第93話: カイ対オークの王(第3部)
戦場は、完全に水を打ったように静まり返っていた。
生き残ったオークの兵士たちは平原のあちこちに散らばり、立ち尽くしている。
冒険者たちは動きを止め、エリュシオンの防衛部隊も攻撃をやめていた。負傷者たちでさえ、一瞬だけその痛みを忘れたかのようだった。
全員が、同じ二人の影を見つめていた。カイ、そしてオークキングだ。
オークキングは数百メートル離れた場所に立ち、巨大な武器を肩に担いでいた。その身体は無数の戦闘傷で覆われている。それにもかかわらず、その表情には揺るぎない自信が漲っていた。
彼はゆっくりと武器を掲げた。
「お前が、この領土を統べる者か?」
カイは彼を見下ろした。
「そのようだな」
オークキングは高笑いした。
「ならば、お前を倒して見せよう」
カイは首を傾げた。
「ずいぶんと自信たっぷりだな」
「俺はこれまでに三つの王国を征服してきた」
オークキングは武器の先をカイへと向けた。
「俺の軍勢は、目の前に立ちはだかるすべての勢力を粉砕してきたのだ」
カイは周囲を見渡した。数千のオークの兵士たち。破壊し尽くされた戦場。地平線の彼方に沈んだ三つの都市。
それから、彼は再びオークキングへと視線を戻した。
「ああ」
彼は薄く笑みを浮かべる。
「知っているよ」
***
次の瞬間、オークキングのオーラが爆発的に吹き荒れた。
ーーードゴォォォン!
彼の足元の地面が粉々に砕け散り、凄まじい衝撃波が戦場全体へと広がっていく。
何人かの冒険者たちが、その圧力に耐えかねて後方へとよろめいた。
リンは咄嗟に腕を上げて顔を覆い、ソラの髪が暴風に激しくなびく。
リンはオークキングを凝視した。
「この力……」
オーク将軍たちとは完全に桁が違っていた。将軍たちも十分に強大だったが、これはそれとは意味が違う。オークキングは単に彼らより強いというだけではない。完全に別次元の領域に達していた。
彼の身体からは圧倒的な肉体強度が放射され、その魔力が戦場を満たしていく。
生き残ったオークの兵士たちが咆哮を上げ始めた。
「俺たちの王だ!」
「王よ、永遠なれ!」
「エリュシオン教団を叩き潰せ!」
オークキングは武器を持ち上げた。
「これですべてを終わらせる時が来た」
カイは彼を見つめ、それから小さくため息をついた。
「いいよ」
***
オークキングの姿が掻き消えた。
ーーボッ!
彼が先ほどまで立っていた地面が激しく爆発する。
わずか一秒にも満たない刹那、彼はカイの目の前に出現していた。巨大な武器が容赦なく振り下ろされる。
カイは片手をそっと掲げた。
ーーガキィィィン!
心地悪いくらいに鈍い金属音が響き、武器が完全に静止した。
カイはそれを、ただ片手でガッシリと受け止めていたのだ。
オークキングの目が驚愕に見開かれる。カイは武器を一瞥し、それから彼へと視線を向けた。
「……ずいぶんと重いな」
オークキングが唸り声を上げ、全身の筋肉を硬直させる。彼はさらに力任せに押し込んだ。
カイの足元の地面がメキメキと音を立ててひび割れていく。それでも、カイ自身は微動だにしなかった。オークキングはさらに筋力を跳ね上げたが、結果は同じだった。
カイは薄く笑った。
「将軍たちよりは強いようだな」
オークキングがニヤリと口元を歪める。
「ようやく俺の強さを認めたか」
カイは彼を見つめた。
「強いと言ったんだ」
彼はそこで言葉を区切った。
「……十分だとは言っていない」
***
オークキングの表情が一変した。
彼は咆哮し、その武器から爆発的な破壊力を解き放つ。カイがそれを手放した。
突如として抵抗を失ったことで、オークキングの身体は前のめりによろめいた。
カイは一歩横にステップを踏んでそれをかわす。
オークキングは瞬時に体勢を立て直して再び武器を振るったが、カイはその一撃を身を屈めてかわし、そのままオークキングの脇腹へと拳を叩き込んだ。
ーーーズドン!
