第94話:再建された街
あの破滅的なオークの大侵略から、早くも3ヶ月という月日が流れていた。
戦争そのものは一瞬にして終わりを迎えたが、その後に残された傷跡は、そう簡単には消え去らなかった。
オークの精鋭軍勢によって無残に蹂躙された人間の三つの大都市は、開戦当初、文字通りの廃墟と化していた。民家は瓦礫の山へと変わり、強固な街道はズタズタに引き裂かれ、中央市場は黒焦げになり、広大な居住区全体が破壊の炎の下へと完全に消滅していたのだから。
しかし――何千、何万という生命が全く同じ一つの目標に向かって牙を剥く時、3ヶ月という時間は途方もなく長かった。
灰燼に帰した都市群は、今や驚異的なスピードで再び大地へと立ち上がりつつあった。そして、その復興作業の最前線で誰よりも汗を流し、泥にまみれて働いていたのは――他ならぬ、かつてこの街を滅ぼしたオークの残党どもだった。
彼らはあの地獄の戦場を生き延びた。新世代の魔王カイは、生存個体たちをただのゴミのように『処刑(皆殺し)』にする道を選ばなかった。代わりに、彼は奴ら一頭一頭に新たなる『真名(名前)』を授けたのだ。
そのたった一つの不條理な命名というシステムが、彼らの関係性を根底から書き換えてしまった。
奴らはもはや、戦争に負けて命だけを救われただけの「名もなき敗残兵(モブの群れ)」ではなかった。自らの意志を持つ一人の『個』であり、固有の名前を持ち、果たすべき絶対の責任を与えられたのだ。そして何より――彼らは魔王から、絶望の淵でもう一度やり直すための『二度目のチャンス』を無条件で与えられた。
オークたちは、自らの魂の底からカイを絶対の主として受け入れていた。それは、力ずくで恐怖を植え付けられたからではない。圧倒的な暴力で自分たちを捩じ伏せたはずの魔王が、いつでも自分たちを完全消滅させられたはずの絶対強者が――あえて命を救うという、最も慈悲深い合理的選択を下してくれたからだ。
彼らの絶対の忠誠心は、そのカイの決定から、大自然の木々のように極めてナチュラルに育まれていった。
今や奴らは、かつて自らの手で侵略し、蹂躙したはずの人間の民と肩を並べて働いている。
奇跡の都市再建は、今この瞬間も着実に進められていた。
◆◆◆
復興都市の街並みを、一人の小さな女の子が歩いていた。……いや、より正確に言うならば、彼女の足は一ミリも地面に触れてはいなかった。完全にホールドされて、運ばれていたのだ。
カイは、その小さな身体を片腕でこの上なく心地良さそうに抱き抱え、新しく再構築されたばかりの奇麗な居住区のストリートを気楽に歩陣を進めていた。
少女の名前はエミリア。あのオークの大戦争の直後、甘味処からずっと彼の後ろをトトトッと追いかけ回してきた、あの店主の愛娘だ。
あれから3ヶ月が経過したというのに、どういう因果律のバグなのか、彼女は未だにこの気怠げな白髪の魔王に付きまとうことを一切やめようとしなかった。
カイも、今更その不条理な謎を深く追求することを完全に放棄していた。現時点における彼の認識としては、ただ単に「どうやらエミリアの中で、『この白髪のおにぃちゃんは私の所有物』であるという絶対のシステムが構築されてしまったらしい」と、諦め交じりに受け入れているだけだった。
エミリアの小さな手には、小さなケーキの切れ端が握られていた。
彼女はそのお菓子を、カイの唇の前へとクイクイと突き出す。
「――はい、あーんして」
カイは膝の上の幼女をジト目で見つめ返した。
「おい。俺はこれでもな、自分の手で自らの口へ食べ物を運ぶだけの最低限の生活能力は有してるつもりなんだけど?」
エミリアはそんな魔王の正論を完全に無視し、さらにケーキを押し付けた。
「あーん」
カイは、はぁと重いため息をついた。
「……分かったよ、分かった」
彼が観念して口を小さく開けると、エミリアは最高に嬉しそうな満面の笑みを浮かべ、その口内へと優しくケーキを放り込んだ。
カイがモグモグと咀嚼するのを、彼女はドヤ顔で見守る。
「おいしい?」
カイは渋々といった様子で頷いてみせた。「……ああ、無茶苦茶美味いよ」
すると次の瞬間、彼女は間髪入れずに皿から『二切れ目のケーキ』をフォークで突き刺した。
カイの表情がカチリとフリーズする。「――待て、ちょっと待て」
幼女は一切の容赦なく、再びそれを突き出してきた。「はい、あーん」
