第92話:四柱の原初の悪魔
平穏な日常と、一通の凶報
『エリュシオン・オーダー』に、いつも通りの穏やかな朝が訪れた。
巨塔の内部で暮らす大半の人々にとって、外の世界で巻き起こっているあの凄惨な『侵略戦争』の足音は、今や奇妙なほどに遠い出来事のように感じられていた。
それは、彼らが過去の恐怖を忘れてしまったからではない。ただ単に――失われたはずの『日常』が、この場所で確実に回り始めていたからだ。
とある居住区の街路では、それぞれの家庭が朝食の準備に追われていた。
焼き立ての香ばしいパンの匂いが風に乗って通りを駆け抜けていく。工房では、鍛冶職人が朝早くから付与金属をカン、カンと小気味よく叩き、子供たちは親の「早く帰ってきなさい!」という怒号を背に受けながら、元気に家々の隙間を駆け回っていた。
新生合同ギルドのホールでは、冒険者たちがテーブルを囲み、昨日どちらがより強力な魔物を討伐したかについて熱い議論(口論)を交わしている。
ある者は次なる未知の階層への遠征準備を進め、ある者は市場で買い物を楽しみ、ある者は二度寝を貪り、ある者は朝風呂を満喫し――そしてある者は、文字通り『何もしないという贅沢』を全力で謳歌していた。
ちなみに、その「何もしない」ということこそが、この上なく知的で尊敬に値する立派な職業であると、カイは私的に固く信じて疑わなかった。
何はともあれ、『エリュシオン・オーダー』は賑やかになった。
わずか数週間前、難民たちが押し寄せてくる前とは比較にならないほどの圧倒的な活気が、そこには満ち満ちていたのだ。
陥落した三つの都市から合併して誕生した『永久合同ギルド』は、今や完全に軌道に乗って正常に機能していた。
冒険者たちは塔の内部の様々なエリアでクエストを受理し、研究者たちはその不条理な生態環境の調査に目を輝かせ、商人たちは空きスペースに次々と小さな露店や商店を開き始めている。
この『エリュシオン・オーダー』という建造物は、それ自体がまるで一つの巨大な生命体であるかのようだった。
内部には、広大な森林、美しい湖、険しい山脈、不毛な砂漠、極寒の氷雪地帯、古代の遺跡――そして、数え切れないほどの未開の階層が、手つかずのまま眠っている。
当然、そこには魔物もいた。それも、無茶苦茶な数が、だ。
しかも、塔の魔力によって生み出される化け物どもは、お世辞にも「弱い」とは言えなかった。
毎日、遠征から帰還した冒険者たちが、これまで歴史上の誰も目にしたことのない未知の怪物の生態について、興奮気味に武勇伝を語り合っている。
ある者は極上のレア素材を持ち帰り、ある者は満身創痍の怪我を負って這い戻り――そしてまたある者は、「うっかり絶対に目覚めさせてはならないヤバい古代種を起こしちまった!」という、最高にクレイジーで笑えない報告書をギルドに提出して職員の頭を抱えさせていた。
その結果として、塔の内部が物理的なダメージを被ることも珍しくはなかった。
戦闘の余波で頑丈な岩壁が粉砕されたり、大森林の一角が火の海と化したり、強固な石橋が崩落したり、突如暴れ出したボス級の魔物によって居住区の建物が数棟バキバキに破壊されたり……。
だが、そんな被害など、この塔においては何の意味もなさなかった。
『エリュシオン・オーダー』の心臓部に鎮座する『創生の結晶』は、24時間体制で無限の創生エネルギーを塔全体へと供給し続けているのだ。
どれほど大破した建造物であっても、時間の経過とともに自律的に自己修復が開始される。ひび割れた壁はひとりでに組み上がり、焼失した森林は一瞬で元の青々とした大自然へと巻き戻り、大破したエリアは何事もなかったかのように元の完璧な姿へと復元されていく。
この不条理な巨塔は、文字通り『破壊されたまま(壊れた状態)』でいることを頑なに拒絶するのだ。
人間側にしてみれば、まさに「究極のサンドバッグ(狩り場)」を手に入れたも同然だった。
どれだけ暴れて破壊しても、翌日には元通り。戦って、壊して、自動再生させて、また挑む。その完璧なサイクルが、彼らのレベル上げ(成長)を爆発的に加速させていた。
◆◆◆
一方その頃――あの美しい巨塔の喧騒から遥か遠く離れた戦線において、破滅のオークの軍勢は着実にその行軍を再開させていた。
奴らは決して、知性なき魔物の暴動(モブの群れ)などではない。
総勢2万頭の精鋭兵卒どもは、完璧に統率された軍事陣形を維持したまま、一糸乱れぬ足音を響かせて大地を踏み鳴らしている。
手にした凶器は常に研ぎ澄まされ、防具は闇の魔力によって強固に補強。各部隊を統括する指揮官たちは、それ単体が一国の軍隊に匹敵するほどの怪物――『オークジェネラル(豚大将)』。そしてその頂点に君臨する『オークキング』の戦闘力は、まさに天災の領域にあった。
すでに人間の三つの大都市が、奴らの圧倒的な暴力の前に跡形もなく消え去っている。
高度に組織化された人間の正規騎士団を正面から捻り潰し、その完全なる勝利の勢いは、これっぽっちも衰える気配を見せていなかった。
――しかし。奴らの完璧なる侵略戦略には、唯一にして最大の『欠陥』が存在していた。
すなわち、底の知れぬ『強欲』である。
オークキングの醜悪な双眸は、地平線の彼方にそびえ立つあの『エリュシオン・オーダー』のシルエットを捉えていた。