オークキングの巨体が戦場を派手に吹き飛び、巨大な岩石の構造物を粉砕しながら激突した。
土煙が晴れるよりも早く、彼はその中から飛び出してきた。怪我はしていない。
彼の超再生能力が、すでに受けていた損傷を完全に修復していた。
オークキングは武器を掲げた。
「『アース・シャッター(大地破砕)』!!」
地面が激しく爆発した。
カイの足元から巨大な岩の柱が次々と突き出す。カイはそれらが隆起する隙間を縫うようにして動き回ったが、岩の構造物は空中で不自然にねじれ、彼の退路を断つように方向を変えて襲いかかる。彼は一本の岩の棘を飛び越え、もう一本の棘を身を翻してかわした。
その時、オークキングが彼の頭上に出現した。武器が振り下ろされる。
ーーーガキィィィン!!
カイはそれを防禦した。
その凄まじい衝撃により、二人の身体は地面へと叩きつけられ、足元に数百メートルに及ぶ巨大なクレーターが穿たれた。
***
オークキングは力任せにカイを押し込んだ。カイの足が地面を深く削っていく。
「捕まえたぞ」
カイの手が、その武器へと押し当てられた。
「……本当に?」
彼が力を込めて押し返す。
ーーーズドン!
それだけで、オークキングの身体が強烈に吹き飛ばされた。
カイの姿が消え、次の瞬間には吹き飛ぶ彼の真横に出現していた。そのまま胸元へと痛烈な一撃を叩き込む。
ーーードン!
オークキングが真横へと吹き飛ぶ。カイはさらに追撃を仕掛けたが、オークキングは辛うじてその次の一撃を受け止めた。
互いの拳が正面から衝突し、その衝撃波が戦場を引き裂いていく。
オークキングが獰猛な笑みを浮かべた。
「これだ……これだよ!」
カイもまた、不敵に笑い返す。
「あんた、案外やるな」
オークキングは大笑いした。
「ようやく認めやがったな!」
「まあね」
カイは一歩後退した。
「……ほんの少しだけ、だけどな」
***
オークキングが自らの武器を高く掲げた。
「ならば、覚悟しろ」
彼のオーラが突如として、それまでとは比較にならないほど凶悪に膨れ上がる。
オークキングは武器を前方へと突き出した。
「ーー『究極能力』」
戦場全体が激しく揺れ動く。
「『ベヘモス(巨獣)』」
静寂が訪れた。そして――
ーーーバゴォォォォォォォォン!!!
彼の身体が異様へと変貌を遂げていく。
頭部から巨大な角が突き出し、筋肉がはち切れんばかりに肥大化する。漆黒の鎧が全身を覆い尽くし、手にする武器は数倍もの大きさへと膨れ上がった。
あまりの質量に彼の足元の地面が陥没し、上空の空が不気味に暗転していく。
生き残ったオークの兵士たちが、狂喜乱舞して歓声を上げ始めた。
「ベヘモス!」
「王の真の力だ!」
「俺たちの王が勝つぞ!」
リンはただ、その光景を唖然と凝視していた。ソラがごくりと唾を飲み込む。
「あれが……あいつの究極能力」
リンが頷いた。
「……みたいだね」
オークキングがその巨大な武器を持ち上げた。
「これこそが、三つの王国を蹂躙した力だ」
カイは彼を見つめる。
「なるほど、それがお前の切り札か」
***
オークキングが突撃した。戦場が爆発したかのような衝撃に包まれる。
カイが手を掲げた瞬間、オークキングの武器が激突した。
ーーボォォォォォン!!