「お前、ガチでこの『魔王給仕タスク(アクティビティ)』に命懸けてるな?」
エミリアは最高に大真面目な顔で、コクコクと激しく首を縦に振った。「うん、大真面目だよ!」
カイは、今日何度目か分からないため息を吐き出した。「――はいはい、分かりましたよ」
彼が再び口を開けると、エミリアは至福の表情で二口目のケーキを彼の口へとデリバリーした。
◆◆◆
新しく舗装された街道を行き交う人間の民たちは、そんな二人の不条理な光景を目にする度に、思わずフッと目元を和らげて微笑ましそうに視線を送っていた。
あの絶対不可侵の領域『エリュシオン・オーダー』の絶対支配者。あの天災のごときオークキングを一撃で直葬した最強の魔王。あの『漆黒の竜の翼を6枚(あるいは12枚)生やして世界を滅ぼす』と噂されている、正体不明の化け物。――そんな男が、昼下がりのストリートをのんびりと散歩しながら、人間の小さな子供に「あーん」でケーキを食べさせられているのだ。
数ヶ月前、絶望の悲鳴を上げていた難民たちの誰が、こんな最高にラフな戦後処理(日常)を予測できただろうか。
カイは歩きながら、周囲の景色をなんとなく見回した。
街の様子は、3ヶ月前とは比較にならないほど劇的に変貌を遂げていた。主要道路は完璧に自己修復の石材で舗装し直され、半壊していた大型建築物は綺麗にリペアされ、完全に灰燼に帰していた一角には、以前よりも遥かに頑丈で見栄えの良い新しい家々がズラリと建ち並んでいる。
避難していた商人たちが次々と市場へと舞い戻り、 shops(商店)のシャッターが活気よく叩き開けられ、ストリートには子供たちの無邪気な笑い声と足音が再び響き渡っていた。
そしてその雑踏の中で、オークたちが人間に混じって当然のように働いている。
ある者は巨大な石材を両肩に担いで建築現場へと往復し、ある者は崩落しかけた壁を器用に修復し、ある者は都市外縁の大森林で木材の伐採に従事し、またある者は人間の熟練職人の真横で、その怪力を活かして忠実な助手としてハンマーを振るっていた。
カイはしばらくの間、その不条理ながらも美しい共生の光景を、静かに眺めていた。
……奇妙なものだ、と彼は思う。
わずか3ヶ月前まで、この地面は血と硝煙に塗れた地獄の『戦場』だったのだ。それが今や、何の変哲もない、ただの愛おしい『日常のデータ』へと巻き戻されつつある。
そして、カイはその有様が、個人的に決して嫌いではなかった。
自らの支配権の元にあるすべての場所が、血生臭い鉄血の要塞や軍事基地のようである必要など、どこにもない。人間にも魔物にも、ただ衣食住を謳歌し、何の不安もなく「普通に生活できる場所」が絶対に不可欠なのだから。
彼がさらに歩陣を進めると、再建中の城壁の頂部で作業をしていた数頭のオークたちが、彼の白髪のシルエットへと気づいた。
奴らは一瞬にして作業の手を止め、直立不動の姿勢を取って胸に拳を当てた。
「――魔王、カイ様!!」
カイは空いている方の片手を、ひらひらと気楽に挙げた。「よお、お前ら。朝早くからご苦労さん」
オークたちは恭しく、その醜悪な頭を深く垂れる。
「はっ! おはようございます、我が主よ!」
カイはふっと口元を緩めた。「復興の進捗はどんな感じだ?」
一頭のオークが、誇らしげに自らが組み上げた新しい建造物群を見やった。
「はっ、極めて順調にございます!」
別のオークも、その分厚い胸を張って補足を加える。
「すでに、最も被害の甚大であった『東部居住区』の割り当てエリアに関しては、その大半の基礎構造の再建を完全完了いたしました!」
カイはその素晴らしい手際を視線でなぞり、深く感心したように顎を引いた。
「へえ、素晴らしいな。お前ら、思ってた以上に仕事のスピードが神速じゃねえか」
褒められたオークの兵卒は、まるで極上の真名を与えられた時のように嬉しそうにその醜悪な顔を綻ばせた。
「……我らは、あの戦場で『二度目の命』を授かった身にございます。我が王の信頼に応えるためならば、これしきの労働、何ほどのこともありません」
カイはその言葉を聞き、ほんの一瞬だけ、その瞳の奥の覇気を静かに沈めた。
彼は目の前の忠実なオークを見つめ、それから急速に活気を取り戻していく広大な都市の青空を見上げた。
「――そうか。なら、その二度目のチャンス……絶対に無駄にするんじゃねえぞ」