噂に聞く、全100階層からなる不条理な巨塔。そこに眠る莫大なる未知の資源、魔物、そして人間たちが遺したであろう財宝の山。
あの老獪な王は、その聖域を「絶対に触れてはならない神域」として放置する賢明さを持たなかった。代わりに、自らの強欲に突き動かされるがまま、その名前を『蹂躙リスト』の最上段へと冷酷に書き加えたのだ。
その浅はかな決定こそが、後に彼の誇る無敵の軍勢を、跡形もない完全なる絶滅へと叩き落とす『史上最悪の引き金』になるとは、この時の王は知る由もなかった。
◆◆◆
その頃、当の魔王カイはと言えば――第一階層の商業区に新しくオープンした、小さな『甘味処』のテラス席に収まっていた。
外の世界から2万頭のオークの軍勢が、自らの領域を目指して殺気立って進軍してきていることなど、彼はこれっぽっちも知らなかった。……いや、より正確に言うならば、ユイの索敵網を通してなんとなく知ってはいたが、わざわざ自分の貴重なティータイムを犠牲にしてまで気にする価値はない、と切り捨てていただけの話だ。
彼の目の前のテーブルには、小さな丸皿が並んでいた。
色鮮やかなケーキ、サクサクのクッキー、そしてとろけるような特製クリームがギッシリと詰まった高級パイ。
カイは至福の表情を浮かべ、フォークでケーキをもう一口パクリと口に運んだ。
彼の正面の席には、この店の店主の愛娘である小さな女の子が座っており、彼女もまた嬉しそうに口の周りをクリームだらけにしながらケーキを頬張っている。
カイはフォークの先で皿を指差した。
「なぁ、ぶっちゃけこのケーキ、無茶苦茶美味くないか?」
小さな女の子は、自慢げに頭を激しく縦に振った。
「んむっ! すっごく美味しいの!」
カイは今度はクッキーを一つ摘み上げた。
「じゃあ、こっちのサクサクのやつは?」
女の子はさらにドヤ顔で頷いてみせる。カイがそれを口に放り込むと――。
「……間違いない。お前の言う通りだ。これ、ガチで人をダメにする美味さだな」
女の子は嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。
「でしょ? わたしが言った通りだもん!」
カイは気怠げに椅子の背もたれに体重を預けた。
「全く、恐ろしい店だよここは……。俺の『これ以上は食べないという鋼の自制心』が、この10分間で粉々に粉砕されちまった」
その大袈裟な物言いに、女の子はケラケラと楽しそうに笑い声を上げた。
当然、この少女も、奥で嬉しそうにテーブルを拭いている父親(店主)も、目の前で美味そうにスイーツを貪っているこの白髪の青年が、この塔の絶対支配者である『魔王カイ』その人であるなどとは、万に一つも気づいていなかった。
彼らにとってのカイは、ただの「時々ふらっと店にやってきては、愛娘と同じ目線で楽しそうにお菓子を分け合って駄弁っていく、ちょっと変わったラフなお兄さん」に過ぎなかったのだ。
――しかし、その平和な空間は、突如として破られた。
カランカラン、とドアのベルが激しく鳴り響き、一人のギルドの伝令が血相を変えて店へと飛び込んできたのだ。
男は店内の様子を一瞥するなり、テラス席のカイの姿を捉え、猛然とそこへ突撃して直立不動の姿勢をとった。その顔は緊張で完全に強張っている。
「――魔王カイ様!! 大至急、我が方に緊急の偵察データ(レポート)が入りました!!」
その鋭い怒号が響いた瞬間、店内の空気が一瞬にして凍りついた。
楽しそうに談笑していた他の客たちが一斉にフォークを止め、奥の店主は完全に動きをフリーズさせ、目の前の小さな女の子も口にケーキを運ぶ手を止めて目を丸くした。
カイははぁ、と小さくため息を漏らし、ゆっくりと伝令の男へと視線を向けた。それから周囲の怯える客たちを見やり、最後に正面の小さな女の子へと目を戻す。
女の子はゴクリと口の中のものを飲み込み、信じられないといった様子でカイを見つめた。
「……おにぃちゃん、本当に……この塔の、お偉い『魔王様』だったの?」
カイは目をパチくりとさせ、ふっと優しく微笑んだ。
「ま、一応な。そんなに大層なもんじゃねえよ」
彼はそう言うと、手を伸ばして正面の小さな女の子をひょいと抱き上げ、自らの膝の上へとちょこんと座らせた。女の子の小さな頭を優しく撫でながら、伝令の男へと顎をしゃくる。
「――構わん、続けろ」
伝令は一瞬、魔王が人間の子供を膝に乗せたまま作戦報告を受けようとしているその不条理な光景に激しく困惑したが、すぐに理性を引き戻して書類を開いた。
「は、ははっ!! ――オークの主力軍勢が、進軍ルートを急激に変更いたしました!」
カイの表情は、相変わらずお菓子を食べている時と変わらないほどリラックスしたままだ。
「へえ。で、数はどれくらいだ?」
「――およそ『2万頭』。数に衰えはありません!」
周囲の客たちの間から、ヒッ、という短い悲鳴が漏れる。
伝令の男は、額の汗を拭う暇もなく、核心の戦慄データを読み上げた。
「奴らはすでに王国の北方領土の最終境界線を突破! 先行する斥候部隊が、我が『エリュシオン・オーダー』の正確な絶対座標をロックオンした模様にございます!!」
カイの気怠げな双眸が、不気味にすっと細められた。
「――へえ。つまり奴らは、ここを目指して真っ直ぐ進んできてるってわけか」