カイの身体は数メートルほど後方へと押し込まれ、ようやく停止した。
オークキングは咆哮を上げ、追撃を仕掛ける。
カイは次の一撃を強引に防禦すると、続く薙ぎ払いの下を潜り抜け、オークキングの膝へと鋭い打撃を叩き込んだ。
変貌を遂げた戦士の巨体がよろめいたが、彼が崩れ落ちるよりも早く、その超再生能力が瞬時にダメージを修復した。
彼は地を引き裂くような衝撃波で応戦する。カイはそれを跳躍してかわした。
オークキングはすかさず、土塊の豪雨、重力結界、そして時間差の爆破による波状攻撃を繰り出す。
カイはその猛攻の隙間を縫うようにして動き回り、回避しきれない攻撃を弾き飛ばしながら、オークキングの攻撃が大振りになった一瞬の隙を突いて間合いを詰めていった。
冒険者たちは信じられないという表情でその光景を見つめていた。ソラが目を丸くする。
「嘘……あのオーク、本当にカイ様を押し戻してる……っ」
リンの目は戦場に釘付けになったままだった。彼女は答えなかった。
この戦闘の何かが、彼女の胸に引っかかっていた。カイが負けそうだからではない。彼は負けていなかった。それは見ていれば分かった。
カイは未だに冷静だった。どこまでも落ち着き払い、オークキングの動きを観察している。まるで、彼の戦い方を分析しているかのように。
***
オークキングが突如として攻撃のリズムを変え、水平に武器を薙ぎ払った。
カイはその一振りの下を素早く潜り抜け、オークキングの胸元へと拳を叩き込んだ。
ーーーズドン!
オークキングの巨体が後方へと吹き飛ばされたが、彼は見事に両足で着地してみせた。
彼は不敵に笑った。
「想定していたよりもやるではないか」
カイは彼を見据える。
「お前もな」
オークキングが再び突撃し、カイがそれを真っ向から迎え撃つ。互いの武器が激しく衝突した。
オークキングの肉体強度は桁外れだった。彼の一撃一撃には、文字通り山を粉砕するほどの破壊力が込められている。
その超再生能力はどんな致命傷からも彼を復興させ、究極能力は彼の身体を絶え間なく強化し続けていた。
それでも、カイは適応していった。すべての攻撃、すべての動き、すべての技術。カイは戦いながら学んでいた。
オークキングがそれに気づく。
(……動きが速くなっている?)
彼は武器を振るった。カイがそれを受け止める。
(違うな)
さらなる一撃。カイがそれを完璧にカウンターで弾き返した。
(――奴は、俺の動きに『慣れて』きているんだ!)
***
オークキングは再び戦闘リズムを切り替え、肉体攻撃と魔術を激しく織り交ぜ始めた。
岩石、重力、衝撃波、爆発。死角からの奇襲、時間差のトラップ。
カイはそれらをことごとく回避していった。だが、オークキングの刃の先端が、カイの頬をかすめる。
一筋の薄い血の線が、彼の肌に浮かび上がった。
戦場の時間が凍りついた。リンの目が驚愕に見開かれ、ソラが息を呑む。
最高幹部たちでさえ、その瞳の奥の光を鋭くした。
カイは自身の頬に流れた血に触れ、その指先を見つめた。
それから、彼は薄く笑みを浮かべる。
「……悪くない」
オークキングが獰猛に口元を歪めた。
「ようやく一太刀浴びせてやったぞ」
カイは彼を真っ直ぐに見据えた。
「あまり調子に乗るなよ」
***
オークキングが地を蹴った。カイがそれを迎え撃つ。
戦闘速度はさらに跳ね上がり、二人は閃光となって戦場を縦横無尽に駆け巡った。
オークキングが攻め、カイが防ぎ、カイが反撃し、オークキングが再生する。互いに息をつく暇すら与えない。
だが、時間が経つにつれて、その決定的な実力差は誰の目にも明らかになっていった。
オークキングの動きが次第に精彩を欠き始め、その再生速度が目に見えて落ちていく。彼の呼吸は荒く、重くなっていった。
対して、カイの姿には何一つ変化がなかった。疲弊の兆候も、動きのブレも、速度の低下すらも一切ない。
オークキングもまた、その事実に気づき始めていた。彼の顔から笑みが消え失せる。
(……なぜ、こいつは疲弊しない!?)
