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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
オークの侵攻

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第91話:新しい家

   新生活の始まり


『エリュシオン・オーダー』に、静かな朝が訪れた。

故郷の都市が破滅の炎に包まれて以来、数万人もの難民たちが、耳を突き刺す警報の鐘も、民衆の悲鳴も、地鳴りのような軍勢の足音も、兵士たちの怒号も聞くことなく目覚めたのは、これが本当に初めてのことだった。


彼らを迎えたのは、ただ穏やかな、優しい朝の木漏れ日だけ。

多くの人々にとって、その圧倒的な平穏こそが、かえって奇妙で現実感のないものに感じられていた。


一人の小さな女の子がパチリと目を覚まし、見慣れない高い天井をじっと見つめた。

母親はすでに起きており、困惑した様子で部屋の中を見回している。

「……ここが、私たちの部屋なの?」


父親が頑丈な岩壁の感触を確かめ、呆然と呟いた。

「――そのようだな。夢じゃなさそうだ」


配給された家屋は決して贅沢な宮殿の類ではなかったが、彼らが予想していた「難民キャンプ」のイメージを遥かに凌駕する素晴らしいものだった。

機能的なキッチン、清潔なバスルーム、いくつかの独立した寝室、十分な家具、そして魔法で生み出される濁りのない綺麗な水。それどころか、小さな貯蔵庫には当面の生活に困らないだけの基本的な物資(配給)までがギッシリと詰め込まれていたのだ。


母親がそっと窓を開け放ち、その場でカチリと硬直した。

窓の外には、地平線の彼方まで整然と広がる圧倒的な『居住区(セクター)』の街並みが広がっていた。

家々からは、続々と難民たちが外へと這い出してくる。ある者は未だに状況が掴めずに困惑し、またある者は静かに涙を流して平穏を噛み締めていた。

しかし、大人の深刻さを余所に、子供たちというのはすでに昨夜の恐怖など忘れてしまったかのように、元気いっぱいに街路を駆け回り始めていた。


一人の男の子が、遠くの方を指差して叫んだ。

「お母ちゃん! 見て、あれ!!」


母親がその指の先を見上げる。

広大な居住区のさらに向こう側には――どこまでも青々とした巨大な『森林』が広がり、さらにその奥には険しい山々、海と見紛うほどの湖、清らかな河川、そして果てしない平原が広がっていた。