「はっ、その通りにございます」
伝令の男は、重苦しく頭を垂れた。
「このままの進軍速度を維持された場合、奴らの主力軍勢が我が塔の防衛境界線へと到達するのも、時間の問題かと推測されます」
その緊迫した空気を余所に、カイの膝の上にちょこんと座っていた小さな女の子が、無邪気に彼の顔を見上げた。
「ねぇねぇ、お菓子のおにぃちゃん」
カイは視線を落とし、ふっと目元を和らげる。
「ん? 何だ?」
「おにぃちゃん、もう行っちゃうの?」
カイはチラリと伝令の男に視線を走らせ、それから再び少女へと目を戻した。
「ま、そういうことになるな」
彼は優しく微笑み、彼女の鼻先を軽くつついた。
「俺が用事を済ませて無事に戻ってきたら、今度はもっと美味しいケーキの作り方を俺に教えてくれるか?」
女の子は満面の笑みで、元気いっぱいに頷いた。
「うんっ、約束だよ!」
「よし、お利口さんだ」
カイは彼女の身体を優しく床へと下ろした。
「じゃあな、また後で」
彼が背を向け、ほんの二歩ほど歩き出した、その瞬間だった。
クイクイ、と彼の衣服の裾を後ろから引っ張る小さな感触。カイは足を止め、肩越しに振り返った。
そこには、必死な面持ちで彼の服をギュッと握りしめている少女の姿があった。
「……わたしも、おにぃちゃんと一緒に行く」
その台詞を聞いた瞬間、奥の厨房にいた両親が血相を変えてテラス席へと飛び出してきた。
「ひ、陛下! 申し訳ございません、この子がとんでもない不敬を……っ!」
「どうか、どうかお許しください……!」
カイはひらひらと片手を振って彼らを制した。
「あー、別に構わんよ。気にするな」
彼は再び少女の前にしゃがみ込み、その小さな身体を見つめた。
「……連れてってやってもいいぞ」
店主は信じられないといった様子で呆然と目を丸くした。カイは至ってカジュアルに、何でもないことのように言葉を続ける。
「どうせ、あのオークの軍勢と正面から殴り合いを演じるのは、俺の役目じゃねえからな」
伝令の男が、困惑したように目をパチくりとさせた。
「え……? 殴り合いをするのが、カイ様ではない……と? では、一体誰が奴らを迎撃するというのですか?」
カイは彼を一瞥し、不敵にニヤリと唇を吊り上げた。
「案ずるな。この手の厄介なトラブルに関してはな、俺の中に『最高の解決策』が最初から用意されてるんだよ」
彼は再び女の子をひょいと抱き上げると、その足元の地面にまばゆい『転移の魔方陣』が鮮やかに起動した。
直後、光の爆発とともに、彼らの周囲の景色が一瞬にして掻き消えた。
◆◆◆
次の瞬間、カイと小さな女の子の姿は、『エリュシオン・オーダー』の第一階層における、最も高い位置にある城壁の最上部へと出現していた。
そこは、塔の内部に暮らす難民たちの安全な居住区やギルドホール、シェルターといった防衛線の「内側」を背後に置き、巨大なメインゲートの向こう側に広がる外の世界――すなわち、今まさに2万の軍勢が押し寄せようとしている『戦場』を丸ごと一望できる、絶対の最前線だった。
そこには、すでにユイとクロエの二人が直立し、不穏な外の景色を睨みつけていた。
二人は転移の光に気づいて振り返り、そして――カイの腕の中にいる人間の子供を目撃した瞬間、同時にその動きをカチリとフリーズさせた。
ユイが片方の美しい眉をピクリと跳ね上げる。
「……カイ。いつからあなたは、この巨塔の内部で『託児所』のボランティアを始めたのかしら?」
「数分前だな」
クロエは完全に死んだ魚のような目で主を凝視した。
「……は? 一体全体、何を考えていらっしゃるのですか、カイ様?」
膝の上の女の子は、そんな二人の絶世の美少女たちを交互に見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「ねぇ、おにぃちゃん。あのちょっと『変な顔(おっかない顔)』をしてるお姉ちゃんたちはだぁれ?」
不自然な沈黙。カイの動きが止まり、クロエの表情が完全に般若のごとく引きつり、ユイは思わず吹き出しそうになるのを両手で必死に覆った。
カイは内心の爆笑を堪えながら、親切に指で彼女たちを指し示した。
「あそこに見えるのが、ユイお姉ちゃんと、クロエお姉ちゃんだよ」
女の子は無邪気な満面の笑みを浮かべて手を振った。
「ユイお姉ちゃん、クロエお姉ちゃん、はじめまして! よろしくね!」
その天使のような純真無垢な笑顔を前にして、ユイの表情は一瞬にしてハチミツのように甘く柔らかいものへと変貌した。
「ええ、はじめまして。よろしくね、可愛いお嬢さん」
クロエもまた、先ほどの般若の表情を綺麗さっぱり消し去り、非の打ち所のない完璧な聖母の微笑みを浮かべた。
「ええ、はじめまして。とても元気な良い子ですね」
カイは少女を優しく地面へと下ろした。
「よし、じゃあちょっとの間、あっちのクロエお姉ちゃんと遊んでな」
女の子は嬉しそうに「わーい!」とクロエの方へと駆け出し、クロエもまた優しくその小さな手を握りしめて歩き出した。
「さあ、お姉ちゃんと一緒に行きましょうね」
◆◆◆
ユイが再び冷徹な表情を取り戻し、カイへと向き直った。
「――すでに、合同ギルドに所属するすべての冒険者や、各都市の騎士団の生き残りたちが、あのメインエントランスの前に集結しているわ」
