第93話: エリシアン・オーダーを巡る戦い(前編)
エリュシオン教団の警鐘が鳴り響き続けていた。
ーーカン! カン! カン!
その音が塔全体に木霊する。
下の階層では、一般市民たちが外周区画から避難させられていた。
商人たちは店を閉め、家族は荷物をまとめ、子供たちは家の中へと引きずり込まれる。
ほんの数時間前までの平和な空気は、完全に一変していた。
戦争が、始まったのだ。
***
塔の外、北の平原には戦場が広がっていた。
巨大な軍旗の下に集結したオークの兵力は、少なくとも二万。
彼らの鎧は陽光を弾き、武器は高く掲げられている。
最前線の背後には巨獣たちが控え、それぞれが魔力を付与された巨大な攻城兵器を背負っていた。
オークの軍勢は、決して無秩序ではなかった。
組織立っており、規律があり、大いなる威厳を放つ強力な軍隊だった。
軍の中心に、オークキングが立っていた。
彼は遥か彼方にそびえ立つ巨大な塔を見つめる。エリュシオン教団だ。
オークキングの目が細められた。
「……ここが、そうか」
傍らに立つ指揮官の一人が応じる。
「はっ、陛下」
オークキングは戦場を見渡した。
人間の冒険者、兵士、ギルドメンバー、そして魔術師たち。彼らは皆、塔の入り口に集結しつつある。
「せいぜい千といったところか」
彼は薄く笑った。
「あれで我らを止められると思っているのか」
隣の指揮官が嘲笑う。
「すぐに思い知ることになるでしょう」
オークキングが武器を掲げた。
「進軍せよ」
地響きのような軍鼓が鳴り始めた。ーーードン。ドン。ドン。
オークたちが動き出す。
***
エリュシオン教団の塔の入り口では、すでに混乱が始まっていた。
陥落した三つの都市のギルドマスターたちが先頭に立ち、その後ろに冒険者たちが集まっている。
剣を携える者、槍を握る者、魔術師たちは呪文の詠唱準備を進めていた。
何人かの経験豊富な冒険者が、接近してくる大軍に目を向ける。その一人が、唾を飲み込んだ。
「おいおい……オークの数が多すぎるだろ」
もう一人が剣の柄を強く握り締める。
「あんな大軍相手に、どうやって防衛しろってんだ?」
ギルドマスターが塔の方を振り返った。
「我々はカイ殿を待つように指示されていたはずだが」
若い冒険者が困惑した表情を浮かべる。
「じゃあ、なんで俺たちは動いてるんですか?」
ギルドマスターはため息をついた。
「どうやら、我々の中に他人の指示をおとなしく聞ける奴は一人もいないらしい」
何人かの冒険者が気まずそうに目を逸らした。自分が該当者だと認めたくないのだろう。
軍勢が戦場へと進み始める。その中には、リンとソラの姿もあった。
リンはブーツのストラップを締め直し、ソラは戦闘服の袖を整える。
リンが隣を見つめた。
「カイは待てって言ってたよね」
ソラが頷く。
「言ってた」
「じゃあ、私たちはここにいちゃいけないはず」
「知ってる」
リンがじっと見つめると、ソラは悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、もう来ちゃったしね」
リンは一瞬呆れたように彼女を見つめ、それから小さく笑った。
「……それもそうか」
二人は前へと進む。戦いの火蓋は、すでに切って落とされようとしていた。
***
遥か頭上、塔の内部にカイは立っていた。
彼は眼下に広がる戦場を見つめ、それから隣の何もない空間へと視線を向ける。
「ヴァドス」
新たに『星の九号』の名を与えられた者が、彼を振り返った。
「何でしょうか?」
カイは東の地平線を指さした。
「アステリアだ」
ヴァドスが眉をひそめる。
「あちらも襲撃を受けているのですか?」
「オークの将軍が二人、向かっている」
ヴァドスが口元を歪めた。
「承知いたしました」
カイが彼を真っ直ぐに見つめる。
「あまり近づけさせるなよ」
ヴァドスはくすくすと笑った。
「オークたちのことですね?」
「ああ」
カイはそこで言葉を区切った。
「それから、あいつらの王が俺の邪魔をし始めるようなら、容赦なく叩き潰す」
ヴァドスは愉快そうに笑い声を上げた。
「了解いたしました」
彼は翻り、長居することなくその場から姿を消した。
アステリア。
すでにオークの軍勢による猛攻が始まっていた。
二人のオーク将軍が突撃を率い、アステリアの兵士たちは防戦一方となっていた。
だが、ヴァドスが戦場の上空に姿を現した瞬間、その場の空気が一変した。
彼が眼下を見下ろすと、二人のオーク将軍がこちらを振り返る。
ヴァドスは口元を歪めた。
「君たちが、問題の厄介者かね」
将軍の一人が武器を掲げる。
「また羽虫が沸いたか?」
ヴァドスはため息をついた。
「無礼な奴だ」
彼はそのまま下降する。戦いの火蓋が切って落とされた。
***
一方、エリュシオン教団の塔の前では、すでに最初の激突が起きていた。
ーーードゴォォォン!