――『エリュシオン・オーダー』。

その場所はもはや、ただの「建築物の塔」などという概念を完全に超越していた。

それは、塔の内部に丸ごと内包された、一つの広大なる『世界』そのものだったのだ。


   ◆◆◆


その頃、当の魔王カイは、片手にパンをぶら下げて居住区の街路をのんびりと歩いていた。

彼は不意に足を止め、周囲の圧倒的な雑踏をジト目で凝視した。

元気よく走り回る子供たち。荷物を運び込む家族連れ。武器の手入れをする冒険者やギルド職員の姿。


カイはゆっくりと、口元へ運びかけていたパンを下げた。


「……おい。何で俺の塔の中に、こんなにガキどもが溢れかえって走り回ってやがるんだ?」


真横を歩いていたクロエが、至って冷静なポーカーフェイスのまま彼を見やった。


「何をおっしゃっているのですか、カイ様。ご自分で難民たちの滞在を許可したのでしょう」


「それは分かってるよ」

カイは大雑把に賑やかな街路を指し示した。

「許可はした。したけどな……まさか奴らが、こんなガチのスピードでここに『定住』し始めるとまでは思ってなかったんだよ!」


そこへ、ユイが空間から音もなく姿を現した。


「人間というのはね、住むべき『家』を与えられたら、大抵はそこで生活を始める生き物なのよ、カイ」


カイはユイを凝視した。


「……そりゃまあ、違いないな」


彼はパンをもう一口齧り――そして、再び不自然に動きを止めた。


「待てよ。……今、ここには全部で何人の人間が暮らしてるんだ?」


不穏な静寂が流れる。

カイがユイへと視線を向けると、彼女はすべてを見透かしたようなポーカーフェイスで応じた。


「――大雑把に見積もって、数千人という規模ね」


カイの表情が、完全に般若のごとく真っ白にフリーズした。


「……数千人」


「ええ」


「俺はてっきり、せいぜい数百人程度の大行列(パレード)かと思ってたんだが?」


クロエが片方の美眉をピクリと跳ね上げた。


「カイ様。あなたは『三つの都市』の難民を丸ごと受け入れたのですよ?」


「文字面だけで聞くと、もうちょっとマシな数字に聞こえるマジックだな、おい」


「では、どのような表現がお好みでしたか?」


カイははぁ、と大きいため息を吐き出した。

「知るかよ……」

彼は広大な居住区の雑踏を見渡し、その向こうの森や山々、そして遠くに見える商業区のシルエットを睨みつけた。

「……やっちまった。完全に俺の計算ミス(大誤算)だ」


クロエがクスリと、この上なく楽しそうに微笑んだ。


「ええ、大誤算ですね」


カイは心外だと言わんばかりに顔をしかめてみせる。

「おい、俺は良かれと思って人助けをしただけだぞ!?」


「ええ。そして、実際に救われたのです」


ユイも満足げに頷いた。

「あなたのそのちょっとした『計算ミス』のおかげで、数千もの尊い命が未来を繋ぎ止めることができたのよ、カイ」


カイは二人の美少女を交互に睨みつけ、最後にぽつりと呟いた。

「……そりゃどうも」


彼は再び歩き出した。

口では文句を並べ立ててはいるものの、その声音に本物の「怒り」の感情は微塵も含まれていなかった。

元々は、自分たちが静かに暮らすための拠点としてユイと共に築き上げた、この『エリュシオン・オーダー』。

だが今、その場所には、すべてを失って絶望の底にいた難民の家族たちがひしめき合い、未来へ向けて力強い一歩を踏み出し始めている。

――その圧倒的な活気を前にして、魔王たる彼とて、本気で不満を漏らせるはずがなかった。……いや、漏らすことはできるが、あえて行動には移さない、というだけの話だ。


   ◆◆◆


正午を迎える頃には、『エリュシオン・オーダー』の熱気はさらに爆発的なものへと膨れ上がっていた。

一般の難民たちが豊かな森や美しい湖の散策を楽しむ一方で、血気盛んな冒険者たちの一団は、塔の内部に設けられた広大な『訓練場(演習エリア)』を発見し、すでに行動を開始していた。

奴らは、塔の魔力によって生み出される野生の魔物たちを相手に、早くも実戦形式のレベル上げ(シミュレーション)を開始していたのだ。


そして、そのエリアから帰還した奴らの反応は、一般の難民とは根底から異なっていた。

一人の若手冒険者が、全身を泥と返り血で真っ黒に汚しながら居住区へと這い戻ってきた。その顔には、なぜか不気味なほどの笑みが浮かんでいる。


「――おい! 恐ろしい魔物を見つけたぞ!!」


待ち構えていた相棒が、彼のボロボロの有様を上から下まで凝視した。

「強さはどれくらいだ?」


「ガチで俺の命が飛びかけるレベルで強かった!!」


相棒は呆然と目を丸くした。

「……お前、なんでそんなに嬉しそうな顔をしてやがるんだ?」


「決まってるだろ!」

生き残った若者は、ぎらついた目で拳を握りしめた。

「――今すぐ、もう一回あいつの首を獲りに突撃したいからだよ!!」


相棒は、はぁ、と深いため息を吐き出した。

人間という生き物は、オークの恐怖の侵略を辛うじて生き延びた直後だというのに、自らの意志でさらなる死闘(化け物)を求めて狂喜乱舞する性質を持っているらしい。


   ◆◆◆


カイはその光景を、遠く離れた特等席からジト目で眺めていた。


「……人間ってやつは、本当に底の知れねえイカれた生き物だな」


ユイが同意するように深く頷く。

「ええ、本当にね」


「お前、あいつらの無茶を止めなくていいのか?」


「止める理由がどこにあるの?」

ユイは誇らしげに、美しい巨塔の階層群を見上げた。

「この『エリュシオン・オーダー』の内部にはね、あの血気盛んな冒険者たちが一生を賭けて挑み続けても、到底遊び尽くせないほどの膨大な魔物、未開のエリア、古代の遺跡、未知の魔術的特異点が完全に揃っているのよ?」


カイは目をパチくりとさせた。

「……どれくらいの期間、持ちこたえる?」


ユイは不敵に、極上の笑みをカイへと向けた。


「――理論上は、『永遠』にね」


それを聞いた瞬間、カイの唇が、ゆっくりと不敵な笑みの形に吊り上がっていった。


「――フッ、そいつは傑作だ」


どうやら、あのタヌキ親父の難民押し付け作戦も、結果的には最高のスパイスとして機能し始めたらしい。

この『エリュシオン・オーダー』は、単なる可哀想な難民たちの避難所(シェルター)なんかじゃない。

その内部には、未だ主であるカイすら足を踏み入れていない未開の森林、正体不明の古代遺跡、地底深くへと伸びる無限の洞窟、そして――管理者であるユイが、あえて意図的に手をつけることなく放置した、無数の魔術的特異点が、今もなお静かに『挑戦者』の到来を待ち受け続けているのだから――。


『エリュシオン・オーダー』の内部に隠された神秘は、冒険者たちに何世代にもわたる果てしない仕事をもたらすに十分なものだった。

人々はただこの場所に流れ着き、定住し、そして退屈な日々に飽き飽きする……なんてことには決してならない。彼らはこの場所で新たな生活を築き、働き、探検し、研究し、修行を重ね、冒険者として未だ誰も目にしたことのない未知の発見を追い求めることができるのだ。