カイは少しだけ意外そうに眉をひそめた。
「へえ、もう集まってるのか? 随分と仕事が早いな」
「ええ。全員が武器を抜き、いつでも外へ討って出る準備(覚悟)を完了しているわよ」
カイは遙か下方の城門の方角を見下ろした。
「……あいつら、あの2万頭のオークの精鋭軍勢の中に、生身で突撃していくつもりなのか?」
ユイが重々しく頷く。
カイははぁ、と大きいため息をついた。
「全く、どいつもこいつも血気盛んというか、無鉄砲というか……。おいユイ、あいつらに伝令を飛ばして、その場で『あと15分だけ待て』と言い渡してくれ」
ユイはその不条理な要求に、怪訝そうな目を向けた。
「……15分? 一体、その短い時間で何をするつもり?」
「ちょっと、お出かけ(買い物)だ」
カイは不敵にニヤリと微笑んでみせる。
「すぐに戻ってくるさ。お前は楽しみに待ってろ」
ユイがそれ以上言葉を重ねるより早く、奥からトトトッと小さな足音が響き、あの女の子が再びカイの衣服の裾をガシッと掴んだ。
カイは呆れたように視線を落とす。
「……おいおい、またお前か?」
女の子はドヤ顔でコクコクと激しく首を縦に振る。
カイは、はぁ、と今日何度目か分からないため息を吐き出した。
「――分かった、分かったよ。本当にお転婆なガキだな」
彼は愛おしそうに少女を再びひょいと抱き上げると、次の瞬間、その姿を空間から完全に掻き消した。文字通り、音もなく、光すら残さずに――。
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第50階層:創生の鋳造所
第50階層は、これまでに目にしてきた第一階層の豊かな自然や穏やかな居住区とは、その在り方が根本から異なっていた。
そこは、超巨大な『創生エネルギー・リアクター(魔力炉)』を中心に構築された、完全封鎖型の古代インダストリアル工業複合コンプレックスだった。
都市へのメインエントランスであり、泥沼の防衛線の最前線となる第一階層とは違い、この第50階層は、巨塔の最深部――いかなる外的要因からも完璧に隔離された、絶対の安全圏に位置している。
その果てしなく広大な幾多のチェンバー(大部屋)は、すべてが未知の研究、兵器の構造構築、そして高位生命体の『人工肉体(器・ヴェッセル)』の生成のためだけに捧げられた禁忌の領域だった。
二人の周囲に、SFの未来都市を思わせる鋼鉄の大空間が出現した。
カイの腕の中の小さな女の子は、驚愕にその目を限界まで丸くして周囲を見回している。
視界を埋め尽くす、見たこともない巨大な魔導機械の群。天井を縦横無尽に走る鋼鉄のトラス構造。透明な導管の中を、まばゆい超高濃度の魔力エネルギーが目に見える奔流となって流れていく。部屋の壁際、そして中央には、巨大なカプセル(培養槽)が幾重にも整然と並び立ち、施設全体が重低音の駆動音を響かせて不気味に脈動していた。
――フワリ。
突如として、女の子の身体が重力を無視して床から浮き上がった。
カイが彼女の手を優しく掴んだままだ。
「わあぁっ!?」
少女は楽しそうに笑い声を上げた。カイは彼女を見つめ、苦笑交じりに釘を刺す。
「おい、あんまり遠くまで飛んでいくなよ?」
女の子は空中をクルクルと楽しそうに回転してみせる。
「見て見て! わたし、空を飛んでるよ!!」
「正確には、俺が俺の魔力でお前を飛ばしてやってるんだけどな」
その言葉に、少女はさらにケラケラと無邪気な爆笑を炸裂させた。
カイは呆れたように頭を振る。しかし次の瞬間、彼の視線が前方の巨大プラットフォームへと向けられた時、その表情から完全にいつもの気怠さが消え失せ、鋭い覇気が据わった。
――彼の脳裏に、かつての記憶の断片が鮮やかに蘇る。
かつて、あの『記憶の監獄』において、彼は最愛の母のために一つの『器(肉体)』を創造した。
神のごとき規格外の精神体を、一分の不具合もなく収容し切るための絶対の人工肉体。
あの当時は、そのプロセスを完遂するためだけに、一国の国家予算を軽く吹き飛ばすほどの莫大な希少資源と、天文学的な時間を必要としたものだが――。
しかし今、彼は他ならぬ『創生エネルギーの結晶』によって駆動する巨塔の内部に直立している。
この施設に満ち満ちている『創生エネルギー』は、通常の魔力とはその次元が根本から違っていた。
それは無から有を生み出す、文字通りの『万物創造の神の光』。
そしてこの広大な鋳造所は、その無尽蔵の神の光を、一滴残さず直接ハッキングして使用することが許可されているのだ。
◆◆◆
カイは施設の中心部にある制御プラットフォームへと歩を進めた。
瞬間、彼の目の前に、空間を引き裂いて巨大なホログラム・スクリーンが出現する。
画面には、人工肉体の素材となる何千、何万という超希少マテリアルのデータがズラリと表示された。カイは神速の速度でそれらをスキャンしていく。――必要なものはすべて、すでにこの空間の中に揃っていた。
「――よし、完璧だ」
彼がプラットフォームの上にそっと片手を置いた。
直後、彼の足元からまばゆい『魔方陣』が鮮やかに浮かび上がる。一つ、また一つ。連鎖的に幾重にも重なり合う、数十もの超高度な魔導数式。
――ゴ、ォォォォォォォォォォォッ!!!
