにせずそこに立っていた。漆黒のコートが風に微かになびいている。その両目は静かに閉じられ、彼の前には、数十本もの魔法武器が不気味に浮遊していた。刃、槍、鎖、矢。


 その瞬間、すべての武器が一斉に牙を剥いた。――シュイン! それらが猛烈な速度でネロ目掛けて射出される。


 ネロが目を開けた。彼の姿がその場から掻き消える。武器は虚空を貫いた。一本の刃が彼の背後から迫る。ネロは僅かに首を傾げた。刃は一インチ(数センチ)にも満たない距離を掠めて空を切る。上空から槍が降り注ぐ。彼は一歩前へ踏み出してそれを躱す。側面から矢が放たれる。彼が身を翻すと、得物は彼の肩の後ろを通り過ぎていった。


 彼は一切、反撃をしなかった。ただ、すべての攻撃を紙一重で回避し続けていた。


 やがて、ネロが片手を静かに掲げた。すべての武器がピタリと動きを止める。それらは空中に固定されたまま静止した。彼がゆっくりと手を下ろすと、すべての武器は何事もなかったかのように元の位置へと戻っていった。


 審問官たちは呆然とそれを凝視していた。


 ベテラン聖騎士のサー・アルドリックが低く呟いた。「……化け物め(常軌を逸している)」


 ブラム・ホロウも訓練場の構造を見渡しながら、「ああ」と真剣な表情で同意した。「本当に、規格外だ」


-


 カイが前へと歩み出た。「ネロ」


 ネロが振り返る。「カイ様」その声はどこまでも冷静だった。


 カイは審問官の一団を顎で示した。「この人たちは聖教会からの使節だ」


 ネロが彼らに視線を向けた。「教会、ですか」


 レアが一歩前に出た。「ラオディキアの代表です」


 ネロが頷く。「なるほど」


 カイが言葉を続けた。「お前にいくつか質問をしたいそうだ」


 ネロはカイを見つめた。「要件は?」


 カイは肩をすくめた。「連中の巡礼地(聖域)の一つで、ちょっとした異変が起きたらしいんだ」


 ネロの表情は一切動かなかった。「承知いたしました」


 レアは彼の反応を注意深く見つめた。「不服はないようですね?」


 ネロは微かに微笑んだ。「断る理由がありませんから」


 カイがレアに視線を向けた。「ほらな、言ったろ」


 レアはその言葉を無視し、ファイルを開いた。「ネロ殿。事件が発生する前の四日間、貴方はどこで何をしていましたか?」


「この百階層で、訓練をしていました」


「貴方の命令によって、この塔から外出(出撃)した者はいますか?」


「いいえ」


「アシュフォードに向けて、何らかの書状、物資、あるいは魔法人形(構築物)を送り出しましたか?」


「いいえ」


「『黎明の聖域』、あるいはそこに駐在する神官と、何らかの接触はありましたか?」


「いいえ」


「東方の検問所を経由して、聖なる結晶が運ばれていた事実を知っていましたか?」


「いいえ」


 レアの手が止まる。「……これまでに、ラオディキア聖教会を標的とした何らかの命令を下したことは?」


 ネロは少し考えてから、「ありませんね」と答えた。


-


 レアは他の調査員たちに視線を送った。記憶読解の専門家であるシスター・メイリンが目を閉じ、自身の魔力を解き放った。微かな銀色の光が、ネロの周囲を優しく包み込んでいく。


 ネロはそれに気づいたが、身じろぎ一つしなかった。


 メイリンの表情が徐々に変化し、やがて彼女は目を開けた。「……何も、ありません」


 レアが彼女を見た。「何も?」


「嘘(偽証)の兆候を示すような感情の残滓は、一切感知できません」メイリンは僅かに言い淀んだ。「――少なくとも、今の質問に関する限りは」


 ネロが不敵に笑った。「怒った方がいいですか?」


 カイが吹き出した。「たぶん、それが正解だな」


 ネロはカイを見つめた。「これくらいの侮辱、何とか耐えてみせますよ」


 カイが頷く。「よし、上出来だ」


 レアはファイルを閉じた。「最後に、一つだけ質問を」


 ネロが彼女を見る。


「なぜ、これほど容易に尋問に応じたのですか?」


 ネロの表情が、僅かに真剣なものへと変わった。「なぜなら、カイ様が私を信用してくださっているからです」


 レアは彼の目をじっと見つめた。「そして、貴方も彼を信用している、と?」


 ネロは即座に答えた。「ええ」


 その返答のあまりの迷いのなさに、数人の審問官たちが思わず息を呑んだ。そこには一瞬の躊躇も、政治的な計算も、恐怖すらも存在しなかった。あるのはただ、絶対的な確信。


 ネロはカイの方を向いた。「私には、彼を裏切る理由など何一つありませんから」


 カイがニヤリと笑った。「ほらな?」


 レアは応じなかったが、手帳に文字を素早く書き残した。


――『ネロはカイに対して、本物の忠誠を誓っている。彼の滞在記録および外部との接触のなさは、塔の訓練記録によって完全に裏付けられている』。


 二番目の容疑者


 異端審問官たちの調査はそのまま続けられた。彼らの次の目的地は五十階層。


 ――エルヴァ。


 その製造階層はあまりに広大だった。広間を無数の機械が埋め尽くし、生産ラインに沿って魔法の結晶が次々と流れていく。金属が成形され、武器が鍛造され、鎧が組み立てられていた。フロア全体が、まるで一つの生きている巨大な機械であるかのような轟音を響かせている。


 そのすべての中心にエルヴァは佇んでいた。優美な漆黒のドレスを纏った彼女の元へ、数人の労働者たちが報告書を手に歩み寄る。彼女はその一つ一つに耳を傾け、修正を指示し、生産を承認していった。