オークは魂の芯まで震わせるように、より深く平伏した。「――はっ。万に一つも、無駄にはいたしません!」
カイは短く頷いた。「よし、上出来だ。作業を続けろ」
彼が再び歩き出そうとしたその時、腕の中の小さな女の子が、クイクイと彼の衣服の裾を引っ張った。
「ねぇねぇ、カイ」
カイは視線を落とし、首を傾げる。「ん? どうした、エミリア?」
セナ(Senna)の戦略報告と東の不穏な影
エミリアは、何事もなかったかのように『三切れ目のケーキ』をフォークで突き刺し、再び彼の目の前へと差し出してきた。
カイはそのお菓子をジト目で凝視した。「……お前、本当にこれっぽっちも諦めるって言葉を知らねえな」
エミリアは満面の笑みを浮かべる。「あーん」
カイは、はぁと今日何度目か分からないため息を吐き出した。「……はいはい、分かりましたよ」
彼が観念して再び口を開けると、エミリアは至福の表情でその口内へとケーキを放り込んだ。
◆◆◆
カイはそのまま歩陣を進め、新しく再構築されたばかりの一際巨大な建造物の前で足を止めた。
そこは開戦前、人間の都市における中央行政庁舎だった場所だ。今では、この都市全体の復興を統括する臨時の『中央統治オフィス』としての機能を果たしている。
カイは腕の中のエミリアの重さを感じながら、ゆっくりと見上げた。
屋根部分の木組みや石材の結合プロセスは、すでに九割方完成している。彼はその素晴らしい手際に対し、満足げに小さく顎を引いた。
その時、彼の真後ろから、一切の気配を殺した極めて静かな、しかし凛とした足音が近づいてきた。
「――魔王カイ様」
カイが振り返ると、そこには白銀と漆黒の最高幹部軍服を完璧に着こなした四天王の一角、第40階層の絶対管理者『セナ(Senna)』が直立していた。
彼女はカイの数メートル手前でピタリと足を止め、至高の臣下として深く、恭しく頭を垂れる。
カイは気楽に応じた。「よお、セナ。こんな前線のオフィスにわざわざ来るなんて、何かあったのか?」
セナはゆっくりと顔を上げた。その妖艶な双眸には、いつもの余裕は一切なく、極めて冷徹な覇気が据わっている。
「はっ。我が王に、大至急お耳に入れておかねばならない極秘の『戦略データ(レポート)』が入りました」
カイは腕の中のエミリアの身体を少しだけ抱き直した。「いいぞ、続けろ。一体何の報告だ?」
セナの表情が、一段と重苦しく引き締まる。
「――これまで、我が配下の隠密部隊を用いて、あの『オークの軍勢』に関する戦後処理および物資のルート精査を独自に行っておりました」
カイは無言で先を促す。
「奴らが開戦当初に装備していた武器、防具、そしてあの巨大な魔導攻城兵器の数々……。それらの製造技術およびマテリアルの構成数式が、あまりにも『不自然』だったのです」
カイは片方の眉をピクリと跳ね上げた。「不自然、だと?」
「ええ」セナは重々しく首を縦に振った。「あれほどの超高度な魔法付与が施された大量の軍事物資は、あの知性の低いオークという種族のテクノロジーだけでは、万に一つも『製造不可能』な代物でした。奴らの軍事力は、その生態系の限界を遥かに超越していたのです」
カイの瞳の奥の覇気が、不気味にすっと冷たく凝固していく。
「……つまり、奴らの背後に、その物資を無条件で横流ししていた『供給元』が別個に存在していた、と?」
「その通りにございます」セナは冷酷に肯定した。「私は奴らが西側諸国へ侵略を開始する直前の、数ヶ月間の広域移動ルートおよび隠密通信ログを徹底的にハッキングいたしました。――その結果、開戦直前、あのオークキングの元へと直接接触を図っていた『ある一つの影』の存在を突き止めたのです」
カイの双眸が、不気味に鋭く細められた。「……接触した影?」
「はっ」
「一体、何のためにだ?」
「――オークキングを言葉巧みに唆し、人間の西側諸国に対する『全面的な侵略戦争』を意図的に引き起こさせるため、にございます」
◆◆◆
さっきまで復興都市を包んでいた昼下がりの温かな平穏が、一瞬にして潮が引くように冷たく凍りついていく。
カイはセナの真後ろを通り過ぎ、いまも健気な怪力を使って破壊された壁を修復し続けているオークの兵卒たちの姿へと、冷徹な視線を射抜いた。
「……そのデータの『確実性』はどれほどだ?」
セナは手にした魔導報告書を、白い指先で血がにじむほど強く握りしめた。