彼は渾身の力で再び武器を振るった。カイはそれを軽々とかわす。さらなる追撃も受け止められ、続く一撃でカウンターを叩き込まれてオークキングの巨体がよろめいた。
数メートル離れた場所に、カイが静かに佇んでいた。
「お前、もう限界だろう」
オークキングが獣のように唸り声を上げた。
「ふざけるな……っ」
彼は無理やりその身体を叩き起こす。
「俺はオークの王だ!!」
彼のオーラが再び狂暴に爆破した。
「この俺が、負けるはずがない!!」
***
カイは彼を見つめていた。一瞬の沈黙の後、彼は静かに言葉を紡いだ。
「……いいだろう」
彼の瞳の奥に、本物の鋭さが宿る。
「手加減は、ここまでだ」
その場の空気が完全に一変した。
カイの六枚の竜の翼が、上空へ向かって完全に解き放たれる。周囲を吹き荒れていた風がぴたりと止み、戦場は不気味なほどの静寂に包まれた。
彼のオーラは爆発しなかった。そんな派手な演出をする必要すら、もはやなかったのだ。ただ、そこに存在する気配そのものが、世界の理を変えるほどに変質していた。
オークキングはそれを肌で感じ取った。そして、この瞬間に初めて理解したのだ。
――これまでの戦闘のすべてが、ただのカイによる「手加減」に過ぎなかったということを。
オークキングの目が恐怖に見開かれる。
「なっ、にを――」
カイは手にする刀を静かに構えた。
「もう十分、見せてもらったからな」
***
オークキングが咆哮した。
彼は自らの肉体に残されたすべての魔力とエネルギーの残滓を掻き集める。究極能力が、文字通り破滅の限界を突破した。
手にする巨大な武器の周囲に、凶悪なまでの破壊のエネルギーが収束していく。彼の足元の地が崩壊し、戦場の上空の空が歪に歪んでいった。
生き残ったすべてのオーク兵たちが、死に物狂いで歓声を上げる。彼らの王が、今まさに最大最後の攻撃を放とうとしているのだ。
オークキングが武器を天へと掲げた。
「これぞ我が最終一撃!!」
戦場全体が激しく揺れ動く。
「『ベヘモス――』」
カイは彼を見つめていた。その表情は平穏そのものだった。
彼は【ハルマゲドン】を召喚しなかった。
【ハルマゲドン】は単なる強力な剣ではない。それ自体が、この戦場に存在するすべての生命ごと、世界を消し去るほどの破滅をもたらす広域殲滅兵器なのだ。
それを引き抜けば、この決闘はただの一方的な「処刑」へと変わり、オークの軍勢が降伏するための余地すら残らなくなってしまう。
カイは手にする通常の刀を一瞥した。
(ハルマゲドンを使えば……この戦いは、こいつが一歩も動けないうちに一瞬で終わっちまうからな)
彼の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
(――この剣で、十分だ)
***
オークキングが地を蹴り、猛然と突撃した。
「――『ワールド・クラッシャー(世界崩壊)』!!!」
ーーーバゴォォォォォォォォォォォォン!!!