 そこでようやく、彼女はカイの存在に気づいた。「カイ様」


「よぉ」


 エルヴァは審問官たちに視線を向けた。「……お客様ですか?」


「調査員だ」


 エルヴァの表情は冷静なままだった。「教会、の?」


 カイが頷く。「そうだぞ」


 彼女はレアを見つめた。「何をお知りになりたいのかしら?」


 レアは手元の生産台帳を確認した。「貴方の記録によれば、事件の四日前、貴方が東方への輸送物資を監督していたことになっていますね」


 エルヴァは頷いた。「出発を承認したのは私よ」


「その積荷の内容は?」


「食料、金属、医薬品、そして交換用の精密部品ね」


「その中に、聖なる結晶が含まれていた可能性は?」


「ないわ」


「出発した後に、貴方がルートを変更したことは?」


「ないわね」


「国境の検問所と通信を行いましたか?」


「標準的な交易通知を送っただけよ」


「教会の物資がその検問所を通過する事実は知っていましたか?」


「ええ、共通の交易ルート(共有ルート)だからね」


 レアは彼女をじっと見つめた。「物資の中に、密かに聖遺物を隠し通すことは可能でしたか?」


 エルヴァはフッと微笑んだ。「私がそれを望んだのなら、可能だったでしょうね」


 遺物の専門家であるオーレンの表情が険しくなる。


 エルヴァは言葉を重ねた。「だからといって、私がそれをやったという意味にはならないわ。貨物は出発時に厳重に検査されているし、検問所に到着した際にも重量が再度記録されているのだから」


-


 法医学錬金術師のトマス・リードが、周囲の機械類を注視していた。彼はあることに気づいた。「貴方たちの製造システムは、極めて異質なエネルギー源を使用しているようですね」


 エルヴァが彼を見た。「創世の魔力(創世エネルギー)よ」


 トマスは眉をひそめた。「それは一体?」


 エルヴァは一瞬の間を置き、それから意味深に微笑んだ。「貴方たちが首を突っ込む必要のないもの、とだけ言っておくわ」


 トマスは手帳に何かを書き留めた。レアはそれに気づいたが、敢えて口は挟まなかった。


 エルヴァは近くの結晶処理ラインを指し示した。「ですが、これだけは教えてあげるわ。その聖域で汚染されたという結晶はね、私たちの生産波形(シグネチャー)とは全く一致しないのよ」


 レアが顔を上げた。「ここからでもそれが分かると言うのですか?」


「いいえ。教会が提示した『解説』からよ」


「どういう意味ですか?」


「貴方たちの報告書には、汚染が『核(コア)から外側へ向かって広がった』とあるわ。けれど、私たちの結晶は『外側から内側へ向かって』魔力を安定化させるの。もし私たちの製品が破損(暴走)したのだとしたら、そのひび割れの型(破断パターン)は全く異なるものになるはずよ」


 審問官たちは驚愕のあまり顔を見合わせた。


 エルヴァは続けた。「それに、報告書にある魔力の残滓の描写は、製造過程で生じる不純物(コンタミ)なんかじゃないわね。あれはどちらかと言えば……『命令の刻印』の性質に近いわ」


 レアの視線が鋭くなる。「命令の刻印?」


「何者かがその結晶に対して、直接『変質しろ』と命令を下したのよ」


「それを誰が発したのか、特定することはできますか?」


「いいえ。でも、それが製造された後に、その結晶へ直接アクセスできる権限を持った者でなければ不可能な芸当ね」


 オーレンが彼女を見た。「神官自身がやった、という可能性は?」


「充分にあるわね。もし彼が正しいアクセス権限(認証コード)を持っていたのだとしたら」


 レアはそれを素早く書き留めた。調査は続行された。エルヴァを教会の事件に結びつける証拠は何一つ出なかったが、彼女の技術的な解説は、今回の汚染が明確な意志を持って「仕組まれた」ものであるという最初の具体的な確証を彼らに与えることとなった。


-


 三番目の容疑者


 次に尋問が行われたのはセナだった。彼女はアステリア国内にいたため、審問官たちは直接出向く代わりに、通信結晶を用いた。


 結晶が放つ光の投影の中に、セナの姿が浮かび上がる。彼女は執務机の前に座っており、卓上は膨大な報告書で埋め尽くされていた。


 レアが自己紹介をすると、セナは静かに耳を傾け、やがて頷いた。「……続けてちょうだい」


 レアは東方国境の記録を開いた。「貴方の部署は、エリュシオン教区からの輸送物資が、教会の物資と同じ検問所を通過する過程を追跡していますね」


 セナの目がすっと細められた。「あの輸送物資は、ただの標準的な交易貨物よ」


「なぜそう言い切れるのですか?」


「この地域に出入りするすべての物流を、私が網羅的に追跡しているからよ」


「エリュシオン教区の何者かが、貴方の記録に一切残らない方法でそのルートを利用した可能性は?」


「ないわね」


「記録が改ざんされた可能性は?」


「検問所の『複製封印(バックアップ・シール)』が作動してしまうわ。私に気づかれずにそんな真似はできない」


 元犯罪調査官のラスクが通信結晶へと身を乗り出した。「ならば、なぜ輸送ルートが変更されたんだ?」


 セナは手元の報告書に目をやった。「出発した後に変更されたわけじゃないわ。最初の通知書(マニフェスト)の記入に誤りがあり、それが後から訂正されたのよ」


「その訂正を行ったのは誰だ?」


「検問所の書記官よ」


「名前は分かりますか?」


 セナは机から一枚の書類を引き抜いた。「――ジョラン・ペル」


-


 ラスクはレアと視線を交わした。「そのジョラン・ペルは、教会の物資が到着した時、その場に居合わせていたのか?」


 セナの表情が険しくなる。「検問所の業務日誌によれば、確かにその場にいたわね」


「業務日誌によれば、ということは?」


「彼はその二日後に、忽然と姿を消したのよ」


 室内に、重苦しい静寂が降りた。


 レアが身を乗り出す。「……失踪した、と?」


「宿舎はもぬけの殻。彼の公式印だけが残されていたわ。死体は見つかっていない」


「なぜその事実が、我々への報告書に含まれていなかったのですか?」


「検問所の指揮官が、ただの『脱走(敵前逃亡)』として処理してしまったからよ」


 セナはレアを真っ直ぐに見つめた。「けれど、このタイミングはあまりにも不自然(サスピシャス)だわ」


 レアは猛烈な勢いで文字を書き留めた。「ジョラン・ペルは、物資の記録へのアクセス権を持っていましたか?」


「ええ」


「彼が独断で積荷を迂回させたり、すり替えたりすることは可能ですか?」


「単独では無理ね。それを実行するには『二番目の印章』が必要になるわ」


「誰の印章ですか?」


 セナの目が鋭く細められた。「それこそ、貴方たちが調査(インベスト)すべき案件よ」


 彼女は通信結晶を通じて、検問所の印章登録簿の写しを送信してきた。ある一つの項目が、上から黒々と掻き消されている。そしてその下には――一本の線が交差する、あの「割れた三日月」のような細く黒い紋様が浮かび上がっていた。


