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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
オークの侵攻

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第90話: 三都市の陥落

   鳴り響く破滅の鐘


最初の警報が鳴り響いたのは、日の出が始まって間もない頃だった。

間髪入れず、第二、第三の悲鳴のような鐘の音が、連鎖的に街全体へと炸裂していく。


――カン! カン! カン! カン!


激しい金属音が響き渡り、街路の人々が恐怖に足を止めた。

商人たちは店先の商品を放り出し、親たちは叫び声を上げながら子供たちを家の中へと引きずり込む。

防衛部隊の衛兵たちが抜刀しながら城壁へと全力疾走し、冒険者ギルドからは無数の戦闘員が濁流のように外へと溢れ出してきた。


何かが、来る。

そして――それが何であるかなど、この場にいる全員がすでに痛いほどに理解していた。


――オーク。


あの地底の化け物どもが、ついにその牙を剥いて現れたのだ。


---

   迫り来る戦火


朝食を口に運び終えるか終えないかのその瞬間、地を震わせるような警報の鐘が二人の鼓膜を直撃した。

ソラの手から危うくスプーンが滑り落ちそうになる。


「……この鳴り方、嫌な予感しかしないよ」


リンは間髪入れずに立ち上がった。


「うん、ただ事じゃない」


二人は全力疾走で冒険者ギルドへと向かった。

到着した頃には、ギルド内は完全なる大パニック(カオス)に陥っていた。

必死の面持ちで武器を点検する冒険者たち。重要書類を抱えて走り回る職員たち。そして、普段は見かけることのない数人の重装騎士団までがホールへと雪崩れ込んでいた。


入り口付近では、ギルドマスターが血相を変えて一人の伝令と早口で言葉を交わしている。

リンが猛然とそこへ歩み寄った。


「――奴ら、ここを目指して来てます!」


ギルドマスターが弾かれたように振り返る。


「……確実なんだな!?」


「私たちは奴らの行軍を直接追跡しました」

リンの瞳に鋭い決意が宿る。

「オークの主力軍勢は、寸分の狂いもなくこの都市へと向かって進軍しています!」


ソラも必死に言葉を重ねた。


「奴らの先行斥候部隊も目撃しました。信じられないほどの速度で移動しています!」


ギルドマスターの顔が、苦渋と絶慢でみるみる歪んでいく。


「……猶予はどれほどだ?」


リンは騒然とする街路の先、巨大な城門の方角へと視線を向けた。


「時間はほとんどありません。もし奴らの斥候が夜明け前に外周の街道へ達していたのだとすれば、本隊の到着まで――あと1時間も残されていないはずです」


ギルドマスターは即座に伝令へと向き直り、裂くような怒号を飛ばした。


「――衛兵隊に今すぐ住民の避難誘導(エバキュエーション)を開始させろ! すべての城門を開放し、民間人は東側の街道へ逃がすんだ! 西側は遮蔽物がなさすぎてあまりにも危険だ!!」


「ははっ!!」


「それから、近隣の都市へも即座に緊急伝言(アラート)を飛ばせ! 敵の進軍速度は当初の予測を遥かに上回っているとな!!」


伝令の兵が風のように駆け去っていく。


   ◆◆◆


ギルドマスターは騒然とするホール全体を見渡すように、声を限界まで張り上げた。


「――全員、静かにして聞け!!」


地鳴りのような怒号に、ギルド内が静まり返る。


「オークの主力軍勢が、今まさにこの都市へと迫っている!」


複数の冒険者たちが、青ざめた顔で互いに視線を交わし合う。


「――敵の戦力規模は、かねてよりの報告通り『およそ2万』であることが確定した。奴らの斥候はすでに外周の農村地帯を突破している。本隊がここに到達するまで、我々にはもうほとんど時間は残されていない!」