施設の巨大な魔導機械群が、一斉に獣のような咆哮を上げて駆動を開始した。無尽蔵の創生エネルギーが、導管を破裂せんばかりの奔流となって中央の培養槽へと流れ込んでいく。
小さな女の子は近くの空中にぷかぷかと浮かんだまま、見たこともない機械のダイナミックな動きを楽しそうに目を輝かせて眺めていた。
カイの手際は、まさに神速だった。
押し寄せる超希少マテリアルが一瞬にしてエネルギーへと変換され、幾重にも重なり合う神の魔法陣が数式を上書きしていく。圧縮され、超高密度に収束していく神の光。
培養槽の内部において、徐々に『四つの輪郭』が明確な形を結び始めていった。
――完璧なる、人間の形をした四つの肉体(器)。
カイは最後の仕上げとなる稼働シーケンスを微調整した。
ここまでの所要時間、およそ10分。
透明なガラスカプセルの内部には今、一分の隙もない完璧な造形を誇る、四つの最高位の人工肉体が完成し、静かに佇んでいた。
カイは一歩後ろへと下がり、手応えを確かめるように顎を引いた。
「……よし、これなら十分すぎるほど機能するはずだ」
真横に浮かんでいた女の子が、不思議そうにカプセルを覗き込む。
「ねぇおにぃちゃん、それなぁに?」
「……人間(器)だよ」
少女は目を丸くした。
「みんな、ねんねしてるの?」
「いや、まだ中身が入ってないからな」
カイは不敵にニヤリと唇を吊り上げた。
「――まあ、あと1分だけ待ってな。今、最高の中身を呼び出してやるからよ」
◆◆◆
カイはすっと右手を天へと掲げた。
直後、彼の目の前の空間に、禍々しい漆黒の『暗黒召喚陣』が炸裂した。
――ズシィィィィィン……!!!
一瞬にして施設の空気が、重苦しく、冷酷なものへと激変する。部屋の温度が氷点下まで急降下し、どす黒い魔力の霧がチェンバー全体を埋め尽くしていく。
当然、カイの絶対の魔力障壁に守られている小さな女の子は、その破滅的な空間変動の影響をこれっぽっちも受けていなかった。彼女はただ、カイの腕の中に抱かれたまま、不思議そうに霧を見つめている。
――顕現せよ。
召喚魔術が完全発動した。空間を引き裂いて出現する、世界を滅ぼすに十分な、四つの破滅的な『原初の魔力』の爆発。
その漆黒の霧の奥から――四つの、圧倒的な威圧感を纏った影が静かに歩み出てきた。
一人の妖艶な女。もう一人の冷酷な女。一人の屈強な男。そして、もう一人の傲然たる男。
――『原初の悪魔』。
そのコードネームは、ナンバー1(No.1)、ナンバー2(No.2)、ナンバー9(No.9)、そしてナンバー8(No.8)。
世界が誕生した最初期から存在する、絶対にして最強の悪魔たち。
彼らは不快そうに周囲の近代的な施設を見渡し、そして――正面に佇むカイへとその冷酷な視線を突き刺した。
ナンバー1の美しい魔女が、その双眸を鋭く細める。
「……我らを呼び出したのは、あなたかしら、魔王?」
カイは短く頷いた。
「ああ、そうだ」
ナンバー2の氷の女が、周囲の設備を値踏みするように見やった。
「我ら『四人同時』に召喚をかけるとは……大層な自信ね」
「そう言うなよ。急ぎの用事なんだ」
ナンバー8の男が、カイの瞳の奥の真意を測るように冷酷に告げる。
「用件を聞こう。我らを呼び出し、一体何をさせるつもりだ?」
――だが。カイがその質問に答えるより早く、ナンバー9の屈強な悪魔が一歩前へと進み出た。
直後、奴の肉体から、世界を木端微塵に粉砕するほどの凶悪な覇気が爆発的に解放されたのだ。
――ド、ゴォォォォォォォォォンッ!!!
凄まじい衝撃波が施設の鋼鉄の基礎を激しく揺らし、空間自体がパキパキと音を立てて悲鳴を上げる。
膝の上の女の子が、恐怖することもなく、ただ不思議そうにその男を見つめた。
カイもまた、奴の暴挙を静かに見返した。その表情は、どこまでも冷徹で、完全なる無表情。
ナンバー9は挑発するようにさらに覇気の濃度を跳ね上げ、カイの肉体を真っ向から押し潰そうと魔力を収束させる。だが――カイの顔は、一ミリの動揺すら見せなかった。
それは、言葉にせずとも「お前、一体全体、何の間抜けな一人相撲をやってやがるんだ?」と、底知れぬ呆れを含んで問いかけるような、絶対強者の無表情だった。
◆◆◆
小さな女の子は、激しく魔力を放つナンバー9を見つめ、それからカイの顔を覗き込んだ。
「ねぇ、おにぃちゃん……」
「ん? 何だ?」
「あの恐いおじちゃんの頭の毛、さっきみんなで食べた『いちごのケーキ』と全く同じ色をしてるね?」
――シーン。
絶対の、死のような静寂が部屋を支配した。
次の瞬間、ナンバー2の女が「プッ」と吹き出しそうになるのを慌てて顔を背けて隠し、ナンバー1の美女は両手で必死に口元を覆い、ナンバー8の男は今にも大爆笑しそうになるのを堪えて肩を激しく震わせ始めた。
カイは真面目な顔でナンバー9の真っ赤な髪の毛を見つめ、そして深く納得したように頷いた。
「……言われてみれば確かに、あの甘酸っぱい苺のケーキのクリームと、寸分違わぬ完璧なピンク系レッド(イチゴ色)だな」
「――っ、貴様ァァァッ!!」
ナンバー9の顔が怒りで激しく引きつり、その魔力が周囲の鋼鉄の壁を内側から爆発させんばかりに膨れ上がる。
――しかし、次の瞬間だった。
奴の肉体が、完全に凍りついた。
感じたのだ。
言葉では絶対に説明のできない、魂の根源を直接握り潰されるかのような、圧倒的な『絶対の重圧』を。
それは、カイが放った直接的な攻撃でもなければ、凶暴な殺意の類ですらなかった。ただそこに『存在している』というだけで世界を歪ませる、文字通りの絶対神の質量。自分たち悪魔の王たる存在すら、ただのアリん子に格下げしてしまうほどの、測定不可能な次元の格の違い。
ナンバー9の肉体はピキピキと悲鳴を上げ、奴の生物としての生存本能が、脳内で狂ったように警報を鳴らし響かせていた。
(――やめろ! 抗うな! 今すぐ膝を折れ! さもなければ、存在ごと消滅するぞ……っ!!)