 レアはその紋様を凝視した。「この、印は……」


 セナがそのマークを見つめる。「私も、前に一度これを見たことがあるわ」


「どこでですか!?」


「東方国境で回収された、ある極秘の命令書の上よ」


「それを発したのは誰です?」


 セナは首を振った。「署名は完全に消去されていたわ。ただ、その紋様だけが残されていたの」


 レアの表情が、本格的に凍りついた。「……そのデータを、すべてこちらへ共有してください」


「すでに送ったわ」


 そこで通信は切断された。立ち入り調査が始まって以来初めて、彼らは生きている具体的な「手がかり(リード)」を掴み取った。失踪した検問所の書記官、偽装された二番目の印章。そして、教会の公式な許可証の裏側にも現れていた、あの不気味な黒い紋様。


 四番目の容疑者


 ヴァドスはエリュシオン教区にはいなかった。彼はアステリア国内に滞留していた。しかし、審問官たちが別の通信結晶を介してようやく彼に接触した時、彼らは全く予想だにしない事実を突きつけられることとなる。


 投影されたヴァドスは、どこかの酒場に腰掛けていた。目の前にはグラスが置かれている。彼は通信結晶を見つめ、それから審問官たちを眺め、再び結晶へと視線を戻した。「……私を調査していると?」


 レアが頷いた。「そうだ」


 ヴァドスは深くため息をついた。「これだから人間というのは……」


 一人の審問官が不快そうに眉をひそめた。「何か不満でも?」


「いや」ヴァドスはグラスを手に取った。「ただ、滑稽だと思っただけさ」


「何がだ?」


「私は貴方たちの聖域の近くには、これっぽっちも近づいていないからね」


 レアが尋ねた。「事件が起きる前の四日間、貴方はどこで何をしていた?」


「アステリアだ」


「何のためにだ?」


「アルドレン国王の手助けをしていたのさ」


 レアの手が止まる。「……アルドレン国王だと?」


「そうだ」


 数人の調査員たちが、思わず顔を見合わせた。


 ヴァドスは平然と酒を煽り続けた。「王に直接聞いてみるといい」


 レアはそれを書き留めた。「ええ、そうさせてもらうわ」


 ヴァドスがニヤリと笑った。「結構だ」彼は通信結晶へと顔を近づけた。「他に何かあるかね?」


-


 レアは彼をじっと見つめた。「――『黒い三日月の印章』を使っている者を見かけなかったか?」


 ヴァドスが杯を口に運ぶ手を止めた。この尋問が始まって以来初めて、彼の表情に明らかな変化が生じる。「……それを、どこで聞いた?」


 レアはその動揺を瞬時に見抜いた。「質問に答えなさい」


 ヴァドスはグラスを机に置いた。「三日前、アステリア国内でその印を身につけた伝令兵を見かけた」


「なぜ、それを報告しなかった?」


「今回の件に繋がっているなどとは、露ほども知らなかったからね」


「その伝令兵の特徴は?」


「人間だ。灰色のマントを纏い、左手には大きな火傷の痕(ケロイド)があった」


「そいつはどこへ向かった?」


「古い川沿いの街道(旧河道)の方角だ」


 レアはガレスと視線を交わした。「そいつの身元を特定できますか?」


「名前までは分からん」


 ヴァドスはさらに身を乗り出した。「だが、あの印章ははっきりと覚えている。中央で真っ二つに割れていた。まるで、誰かが無理やりそれを掻き消そうとしたかのようにね」


 レアはすべての詳細を猛烈な勢いで書き写した。


 ヴァドスは再びグラスを持ち上げた。「では、私は仕事(晩酌)に戻らせてもらうよ」


 そこで通信は切断された。


 レアは何も映らなくなった結晶を見つめた。


 ガレスが自分の手帳に目を落とした。「こちらが誘導する前に、向こうから自発的に具体的な詳細(ディテール)を口にしたのは、これが初めてですね」


 レアが頷いた。「ええ。そして、教会の記録以外でその紋様の存在を裏付ける、最初の目撃証言よ」


-


 クロエ


 初期容疑者リストの最後に記されていたのはクロエだった。審問官たちは彼女を医療区の区画内で見つけた。彼女は負傷した一人の冒険者の治療に当たっているところだった。すぐ近くでは、腕に包帯を巻かれた子供が椅子に腰掛けている。


 クロエは治癒魔術を施し終えた。「……よし、これで大丈夫よ」


 子供が満面の笑みを浮かべた。「ありがとう、お姉ちゃん!」


 クロエは優しく頷いた。「もう怪我をしちゃダメよ」


「うん!」


子供は元気よく走り去っていった。


 クロエが振り返ると、そこにカイの姿があった。「カイ様」


「よぉ、クロエ」


 カイは背後の使使団を顎で示した。「こいつらは例の教会の事件を調べてる調査員だ」


 クロエは彼らに視線を向けた。「承知いたしました」


 レアが一歩前に出た。「手短に済ませます」


 クロエが頷く。「ええ、そうして頂戴」


 レアは最後の報告書に目をやった。「貴方の医療記録によれば、事件のあった夜、貴方はこの医療区で絶え間なく患者の治療に当たっていたことになっていますね」


「その通りよ」


「貴方の許可を得て、この医療区から外部へ出た者はいますか?」


「いないわ」


「教会からの情報開示の要請は受けましたか?」


「いいえ」


「聖なる遺物や、あの結晶に触れたことは?」


「ないわね」


「あの夜、塔の内部で何か不審な点に気づきませんでしたか?」


 クロエは一瞬、言葉を止めた。「――ええ、気づいたわ」


-


 レアのペンがピタリと止まった。「何に気づいたのですか?」


「訪問者の登録簿に一切名前が残っていない何者かが、この医療区を通過していったのよ」


「それは誰ですか!?」


「顔は見ていないわ」


「ではなぜ、そこに誰かがいたと分かるのです?」


 クロエは回廊の奥へと視線を向けた。「患者たちが不気味な反応を示したの。三人の患者が全く同時に目を覚ましたわ。けれど、誰一人としてなぜ目が覚めたのか、その理由を覚えていなかった」