魔力とオークの武器が正面から衝突し、大地が激しく揺れ動く。
オークの兵士たちが突撃し、冒険者たちがそれを真っ向から迎え撃つ。
リンの姿が掻き消えた。
彼女の剣が閃く。オークの兵士が彼女に向かって武器を振り下ろしたが、リンはそれを身を屈めてかわし、鎧の隙間を鋭く突いた。
ーーカン!
オークがよろめく。すかさずリンが魔力の衝撃波を叩き込んだ。
ーーードン!
その隣にソラが並び立つ。
彼女の手には杖がない。もう、そんなものは必要なかった。
両手を掲げると、三つの魔法陣が同時に展開される。
「『セレスティアル・レイン(天の雨)』!」
戦場の上空が目映く輝き、数百もの魔力の弾丸が降り注いだ。
ーーードン! ドン! ドン!
オークの陣形が無残に崩壊していく。
ソラが軽やかに着地した。リンが彼女を見る。
「速くなったね」
ソラは笑みを浮かべた。
「練習したからね」
彼女がブーツを軽く鳴らすと、その周囲に電光が弾けた。
「リンについていけないなら、自分が速くなればいいって気づいたの」
リンは笑い声を上げた。
「相変わらず、力技な解決方法だね」
***
二人は再び動き出した。
その動きは速い。エリュシオン教団に最初に入った頃とは比べ物にならないほどに。
塔の内部での修行が、彼女たちを完全に変えていた。
リンは戦闘中の適応能力を身につけていた。
もはや、ただの力任せな戦い方はしない。観察し、学び、修正する。
ソラは杖なしでの詠唱を完全にマスターしていた。
複数の魔法を同時に発動しながら、戦場を自在に動き回る。
そして彼女の雷魔法は、自身の動きを強化する技術へと昇華されていた。彼女はその技術を、リンのブーツにも応用していたのだ。
結果は単純だった。
速い。圧倒的に速い。
二人は閃光のごとく戦場を駆け抜けていく。
しかしその時、オーク軍の動きが変わった。
進軍の太鼓が止まり、オークの兵士たちが一斉に左右へと割れる。
その隙間から、一人の巨大な影が歩み出てきた。
リンが足を止める。ソラがその影を凝視した。
そのオークは、文字通り桁違いに巨大だった。
手には、およそ一人で扱えるとは思えないほど無骨で巨大な武器を握っている。
本来なら数人がかりで持ち上げるべき代物を、彼は片手で軽々と弄んでいた。
オークの将軍が防衛部隊を見下ろす。
「そこまでだ」
その声だけで戦場が震撼した。
オークの兵士たちが道を譲り、将軍が前に進み出る。
リンが剣の柄を強く握り締めた。ソラの表情が引き締まる。
「……あいつ、本物だね」
リンが頷いた。
「オークジェネラル(オーク将軍)」
***
次の瞬間、将軍の姿が消えた。リンの目が大きく見開かれる。
「なっ――」
ーーーズドン!
彼はリンの目の前に出現していた。巨大な武器が容赦なく薙ぎ払われる。
リンは咄嗟に防禦の姿勢を取った。
ーーーギキィィィィン!