あちこちから、絶望的な囁き声が漏れ始める。


ギルドマスターはさらに声を尖らせた。


「絶対に、無策のまま敵の本隊と正面衝突するな! 我々の最優先事項は、この城門が血生臭い戦場と化す前に、一人でも多くの民間人を安全に脱出させることだ!!」


一人のベテラン冒険者が、重々しく手を上げた。


「……マスター。もし全員が逃げ切る前に、あいつらがここに到達しちまったらどうする?」


ギルドマスターの動きが一瞬だけ止まり、そして――冷徹な覚悟を瞳に宿して言い放った。


「――その時は、命を賭して『時間』を稼ぐまでだ」


リンはチャキ、と愛刀の柄をギチギチに握りしめた。

ソラも自身の杖のポジションを静かに微調整する。

二人の間に、言葉は必要なかった。

これから自分たちが何を成すべきか、その答えはとっくに魂に刻まれていたからだ――。


---

   決死の避難誘導


都市の様相は、数分もしないうちに完全に激変していた。

衛兵たちによって城門が乱暴に開放される。

商人たちは店を放り出し、家族連れは運べるだけのわずかな家財道具を抱えて街路へ飛び出した。都市の外へと続く街道は、瞬く間に押し寄せた人々の波で埋め尽くされていく。


ある者は涙を流し、ある者は神に祈りを捧げ、またある者はただただ恐怖に身を強張らせて地平線を見つめていた。


リンとソラの二人は騒然とする街路を駆け回り、必死に人々を避難ルートへと誘導していた。

「立ち止まらないで! 前へ進んで!」

「ここは危ないよ! 家族の手を絶対に離さないで!」


東の街道は第二都市へと続いている。しかし道幅が狭く、すでに限界を超えて大渋滞を引き起こしていた。

立ち往生した荷馬車が次々と路肩へ乗り捨てられる。衛兵たちは、列全体の歩みが完全に停止してしまうのを防ぐため、徒歩の難民と歩みの遅い荷車を必死に分離し始めていた。


その時、幼い子供を抱えた一人の女性が足をもつれさせ、派手に転びそうになった。

リンの身体が即座に反応し、その身体をしっかりと支える。

「大丈夫!?」


女性は狂乱気味に何度も深く頷いた。

「娘が、この子が――っ!」


リンは彼女を優しく立たせた。

「前を向いて走って! 城壁の外に出れば、今よりずっと安全だから!」


女性は涙ながらに感謝の言葉を口にすると、再び難民の群れの中へと消えていった。


その時、城壁の上を見つめていたソラが、鋭く声を張り上げた。

「――リン!」


「何!?」


「……見て!」


リンが振り返る。

彼らに向かって、防衛線の斥候が血相を変えて全力疾走してくるところだった。その顔からは完全に血の気が引いている。

「――来やがった!! 奴らだ!! 奴らが来ちまったぞ!!」


   ◆◆◆


その絶望の叫びが街路に響き渡った瞬間、リンの瞳が驚愕に見開かれた。

「何だって!?」


「オークの軍勢だ! 奴ら、もう外周の農村地帯の目と鼻の先まで到達していやがる!!」


ソラが戦慄を堪えきれずに呟く。

「……早すぎるよ……っ!」


リンは城門の方角へと視線を走らせた。

避難はまだ始まったばかりだ。準備なんて、これっぽっちも整っていない。

第一波の民間人がようやく東門をくぐり抜けた程度で、未だに数千、数万という人々が都市の内部に取り残され、パニックを引き起こしているのだ。


――その瞬間。


ズ、ズ、ズ、ズン……!!


大自然の底から響いてくるような、不気味で圧倒的な『地鳴り』が、彼らの足元の地面を激しく揺らし始めた。


---


――ド、ゴォォォォォンッ!!!


都市全体が、激しく震動した。

屋根から大量の塵が舞い落ち、民衆の悲鳴がそこかしこで炸裂する。間髪入れず、第二の破壊的な衝撃波が大地を襲った。


――ド、ゴォォォォォンッ!!!


そして、ついに『それ』が聞こえてきた。

数万という、統率された軍勢の足音。地平線の彼方が、見たこともない不気味な黒色に染まっていく。


リンは近くの民家の屋根へと飛び乗った。

瞬間、彼女の瞳が驚愕に極限まで見開かれる。


眼前に迫りつつあったのは、文字通りの『大軍勢』だった。

見渡す限りの地平線を、漆黒の防具を纏ったオークの群れが埋め尽くしている。

数千、数万――。

ぎらつく凶器。磨かれた防具。風にたなびく禍々しい軍旗。

奴らの背後には、城壁を一撃で粉砕するために設えられた巨大な攻城兵器(カタパルト)を背負う、見たこともない巨獣(ベヒモス)たちの姿もあった。

そしてその大行軍の先頭に、数頭の圧倒的な巨躯が君臨している。


――『オークジェネラル(豚大将)』。


リンの胃の奥が、恐怖で不気味に締め付けられた。ソラが息を切らせて隣の屋根へと駆け上がってくる。


「……あれ、が……っ」


「――2万頭の、軍隊だよ……」

リンが震える声で呟いた。


ソラはその圧倒的な絶望を前にして、ただ呆然と立ち尽くす。

「多すぎる……あまりにも、次元が違いすぎるよ……!」


リンは小さく首を横に振った。

たとえこの都市にどれほど強力な高ランク冒険者や重装騎士団が揃っていようとも、こんな規格外の軍隊を正面から破ることなど絶対に不可能だ。

自分たちが今対峙しているのは、単なる知性なき魔物の群れではない。

高度な知性と規律を兼ね備えた――本物の『軍隊』なのだ。そして奴らは、完璧に人間を滅ぼす準備を整えてここに現れた。


先頭のオークジェネラルが、その巨大な武器を前方の城門へと向けた。


「――突撃(アドバンス)せよォォォッ!!!」


軍勢が一斉に、鼓膜を引き裂くような咆哮を炸裂させる。


――オ、ォォォォォォォォォォォッ!!!!!