「その不審者の姿を、目撃した者はいないのですか?」


「私は、その者の『影』だけを見たわ」


「その特徴を教えてください」


「人間の形をしていたけれど……左腕が、右腕よりも異様に長かったわ」


 審問官たちは、一様に不気味なものを感じて顔を見合わせた。


「他に、何か気づいたことは?」


「匂い(異臭)が残っていたわ」


「どのような匂いですか?」


「紙が焦げたような臭いと、錆びた鉄の臭いよ」


 その時、シスター・ヘスティアがクロエの放つ治癒の魔力残滓を注視していた。彼女の目が驚愕に大きく見開かれる。「……貴女の、その治癒能力……」


 クロエが彼女を振り返った。「何かしら?」


「あまりにも……規格外(異常)です」


 クロエは微かに微笑んだ。「経験を積んでいるからよ」


 ヘスティアは躊躇がちに尋ねた。「……どれほどの期間、ですか?」


 クロエは少し考え、「――気の遠くなるほど長い時間よ」と答えた。


 ヘスティアは思わず視線を落とした。そして、背筋が凍りつくような感覚に囚われる。クロエの纏う存在感には、何とも言えない異質な空気が漂っていた。邪悪なわけではない。脅迫的なわけでもない。ただ――あまりにも「古い(悠久の)」。途方もなく長い年月を経た存在特有の気配。


 ヘスティアにはそれを言葉で説明することができなかった。しかし、クロエの証言は彼らに更なる決定的な詳細(ディテール)をもたらした。塔の公式な記録を完全に掻い潜って侵入した何者かが存在し、その異変は、確かに「物理的な異臭」を現場に残していたのだ。


 七十階層の王


 一階層での対峙は、そのまま続いていた。二十人の異端審問官がカイの前に立ち、その傍らにはユイが静かに佇んでいる。周囲では、相変わらずありふれた日常が流れていた。冒険者たちがエントランスホールを行き交い、商人が店の間に箱を運び、オークたちが貯蔵区へと資材を移動させている。聖教会の代表者たちを特別に気にかける様子など、誰一人として見せなかった。


 その事実こそが、何よりも審問官たちを困惑させた。魔王の領地といえば、息も詰まるような重苦しい空気に満ちているものと予期していたのだ。しかしここは、あまりにも普通だった。


 あまりにも、普通すぎた。


 総指揮官(キャプテン)のレア・マロウが、手元のファイルをパタンと閉じた。「魔王カイ殿」


 カイが彼女を見た。「ん?」


「まずは、我々の立ち入り調査に協力していただけることに感謝します」


 カイは頷いた。「あんたたちは、自分たちの仲間に起きた事件を調べてるんだろ。俺だって、もし同じ立場なら答えが欲しいさ」


 レアは彼を観察するように見つめた。「我々の調査には、貴方の配下たちへの個別の尋問が含まれます。その点はご理解いただいているな」


 カイは少し考えてから、「構わんよ」と答えた。彼はユイを振り返る。「手配できるか?」


 ユイが頷いた。「可能です」


 カイは再び審問官たちに向き直った。「ただ、少し待ってもらうことになるかもしれないがな」


 ガレスが眉をひそめた。「なぜです?」


「みんな仕事中だからな」


 沈黙が流れた。


 審問官の一人がパチクリと目を瞬かせた。「……仕事、ですか?」


 カイは当然のように頷いた。「ネロは訓練中――まあ、あいつが何のために訓練なんてしてるのかは俺にも分からんが。セナは行政手続き、エルヴァは製造部門の監督、ヴァドスはアステリア国内、クロエは医療業務の対応だ」彼は言葉を区切った。「だから、全員が部屋の隅に座って、誰かが自分たちを犯罪者扱いして呼び出しにくるのを大人しく待ってるわけじゃないんだよ」


 レアはゆっくりと頷いた。「……承知いたしました」


 カイは彼女を見た。「で、最初に誰の話を聞きたいんだ?」


 レアはファイルに視線を落とした。「――ネロを」


 カイが頷く。「分かった」彼はエレベーターへと歩き出した。「まずはあいつのところへ行おう」


-


 最初の容疑者


 エレベーターが上昇を始めた。審問官たちは静かに直立し、カイは壁に背を預けている。その隣にはユイが控えていた。


 ガレスが階層表示のインジケーターを見つめた。表示が『70』を超え、さらに数字が切り替わっていく。『71』、『72』……。彼は眉をひそめた。「この塔は、七十階層以上あるのですか?」


 カイが彼を見た。「百階層だ」


 ガレスの目が丸くなる。「百階層?」


「そうだぞ」


「……どれほどの広さなのですか」


 カイは少し考え、「階層によって違うな」と答えた。


 ガレスが目を瞬かせる。「違う、とは?」


 カイは肩をすくめた。「普通の階層もあれば、そうじゃない階層もあるってことさ」


 ユイがインジケーターに視線を向けた。「補足しますと、七十階層は主たる戦闘訓練用の区域。百階層が、この塔の全機能を統括する中央管制室となっております」


 ガレスは二人交互に見つめた。「では、なぜ『普通の階層じゃない』などと言ったのですか?」


カイは微かに微笑んだ。「その答えが、今も変わらず事実だからさ」


-


エレベーターはさらに上昇を続けた。『80』、『90』……そして『100』。扉が開いた瞬間、場の空気が一瞬でカチリと切り替わった。


 百階層の光景は、下層階層のそれとは完全に一線を画していた。そこに広がっていたのは、言葉を失うほど広大な訓練場。漆黒の石材で組まれたプラットフォーム、空中に浮遊する構造物。圧倒的な開放感。そのフロアのすべてが、「戦闘」のためだけに設計されているかのようだった。


ガレスが一歩踏み出し、そして足を止めた。訓練場の中央に、一人の男が佇んでいた。


 ――ネロ。彼は微動だにせずそこに立っていた。漆黒のコートが風に微かになびいている。その両目は静かに閉じられ、彼の前には、数十本もの魔法武器が不気味に浮遊していた。刃、槍、鎖、矢。