凄まじい衝撃がリンを襲い、彼女は地面を削りながら後方へと吹き飛ばされた。
ブーツが地面を引き裂く。
ソラがすぐさま彼女の後方に回り込んだ。
「リン!」
「大丈夫!」
オーク将軍が追撃を仕掛ける。リンの姿が消えた。
ソラが三つの魔法を同時に放つが、オーク将軍はその中を突っ切ってきた。
一つ、二つ、三つ。すべての魔法を紙一重で回避する。
リンが彼の背後に出現し、剣を振り下ろした。
将軍は身を捻り、刃は辛うじて空を切る。彼は巨大な武器をそのまま背後へと振り抜いた。
リンが咄嗟に頭を下げると、頭上を武器が通過していく。
その一振りが生み出した風圧だけで、凄まじい衝撃波が巻き起こった。
ソラがさらに魔法を放つ。将軍が跳躍し、魔法は彼の足元で爆発した。
彼は数メートル離れた場所に着地する。
リンがソラを見た。ソラが頷く。
二人は呼吸を合わせ、同時に動いた。
リンが正面から、ソラが頭上から襲いかかる。
オーク将軍はリンの剣を受け止め、すぐさま頭上のソラへと視線を向けた。
降り注ぐ魔法を、彼は力任せに打ち砕く。
そこへリンが再び斬りかかるが、将軍は一歩退いてそれをかわした。
数秒の間、三者は常人には視認できないほどの超高速で攻防を繰り広げた。
オーク将軍は強大だった。だが、リンとソラも互角に渡り合っている。
どちらも決定打を欠いていた。
***
そこへ、新たな気配が現れた。
二人目のオーク将軍が、悠然と戦場に歩を進めてきたのだ。
ソラの目が驚愕に染まる。
「嘘……もう一人!?」
最初の将軍が横に並び、二人目の将軍がそれに加わる。
リンが剣を強く握り直した。
「二対二、ってわけね」
二人目の将軍が武器を掲げる。
「片付けるぞ」
彼らが地を蹴った。
戦場が爆発的な運動量で満たされる。
リンとソラは二手に分かれた。リンが最初の将軍を引き受け、ソラが二人目の将軍と対峙する。
魔力と鋼鉄が何度も激突した。オーク将軍たちの巨大な武器が地面を容赦なく破壊していく。
リンは一撃をかわし、さらに次の一撃、その次の一撃をかわした。
彼女は待ち、観察し、適応していく。
将軍が再び武器を大きく振るった瞬間、リンはその懐へと踏み込んだ。
彼女の剣が閃く。
ーーザシュッ!
オーク将軍の片腕が宙を舞った。鮮血が戦場に飛び散る。
将軍は失われた自身の腕を信じられないように見つめた。
その頭上に、リンが躍り出る。剣が高々と掲げられた。
「これで、終わり!」
彼女は刃を振り下ろした。
***
しかし――彼女の真横に、何かが現れた。
リンの目が大きく見開かれる。
待って、と彼女は心の中で叫んだ。視線を下に向けると、そこには二人目のオーク将軍がいた。
彼はソラと戦っていたはずではなかったのか。
将軍が武器をフルスイングする。狙いは空中の一点、リンの身体だ。
その巨大な刃は、彼女を真っ二つに引き裂かんと迫っていた。
「ソラ!」
叫びと同時に、ソラがリンの目の前に割り込んだ。
彼女は両手を前方へ突き出す。
「『バリア』!!」
巨大な防禦の壁が出現した。
ーーードゴォォォン!
オーク将軍の武器がバリアに激突し、凄まじい衝撃に防禦壁が激しく震える。
ソラが歯を食いしばった。
「くっ、なんて馬鹿力……!」
オーク将軍の表情が冷酷に歪む。
「『クエイク(震動)』」
その言葉とともに、彼の武器が突如として異様な重さを纏った。
あまりの重量に彼の足元の地面が陥没する。次なる一撃に込められた破壊力が、爆発的に跳ね上がった。
ソラの目が恐怖に見開かれる。
「しまっ――」
武器が振り下ろされる。
ーーーバリィィィィン!
防禦壁がガラスのように粉々に砕け散った。
その衝撃波に巻き込まれ、リンとソラの身体は戦場を派手に吹き飛ばされた。
何本もの大木をなぎ倒しながら転がり、ようやく二人の身体が止まる。
***
リンは朦朧とする意識の中で、必死に立ち上がろうとした。視界が歪む。
「ソラ……」
「わたしは……大丈夫……っ」
だが、オーク将軍は彼女たちに息をつく間すら与えなかった。
彼はすでに眼前に迫っており、巨大な斧が彼女たちの頭上へと掲げられる。
リンの身体は思うように動かない。ソラが再びバリアを張ろうとするが、もう間に合わない。
絶望とともに、斧が振り下ろされた。
しかし――
ーーガキィィィン!