奴は脂汗を流しながら、完全に戦意を喪失し、自らの覇気を信じられないほどシュルシュルと萎ませていった。
カイはただ、無言で奴の有様を見守っている。
ナンバー9はプライドを粉々に砕かれながら、恐怖に震える脚で、静かに一歩後ろへと下がって頭を垂れるしかなかった――。
沈黙を破り、ナンバー8の男悪魔が恭しく、しかし冷酷な所作で一歩前へと進み出た。
「――我らをお呼び出しになられた支配者よ」
彼は皮肉めいた笑みを消し去り、微かに頭を垂れる。
「我ら『原初』の力を以て、一体いかなる不条理を蹂躙すればよろしいのですか?」
カイは静かに四人の絶対者たちを見つめ返した。
案の定、誰一人として己の正体に気づいている様子はない。微塵も、だ。
カイは最初からその可能性をミリ単位で予期していた。だからこそ、落胆の感情などこれっぽっちも湧いてはこない。
(――やっぱりな。こいつら一族の最高幹部どもですら、俺が何者であるかを綺麗さっぱり忘れてやがるか)
だが、そんなことはどうでもよかった。
過去の人間関係や絶対の絆が、かつてと寸分違わぬ完璧な形でそのまま戻ってくるなどとは最初から期待していない。
失われたのなら、またこの手で一から築き上げていけばいいだけの話だ。この新しい世界で、もう一度最初から――。
ナンバー1の美しい魔女が、妖艶な笑みを浮かべて先を促す。
「それで? 我々に片付けさせて officer(処理)したい厄介事とは、具体的にどのようなものかしら?」
カイの回答はどこまでも簡潔だった。
「――戦争だ」
四人の悪魔たちの瞳に、鋭い嗜虐の光が宿る。
「現在、この『エリュシオン・オーダー』の絶対境界線を目指して、オークの主力軍勢が猛烈なスピードで進軍してきている」
ナンバー2の氷の女が、その冷酷な双眸を細めた。
「規模(戦力)はどれほど?」
「およそ『2万頭』だ」
ナンバー8が、途端に最高に面白そうな笑みをその唇に浮かべた。
「ほう……。その軍勢を統括する指揮官たちのツラ拝みは?」
「『オークジェネラル(豚大将)』どもだな」
カイはそこで一呼吸置き、不敵にニヤリと笑ってみせる。
「奴らは、それなりに強いぞ」
プライドを粉々に砕かれ、未だ苦虫を噛み潰したような顔をしていたナンバー9が、忌々しそうに声を絞り出した。
「……具体的に、どの程度だ?」
「人間の高度に組織化された大都市を、わずか一晩の間に三つ同時に叩き潰して灰にする程度には、な」
四人は互いに冷酷な視線を交わし合い、その好戦的な魂を歓喜に震わせ始めた。
カイは言葉を続けた。
「俺がお前たち四人に要求する任務は一つだけだ。あの2万頭のオークの精鋭兵卒、および幹部であるオークジェネラルどもの『完全なる戦闘排除』」
彼は親指で自らの胸をポンと叩いてみせる。
「――最高責任者である『オークキング』の首級に関しては、この俺が直々に直葬してやるからよ」
ナンバー1が、満足げに深く頷いた。
「――了解したわ」
◆◆◆
カイの唇の笑みが、さらに底知れぬ深みへと切り替わる。
「――それから、もう一つお楽しみ(おまけ)だ」
悪魔たちが怪訝そうに彼を見た。
「お前たちに、新しい『真名』を授けてやろうと思ってな」
――ッ!!!
その言葉が空間に放たれた瞬間、四人の原初の悪魔たちの肉体が、肉眼で分かるほどにカチリと完全に硬直した。
『命名』――。
彼らのような、世界の誕生と同時に産み落とされた絶対高位生命体にとって、名前とは単なる記号や識別表現の類などでは決してない。
名前とは、自らの存在確率を爆発的に書き換える『絶対の力』であり、『自己認識の核』そのものなのだから。
ナンバー1が、息を呑んでカイを凝視した。
「……あなた、正気なの? 我ら『原初』の存在を丸ごと名付け、その因果のすべてを引き受けると、そうおっしゃるの?」
「ああ、そうだ。文句あるか?」
短い、張り詰めた静寂。やがてナンバー1の美女は、諦めたように、しかし最高に恍惚とした笑みを浮かべて頷いた。
「……いいでしょう。その不条理、謹んで受けてあげるわ」
カイは満足げに微笑み、彼女へと視線を定めた。
「よし、じゃあお前は――今日から『セナ(Senna)』だ」
――ドクンッ!!!