その凄まじい怒号の余波だけで、堅牢なる城壁がビリビリと激しく震動した。


リンは迷うことなく屋根から飛び降りた。

「――ソラ!」


「分かってる!」


二人は愛刀と杖を強く握りしめ、今まさに地獄へと変わろうとしている最前線の『防衛線(ライン)』へと向かって、全力で駆け出した。


---

   激突、そして泥沼の死闘へ


――ズ、ゴォォォォォォォォォンッ!!!!!


第一波が堅牢なる城壁へと激突した。

その凄まじい質量攻撃の衝撃波が、建造物全体の基礎を激しく揺るがす。


「放てッ!!」

指揮官の怒号とともに、城壁の騎士団から無数の矢の雨が降り注いだ。

魔導士部隊が一斉に高度な呪文を解放し、壁面を埋め尽くした冒険者たちが狂暴なる迎撃を開始する。

戦場全域で爆発する巨大な火炎球(ファイアボール)。

連鎖する落雷(ライトニング)がオークの密集地帯を容赦なく引き裂き、無数の巨大な真空の刃(ウィンドカッター)が進軍する軍勢を骨ごと削り飛ばしていく。


ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ、防衛線は機能しているかのように見えた。

――しかし、絶望はそこからだった。

木々の奥から、さらに膨大なオークの影が出現したのだ。

それも、次から次へと、無限に。

一頭の兵卒を討ち取るたびに、その死体を踏み越えて数頭の新たな怪物が目の前に現れる。


「――チクショウがッ!!」

一人の高ランク冒険者が巨大な大斧を振り回し、迫り来るオークの戦士の頭蓋を粉砕した。

だが瞬時に、別の三頭のオークが彼の死角を完全に取り囲む。

一太刀目を辛うじて防ぎ、二太刀目を弾く。しかし、三太刀目の鈍い衝撃が彼の防具を激しく叩いた。


「はあああッ!!」

そこへリンが猛然と割り込んだ。

鋭い剣閃が空間に閃く。ザシュッ!

流れるような一閃で一頭を両断し、反転。

愛刀へと爆発的な魔力を収束させ、独楽のように回転しながら放ったエネルギーの衝撃波が、周囲の群れをまとめて数メートル後退させた。


ソラが即座に杖を天へと掲げる。

「――『聖光の豪雨(セレスティアル・レイン)』!!」

薄暗い戦場の空が、一瞬にしてまばゆい光で満たされた。

頭上から数十本の破壊的な光線が超高速で降り注ぐ。

――ドカッ! バキッ! ドゴォォォンッ!!

光の直撃を受けたオークの数個小隊が、肉片すら残さず戦場から消滅した。


だが――軍勢の歩みは、これっぽっちも止まらない。

ソラの美しい顔が、焦燥と恐怖で強張っていく。

「……ダメ、キリがないよ……っ!」


リンが周囲の戦況を見回した。

防衛線は、確実に、そして無慈悲に後退させられつつあった。

「――数の次元が違いすぎるんだよ……!」


――ブ、オォォォォォンッ!

その時、一頭の巨漢のオークが咆哮とともに二人の元へと突進してきた。

リンが一歩前へ踏み出し、正面からその刃を刀で受け止める。

――ギギギギィン!!