カイは目の前に広がる豊かな大森林へと視線を向けた。

「……案外、これなら本当に上手くいくかもしれないな」


クロエが隣で優しく微笑む。

「ふふ、カイ様がうっかり創り上げてしまったこの『偶発的な文明』も、そう悪いアイデアではなかったかもしれませんね」


その言葉を聞いた瞬間、カイは露骨に嫌そうな顔をして眉をひそめた。

「おい、それを『文明』なんて大層な言葉で呼ぶのはやめろ」


「どうしてですか?」


「だってよ……そんな大層な名前をつけちまったら、俺に『最高責任者としての義務(責任)』ってやつが発生しちまうだろ」


ユイが冷徹なジト目を彼に向ける。

「カイ、あなたには最初からその責任があるのだけれど?」


カイは聞こえない振りをすることに決めた。


   ◆◆◆


その日の午後遅く、破滅した三つの都市から命からがら生き延びた冒険者ギルドの代表者(ギルドマスター)たちが、一堂に会していた。

これまでは何年もの間、それぞれの都市が独立した組織として独自のギルド運営、所属する冒険者、クエスト、そして数々の記録を管理してきた。しかし、自分たちの故郷は跡形もなく消え去り、民衆は散り散りになり、今や三つの勢力すべてがこの一つの巨大な魔法建築の中で肩を寄せ合って暮らしている。


一人のギルドマスターが、何枚もの重要書類をテーブルの上に並べた。

「――皆に提案したい、重大な議題がある」


他の代表者たちが重々しく頷く。


「我々はこれ以上、三つの別々のギルドとしてバラバラに機能し続けるべきではない」


「ああ、故郷の街は消えた。だが、俺たちの仲間は全員ここに集まっている」


「それに、この『エリュシオン・オーダー』には、我々が活動するには十分すぎるほどの広大な領土(スペース)が存在する」


最初に口を開いたギルドマスターが、部屋全体を見渡した。

「――ならば、我々の力を一つに結集し、ここに唯一無二の『永久合同ギルド』を正式に設立するべきだ」


張り詰めた沈黙。数秒の後、誰かが力強く頷いた。

「……異議なし。この『エリュシオン・オーダー』を本拠地とする、単一の巨大ギルドの誕生か」


「これなら、三つの都市から生き残ったすべての冒険者たちが、派閥を越えて真の仲間として手を取り合うことができるな」


「塔の内部におけるクエストの管理、未開エリアの共同調査、難民たちの生活治安維持、そして――あのオークの軍勢に関する情報収集の統合。すべてが円滑に回るはずだ」


議論を重ねれば重ねるほど、そのアイデアがどれほど合理的で実戦的であるかが証明されていく。

やがて、彼らは完全な合意に達した。三つのギルドは正式に合併し、すべての冒険者データと記録は一つに統合され、所属する戦闘員たちは一つの強固な組織の元で動くことになる。

これより、『エリュシオン・オーダー』は彼ら新生ギルドの永久不滅の本部となるのだ。


――ただし、この計画を断行するにあたり、どうしても事前に『許可』を得なければならない絶対的な人物が、一人だけいた。

この塔の支配者――魔王カイである。


   ◆◆◆


彼らは、中央会議場に気怠げに腰掛けていたカイの元へと赴いた。

一人のギルドマスターが決死の面持ちで一歩前へ進み出る。

「――魔王カイ様」


カイが億劫そうに視線を上げた。

「んー? 何だ?」


「我々は……この『エリュシオン・オーダー』の内部に、すべての力を統合した永久的な冒険者ギルドの拠点を正式に設立したいと考えております」


カイは目をパチくりとさせた。

「……ギルド?」


「はっ、左様にございます」


「ああ、いいぞ。好きにしろよ」


あまりの即答ぶりに、ギルドマスターの動きがピタリと停止した。

「……え? それだけで、よろしいのですか?」


カイは逆に怪訝そうな顔をした。

「何だ、他に何か言ってほしい名台詞でもあったか?」


「いや……我々はてっきり、もっと厳格な手続きや、多大なる許可の条件を突きつけられるものと覚悟しておりましたので……」


カイは気楽に肩をすくめてみせる。

「お前らが俺に『使わせてくれ』と聞いて、俺が『いいぞ』と答えた。それ以上の何が必要なんだよ。別に俺は、お前らがここでギルドを作ろうが何しようがこれっぽっちも困らん」


ギルドマスターの顔に、言葉にできないほどの驚愕と感謝の念が浮かんできた。


カイは背もたれにゆっくりと体重を預ける。

「それに、客観的に考えてもそいつは俺にとっても都合が良い(有用だ)」

彼は広大な塔の天井を見上げた。

「この塔にはな、未だ誰も足を踏み入れたことのない未開のエリアが何百箇所も眠ってやがる。中には、ガチで命が飛びかける危険な場所もあれば、お笑い草みたいなふざけたギミックの場所もある」


傍らのユイが、淡々と冷静な補足を付け足した。

「ええ。中には、管理者である私ですらその起源を特定できていない、高濃度の魔術的特異点(アノマリー)を内包したエリアも存在しているわ」


カイは深く頷いた。

「ほらな?」

彼はユイをビシッと指差してみせる。

「そういうことだ」

それから再び、呆然とするギルドマスターたちへと視線を戻した。

「お前らが人間どもを組織して、この塔の謎を解き明かしたり、クエストをこなしたり、住民の安全を守ったり、オークのデータを集めたりしてくれるってんなら、むしろ願ったり叶ったりだ。大いにやってくれ」