その瞬間、すべての武器が一斉に牙を剥いた。――シュイン! それらが猛烈な速度でネロ目掛けて射出される。


ネロが目を開けた。彼の姿がその場から掻き消える。武器は虚空を貫いた。一本の刃が彼の背後から迫る。ネロは僅かに首を傾げた。刃は一インチ(数センチ)にも満たない距離を掠めて空を切る。上空から槍が降り注ぐ。彼は一歩前へ踏み出してそれを躱ス。側面から矢が放たれる。彼が身を翻すと、得物は彼の肩の後ろを通り過ぎていった。


彼は一切、反撃をしなかった。ただ、すべての攻撃を紙一重で回避し続けていた。


やがて、ネロが片手を静かに掲げた。すべての武器がピタリと動きを止める。それらは空中に固定されたまま静止した。彼がゆっくりと手を下ろすと、すべての武器は何事もなかったかのように元の位置へと戻っていった。


審問官たちは呆然とそれを凝視していた。


ベテラン聖騎士のサー・アルドリックが低く呟いた。「……化け物め(常軌を逸している)」


ブラム・ホロウも訓練場の構造を見渡しながら、「ああ」と真剣な表情で同意した。「本当に、規格外だ」


-


カイが前へと歩み出た。「ネロ」


ネロが振り返る。「カイ様」その声はどこまでも冷静だった。


カイは審問官の一団を顎で示した。「この人たちは聖教会からの使節だ」


ネロが彼らに視線を向けた。「教会、ですか」


レアが一歩前に出た。「ラオディキアの代表です」


ネロが頷く。「なるほど」


カイが言葉を続けた。「お前にいくつか質問をしたいそうだ」


ネロはカイを見つめた。「要件は?」


カイは肩をすくめた。「連中の巡礼地(聖域)の一つで、ちょっとした異変が起きたらしいんだ」


ネロの表情は一切動かなかった。「承知いたしました」


レアは彼の反応を注意深く見つめた。「不服はないようですね?」


ネロは微かに微笑んだ。「断る理由がありませんから」


カイがレアに視線を向けた。「ほらな、言ったろ」


レアはその言葉を無視し、ファイルを開いた。「ネロ殿。事件が発生する前の四日間、貴方はどこで何をしていましたか?」


「この百階層で、訓練をしていました」


「貴方の命令によって、この塔から外出(出撃)した者はいますか?」


「いいえ」


「アシュフォードに向けて、何らかの書状、物資、あるいは魔法人形(構築物)を送り出しましたか?」


「いいえ」


「『黎明の聖域』、あるいはそこに駐在する神官と、何らかの接触はありましたか?」


「いいえ」


「東方の検問所を経由して、聖なる結晶が運ばれていた事実を知っていましたか?」


「いいえ」


レアの手が止まる。「……これまでに、ラオディキア聖教会を標的とした何らかの命令を下したことは?」


ネロは少し考えてから、「ありませんね」と答えた。


-


レアは他の調査員たちに視線を送った。記憶読解の専門家であるシスター・メイリンが目を閉じ、自身の魔力を解き放った。微かな銀色の光が、ネロの周囲を優しく包み込んでいく。


ネロはそれに気づいたが、身じろぎ一つしなかった。


メイリンの表情が徐々に変化し、やがて彼女は目を開けた。「……何も、ありません」


レアが彼女を見た。「何も?」


「嘘(偽証)の兆候を示すような感情 of の残滓は、一切感知できません」メイリンは僅かに言い淀んだ。「――少なくとも、今の質問に関する限りは」


ネロが不敵に笑った。「怒った方がいいですか?」


カイが吹き出した。「たぶん、それが正解だな」


ネロはカイを見つめた。「これくらいの侮辱、何とか耐えてみせますよ」


カイが頷く。「よし、上出来だ」


レアはファイルを閉じた。「最後に、一つだけ質問を」


ネロが彼女を見る。


「なぜ、これほど容易に尋問に応じたのですか?」


ネロの表情が、僅かに真剣なものへと変わった。「なぜなら、カイ様が私を信用してくださっているからです」


レアは彼の目をじっと見つめた。「検分して、貴方も彼を信用している、と?」


ネロは即座に答えた。「ええ」


その返答のあまりの迷いのなさに、数人の審問官たちが思わず息を呑んだ。そこには一瞬の躊躇も、政治的な計算も、恐怖すらも存在しなかった。あるのはただ、絶対的な確信。


ネロはカイの方を向いた。「私には、彼を裏切る理由など何一つありませんから」


カイがニヤリと笑った。「ほらな?」


レアは応じなかったが、手帳に文字を素早く書き残した。


――『ネロはカイに対して、本物の忠誠を誓っている。彼の滞在記録および外部との接触のなさは、塔の訓練記録によって完全に裏付けられている』。


-


 二番目の容疑者


 異端審問官たちの調査はそのまま続けられた。彼らの次の目的地は五十階層。


 ――エルヴァ。


 その製造階層はあまりに広大だった。広間を無数の機械が埋め尽くし、生産ラインに沿って魔法の結晶が次々と流れていく。金属が成形され、武器が鍛造され、鎧が組み立てられていた。フロア全体が、まるで一つの生きている巨大な機械であるかのような轟音を響かせている。


 そのすべての中心にエルヴァは佇んでいた。優美な漆黒のドレスを纏った彼女の元へ、数人の労働者たちが報告書を手に歩み寄る。彼女はその一つ一つに耳を傾け、修正を指示し、生産を承認していった。