「我が王が『懸念』を抱くには十分すぎるほどの因果データです。――ただし、その黒幕の『個人名(真名)』を現時点で特定するに足るだけの決定的な数式(証拠)には、未だ至っておりません」
「直接命令が下されたという、絶対の物証( proof )はないってわけか」
「はい。残されているのは、間接的な通信ログ、偽装された物資の流通ルート、そして幾重にも構築されたダミーの仲介業者を経由した、膨大な『資金移動の履歴』のみにございます」
カイの眼差しが、世界の理を射抜くかのように鋭さを増していく。
「なるほどな……。つまり、その黒幕の組織は、ただの傍観者としてこの大戦争を楽しんでいたわけじゃないってことだ」
「ええ。奴らはこの凄惨な侵略劇の舞台を、自らの手で『意図的に構築した』のだと推測されます」
セナは周囲の人間に聞こえないよう、その声音のボリュームを極限まで落とした。
「――オークの軍勢は、西側の絶対防衛線を内側から食い破るための『使い捨ての牙(捨て駒)』に過ぎなかったのです。もしも人間の三つの大都市が完全に陥落し、西側諸国が全滅の危機に瀕していたならば……その黒幕は、人間の『救世主』のような面落をして堂々と西側領土へと進軍し……あるいは、オークがやり残した蹂躙をそのまま完遂し、この領土丸ごとを合法的に完全支配するつもりだったのでしょう」
カイは再び、活気を取り戻しつつあるストリートを見つめた。
「……つまり、あのオークどももまた、ただの操り人形として利用されていたに過ぎない、と」
「……その確率が、極めて高いかと」
その時、一人の人間の小さな子供が、無邪気な笑い声を響かせながら二人の真横を元気いっぱいに駆け抜けていった。その背後では、一頭の巨大なオークが、子供の邪魔にならないよう細心の注意を払いながら、巨大な木材の梁を両肩に担いで街道を横切っていく。
カイはその両者のシルエットを、静かにその瞳に映し出していた。
街は確かに、力強く生き返りつつある。しかし――その奇跡の平穏の足元が、どれほど薄氷の不条理の上に成り立っているのかを、彼は今、冷酷に突きつけられていた。
オークキングは、自らの『領土』を求めた。
その強欲に目をつけた黒幕は、奴らに莫大なお楽しみ(資源・装備)を供給し、背中を押した。
結果としてオークは西側を蹂躙し、人間の王国は多大な兵力、物資、そして戦うための信頼(精神力)を磨り潰す泥沼の戦いへと引きずり込まれた。
そして――その最悪の因果を裏で仕組んだ何者かは、ただ安全な高みの見物席で、この西側領土全体が限界まで『衰弱する瞬間』を、今か今かと待ち構えていたのだ。
カイの声音から、完全にすべての感情が削ぎ落とされた。
「……その最悪のシナリオをプランニングした、首謀者の組織の名前は?」
セナは苦渋に満ちた表情で、重々しく首を横に振った。
「……誠に申し訳ございません。現状、その個人(個体)に繋がる明確なリード(手がかり)は、霧の向こうにございます」
彼女は至高の臣下として、悔しそうに微かに視線を落とした。
カイは数秒の間、深海のような完全な沈黙を保った。
――やがて。彼の脳内のシステムに、一つの不吉な文字列が電撃のようにパチリとフラッシュバックした。
「……セナ。その、物資の供給元である『東の組織(帝国)』ってのは――」
カイは冷徹な眼差しを彼女へと戻した。
「――まさか、あの『ナオ・シミズ(Nao Shimizu)』という女が最高統治者として君臨している、あの軍事帝国(シミズ帝国)のことか?」
セナは弾かれたように顔を上げ、深く、力強く頷いた。
「――はっ。その通りにございます、魔王カイ様」
カイの表情が、一瞬にして完全な冷酷のそれへと変貌を遂げた。彼は無言で視線を逸らし、地平線の彼方へとその意識を射抜く。
◆◆◆
――ナオ・シミズ。
かつて、あの忌々しき『記憶の監獄』の内部において、彼女は二つの巨大な絶対帝国を一人で統べる、傲慢なる絶対女帝だった。
他者の固有能力を無限に自らのものへと上書きする、既存の理をあざ笑うチート特性――『完全模写』。
彼女はその全能の暴力の矛先を、他ならぬ『ホライズンクレスト(Horizoncrest)』へと容赦なく向けたのだ。
あの場所は――カイが自らの手で一から編み上げ、築き上げた絶対の国家。
命を賭して守り抜くと誓った、愛おしい民たちが暮らす場所。
そして彼が、かつて自らの唯一の『我が家』であると定義していた、聖域。