代表のギルドマスターの唇に、ようやく確かな喜びの笑みが浮かんだ。

「……寛大なる御心に、深く感謝いたします!」


カイはしっしっと手を振った。

「ただし、何度も言うが、俺の『我が家』を木端微塵にぶっ壊すような真似だけは絶対にすんなよ?」


その台詞を聞いた瞬間、ギルドマスターたちの動きが同時にカチリと硬直した。


カイは彼らの不自然な沈黙をジト目で睨みつける。

「……おい。何だよ、その間は?」


ギルドマスターは冷や汗を流しながら、恐る恐る問いかけた。

「……あの、大変差し支えなければお聞きしたいのですが……魔王カイ様の仰る『木端微塵(破壊)』とは、具体的にどの程度の規模(パーセンテージ)までなら許容範囲……ということでよろしいでしょうか?」


カイは死んだ魚のような目で男を凝視した。

「……頼むから、俺に今の許可を後悔させるような真似だけはしないでくれよ、マジで」


   ◆◆◆


夕闇が訪れる頃には、『エリュシオン・オーダー』の第一階層において、記念すべき最初の『新生合同ギルド本部』の骨組みが急速に形作られ始めていた。

陥落した三つの都市から集まった無数の冒険者たちが、一つの巨大なホールへと集結していく。

ある者は生き別れていた旧友との奇跡的な再会に涙し、またある者はかつて別の都市で最大のライバルと目していた宿敵と火花を散らし合っていた。

当然、あちこちで意見の食い違いや口論、果ては拳の殴り合い(小競り合い)すら勃発していたが――。


しかし、その根底には、確かに溢れんばかりの『笑い声』が存在していた。

あのオークの破滅的な侵略が始まって以来、人々が胸の中に「底知れぬ恐怖」以外の温かい感情を宿すことができたのは、これが本当に初めてのことだった。

彼らは自らの故郷を奪われ、すべてを失った。――しかし、本当に全てが消え去ったわけではなかったのだ。

彼らには今、身を寄せるべき絶対の聖域(場所)があり、共に汗を流す仲間(仕事)があり、自分たちを優しく包み込んでくれる隣人がおり、そして何より――明日という未来へ向けて歩み出すための明確な『希望』が、確かにこの手に残されていた。


『エリュシオン・オーダー』は、ただの避難所(シェルター)から、彼らの真の『我が家(ホーム)』へとその姿を変えつつあったのだ。


   ◆◆◆


一方その頃――あの美しき巨塔の喧騒から遥か遠く離れた戦線において、破滅のオークの軍勢は不気味に進軍を停止させていた。

蹂躙された人間の三つの都市は、今や完全にオークの絶対的な支配下(コントロール)に置かれていた。

城壁には人間の国旗に代わり、禍々しいオークの軍旗が冷酷に風にたなびき、街路は武装した兵卒どもによって完全に占拠されている。都市内部に残されていた大量の食料、武器、そして建築資材や魔力資源が、凄まじい手際で一箇所へと集積されつつあった。


『オークジェネラル(豚大将)』たちが、占領した領土の再組織化と治安維持を冷酷に執行する中、軍勢の本隊は早くも『次なる侵略キャンペーン』へ向けて、牙を研ぎ澄ましながら牙城を固めていたのだ。


占領した中で最も巨大な要塞の作戦室。

その中央に設えられた巨大な円卓の上に広げられた広域戦略地図を、一頭の絶対者が冷酷に見下ろしていた。

――オークキング。


その王を取り囲むように、数頭の最高幹部たる将軍たちが、微動だにせず直立不動の姿勢を保っていた――。


一頭の将軍が、円卓の戦略地図の周辺地域を指差した。

「――すでに人間の三つの都市の完全なる制圧(セキュア)を完了しております」


別の将軍が冷酷な報告を付け足す。

「我が軍側にも多少の損害(ロシズ)は出たものの、全軍の戦力を削ぐには程遠い軽微なものに過ぎません」


オークキング(オークの王)は傲然と頷いた。

「フッ、上出来だ」


彼らの侵略作戦は、当初の予測を遥かに上回る大成功を収めていた。人間の軍隊など奴らの前には無力に等しく、文字通りわずか一晩の間に三つの大都市が跡形もなく蹂躙されたのだ。


オークキングは圧倒的に強かった。

彼の率いる幹部将軍たちも、その背後にひしめく2万の軍勢も、すべてが規格外の強さを誇っていた。

この軍隊は、世界のどこかに自分たちよりほんの少し『強い個体』が存在するからといって、それだけで呆気なく瓦礫のごとく崩壊するようなヤワな有象無象(モブ)ではない。彼らには国を滅ぼし、戦争に勝利するための絶対的な『組織の暴力(パワー)』があり、それを自分たちが一番よく理解していた。