凄まじい怪力に押し込まれ、彼女のブーツが土を削りながら後退した。リンは即座に肉体の魔力強化を最大まで引き上げ、力ずくで武器を弾き返すと、流れるような追撃でその首筋を切り裂いた。

巨体が崩れ落ちる。だが、その背後からすでに次の影が迫っていた。


ソラが必死に次の呪文を紡ぐ。

戦場は、すでに完全なる大乱闘(カオス)と化していた。

街路にまで侵入してきた怪物と泥泥の白兵戦を演じる騎士たち。

民間人の盾となって命を散らしていく冒険者たち。

魔導士たちは、ひび割れ始めた魔法障壁を維持するために血の涙を流しながら魔力を絞り出している。


リンはチラリと、後方の避難ルートへと視線を走らせた。

未だに数千、数万という民間人が東門を目指してパニックを引き起こしている。街道は完全に人の波で埋め尽くされているが、列の最後尾は未だにこの地獄の都市の内部に取り残されたままだ。


城壁を守る者たちが、命を賭して1分、1秒を稼ぐたびに――それだけ多くの家族が、生き延びるチャンスを手に入れることができる。


彼らは、勝つために戦っているのではなかった。

ただ一人でも多くの命を救うための――絶望的な『時間稼ぎ』に、その命を燃やしているのだ。


---

   都市崩壊


――ドガァァァァァァァァァンッ!!!!!


凄まじい大爆発が東側の城壁を直撃した。

堅牢を誇った岩壁が内側へと完全に崩落する。その開いた大穴から、待ってましたと言わんばかりにオークの軍勢が濁流となって雪崩れ込んできた。

その光景を目撃した防衛線の戦士たちが、絶望に身を凍らせる。


「……最悪だ」


その崩落箇所は、まさに難民たちがひしめき合う『避難ルート』のすぐ真横だったのだ。

もしあのオークどもが東門の退路を完全に掌握すれば、都市の内部に取り残された人々は退路を断たれ、すでに外へと脱出した難民たちも、迫り来る軍勢と第二都市との間で完全に挟み撃ちの孤立状態に陥る。


ギルドマスターが、喉を引き裂くような怒号を響かせた。


「――全軍、撤退(リトリート)だァァァッ!!」


「何だって!?」


「城壁が破られたんだ!!」

彼は決死の面持ちで避難ルートの方角を指差した。

「一人でも多くの民間人を外へ逃がせ! 段階的に防衛線を下げつつ、あの退路だけは絶対に死守するんだ!!」


リンが信じられないといった目を彼に向けた。


「……この都市を、見捨てるっていうの!?」


ギルドマスターは苦渋に満ちた目を彼女へと返した。


「――すでに、この都市は落ちたんだよ」

彼の声は、不気味なほどに静かだった。

「ここに踏みとどまれば、全員が全滅する。崩落箇所が広すぎるんだ。第二防衛線じゃ、避難が完了するまで持ちこたえられやしねえ……!」


リンは小さな拳を強く握りしめた。

そんな残酷な現実など、これっぽっちも受け入れたくはなかった。しかし、彼の言うことが痛いほどに正しいということも、同時に理解していた。

もはや維持できない瓦礫の街を奪還するために全員で無駄死にするか。あるいは、残されたわずかな時間を使い、背後に取り残された何千もの命を救い出すか。

――選択の余地など、最初からなかったのだ。


ソラが彼女の小さな手をガシッと掴んだ。


「リン!」


リンが彼女を見る。


「――行こう」


リンは激しく燃え盛る故郷の街並みを見つめ、そして、強く頷いた。


「……うん、行こう!」


   ◆◆◆


防衛部隊は、血の涙を流しながら後退を開始した。

彼らの背後では、オークの軍勢が文字通り濁流となって都市の内部を蹂躙していく。

崩壊していく建造物。粉砕される市場。木端微塵にされるバリケード。

何世代にもわたり、人々の営みを守り続けてきた歴史ある都市が、今まさに圧倒的な侵略の闇へと丸ごと飲み込まれようとしていた。


やがて――大破した城門をくぐり抜け、絶対の覇気を纏った『オークキング(オークの王)』が姿を現した。

彼は瓦礫の山と化した街路を見下ろし、醜悪な顔に歓喜の笑みを浮かべる。


「――フッ、今日からこの都市は我らの領域(テリトリー)だ」


一頭のオークジェネラルが、その前に恭しく片膝を突いた。


「我が王よ。お見事なる初戦の勝利にございます」


オークキングは静かに視線を上げ、遥か彼方の地平線を見つめた。


「まだたったの『一都市』だ」

彼の唇が、さらなる破滅の形に吊り上がる。

「――この世界には、まだまだ蹂躙すべき人間の街が残されているではないか」


----

   第二都市への退避


難民の列は、昼下がりになってもただひたすらに歩みを止めることなく動き続けていた。

誰も立ち止まることはできない。そんな余裕はどこにもなかった。

東の街道は避難ルートとして事前に計画されてはいたものの、これほど膨大な数の人間を同時に収容することなど想定されていなかったのだ。

車輪の折れた荷馬車が次々と路肩へ打ち捨てられ、疲弊しきった子供たちが足を止めそうになるたび、衛兵たちはオークの追撃が最後尾に追いつくのを防ぐため、叫び声を上げて列を前へと押し進め続けた。