ナオ・シミズという女は――その大切な場所を、跡形もなく完全に破壊し尽くした『大戦犯』そのものだった。
カイはその因果のデータを、一秒たりとも、忘れたことなどなかったのだ――。
現実世界の境界線、そして居座るもう一柱の魔王
――だが、ここはあの中々狂ったシミュレーションの内部などではない。厳然たる『現実世界』だ。
いくら『記憶の監獄』におけるナオ・シミズが世界滅亡級の大戦犯であったとしても、完全に異なる別次元のタイムラインで犯した罪を根拠に、この世界の彼女をただの感情論で直接断罪することなどできるはずがなかった。
それに、セナの命懸けのハッキング調査を以てしても、ナオ・シミズ『本人』がオークキングに直接宣戦布告のインフラを横流ししたという絶対の因果(証拠)までは突き止められていない。分かっているのはただ一つ、あの軍事帝国の最高幹部の誰かが裏で糸を引いていたということ。――現時点における確定データは、本当にそれだけだった。
カイは静かに思考を切り替え、平伏するセナへと冷徹な視線を戻した。
「……いいかセナ。引き続き、あの『東の帝国(シミズ帝国)』の動向を最優先で完全監視しておけ」
セナは絶対の忠誠を宿した瞳で顎を引いた。
「御意。もしも奴らが、我が不可侵領域へ向けて一ミリでも不穏な軍事パラメータ(動き)を検知した場合は――」
カイの双眸の奥の覇気が、不気味にすっと氷点下まで急降下する。
「――奴らがその一歩を踏み出す『前(プロセスの途中)』に、俺のデスクへそのデータを叩き込め。一瞬の遅れも許さんぞ」
セナは至高の支配者からの覇気に魂を震わせ、より深く、恭しく頭を垂れた。
「――我が偉大なる主、カイ様の仰せのままに(アンダースタンド)」
◆◆◆
彼女は静かに踵を返し、その場を立ち去ろうとした。――しかし、数歩も歩まぬうちに、何かのログを思い出したかのようにピタリと足を止めた。
「……我が王よ。大至急、もう一つだけお耳に入れておくべき『バグ(噂)』がございます」
カイは腕の中のエミリアの重さを感じながら、面倒くさそうに目をパチくりとさせた。「ん? 今度は何だ?」
セナが再び振り返る。その表情には、どこか呆れ交じりの困惑が浮かんでいた。
「……現在、地上の人間たちのネットワークにおいて、『我がエリュシオン・オーダーは、世界最強の最高組織である陰陽オーダー(Onmyo Order)に対して明確な宣戦布告(挑戦)を叩きつけるために結成された』という、あまりにも不条理な噂が急速に拡大しております」
カイは無言で彼女を凝視した。その端正な顔から、一瞬にして一切の感情表現が掻き消え、完全なる『無』の能面へと切り替わる。
――シーン。
復興オフィスの前を、不自然なまでの完全な静寂が包み込んだ。
膝の上のエミリアが、不思議そうにじーっとおにぃちゃんの横顔を見上げている。
カイはゆっくりと、まるで錆びついた機械のように瞬きをした。
「……おい。その不条理な妄想、一体いつの間に世界システムへ登録されたんだ?」
セナは返す言葉もなく、ただ静かに押し黙る。
カイは天を仰ぎ、はぁぁぁぁ、と今日一番のクソデカため息を吐き出しながら自らの額を右手で乱暴に押さえた。
「ブリッジ……ッ! どいつもこいつも、妄想のスペック盛りすぎだろ。ガチで勘弁してくれよ……」
その様子がツボに入ったのか、腕の中のエミリアがケラケラと楽しそうに小さな笑い声を上げた。
カイは顔から手を下ろし、底知れぬ呆れを声音に混ぜる。
「というかさ、地上の有象無象どもは、一体全体どういう思考回路(脳内バグ)を経由したらそんな物騒な結論に到達できるわけ?」
セナはただ、気の毒そうな視線を主に送るだけだった。
カイはさらに深いため息をつき、そこでふと、自らの記憶の底にある『ある一人の鬱陶しい男』の文字列をフラッシュバックさせた。
――カズヒコ・オノ(Kazuhiko Ono)。
かつて『記憶の監獄』の内部において、自分を陰陽オーダーの最高首脳会議へと無断で強制召喚しようとしてきた、あの最高に偏執的でめんどくさいタヌキオヤジの顔だ。
カイは不快そうに眉をひそめた。あの疑似世界におけるカズヒコ・オノは、ただただ鬱陶しいストーカーのような存在だったが――。
(……待てよ。ってことは、この現実世界におけるあのオヤジは、一体全体どんな凶悪なスペック(化け物)になってやがるんだ?)