 そこでようやく、彼女はカイの存在に気づいた。「カイ様」


「よぉ」


 エルヴァは審問官たちに視線を向けた。「……お客様ですか?」


「調査員だ」


 エルヴァの表情は冷静なままだった。「教会、の?」


カイが頷く。「そうだぞ」


彼女はレアを見つめた。「何をお知りになりたいのかしら?」


レアは手元の生産台帳を確認した。「貴方の記録によれば、事件の四日前、貴方が東方への輸送物資を監督していたことになっていますね」


エルヴァは頷いた。「出発を承認したのは私よ」


「その積荷の内容は?」


「食料、金属、医薬品、そして交換用の精密部品ね」


「その中に、聖なる結晶が含まれていた可能性は?」


「ないわ」


「出発した後に、貴方がルートを変更したことは?」


「ないわね」


「国境の検問所と通信を行いましたか?」


「標準的な交易通知を送っただけよ」


「教会の物資がその検問所を通過する事実は知っていましたか?」


「ええ、共通の交易ルート(共有ルート)だからね」


レアは彼女をじっと見つめた。「物資の中に、密かに聖遺物を隠し通すことは可能でしたか?」


エルヴァはフッと微笑んだ。「私がそれを望んだのなら、可能だったでしょうね」


遺物の専門家であるオーレンの表情が険しくなる。


エルヴァは言葉を重ねた。「だからといって、私がそれをやったという意味にはならないわ。貨物は出発時に厳重に検査されているし、検問所に到着した際にも重量が再度記録されているのだから」


-


 法医学錬金術師のトマス・リードが、周囲の機械類を注視していた。彼はあることに気づいた。「貴方たちの製造システムは、極めて異質なエネルギー源を使用しているようですね」


エルヴァが彼を見た。「創世の魔力(創世エネルギー)よ」


トマスは眉をひそめた。「それは一体?」


エルヴァは一瞬の間を置き、それから意味深に微笑んだ。「貴方たちが首を突っ込む必要のないもの、とだけ言っておくわ」


トマスは手帳に何かを書き留めた。レアはそれに気づいたが、敢えて口は挟まなかった。


エルヴァは近くの結晶処理ラインを指し示した。「ですが、これだけは教えてあげるわ。その聖域で汚染されたという結晶はね、私たちの生産波形(シグネチャー)とは全く一致しないのよ」


レアが顔を上げた。「ここからでもそれが分かると言うのですか?」


「いいえ。教会が提示した『解説』からよ」


「どういう意味ですか?」


「貴方たちの報告書には、汚染が『核(コア)から外側へ向かって広がった』とあるわ。けれど、私たちの結晶は『外側から内側へ向かって』魔力を安定化させるの。もし私たちの製品が破損(暴走)したのだとしたら、そのひび割れの型(破断パターン)は全く異なるものになるはずよ」


審問官たちは驚愕のあまり顔を見合わせた。


エルヴァは続けた。「それに、報告書にある魔力の残滓の描写は、製造過程で生じる不純物(コンタミ)なんかじゃないわね。あれはどちらかと言えば……『命令の刻印』の性質に近いわ」


レアの視線が鋭くなる。「命令の刻印?」


「何者かがその結晶に対して、直接『変質しろ』と命令を下したのよ」


「それを誰が発したのか、特定することはできますか?」


「いいえ。でも、それが製造された後に、その結晶へ直接アクセスできる権限を持った者でなければ不可能な芸ないね」


オーレンが彼女を見た。「神官自身がやった、という可能性は?」


「充分にあるわね。もし彼が正しいアクセス権限(認証コード)を持っていたのだとしたら」


レアはそれを素早く書き留めた。調査は続行された。エルヴァを教会の事件に結びつける証拠は何一つ出なかったが、彼女の技術的な解説は、今回の汚染が明確な意志を持って「仕組まれた」ものであるという最初の具体的な確証を彼らに与えることとなった。


-


 三番目の容疑者


 次に尋問が行われたのはセナだった。彼女はアステリア国内にいたため、審問官たちは直接出向く代わりに、通信結晶を用いた。


結晶が放つ光の投影の中に、セナの姿が浮かび上がる。彼女は執務机の前に座っており、卓上は膨大な報告書で埋め尽くされていた。


レアが自己紹介をすると、セナは静かに耳を傾け、やがて頷いた。「……続けてちょうだい」


レアは東方国境の記録を開いた。「貴方の部署は、エリュシオン教区からの輸送物資が、教会の物資と同じ検問所を通過する過程を追跡していますね」


セナの目がすっと細められた。「あの輸送物資は、ただの標準的な交易貨物よ」


「なぜそう言い切れるのですか?」


「この地域に出入りするすべての物流を、私が網羅的に追跡しているからよ」


「エリュシオン教区の何者かが、貴方の記録に一切残らない方法でそのルートを利用した可能性は?」


「ないわね」


「記録が改ざんされた可能性は?」


「検問所の『複製封印(バックアップ・シール)』が作動してしまうわ。私に気づかれずにそんな真似はできない」


ラスクが通信結晶へと身を乗り出した。「ならば、なぜ輸送ルートが変更されたんだ?」


セナは手元の報告書に目をやった。「出発した後に変更されたわけじゃないわ。最初の通知書(マニフェスト)の記入に誤りがあり、それが後から訂正されたのよ」


「その訂正を行ったのは誰だ?」


「検問所の書記官よ」


「名前は分かりますか?」


セナは机から一枚の書類を引き抜いた。「――ジョラン・ペル」


-


ラスクはレアと視線を交わした。「そのジョラン・ペルは、教会の物資が到着した時、その場に居合わせていたのか?」


セナの表情が険しくなる。「検問所の業務日誌によれば、確かにその場にいたわね」


「業務日誌によれば、ということは?」


「彼はその二日後に、忽然と姿を消したのよ」


室内に、重苦しい静寂が降りた。


レアが身を乗り出す。「……失踪した、と?」


「宿舎はもぬけの殻。彼の公式印だけが残されていたわ。死体は見つかっていない」


「なぜその事実が、我々への報告書に含まれていなかったのですか?」


「検問所の指揮官が、ただの『脱走(敵前逃亡)』として処理してしまったからよ」


セナはレアを真っ直ぐに見つめた。「けれど、このタイミングはあまりにも不自然(サスピシャス)だわ」


レアは猛烈な勢いで文字を書き留めた。「ジョラン・ペルは、物資の記録へのアクセス権を持っていましたか?」


「ええ」


「彼が独断で積荷を迂回させたり、すり替えたりすることは可能ですか?」


「単独では無理ね。それを実行するには『二番目の印章』が必要になるわ」


「誰の印章ですか?」


セナの目が鋭く細められた。「それこそ、貴方たちが調査(インベスト)すべき案件よ」


彼女は通信結晶を通じて、検問所の印章登録簿の写しを送信してきた。ある一つの項目が、上から黒々と掻き消されている。そしてその下には――一本の線が交差する、あの「割れた三日月」のような細く黒い紋様が浮かび上がっていた。