その真名が確定した瞬間、彼女の魂の深淵へと、測定不可能なほどの全能の魔力がドバドバと流れ込み、その存在を世界の理から切り離して上書きしていく。
カイは間髪入れずに二人目の氷の女へと向き直った。
「お前は――『エルヴァ(Elva)』だ」
彼女もまた、自らの魂に刻み込まれる絶対の命名の衝撃に、歓喜の身震いを堪えながらそれを受け入れた。
次にカイはナンバー8の屈強な男悪魔を見つめ――。
一瞬だけ記憶の底をなぞるように目を細め、そして最高に不敵な笑みを浮かべた。
「お前は――『ネロ(Nero)』だ」
その瞬間だった。
『ネロ』という真名が彼の魂の最深部へと定着したその刹那、男の脳内を、これまでに経験したことのない奇妙な精神衝撃が駆け抜けたのだ。
それは、明確な過去の記憶でもなければ、具体的な映像の類でもない。ただの、圧倒的なまでの『既視感(認識)』。魂の細胞が歓喜に狂う、絶対の確信。
(――なんだ、この感覚は……!? 俺は……俺はかつて、この御方の真横に直立していた。この不条理なる絶対強者の配下として、命を賭してその覇道を支えていたはずだ……っ!)
ネロは激しい衝撃に目を見開き、じっとカイの顔を睨みつけた。
なぜこれほどまでに、この白髪の魔王の存在が愛おしく、懐かしく感じられるのか、今の彼の知性では到底説明がつかなかった。――だが、彼はその感覚を、この上なく気に入った。
「ククク……。あなたに仕える新生活、どうやら退屈だけはしなさそうだ」
カイは最後に、頭の毛が苺色のナンバー9へと視線を移した。
「で、お前は――」
「――『ヴァドス(Vados)』だ」
四人目の原初の悪魔もまた、自らの新たなる名前を誇らしげに受け入れた。
四つの真名。四つの新たなる絶対の存在確率。カイは最高に満足げな表情で頷く。
◆◆◆
「――相変わらず、無茶苦茶な魔力の無駄遣い(大盤振る舞い)をするのね、カイ」
不意に、カイの背後の空間から、聞き慣れた澄んだ声音が響き渡った。
振り返ると、そこにはいつの間にか、ユイが静かに直立していた。
カイは気楽に肩をすくめてみせる。
「よう、ユイ。見ての通り、最高のチェスの『駒』が揃ったぞ」
ユイは静かに四人の悪魔たちを見やり、それから彼らの背後に並び立つ巨大な培養槽へと視線を走らせた。その双眸が、高濃度の創生エネルギーを感知して不気味な白銀の輝きを放ち始める。
「……マスター権限を確認。命名個体『セナ』『エルヴァ』『ネロ』『ヴァドス』の四名を、この第50階層の鋳造システムを用いて、上位魔神『魔王』へと限界突破進化させるシステムリクエストを受理。――カイ、この申請を正式に承認するかしら?」
カイは迷うことなく、力強く頷いた。
「ああ、リクエストを完全承認する。大至急、奴らに最高の『器』を叩き込んでやれ!」
ユイがすっと右手を天へと掲げ、システムカウントを開始した。
「――カウント、5」
四人の悪魔たちが、その不条理な世界の書き換えの予兆に身を強張らせる。
「――4」
部屋全体の空間の気圧が、物理的な激痛を伴って跳ね上がっていく。
「――3」
背後の四つの巨大カプセルが、目も眩むような神の光を放って完全起動した。
「――2」
無尽蔵の創生エネルギーが、カプセルの内部において光の濁流となって渦巻き始める。
「――1」
ド、ゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
第50階層の工業複合施設全体が、まるで大地震に襲われたかのように激しく共振し、悲鳴を上げた。
「――進化シーケンス、完全完了。真名:魔王の顕現よ」
次の瞬間、四人の原初の悪魔たちの精神体が空間から完全に掻き消え、それぞれの目の前にあった人工肉体(器)の内部へと超高速で吸い込まれていった。
彼らの絶対の魂が、創生エネルギーによって編み上げられた完璧なる人工肉体と完全に融合・結合していく。
透明なガラスカプセルの内部は、もはや直視することすら不可能なほどの超高濃度な創生の光で満たされ、シュゴォォォォッと凄まじい音を立てて沸騰していた。
その内部で行われていたのは、既存の生命の常識を根底からあざ笑う、文字通りの『神の再構築』。
骨、筋肉、内臓、血液、そして魂の回路にいたるまで、すべてが『創生エネルギー』によって極限の次元までビルドアップされていく。
四つの肉体が、内側から放たれる圧倒的な魔力の波動によって、その造形をより洗練された禍々しき絶対強者のものへと変貌させていく。その体内で眠る魔力総量が、倍、さらにその数十倍へと爆発的に膨れ上がっていく。
――プシューーーーッ!!!!!