凄まじいまでの破壊エネルギーの奔流が、戦場のすべてを呑み込んだ。
地面が消失し、周囲の山々が消し飛び、天空が激しく震動する。
数秒の間、濃密な光と土煙によって何も視認することができなかった。
やがて――破壊の跡の中から、一人の影が歩み出てきた。
カイだ。衣服に汚れ一つなく、完全に無傷だった。
オークキングはただ、唖然とそれを見つめるしかなかった。自らの最大最後の攻撃が、掠り傷一つ与えられなかったのだ。
カイは一歩、また一歩と、彼に向かって歩みを進めてくる。
オークキングの呼吸が悲鳴を上げ始めた。
「そんな、馬鹿な――」
カイは歩みを止めない。
オークキングは震える腕で武器を持ち上げた。その四肢は恐怖でガタガタと震えている。
「くるなァァッ!」
彼は残された僅かな力を振り絞り、猛然と突撃した。
最後の一掻き。最後の一撃。命を賭した、絶望の一振りが繰り出される。
だが、カイはただ平然と彼と交差するように通り過ぎた。
オークキングの武器は、何もない虚空を虚しく切り裂いただけだった。
***
カイは振り返らなかった。彼はそのまま、数メートルほど歩みを進める。
そして足を止めると、手にする刀を見つめ、ゆっくりとそれを鞘へと収めていった。
ーーカチリ。
静寂が訪れた。
オークキングは彼の背後で、武器を構えた姿勢のまま静止していた。何事も起きない。一瞬の間だけ。
そして――パキリ、と。
オークキングの巨体に、一筋の細い線が浮かび上がった。
彼の目が驚愕に見開かれる。さらにもう一筋、そしてまた一筋。
彼の全身が、ゆっくりと分断され始めていく。爆発によるものではない。最後の一撃によるエネルギーの奔流でも、派手な大技によるものでもなかった。彼の肉体は、ただ、静かに切り裂かれていたのだ。
オークキングの肉塊が地面へと崩れ落ちる。
戦場は、完全に水を打ったように静まり返った。
オークキングだったものの痕跡は、今や地面へと広がりゆく鮮血の海だけだった。
カイは、振り返ることすらおこなわなかった。
オークの兵士たちはただ、呆然とその光景を凝視していた。彼らの王が死んだのだ。
三つの王国を蹂躙した絶対的な戦士が、敗北した。軍勢によってではない。エリュシオン教団の冒険者たちによってでも、最高幹部たちによってでもない。たった一人の男の手によって。そしてその男は、【ハルマゲドン】を引き抜く必要すら、ついになかったのだ。
***
カイは、ようやく生き残ったオークの軍勢へと向き直った。
「武器を捨てろ」
誰も動かなかった。
カイの目が、わずかに鋭さを増す。
「二度は言わない」
一人のオークが武器を手放した。
ーーカン。
もう一人がそれに続く。
ーーカン。
그리고 また一人。
わずか数秒のうちに、数千もの武器が次々と地面へと叩きつけられていった。
ーーカン! カン! カン!
オークの軍勢は降伏した。戦争は、終わったのだ。
カイは敗れ去った兵士たちに視線を向けた。
「……彼らを殺すな」
冒険者たちが、信じられないというように彼を凝視する。
カイは言葉を続けた。
「彼らはただ、自らの王に従っただけだ」
彼は血に染まった戦場を見渡した。
「その王は、もう死んだ」
生き残ったオークの兵士たちは、ただ静かに、その頭を垂れた。
戦後処理。
リンは静かに立ち尽くしていた。彼女は戦闘の一部始終を目撃していた。
オークキングは恐るべき存在だった。その強さは圧倒的だった。
それなのに、カイはさほど苦労することもなく彼を打ち破ってしまった。自らの真の力を完全に解放することもなく、深刻な傷を負った様子すらなく。
リンは彼を見つめた。
なぜ? なぜ彼はわざわざ、クロエに自分を治療するよう指示したのだろうか。
なぜ彼は、自分が怪我をしているかどうかを気にかけるような素振りを見せたのか。
なぜ彼の傍にいると、これほどまでに奇妙な懐かしさを覚えるのだろうか。
彼女の中に答えはなかった。
そしてどういうわけか、その疑問は彼の圧倒的な強さそのものよりも、彼女の胸をざわつかせた。
ソラが彼女の隣に立った。
「それで――」
リンが彼女を見る。
ソラがカイの方を指さした。
「……あれが、カイ様」
リンが頷いた。
「そのようね」
ソラは荒廃した戦場を見つめる。
「みんなが彼の指示に従う理由が、なんとなく分かった気がするわ」
リンは破壊し尽くされた景色を一瞥した。
「気がする、だけ?」
ソラは一瞬言葉を詰まらせた。
「……そうね」
彼女は頷く。
「愚問だったわ」
リンの口元に、微かな笑みが浮かびかけた。
***
やがて、最高幹部たちがカイの周囲に集結した。
セナが一礼する。
「オークの将軍たちの排除、完了いたしました」
エルヴァが頷いた。
「戦場の安全は確保されています」
ネロは降伏したオークの軍勢を見やり、それからカイへと視線を向けた。彼は薄く微笑む。
「流石はカイ様ですね」
カイが彼を見つめた。
その瞬間、ネロは突如として奇妙な感覚に襲われた。微かな、何かを思い出しそうな感覚。
(……なぜ、これほど懐かしく感じるのだろうか?)