レアはその紋様を凝視した。「この、印は……」


セナがそのマークを見つめる。「私も、前に一度これを見たことがあるわ」


「どこでですか!?」


「東方国境で回収された、ある極秘の命令書の上よ」


「それを発したのは誰です?」


セナは首を振った。「署名は完全に消去されていたわ。ただ、その紋様だけが残されていたの」


レアの表情が、本格的に凍りついた。「……そのデータを、すべてこちらへ共有してください」


「すでに送ったわ」


そこで通信は切断された。立ち入り調査が始まって以来初めて、彼らは生きている具体的な「手がかり(リード)」を掴み取った。失踪した検問所の書記官、偽装された二番目の印章。そして、教会の公式な許可証の裏側にも現れていた、あの不気味な黒い紋様。


-


 四番目の容疑者


 ヴァドスはエリュシオン教区にはいなかった。彼はアステリア国内に滞留していた。しかし、審問官たちが別の通信結晶を介してようやく彼に接触した時、彼らは全く予想だにしない事実を突きつけられることとなる。


投影されたヴァドスは、どこかの酒場に腰掛けていた。目の前にはグラスが置かれている。彼は通信結晶を見つめ、それから審問官たちを眺め、再び結晶へと視線を戻した。「……私を調査していると?」


レアが頷いた。「そうだ」


ヴァドスは深くため息をついた。「これだから人間というのは……」


一人の審問官が不快そうに眉をひそめた。「何か不満でも?」


「いや」ヴァドスはグラスを手に取った。「ただ、滑稽だと思っただけさ」


「何がだ?」


「私は貴方たちの聖域の近くには、これっぽっちも近づいていないからね」


レアが尋ねた。「事件が起きる前の四日間、貴方はどこで何をしていた?」


「アステリアだ」


「何のためにだ?」


「アルドレン国王の手助けをしていたのさ」


レアの手が止まる。「……アルドレン国王だと?」


「そうだ」


数人の調査員たちが、思わず顔を見合わせた。


ヴァドスは平然と酒を煽り続けた。「王に直接聞いてみるといい」


レアはそれを書き留めた。「ええ、そうさせてもらうわ」


ヴァドスがニヤリと笑った。「結構だ」彼は通信結晶へと顔を近づけた。「他に何かあるかね?」


-


レアは彼をじっと見つめた。「――『黒い三日月の印章』を使っている者を見かけなかったか?」


ヴァドスが杯を口に運ぶ手を止めた。この尋問が始まって以来初めて、彼の表情に明らかな変化が生じる。「……それを、どこで聞いた?」


レアはその動揺を瞬時に見ぬいた。「質問に答えなさい」


ヴァドスはグラスを机に置いた。「三日前、アステリア国内でその印を身につけた伝令兵を見かけた」


「なぜ、それを報告しなかった?」


「今回の件に繋がっているなどとは、露ほども知らなかったからね」


「その伝令兵の特徴は?」


「人間だ。灰色のマントを纏い、左手には大きな火傷の痕(ケロイド)があった」


「そいつはどこへ向かった?」


「古い川沿いの街道(旧河道)の方角だ」


レアはガレスと視線を交わした。「そいつの身元を特定できますか?」


「名前までは分からん」


ヴァドスはさらに身を乗り出した。「だが、あの印章ははっきりと覚えている。中央で真っ二つに割れていた。まるで、誰かが無理やりそれを掻き消そうとしたかのようにね」


レアはすべての詳細を猛烈な勢いで書き写した。


ヴァドスは再びグラスを持ち上げた。「では、私は仕事(晩酌)に戻らせてもらうよ」


そこで通信は切断された。


レアは何も映らなくなった結晶を見つめた。


ガレスが自分の手帳に目を落とした。「こちらが誘導する前に、向こうから自発的に具体的な詳細(ディテール)を口にしたのは、これが初めてですね」


レアが頷いた obedient。「ええ。そして、教会の記録以外でその紋様の存在を裏付ける、最初の目撃証言よ」


-


 クロエ


 初期容疑者リストの最後に記されていたのはクロエだった。審問官たちは彼女を医療区の区画内で見つけた。彼女は負傷した一人の冒険者の治療に当たっているところだった。すぐ近くでは、腕に包帯を巻かれた子供が椅子に腰掛けている。


クロエは治癒魔術を施し終えた。「……よし、これで大丈夫よ」


子供が満面の笑みを浮かべた。「ありがとう、お姉ちゃん!」


クロエは優しく頷いた。「もう怪我をしちゃダメよ」


「うん!」


子供は元気よく走り去っていった。


クロエが振り返ると、そこにカイの姿があった。「カイ様」


「よぉ、クロエ」


カイは背後の使節団を顎で示した。「こいつらは例の教会の事件を調べてる調査員だ」


クロエは彼らに視線を向けた。「承知いたしました」


レアが一歩前に出た。「手短に済ませます」


クロエが頷く。「ええ、そうして頂戴」


レアは最後の報告書に目をやった。「貴方の医療記録によれば、事件のあった夜、貴方はこの医療区で絶え間なく患者の治療に当たっていたことになっていますね」


「その通りよ」


「貴方の許可を得て、この医療区から外部へ出た者はいますか?」


「いないわ」


「教会からの情報開示の要現は受けましたか?」


「いいえ」


「聖なる遺物や、あの結晶に触れたことは?」


「ないわね」


「あの夜、塔の内部で何か不審な点に気づきませんでしたか?」


クロエは一瞬、言葉を止めた。「――ええ、気づいたわ」


-


レアのペンがピタリと止まった。「何に気づいたのですか?」


「訪問者の登録簿に一切名前が残っていない何者かが、この医療区を通過していったのよ」


「それは誰ですか!?」


「顔は見ていないわ」


「ではなぜ、そこに誰かがいたと分かるのです?」


クロエは回廊の奥へと視線を向けた。「患者たちが不気味な反応を示したの。三人の患者が全く同時に目を覚ましたわ。けれど、誰一人としてなぜ目が覚めたのか、その理由を覚えていなかった」