頑強にロックされていた透明カプセルのハッチが一斉に開放され、大量の白い魔力蒸気が床を埋め尽くした。
その霧の奥から、ゆっくりと四つの影が、大地を踏みしめて歩み出てくる。
セナ、エルヴァ、ネロ、ヴァドス。
人工の器を手に入れ、世界のシステムから『魔王』としての絶対の足場を固定された彼らの戦闘力は――今や、かつての『原初』の時代すら遥かに凌駕する、神をも屠るほどの破滅的な次元へと到達していたのだった――。
カイは覚醒した四人を静かに見つめ、それからおもむろに片手を掲げた。
彼の絶対の魔力が光の粒子となって四人の肉体を包み込んでいく。ボロボロだった彼らの衣服が一瞬にして霧散し、代わりに新たなる漆黒と白銀の軍服がその身体に編み上げられていった。
それは、激しい戦闘に完璧に耐えうる機能性を誇りながらも、同時に『エリュシオン・オーダー』の絶対の威光と最高権力を体現する気高き礼服だった。
四人は自らの新たなる装いを確かめ、それから畏怖の目をカイへと向けた。
カイは満足げに不敵な笑みを浮かべた。
「――お前たち四人を、今日から我が『エリュシオン・オーダー』の最高幹部――『四天王』に任命する」
セナが優雅に、深くスカートの裾を引いて頭を垂れた。
「――御意。謹んでその任、お受けいたします、魔王カイ様」
エルヴァがそれに続く。
「……感謝いたします」
ヴァドスもまた、その屈強な身体を折って一礼した。
「我が王よ。貴殿の期待を裏切るような無様は、決して晒さぬと誓いましょう」
ネロは最高に不敵な笑みをその唇に吊り上げた。
「ククク……。俺たちに任せておきな。完璧に片付けてやるさ」
カイは短く頷いた。
「よし。じゃあ、まずは担当エリアの割り振り(配置)だ。――セナ」
「はい、我が王」
「お前には『第40階層』の絶対管理者を任せる」
セナは深く平伏した。「了解いたしました」
「エルヴァ、お前は『第50階層』だ」
「……はっ」
「ヴァドス、お前は『第60階層』」
ヴァドスが力強く頷く。「応!」
「そして、ネロ――」
カイは男を真っ直ぐに見据えた。
「お前には『第70階層』の最深部を統括してもらう」
ネロの唇の笑みが、さらに好戦的に跳ね上がる。「喜んで、その不条理を引き受けよう」
そこで――カイの表情から一切の軽薄さが消え失せ、冷徹な覇気がその場を支配した。
「――最後に、最高絶対命令だ」
四人の魔王たちの背筋が、本能的な恐怖と興奮でピンと跳ね上がる。
「あのオークの軍勢を、一頭残さず『戦闘排除』しろ。当然、幹部であるオークジェネラル(豚大将)どもも含めて、だ」
鋳造所全体が、死のような緊張感に包まれた。
「ただし――この塔を守るために集まっている冒険者や騎士団の生存者、防衛線の人間側の損害だけは、極限まで最低限に抑え込め。……できるな?」
セナが冷酷な、しかし絶対の忠誠を誓う瞳でカイを見つめ返した。
「――すべては、あなたの望むままに(アンダースタンド)」
カイはふっと口元を和らげた。「上出来だ」
◆◆◆
彼は改めて、四人の新たなる家族を見つめた。ほんの一瞬の間、何も言わずに。
彼らは、かつての記憶を失っている。
共に地獄の戦場を駆け抜けた記憶も、無為な時間を分かち合った日々のデータも、かつて彼が絶対の主として彼らを従えていたという事実すらも、今の彼らの中には存在しない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
過去の残滓を力ずくで押し付けるような真似はしない。ただ、この新しい世界において、もう一度彼らと新しい絆を構築していけばいいだけだ。いつか、かつての黄金期をも遥かに凌駕する、絶対に壊れることのない最強の組織を――。
カイはユイへと視線を向けた。それから、未だ上の階層で人間の子供の相手をさせられているであろうクロエの気配を感じ取り、最後に――巨塔の遥か外側、破滅の足音が迫りつつある戦場へとその視線を射抜いた。
オークの軍勢は、すでにすぐそこまで迫っていた。
奴らの先行斥候部隊は、第一階層のメインゲートへと続く侵入ルートの絶対座標を完全に掌握している。
2万頭の圧倒的な漆黒の軍勢が、北の平原を地鳴りとともに埋め尽くしながら強行軍を続けており、その背後には巨大な攻城獣や物資を積んだ荷馬車の列が果てしなく続いている。奴らの先遣部隊が、我が塔の最終防衛境界線へと接触するまで、もはや一時間すら残されてはいなかった。
第一階層の内部では、大破した城門のすぐ裏側で、息を呑む冒険者たちや生き残った正規騎士団の面々が、武器のグリップを血がにじむほどの力で握りしめて待機していた。
彼らの視線の先、遥か地平線からは、世界を覆い尽くさんばかりの巨大な土煙が秒単位で膨れ上がっていくのが見えている。大地を揺らす不気味な軍鼓の重低音が、ビリビリと彼らの鼓膜を激しく震わせ始めた。
――カン、カン、カン、カン……!!!
巨塔の内部の全エリアにおいて、ついに侵略の到来を告げる『非常警戒の鐘』が狂ったように鳴り響く。
外周区にいた一般の難民たちは、衛兵たちの誘導によって、完璧な魔法防御を誇る内側の安全シェルターへと大至急退避させられ、商人たちは血相を変えて店を閉め、家族連れは互いの手を強く握りしめて祈りを捧げていた。
最前線に立つすべての戦士たちが、同じ一つの冷酷な現実を肌で理解していた。
――オークどもは、もうすぐそこに『来ている』のではない。すでに俺たちの『喉元』へ牙を突き立てているのだと。
カイは静かに背を向け、歩き出した。
「――行くぞ」
その背中に従うように、新生した四人の恐るべき『魔王』たちが、漆黒の外套をなびかせて音もなく歩陣を進める。
そして巨塔の遥か外側において、自らの無敵の勝利を盲信する2万頭のオークの兵卒どもは、次なる獲物を食い散らかそうと、今まさに運命の境界線を踏み越えようとしていた。
地平線を埋め尽くす禍々しい軍旗。自重で悲鳴を上げる巨大な攻城兵器。
先頭を行進する『オークジェネラル』たちの醜悪な顔には、三つの大都市を無条件で叩き潰してきたという絶対の傲慢と確信の笑みが浮かんでいる。
奴らは知る由もなかった。
自分たちが今まさに蹂躙しようとしているその聖域が――わずか数分前に、世界を滅ぼすに十分な『四頭の怪物』を新たに産み落としてしまったという、その絶望の真実を。
――世界を揺るがす大戦争の火蓋が、今度こそ完全に切って落とされようとしていた。