彼は思考をそこでコンマ数秒フリーズさせ、そして大急ぎで激しく頭を横に振った。
(いや、やめろ。絶対になしだ。知るかそんなもん。万に一つも関わりたくねえわ)
彼はセナへと視線を戻し、気を取り直した。「……まあいい。とにかく、あの陰陽の化け物どもに関して何かしら新しいログ(動き)が入り次第、大至急俺に報告しろ」
セナは優雅に平伏した。「了解いたしました、魔王カイ様」
◆◆◆
彼女が今度こそその場を立ち去ろうとした、まさにその瞬間だった。
セナの真後ろの空間から、驚くほど艶やかで、しかし地上のすべてを見下ろすような絶対の重圧を孕んだ声音が響き渡った。
「――ククク。随分と楽しそうな『おままごと』の最中のようね、カイ」
セナの動きがカチリと止まった。
白い霧が弾けるようにストリートへと歩み出てきたのは、一人の絶世の美女。夜の闇を溶かし込んだような美しい黒髪に、世界の理を射抜くような鋭い双眸。その華奢な肉体から放たれる覇気の総量は、紛れもない最上位生命体『魔王』のそれだった。
――魔王、ニクセラ(Nyxera)。
セナはゆっくりと振り返り、その妖艶な唇に冷酷な笑みを浮かべた。
「……これはこれは。どこのどいつかと思えば、元・コードネーム『ナンバー5(No.5)』ではありませんか」
ニクセラの端正な美貌が、その禁忌の数字を耳にした瞬間、一瞬にして般若のごとく不快そうに引きつった。
「……誰に向かってその番号を口にしているのかしら、不愉快だわ。今の私の真名は『ニクセラ』よ」
彼女は胸の前で不機嫌そうに美しい腕を組み、冷酷に睨みつける。
「――その不敬な口を慎みなさい、元・『ナンバー1(No.1)』」
セナの唇の笑みが、さらに洗練された嗜虐のそれへと跳ね上がった。
「ククク。おあいにく様ですが、今の私の真名は『セナ(Senna)』にございます」
彼女は白銀のドレスコードの胸元へと優しく自らの白い手を当て、至高の優越感を瞳に宿して見下ろした。
「我が偉大なる主より賜りし、最高絶対の真名よ。あなたこそ、その醜悪な嫉妬を早くアップデート(消去)なされたらどうかしら、ナンバー5?」
バチバチバチバチ――!!!
二人の絶対者の視線が激突した空間において、肉眼で見えるほどのどす黒い魔力のスパークが激しく火花を散らした。数秒の間、世界が完全に静止したかのような錯覚がストリートを支配する。
やがて、セナはつまらなさそうにふっと笑みを崩した。
「……まあいいわ。私には、我が栄光なる主、カイ様のために果たすべき至高のタスク(職務)が山ほどありますからね」
彼女はニクセラをあざ笑うように一瞥し、釘を刺す。
「――いいこと、ナンバー5? 私のいない間、間違っても我が王の貴重なスイーツタイムを不条理に邪魔して、その機嫌を損ねるような無様だけは晒さないで頂戴ね」
ニクセラは怒りでその美しい双眸を限界まで鋭く細めた。「――今すぐそのふざけたツラを私の視界から消去(消え失せ)なさい」
セナは満足げにクスクスと爆笑を漏らした。「仰せのままに(アディオス)」
彼女は最後にカイへと向き直り、完璧な臣下の礼を取った。「それでは、カイ様。また後ほど」
カイは空いている方の片手をひらひらと振った。「おう、またな」
セナは次の瞬間、漆黒の外套をなびかせ、文字通り音もなく空間から完全に掻き消えていった。
◆◆◆
ニクセラは、セナが消え去ったストリートの虚空を忌々しそうに見つめ、それからゆっくりとカイへと視線を移した。
そして――彼の腕の中で、未だに幸せそうにモグモグとケーキを咀嚼している人間の小さな女の子のシルエットへと目を留めた。
ニクセラは、女の子を見つめ、カイを見つめ、そして再び女の子を見つめ――。
その至高の表情が、完全にエラーを起こした電子機器のように、一瞬にして一切の表現を失った『無』へとフリーズした。
「……カイ。私は未だに、自らの知性がこの目の前の現実を完全拒絶しているのを感じているわ」
彼女は側頭部を押さえながら、信じられないといった様子で声を絞り出す。
「――あなた、本当に私の『原初の兄弟姉妹』どもを四頭同時に召喚し……あろうことか、自らの忠実な『手駒(四天王)』に上書き(改造)してしまったのね?」