そして――その絶対の自信こそが、今や破滅的な『驕り』へと変わりつつあった。


   ◆◆◆


一頭のオークジェネラルが、さらにその先にある戦略地図の未開区域を突き刺した。

「この先には、未だ手つかずの人間の領土がいくつか存在します」


オークキングの醜悪な双眸が、その地名を射抜く。

「――アステリア王国、か」


「はっ」


「……その先には何がある?」


将軍は一瞬だけ言葉を濁し、慎重に答えた。

「――さらにその最奥に、もう一つの独立領土が存在します」


「何だ? どいつの縄張りだ」


「……『エリュシオン・オーダー(Elysian Order)』にございます」


その真名を聞いた瞬間、オークキングは不快そうに太い眉をひそめた。

王とて、その噂は耳にしていた。全100階層からなる謎の巨塔。新興の独立領地。そして、今回自分たちが叩き潰した三つの都市から逃げ延びた数万もの難民を、そっくりそのまま飲み込んだという不条理な聖域。

そこを統治しているのは、今回正式に列柱へと名を連ねた新たなる魔王――『カイ』。


オークキングは地図の上のその座標を数秒の間、冷酷に睨みつけ――そして、おもむろに醜悪な笑みを浮かべた。


「――フッ、そいつを我らの『蹂躙リスト』に付け加えろ」


傍らの一頭の将軍が、驚愕に目を丸くした。

「……あの『エリュシオン・オーダー』を、ですか!?」


「そうだ」


「しかし、あの巨塔の内部構造や魔王の戦力データに関しては、未だ不明な点があまりにも多すぎます!」


「ならば、力ずくで奪い取って中身を検分してやるまでよ」

オークキングは極大の黒い駒を、地図の巨塔のシルエットの上へとドスンと叩きつけた。

「あの塔には、莫大なる未知の『資源』が眠っているはずだ」


別の将軍が、王の意図を察して獰猛に牙を剥く。

「なるほど……。それに、我が軍が追い詰めた数万もの人間の民間人が、一箇所に閉じ込められているわけですからな」


「――すなわち、無限の『食料』であり、奴隷としての『労働力』であり、最高の『新領土』というわけだ」


オークキングは満足げに唇を吊り上げた。

「その通りだ。完璧な作戦(プラン)だろう?」


円卓の幹部たちの誰一人として、王の決定に異議を唱える者はいなかった。

自分たちが今この瞬間、この大戦争における『史上最悪の致命的誤算(エラー)』を選択してしまったなどとは、彼らの傲慢な知性では万に一つも想像すらできなかったのだ。


オークの軍勢の最大の武器であったはずの圧倒的な強さは、今や奴らを破滅へと導く最大の弱点(アキレス腱)へと変貌しつつあった。

すなわち――底の知れぬ『強欲』。


彼らはすでに、持て余すほどの勝利を手に入れていた。三つの大都市を支配下におき、数万の兵卒を従え、これ以上の版図拡大を維持するに十分すぎる物資を強奪したのだ。

だが、その程度では奴らの飢えは満たされない。より多くの血を、より多くの領土を。


その結果、奴らは絶対に『リスト』に載せてはならない最悪の怪物の逆鱗を、自らの意志で踏み抜くことを決意した。

――新たなる魔王カイの絶対の聖域、『エリュシオン・オーダー』を。


   ◆◆◆


一方その頃、あの不条理なる巨塔の内部において、リンとソラの二人はようやく当面の生活拠点となる『自室』を配給されていた。

それは決して宮殿のような豪奢な部屋ではなかったが、避難民の身にしてみれば十分すぎるほどに清潔で、快適な空間(ルーム)だった。


ソラは部屋に入るなり、弾かれたようにベッドの上へとダイブした。

「――ぷはぁぁ! 私、この生活なら一生続けられる気がするよ……」


リンはその締まりのない相棒の有様を見て、クスリと楽しそうに笑った。

「あはは! ソラ、ここに来てまだ丸一日も経ってないんだよ?」


「関係ないね!」

ソラはベッドの上でゴロゴロと仰向けに転がった。

「っていうか、本当にこの場所、色んな意味で頭がおかしい(クレイジー)ってば……」


二人は午後の一行を利用して、第一階層の周辺を軽く探索していたのだ。

そこにあったのは、軍隊が丸ごと一つ迷い込んでもお釣りがくるほどの広大な森林。険しい山々に囲まれた、まるで海のような巨湖。無数の冒険者たちが狂喜乱舞してレベル上げに励む巨大な訓練場。ソラが途中で冊数のカウントを放棄したほど不条理に巨大な大図書館。活気溢れる中央市場、広大な農業エリア、高度な魔導研究施設。――そして、誰もその中身を説明しようとしない、厳重に封印されたいくつかの謎の地下入り口。


さらに驚くべきは、そこに生息する魔物たちの生態だった。

下層の雑魚はともかく、中には経験豊富な高ランク冒険者すら血相を変えて挑むほどの強力な個体までが、塔の魔力によって無限に湧き出している。噂によれば、さらに上の階層には、未だ歴史上の誰も識別したことのない未知の超高位生命体までが潜んでいるという。


ソラはまばゆい天井をぽつりと見つめた。

「これ、もう『塔』なんて可愛い名前で呼んでいい規模じゃないよね……」


リンが窓の外を見やりながら、優しい笑みを浮かべる。

「うん……。実質、一つの『国家』だよね、ここは」


ソラは少しだけ思考を巡らせ、そしておかしそうに付け足した。

「――わざわざ世界の『外側』に出るのを忘れちゃった、引きこもりの国家、って感じかな?」


リンの笑い声が、静かな部屋に響く。

ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ、あの地獄のような戦火の恐怖を忘れ、いつもの日常が戻ってきたかのような錯覚を覚える。――ほんの一瞬だけ、だ。