心地悪いくらいに鈍い金属音が響き、武器が完全に静止した。
一本の手が、その刃をガッシリと受け止めていたのだ。たった、片手で。
リンの目が点になる。
彼女たちの前に、一人の女性が立ちはだかっていた。
長い髪をなびかせ、その瞳は信じられないほどに冷静だった。恐怖の欠片すらそこにはない。
オーク将軍は信じられないものを見る目で彼女を凝視した。
セナは自身の掌で止めている巨大な斧を見つめ、それからオークへと視線を移す。
「……これ、あんたの?」
オーク将軍は力任せに武器を引き抜こうとしたが、ピクリとも動かない。
彼の全身の筋肉が膨れ上がり、怒号を上げる。
セナは微動だにしなかった。オーク将軍の闘気が爆発する。
「『クエイク』!!」
斧がさらに重さを増し、セナの足元の地面が蜘蛛の巣状にひび割れた。
だが、彼女は瞬き一つしない。その一撃は、彼女に何の掠り傷も与えられなかった。
セナは武器を一瞥すると、まるでゴミでも捨てるかのようにそれを横へと放り投げた。
オーク将軍の動きが完全に凍りつく。セナが一歩前へと踏み出した。
オークの目が恐怖に怯える。彼は後退しようとしたが、あまりにも遅すぎた。
セナの拳が、彼の胸へと叩き込まれる。
ーーーズドォォォォォォン!!
オーク将軍の巨体が、大砲の弾のように戦場の彼方へと吹き飛んだ。
大木をへし折り、石造りの建造物を粉砕し、自軍のオーク兵たちを何人も巻き込みながら、彼は凄まじい勢いで転がっていく。
セナの姿が消えた。
次の瞬間、彼女は吹き飛ぶ将軍の遥か頭上に出現していた。
オーク将軍が絶望の表情で見上げる中、セナの蹴りが容赦なく振り下ろされる。
ーーーバゴォォォォォォォォン!!
彼の身体は地面へと叩きつけられ、戦場に巨大なクレーターが穿たれた。
オーク将軍は必死に身体を動かそうとした。
セナはその傍らに着地すると、彼の首根っこを掴み、軽々と宙へと持ち上げる。
将軍は激しく暴れたが、セナの手から漆黒の炎が立ち上り始めた。
オーク将軍の表情が絶望に染まる。
「ま、待て――」
次の瞬間、黒炎が彼を呑み込んだ。
ーーボッ!
漆黒の炎が彼の全身を焼き尽くしていく。
わずか数秒の後には、そこには塵一つ残されていなかった。
***
セナが手を離すと、戦場は水を打ったように静まり返った。
リンは呆然と立ち尽くし、ソラも目を丸くしている。
周囲の冒険者たちも、ただその光景を凝視していた。誰も言葉を発することができない。
セナはもう一人のオーク将軍へと視線を向けた。
その将軍はすぐさま突撃を仕掛け、すでに武器を高く掲げていた。
渾身の一撃が振り下ろされる。だが、セナは微動だにしない。刃は彼女の手前、わずか数センチのところで完全に停止した。
そして――オーク将軍の身体が掻き消えた。
爆発も、派手な攻撃の余波もない。彼はただ、文字通り世界から消滅したのだ。
セナは何もない空間を一瞥し、それから振り返った。
二人のオーク将軍は、完全に、そして一瞬にして絶命した。
リンはゆっくりと剣を下げた。ソラはセナを凝視する。
「……あの人、一体何者なの?」
セナが二人へと視線を向けた。
「あなたたち、怪我をしているわね」
リンがパチパチと瞬きをする。
「あなたは……誰、ですか?」
セナは淡々と答えた。
「セナ」
彼女はそびえ立つ塔を見上げた。
「カイ様の配下、最高幹部の一人よ」
リンの目が驚愕に見開かれた。
カイは、これほどの化け物を自らの配下に置いているというのか。
カイが強大であることは知っていた。その圧倒的な存在感を肌で感じたこともある。
だが、これはそれとは意味が違った。カイ本人ではないのだ。彼に仕える者が、二人のオーク将軍をまるで羽虫か何かのように一瞬で葬り去って見せた。
ソラがごくりと唾を飲み込んだ。
「カイ様って、本当はどれくらい強いの……?」
二人のなかに、その答えを持ち合わせる者はいなかった。
***
その時、戦場が再び突如として静寂に包まれた。
戦いが止まったからではない。全員が、一斉に頭上を見上げたからだ。
リンが顔を上げ、ソラもそれに続いた。
戦場を覆っていた雲が割れ、天空から一人の影が舞い降りてくる。
背後には六枚の巨大な竜の翼が広がり、黒と白を基調とした衣服が風に優しく揺れていた。