カイはあまりにも場違いな彼女の戦慄に対し、ハハッと気楽な爆笑を響かせた。「まあ、見ての通り完璧にオールグリーン(成功)だけどな」
ニクセラはセナが消え去った街道の先を再び睨みつけた。
「一体全体……どういう不条理な魔導数式を用いれば、あの世界の誕生と同時に産み落とされた絶対の悪魔の王たちを、四頭同時に強制エンゲージできるというのよ……っ!?」
カイは片方の肩を気楽にすくってみせた。「あー、そいつを説明し始めるとデータ容量が多すぎて長くなるからな」
ニクセラは不満そうに美しい眉を吊り上げる。「――つまり、私には一切の状況説明を拒否する、と?」
「そういうこと。ダメ(ノープラン)だ」
「……相変わらず、最高に生意気で不条理な男ね」
彼女ははぁと深いため息をついたが、カイはただ、いつもの気怠げな不敵の笑みをその唇に浮かべ返すだけだった。
その時、カイの腕の中でぷらぷらと小さな足を揺らしていたエミリアが、不意にその無邪気な瞳をニクセラへと向けた。
「ねぇねぇ、カイ。この『ちょっと怒った顔をしてるお姉ちゃん』だぁれ? おもしろい顔ー!」
ニクセラは唐突に放たれた幼女からのストレートな不敬データ(罵倒)に、パチリと大きく瞬きをした。
カイは腕の中のエミリアの顔を見つめ、必死に笑いを堪える。「ん? 何だって、エミリア?」
エミリアは無邪気にニクセラを指差した。「あのね、このお姉ちゃん、お顔がすっごくおもしろいの!」
ニクセラはゆっくりと、信じられないほどの殺気を帯びた眼差しをカイへとスライドさせた。
カイは内心の爆笑を物理的に封じ込めるため、空いている方の手で自らの口元を必死に覆い、肩をプルプルと激しく震わせている。
ニクセラは怒りでその美しい拳をぶるぶると震わせ、文字通り牙を剥いた。
「……カイ。笑ったら……万に一つでもその唇から笑い声を漏らしたら、今すぐこの都市の再建プロセスごと、あなたをこの世界から完全消滅させるわよ」
カイは手を口に当てたまま、必死に声を殺した。「……いや、俺は一言も、何一つのデータも発信してねえよ」
ニクセラはフンと不快そうに顔を背けた。そこで――彼女は再び、ある一つの決定的なアノマリー(バグ)に気づいた。
エミリアという人間の幼女は、この世界最強の魔王二柱が放つ、世界を軽く消滅させうるほどの凶悪な覇気の激突の真っ只中に直立していながら――恐怖のパラメータをただの一ミリも起動させることなく、この上なく快適そうにカイの腕の中に居座り続けているのだ。
ニクセラは再び、じーっとその小さな女の子を見つめ、それからカイを見つめた。
「……なるほどね。カイ、私はこれまで何千、何万年という星霜の中で、ありとあらゆる世界の化け物、列柱の魔王、そして原初の悪魔どもの生態データを精査してきたわ」
彼女は片方の美しい眉をピクリと跳ね上げ、皮肉交じりの恍惚とした笑みを浮かべる。
「――けれどね、『世界滅亡の天災』とまで噂されている新世代の魔王が、昼下がりのストリートで人間のガキの『専属の託児所』をサーブしている有様なんてデータは、世界の理のどこを探しても存在しなかったわよ?」
カイは腕の中のエミリアへと視線を落とした。彼女は完全に自分の世界に入り込んでおり、お皿に残った最後のケーキの切れ端をこれ以上ないほど幸せそうにモグモグと頬張っている。
彼は再びニクセラへと冷徹な、しかし最高にラフな視線を戻した。
「……別に、俺がやりたいからやってるんだ。文句あるか? 案外、このベビーシッターってタスクも、悪くないプランだぞ」
ニクセラは返す言葉を失い、ただ呆然と肩をすくめてみせた。
「――おにぃちゃん、カイ」
「ん? 今度は何だ、エミリア?」
幼女は、本当に何事もなかったかのように、お皿に残った『最後の小さなケーキ』をフォークできれいに突き刺すと、再び彼の唇の前へとクイクイと差し出してきた。
「はい、最後の一口! あーんして」
カイはそのお菓子を見つめ、ニクセラは「さあ、どうするのかしら?」と言わんばかりに最高に意地悪なジト目で魔王の動向をロック(凝視)した。