   ◆◆◆


不意に、リンの顔から笑みが綺麗さっぱりと消え失せた。

彼女は弾かれたように、居住区の窓の向こうの景色へと視線を走らせる。


――また、だ。

あの不条理なまでの『既視感(波動)』が、彼女の細い身体をビリビリと駆け抜ける。


4年前、あの『太陽の涙』の絶望の夜に、己の魂を優しく、力強く包み込んでくれたあの絶対の魔力。

今、そのエネルギーの源泉は、他ならぬこの『エリュシオン・オーダー』の最上階から、この世界全体を支配するように静かに脈動している。

そして彼女は、その魔力の主が一体誰であるのかを、すでに「完全に特定」していた。


――魔王、カイ。


彼女は未だ、彼の秘められた本当の素性(プロフィール)を知らない。

なぜ彼の魔力があれほどまでに懐かしく、胸を締め付けるのか、そのメカニズムも分かってはいない。彼が近くを通り過ぎるだけで、どうして自分の心臓がこれほどまでに狂暴な拒絶と歓喜のビートを刻むのか、その理由すら掴めてはいなかった。

――だが、もはや自分の魂の叫びを無視することなど、絶対に不可能だった。


真横で彼女の異変を察知したソラが、ゴト、とベッドから上体を起こした。その瞳には、からかいの色は微塵もない。

「……リン。また、あの人のことを考えてるんだね?」


リンは静かに、しかし決然と首を縦に振った。

「うん……。あの魔力、やっぱり間違いないよ」


「――ずっと探していた、あの夜の救世主と同じなのね?」


「寸分の狂いもない。完全に、あの時の気配そのものだよ……」


ソラは完全に押し黙った。

彼女とて、4年前の『太陽の涙』の夜の恐怖を忘れたわけではない。あの時、リンの魂を包み込んだ全能の気配は、傍らにいたソラ自身も微かに肌で感じ取っていたのだ。

そして今、二人がこうして『エリュシオン・オーダー』の内部に足を踏み入れた以上、目の前の魔王と自分たちの運命の鎖は、もはや否定しようのない絶対の現実として、そこに存在していたのだった――。


リンはすがるような目を相棒に向けた。

「……ソラ。人間って、全く同じ魔力の波形(エネルギー)を持つことってあるのかな?」


「似たような波形? それなら確実に存在するよ」

ソラは少しだけ顎に手を当てて思考を巡らせ、それから静かに首を横に振った。

「でも、寸分の狂いもなく完全に『同一』かと言われたら話は別。普通ならあり得ないね」


リンは再び、夜の静寂に包まれた居住区の窓の向こうを見つめた。

「わたし……あの人が本当は誰なのか、どうしても知りたい」


ソラはすぐには答えなかった。ただ、いつも通りの優しく頼もしい笑みをその唇に浮かべる。

「――だったら、全力で突き止めようよ」


   ◆◆◆


翌朝、リンとソラの二人が第一階層の美しい庭園の遊歩道を歩いていると、前方の木々の隙間から、対向して歩いてくる一人の男の姿が目に入った。


無造作に揺れる白髪。あまりにもラフな私服。両手を気怠げにポケットに突っ込んでいる。

――魔王カイ。


その姿を捉えた瞬間、リンの歩みがピタリと止まり、その全身の細胞が完全に硬直した。

あの魂を揺さぶるような既視感(エネルギー)が、文字通り津波のように彼女の脳内へと押し寄せてくる。

間違いない。――4年前のあの『太陽の涙』の絶望の夜に、己を救い上げてくれたあの気配の主、その人だった。


しかし、こうして手の届くほどの至近距離で対峙する彼は、昨日とはどこか違っていた。

その圧倒的な覇気(オーラ)は驚くほど完璧に内包(サプレス)されており、もし普通の人間が彼を見れば、ただの少し目つきの悪い無害な青年としか認識できないだろう。

だが、リンの目をごまかすことはできなかった。彼女には、そのあまりにも静かな外殻のすぐ下に、測定不可能なほどに巨大で不気味な『ナニカ』が脈動しているのを肌で感じ取っていたのだ。