彼には説明がつかなかった。彼はこれまでカイに会ったことがないはずだ。少なくとも、そんな記憶は残っていない。
ネロはその思考を振り払った。おそらく、ただの野生の直感のようなものだろう。
***
間もなくして、ヴァドスが天空から舞い降りてきた。彼は他の幹部たちの隣に着地する。
「アステリアは安全です」
カイが頷いた。
「よくやった」
ヴァドスは戦場を一瞥した。
「どうやら、一番面白いところを逃してしまったようですね」
ネロが笑みを浮かべる。
「そのようですね」
エルヴァがカイを見た。
「戦争は終わりました」
カイが頷く。
「ああ」
彼は戦場を見渡した。
二万のオーク兵が彼の領土へと侵攻してきた。彼らの前には三つの王国が蹂躙され、陥落した。オークキングは、エリュシオン教団が次の征服先になると信じて疑わなかった。
だが今、彼の軍勢は降伏し、将軍たちは全滅した。王は消え去り、エリュシオン教団は未だ健在のままそこにそびえ立っている。
この知らせは瞬く間に世界へと広がるだろう。
三つの王国を滅ぼした、二万のオーク軍の敗北。十人のオーク将軍の抹殺。オークキングの戦死。
そして、そのすべての中心に君臨する、魔王カイの名とともに。
しかし、カイ自身は自らの名声などには大して興味がないようだった。彼は全く別の方向を見つめていた。
一人の小さな少女が、彼に向かって走ってきたのだ。
「おもしろカイ!」
カイがパチパチと瞬きをする。
「……お前、まだここにいたのか?」
幼い少女がこっくりと頷いた。
「やくそくしたもん」
カイは一瞬動きを止め、それから思い出した。
「ああ……」
彼女がカイの手をギュッと握り締める。
「ケーキ」
カイは彼女を見つめた。
「……俺は今、オークの王と戦ってきたばかりなんだが?」
彼女は再び頷いた。
「ケーキ」
カイは彼女を見つめ、それから戦場を見やり、再び彼女へと視線を戻した。彼は深くため息をつく。
「……分かったよ」
すぐ近くに立っていたユイが、楽しげに微笑んだ。
「約束してしまったのですから、仕方がありませんね、あなた?」
カイが彼女を睨みつけた。
「……裏切り者め」
少女が再び彼の手を引っ張る。
「はやく行こ!」
カイはされるがままに、その場から引きずられていった。
彼の背後では、敗北したオークの軍勢が未だ監視下に置かれていた。エリュシオン教団は生き残った。戦争は終わったのだ。
だが、エリュシオン教団の名が世界中へと轟き始めるのは、まさにここからだった。
そして当のカイは、すでに頭の中でケーキのことばかりを考えていた。