カイだ。
彼の両脇には二人の影――ネロとエルヴァが控えており、その後ろにはクロエの姿もあった。
カイは戦場を鋭く見渡した。
彼の視線はすぐにリンを捉え、それからソラ、セナへと移る。
その表情は平穏そのものだったが、瞳の奥には明らかな苛立ちが滲んでいた。
待てと言ったはずだ。だが、彼女たちはここにいる。
カイは戦場を見下ろしながら、小さく呟いた。
「……十五分待てと言ったはずだがね」
ネロが眼下を見やった。
「どうやら、ただの提案程度に受け取られていたようですね」
エルヴァが冷静に頷く。
「人間という生き物は、往々にして指示を自分に都合のいいように再解釈する傾向がありますから」
カイは深くため息をついた。
「そのようだな」
***
彼らの遙か下方、生き残っているオークの将軍たちが一斉に頭上を睨みつけた。
オークキングもまた、顔を上げてカイを凝視する。
初めて、二人の指導者が互いの姿を視界に捉えた。
オークキングは怯まなかった。退くことも、震えることもない。
その度胸だけは称賛に値した。彼は恐れていなかったのだ。ただ、目の前のカイという存在が何者なのか、理解できていないだけだった。
カイの真のオーラは完全に隠蔽されている。オークキングは、自らの頭上に立つ怪物の正体を察知できていなかった。彼の目に見えているのは、六枚の翼を持つ一人の若者に過ぎない。
「……あれが、奴らの頭か」
一人のオーク将軍が頷いた。
「おそらくは」
オークキングが武器を強く握り締める。
「不届きな魔王が、ようやく姿を現したか」
***
カイは彼を見下ろし、それから残されたオークの大軍へと視線を巡らせた。
彼の表情から一切の温度が消え去る。
「セナ」
彼女が仰ぎ見た。
「はい、カイ様」
「ネロ」
ネロが一歩前に出る。
「ここに」
「エルヴァ」
「御心のままに、カイ様」
カイは戦場を指さした。
「オークの将軍たちを排除しろ」
三人が深く頷く。
カイの声が、さらに冷酷さを増した。
「そして、オークの軍勢に生存者は残すな」
次の瞬間、三人の姿が掻き消えた。
オークの兵士たちは、突如として自らに迫る不穏な気配を察知した。
三つの悍ましい気配。三人の魔王。
すでに三つの都市を蹂躙してきたオークの軍勢は、その歴史の中で一度も遭遇したことのない絶望と対峙することになる。
***
カイはクロエへと振り返った。
「負傷者の治療に当たれ」
クロエが頭を垂れる。
「はい、カイ様」
「特に、リンとソラをな」
クロエが薄く笑みを浮かべた。
「お任せください」
彼女は二人の元へと舞い降りた。リンが彼女を見つめる。
「クロエ……」
クロエは二人の傍らに膝をついた。
「動かないでくださいね」
彼女がリンの肩にそっと手を置くと、瑞々しい治癒の魔力が身体を駆け巡った。
リンは痛みが一瞬で消え去るのを感じる。ソラの傷口もまた、急速に塞がり始めていた。
その時、一人のオーク兵がクロエに向かって突撃してきた。
「奴らを殺せ!!」
何人ものオークがそれに続く。
だが、クロエは彼らの方を向きさえしなかった。
「『ブラッド・アクト(血の戒律)』」
突如、地面が激しく突き上がった。
ーーーグサァッ!!
血のように赤い鋭利な棘が、オーク兵たちの足元から爆発的に突き出たのだ。
一人、二人、十人……数十人。オークたちは一瞬にして串刺しにされた。
クロエは後ろを振り返ることすらなく、リンの治療を続けた。
リンは唖然とし、ソラもただその光景を見つめる。
クロエは平然とした声で言葉を続けた。
「もう大丈夫ですからね」
***
頭上では、カイが戦場の趨勢を見守っていた。
セナの姿はすでに戦場から消え、ネロはオーク軍の別区画へと移動を開始している。エルヴァがそれに続いた。
そして遥か彼方のアステリアでは、ヴァドスが二人のオーク将軍を相手に蹂躙劇を繰り広げている。
戦争は、第二局面へと突入していた。
オークキングは未だ、オーク兵たちの先頭に立っている。
彼にはまだ自信があった。この戦いには勝てると、本気で信じ込んでいた。
彼はただ、まだ気づいていないだけだった。
エリュシオン教団を次の征服先に選んだその瞬間に、自らの敗北がすでに決定していたということに。