カイは遊歩道のど真ん中で借りてきた猫のように立ち尽くしている二人の少女に気づき、不意に足を止めた。

「――ん?」


ソラが即座に、丁寧に頭(こうべ)を垂れる。

「あ……魔王カイ様、おはようございます」


カイは億劫そうに短く頷いた。

「うい、おす」


彼の気怠げな双眸が、じっと自分を凝視したまま微動だにしないリンへと向けられる。


カイは不思議そうに首を傾げた。

「……何だ? 俺の顔に何かついてるか?」


リンはハッと我に返り、慌てて視線を足元へと落とした。

「い、いえ! 何でもありません!」


カイは怪訝そうにソラを見やり、それから再び不自然に怯えるリンへと視線を戻した。

「……そうかよ」

彼は気楽に肩をすくめてみせる。

「ま、お前らも新しい生活、適当に頑張れや」


それだけ言い残し、彼は何でもないことのように二人の真横を通り過ぎて歩み去っていった。


リンはその場に凍りついたまま、ただ暴走する心臓の鼓動を必死に堪えていた。

ゆっくりと、恐る恐る振り返った時には、カイの背中はすでに数メートル先へと遠ざかっていた。


ソラは彼の背中が角の向こうへと完全に消え去るのを見届け、それからリンの顔を真剣な目で見つめた。

「……感じたんだね?」


リンは小さく、しかし激しく首を縦に振った。

「うん……完全に、あの時の人だよ」


――フワリ。


「――相変わらず、とんでもない感受性(センサー)を持っているのね、あなた」


突如として二人の真横から聞こえてきた澄んだ声音。

息を呑んで振り返ると、そこにはいつの間にか、ユイが一切の足音も気配もなく佇んでいた。


ソラが驚きを隠せないまま彼女へと問いかける。

「ユ、ユイさん……。カイ様って、いつもあんな風に不気味な気配をさせてるんですか?」


ユイの端正なポーカーフェイスは微動だにしない。

「いいえ。彼は普段、自らの覇気を完全に、それこそ一滴の魔力すら外へ漏らさないレベルで完璧に制御(コントロール)しているわ」


リンがすがるようにユイを見つめた。

「……じゃあ、どうしてわたしには、あの人の魔力があんなに生々しく感じられるの?」


ユイはその静かな双眸で、リンの瞳の奥をじっと見つめ、品定めするように数秒の沈黙を置いた。

「……おそらく、あなたが通常の人間よりも遥かに、彼の『魔力の属性(波長)』に対して極めて過敏な特異体質を持っているからでしょうね」


リンは不満げに眉をひそめた。

「……それだけ、ですか?」

彼女の直感が、そんな単純な理屈だけでは絶対に説明のつかない『絆』がそこにあると告げていた。


ユイはその疑問の本当の答えを知っていた。なぜリンがこれほどまでにカイの魔力に引き寄せられるのか、その真実を。

しかし、彼女は何も語らなかった。

なぜなら、それは他ならぬ『カイ自身の過去の領域』に属する問題であり、主である彼自身の手によって語られるべき真実だからだ。いくつかの世界の重大な真実というのは、適切な『時』を迎える前に他人の口から安易に与えられてはならない。


だからこそ、ユイはただ、リンが必死にその失われた記憶のパズルを追い求める姿を、静かに見守るに留めるのだった。


   ◆◆◆


その日の午後、第一階層において、記念すべき『新生合同ギルド』の最初の窓口が正式に営業を開始した。

崩壊した三つの都市から集結したギルドマスターたちが、新たに掲げられた強固なエンブレムの下に並び立ち、彼らを取り囲む無数の冒険者たちへ向けて決然たる宣言を響かせる。


通達の内容は極めてシンプルだった。

これより我がギルドは、この『エリュシオン・オーダー』の内部に永久不滅の本拠地を置く。所属するすべてのハンターは、塔の内部の未開エリアを探索し、クエストをこなし、定住した難民たちの治安を死守し、魔物の生態を調査する。

そして何より――外の世界の脅威である『オークの軍勢』に関する隠密斥候データを統合・収集し、この塔と周辺の間の強固なブリッジ(架け橋)として機能する。


カイはその報告を人伝てに耳にしたが、特に反対することはなかった。それどころか、いつも通り気怠げに肩をすくめただけだった。

「へえ、そいつは便利そうで何よりだな」

それだけ言うと、彼はまた自分の気楽なルーティン(無為な時間)へと戻っていった。


だが、彼の知らぬ間に、この『エリュシオン・オーダー』という建造物は、単なる避難所(シェルター)という枠組みを完全に破壊し、一大ギルドの本拠地、数万の民の笑顔溢れる故郷、そして――世界の命運を握る巨大な『一大国家』へと、その姿を急速に変貌させつつあった。


   ◆◆◆


一方、アステリア王国の王宮内部では、国王アルドレンが帰還した斥候からの新たな戦略報告書を睨みつけていた。

破滅のオークの軍勢は、人間の三つの都市を制圧した位置から未だ進軍を再開させていない。しかし、奴らの牙城では、信じられないほどの物量で食料、武器、攻城兵器の集積と軍隊の再組織化(ビルドアップ)が進められているという。