カイは、はぁと今日何度目か分からない特大のため息を吐き出した。
「……はいはい。分かりましたよ、お嬢様」
彼は観念して口を小さく開け、エミリアは満面の天使の笑みを浮かべて、その口内へと最後のご褒美を完璧にデリバリーした。
◆◆◆
魔王ニクセラは、その不条理極まる光景を、ただただ静かに、完全な無言で見守り続けていた。
世界誕生の黎明期から、血を血で洗う絶対強者たちの殺し合い(戦争)の歴史だけを直視してきた彼女にとって――目の前で展開されているこの最高にラフで、最高に温かな戦後処理(日常)は、既存のいかなる魔導書や聖典を以てしても解説不可能な、最大最高の『未知』そのものだった。
新世代の魔王、カイ。
その真の本質(正体)も、内なる限界戦闘出力の底も、未だ霧の向こうにあって誰の手によっても完璧に識別することのできない、絶対の怪物。
世界の誕生から存在するあの原初の悪魔たちを一瞬にして自らの忠実な『四天王』へと書き換えるほどの、測定不可能な次元の格の違い。あの破滅的なオークの侵略キャンペーンを、わずか一晩で完全終了せしめた世界の破壊者。
――そんな規格外の絶対神のごとき生命体が今、人間の小さな子供に「あーん」でケーキを食べさせられ、完全に手懐けられているのだ。
ニクセラは諦めたように、小さく首を横に振った。
「……ククク。本当に、この世界のシステムっていうのは、時として最高に『奇妙なバグ』を産み落とすのね」
カイは口の中の甘酸っぱいケーキのクリームを完全に飲み込み、不敵にニヤリと唇を吊り上げた。
「――お前、そんな至極当然の初期設定に、今更気づいたのか?」
エミリアは二人の会話の意味などこれっぽっちも理解していなかったが、ただただ楽しそうに「わーい!」と無邪気な大爆笑をストリートに響かせた。
彼らの周囲では、再建されつつある広大な都市の雑踏が、相変わらず力強い生命のビートを刻んで駆動し続けていた。
人間の民たちが汗を流してハンマーを振るい、商人たちが活気よくshopsのシャッターを開け、子供たちが路地を元気に駆け回り、オークたちがその怪力を使って忠実に巨大な石材を運び、高位の冒険者たちが背中に大剣を背負って当然のように街道を行き交う。
あの凄惨極まる地獄の大侵略戦争から、わずか3ヶ月。
破滅の灰に塗れた人間の三つの大都市は今、魔王カイという絶対の不條理がもたらした、この上なく不気味で、しかしこの上なく愛おしい『新たなる共生の秩序』の元で――確かに、美しく、力強く息を吹き返していたのだった――。
――しかし、この美しく再建されつつある平和なストリートの遙か彼方において、あの『東の帝国(シミズ帝国)』という存在は、もはや対岸の火事(遠い異国のデータ)などでは決してなかった。
奴らのインフラの深奥に潜む何者かが、あの狂暴なオークの軍勢に規格外の最高軍事装備を無条件で横流しし、言葉巧みにその背中を破滅の大戦争へと押し進め――この西側領土全体を、あわや地獄の最終決戦場へと変えようとしたのだ。
現時点におけるセナの潜入ハッキング調査のデータは、未だ不完全。その最悪のシナリオをプランニングした真の首謀者は、依然として深い霧の向こう側にハイドされたままだ。
もしも、あの絶対の軍事帝国が、すでに水面下で『次なる破壊の因果』へと移行しているのだとしたら――。
カイ自身、現在の自分の対応スピードが、すでに「手遅れ(タイムオーバー)」のフェーズに片足を突っ込んでいるのではないかという最悪のパラメータすら、万に一つも否定はし切れなかった。
あの凄惨なオークの大侵略戦争が完全停止して以来、初めてのことだった。
目の前で行われている奇跡の都市再建という美しい平和が、すべての悲劇の『完全なる終結(大団円)』などでは決してないという冷酷な現実を、彼は肌で理解していた。
この温かな日常は、ただの平穏ではない。
次なる最悪の大破壊が執行されるまでの間に与えられた、極めて刹那的な『休戦の猶予(一時停止)』に過ぎないのだ。
そして――白髪の魔王カイは今、その底知れぬ不条理な因果の歯車に向けて、ついにその絶対の視線を『完全起動』させたばかりだった。