「その不審者の姿を、目撃した者はいないのですか?」


「私は、その者の『影』だけを見たわ」


「その特徴を教えてください」


「人間の形をしていたけれど……左腕が、右腕よりも異様に長かったわ」


審問官たちは、一様に不気味なものを感じて顔を見合わせた。


「他に、何か気づいたことは?」


「匂い(異臭)が残っていたわ」


「どのような匂いですか?」


「紙が焦げたような臭いと、錆びた鉄の臭いよ」


 線上の追跡


 レアは書類を受け取った。「何者かがエリュシオンの輸送物資を利用して、検問所に正規の足跡(トレイル)を構築したのね」


 ガレスが頷いた。「そして、ジョラン・ペルの公式印を悪用して別の何かを承認した」


「あるいは、彼に無理やりやらせたかだな」ラスクが言った。


 レアは東方の地図へと視線を向けた。物資の輸送ルート、教会の物資、そして伝令兵の最後の目撃方角。それらが一本の線となって繋がっていた。その終着点は、古い川沿いの街道(旧河道)。彼女はその場所に印を付けた。「――次に向かうのは、ここよ」


 証拠はもはやカイの配下たちを指し示してはいなかった。彼らを完璧な隠れみの(カバー)として利用した、ある大規模な作戦の存在を暴き出していた。


 レアはそっと目を閉じた。「この裏に、誰かがいる」


 ガレスが彼女を見た。「そう思われますか?」


「思っているんじゃないわ」彼女は目を開けた。「確信しているのよ」彼女は地図を睨み据えた。「そして今、私たちには捜索すべき場所があるわ」


-


 監視者


 遥か離れた場所、薄暗い部屋の中に一つの影が佇んでいた。その周囲には、何枚もの書類が奇妙に浮遊している。審問官たちの報告書、教会の報告書、エリュシオン教区の記録。あらゆる情報が、網羅的に監視されていた。


 影は最新の報告書へと目をやった。――『割れた三日月が特定された』。


 口元に、微かな笑みが浮かび上がる。「予想よりも、早かったな」


 別の書類が浮き上がってきた。――『審問官たちは東方のルートを追跡中』。


 影の笑みが深まる。「追わせるがいい」


 三枚目の書類が現れた。――『失踪した書記官の居場所が判明する可能性あり』。


 影がそのページに触れると、インクがじわじわと滲み始めた。「あの足跡は、十分に役割を果たした」


 計画は失敗などしていなかった。むしろ順調に進行している。審問官たちは追跡を続行するに足る証拠を掴んだが、真実を理解するには到底及んでいない。彼らはあの紋様を追わねばならない。あの伝令兵を見つけ出さねばならない。そして最終的には、越えてはならない一線を越える必要があるのだ。


 影は最後の一枚の書類に触れた。そこには、ただ一行の文だけが記されていた。


 『奴らに、再び問いを抱かせよ』


 書類が音もなく燃え上がり、部屋は再び濃密な暗闇へと戻っていった。


-


 一線


 その日の夕方、レアはカイの元へと戻った。彼はエントランスホールの近くに立っており、その隣にはユイが控えている。


 レアが歩み寄った。「魔王カイ殿」


 カイが振り返る。「調査の進み具合はどうだ?」


 レアは一瞬躊躇した。「……繋がりが見つかりました」


 カイが片方の眉を上げた。「俺の仲間に、か?」


「直接ではありません」彼女は複製した印章のスケッチを提示した。「何者かが、教会の許可証と東方の検問所の双方で、この『割れた三日月』の紋様を使用していました」


 カイはそれを覗き込んだ。「お前はこれを見たことがあるか?」


「いいえ」


 ユイがそのマークを見つめた。その表情が、肉眼では捉えきれないほど僅かに変化する。


 カイはそれに気づいた。「ユイ?」


 彼女は紙へと手を伸ばしかけ、触れる直前で手を止めた。「……この紋様、インクによるものではありませんね」


 レアの身体が強張った。「何ですって?」


「純粋な『圧力の痕(刻印)』です」


 ユイは上層階層の方角を見上げた。「これは……向こう側から刻まれています」


 カイの表情が真剣なものに変わる。「向こう側って、何の向こう側だ?」


 ユイはすぐには答えなかった。「――この塔の結界、です」


 レアが彼女を凝視した。「何者かが塔の防衛網を通り越して、書類に印を刻んだというのですか!?」


「正確には違います」ユイが言った。「印は結界を通過したのです。書類は単に、その印が物理的に視覚化された(浮き上がった)場所に過ぎません」


 カイが天井を見上げた。「追跡はできるか?」


 ユイが静かに目を閉じた。その瞬間、エントランスホールの明かりが一瞬だけ激しく明滅した。「……いいえ」彼女の声は、先ほどよりも遥かに静かだった。「ですが、これだけは断言できます」彼女は目を開けた。「――これは、外側から侵入したものではありません」


 レアの顔が引きつった。「なら……塔の内側から発生したということ?」


 カイは彼女を見た。「なぜそんな真似をして、教会とエリュシオン教区を戦わせたがる奴がいるんだ?」


 レアは答えることができなかった。


 数秒の間、三人は静黙の中で立ち尽くしていた。やがてカイが視線を逸らす。「何が起きてるにせよ……」彼の目が鋭く細められた。「何者かが俺たちを、互いに犯人だと思い込ませようとしてる(嵌めようとしてる)のだけは確かだな」


 レアの表情が変わった。カイが自らの口から、その「可能性」を明確に指摘したのは、これが初めてのことだった。


-


 しかし、彼女が応じるよりも早く、一人の伝令兵がホールを猛烈な勢いで駆け込んできた。「キャプテン!」


 レアが振り返る。「何があったの!?」


 伝令兵は肩で激しく息をしていた。「『黎明の聖域』、です……!」


レアの表情が一変する。「聖域がどうしたの!」


「封印された結晶が……」彼は生唾を飲み込んだ。「……またしても、変質を始めました!」


静寂。


レアは即座に審問官たちの方を振り返った。「全員、ただちにラオディキアへ帰還するわよ!」


カイは彼らが慌ただしく去っていく姿をじっと見つめていた。立ち入り調査はまだ始まったばかりだ。それなのに、敵はすでに、次の手を完璧に打ってきていた。


TO BE CONTINUED...

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