アルドレンは苦渋に満ちた声を漏らした。

「……奴ら、早くも『次なる侵略キャンペーン』の準備を完了しつつあるな」


円卓を取り囲む軍事 advisers(将軍たち)が声を張り上げる。

「陛下! 奴らの布陣が整う前に、我が軍の全戦力を以て先制奇襲を仕掛けるべきです!」


「――却下だ。無謀すぎる」

アルドレンは一蹴した。


別の将軍が代案を出す。

「ならば、北方領土の境界線の防衛要塞に、王国の全騎士団を配備し、絶対の迎撃線を構築すべきかと!」


「……うむ。それに関しては大至急、総員を動員して防衛線を補強せよ」


アルドレンは再び地図の上に視線を落とした。

わずか一晩で三つの大都市を消し去った、凶悪無比なる2万の軍勢。指揮を執る『豚大将(ジェネラル)』たちの狡猾な知性と、絶対者たる『オークキング』の圧倒的なパワー。

アルドレンとて、奴らの戦力を過小評価するほどの愚か者ではない。

しかし同時に、王には一つの『確信』があった。

現在、王国の北方防衛線のさらにその先には――他ならぬあの男の絶対の聖域、『エリュシオン・オーダー』が鎮座しているのだ。

もしあの強欲なオークの軍勢が、自らの版図をこれ以上拡大しようと進軍を再開させたならば、奴らは遅かれ早かれ、あの不条理な巨塔のテリトリーへと「絶対に衝突する」ことになる。

――そしてその瞬間こそが、この大戦争のパワーバランスを根底から叩き潰す、最大の転換点になるであろうということを、王は確信していた。


   ◆◆◆


満天の星空が、『エリュシオン・オーダー』の夜空を優しく包み込んでいく。

第一階層の居住区(セクター)には、魔法によって生み出された数千、数万の街灯がまばゆい光を放ち、温かい街並みを照らし出していた。

街路では子供たちが無邪気に笑い声を上げて駆け回り、訓練を終えた冒険者たちが談笑しながら宿へと戻り、研究者たちは深夜の実験室で魔力を交わし、ギルドの職員はクエストの仕分けに追われ、それぞれの家々からは香ばしい夕食の匂いが漂ってくる。


――この巨塔が誕生して以来、初めてのことだった。

この広大すぎる空間が、もはや「空虚な静寂」に包まれることはない。そこには確かに、何者にも脅かされることのない、数万の民の『生きた営み』が存在していた。


カイは塔の最上階のテラスに直立し、手すりに肘を突いて眼下に広がる壮大な夜景を見下ろしていた。その傍らには、不動の姿勢で寄り添うユイの姿。


カイは光り輝く街並みを見つめながら、ぽつりと呟いた。

「……随分と、賑やかになっちまったな」


ユイが彼を優しく見やった。

「あなたが、あの子たちの滞在を許可したのよ、カイ」


「分かってるよ」


カイはしばらくの間、無言で、街灯の下を仲睦まじそうに手を繋いで歩いていく一組の家族の姿をじっと見つめていた。

――やがて、彼の唇に、いつもの気怠げな、しかしこの上なく優しい微かな笑みが浮かんだ。


「――まあ、何だ」

彼の双眸に、底知れぬ温かい光が宿る。

「……こういうのも、悪くはねえか」


ユイの美貌に、この上なく極上の笑みが広がった。

「ええ。――本当にね」


その遥か遥か下方、第一階層の街路において。

リンはソラの隣に直立し、夜空を突き刺すようにそびえ立つ巨塔の最上階を見上げていた。

その胸元には、今もなお、あの愛おしくも全能なる覇気(エネルギー)の脈動が、はっきりと、生々しく感じられていた。


――魔王、カイ。

4年前のあの日から、名前も、顔も、声すらも分からぬまま、ただ自らの魂の記憶(データ)だけを頼りに探し続けてきた、最愛の救世主。


彼女は未だ、彼の秘められた本当の正体を知らない。なぜ彼の魔力があれほどまでに自分の魂を激しく揺さぶるのか、その本当の理由も掴めてはいない。

――だが、彼女はついに、その光の源泉の真っ直ぐ目の前にまで辿り着いたのだ。

冒険者の少女の瞳に、決して揺らぐことのない絶対の決意が宿る。

魂に刻まれた真実を解き明かすための彼女の果てしない旅路は――今、この偉大なる巨塔の内部において、最高潮の幕を開けようとしていたのだった――。


この時、地上の誰一人として未だ気づいてはいなかった。

この不条理なる巨塔『エリュシオン・オーダー』が、今この瞬間を以て、世界を揺るがす未曾有の大激動の『絶対の中心(コア)』へと変貌を遂げたという事実に。


傲慢なるオークキング(オークの王)は、自らの意思で次なる侵略の標的を定めてしまった。

そしてそれこそが、奴らがこの大戦争において犯した、最初にして最大の『致命的誤算(エラー)』であった。


奴らは致命的なまでに勘違いをしていたのだ。

あの美しき巨塔を、ただ人間の無力な難民たちが身を寄せ合って震えているだけの、都合の良い『次なる略奪先(テリトリー)』に過ぎないと。


奴らは未だ、何一つとして理解していなかった。

あの場所が、単なる可哀想な人々の避難所(シェルター)なんかではないということを。


――あの塔は、魔王カイの『絶対の領域(テリトリー)』。


彼がその気になれば、世界を丸ごと一つひっくり返すことすら造作もない、絶対不敗の絶対強者が統べる牙城なのだ。


そして今――。

すべてを諦めたはずの気怠げな魔王は、自らの平穏な『我が家』へと牙を剥こうとする破滅の足音を、最上階の玉座から冷酷に見下ろし、その動向を完全に『監視(ウォッチ)』し始めていた――。


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