リンとソラの二人は、常にその難民の列の最後尾付近に陣取っていた。

数分おきに、リンが張り詰めた表情で背後の街道を振り返る。――今のところ、追撃の影はない。……今のところは、だ。


第一都市が陥落したのは、避難が完全に完了する前に城壁を破られたからだ。もしあのオークどもがこの何もない街道の途中で難民の列に追いつけば、生き残った人々にはもう立て直す手段など残されていない。

前方にそびえ立つ第二都市こそが、彼らが身体を休め、戦力を再組織し、新たなる防衛線を構築するための唯一の希望だった。


やがて――難民の波は、目的の第二都市へと到達した。

城門の前には、この都市を統治する若き貴族の領主が自ら出迎えていた。彼は信じられないといった面持ちで難民の群れを見つめる。


「――一体、何が起きたというのだ!?」


リンが一歩前へと進み出た。


「オークの襲撃です」


領主が眉をひそめる。


「……規模はどれほどだ?」


ソラが痛切な真剣みを帯びた声で答えた。


「2万頭です」


その数字を聞いた瞬間、領主の顔から完全に血の気が引いていった。


「……では、第一都市はどうなった?」


「――落ちました。瓦礫の山です」


絶対の静寂が、城門の前へと戻る。


「……馬鹿な、有り得ん」


リンは静かに、しかし冷徹な真実を突きつけるように首を横に振った。


「私たちは、この目で直接それを見てきました」


領主はハッと我に返り、背後に控えていた衛兵隊へと鋭い視線を向けた。


「――大至急、都市の防衛準備を開始せよ!!」


一人の騎士が恐る恐るにじり寄る。


「閣下、難民の流入を止め、城門を閉鎖すべきでしょうか?」


領主は疲弊しきった数千の難民たちを見つめ、それからリンへ、最後に前方の遥か彼方に伸びる無人の街道へと視線を走らせた。

そして――決然と言い放った。


「――いや、城門を開け放て。一人残さず中へ入れろ!」


重厚な鉄の扉が左右へと大きく開放され、数千の難民たちが雪崩れ込んでいく。

しかし、そこには安堵の歓声など微塵も存在しなかった。

全員が痛いほどに理解していたからだ。――あの怪物の軍勢は、今もなお自分たちのすぐ後ろから迫り狂っているということを。


---


   すでに、そこにいた


夜の帳が下りた。

避難誘導の初期段階すらろくに完了していないその瞬間、一頭の隠密斥候が血相を変えて都市の内部へと飛び込んできた。

防衛線の騎士たちが難民たちをシェルターへと割り振る作業すら終えていない段階で、その伝令は中央中庭へと到達したのだ。


「――領主閣下ァァァッ!!」


領主が弾かれたように振り返る。


「どうした、何が起きた!?」


「オークの軍勢です!!」


その絶望の単語に、中庭にいた全員の身体が完全に凍りついた。


「距離は!? 奴らは今、どこにいる!?」


斥候は肺を引き裂くような荒い呼吸のまま、戦慄の事実を叫んだ。


「――すでに、この都市の目と鼻の先にまで到達していやがります!!」


領主の双眸が、驚愕に極限まで見開かれる。


「何だと……!? 早すぎるだろ!?」


奴らオークの軍勢は、難民の後を追って正面の街道を進んできたわけではなかったのだ。

奴らの老獪な斥候部隊は、丘陵地帯を強行突破する圧倒的な『近道(ショートカット)』を発見していた。その結果、本隊は人間側が城壁の補強を行う暇も、難民の再組織化を行う猶予すら与えぬ速度で、この第二都市の喉元へと音もなく到達してしまったのだ。


――オ、ォォォォォォォォォォォッ!!!!!


地平線の彼方から響き渡る無慈悲な咆哮が、領主の言葉を掻き消した。

その怒号の風圧だけで、強固なはずの都市の城壁がビリビリと激しく震動する。


領主はパニックに陥りかける難民たちへ向けて叫んだ。


「――全員、今すぐ東門から外へ逃げろォォォッ!!」


凄まじい大パニックが都市を包み込んだ。

衛兵たちが悲鳴を上げながら門へと走り、重装騎士団が必死の面持ちで最前線の防衛線を形成していく。冒険者たちもまた、生き残るために手にした武器のグリップを強く握りしめた。


リンとソラの二人は、濁流のような人混みの中で背中合わせに立ち並んでいた。

ソラが迫り来る漆黒の軍勢を見つめ、絶望を噛み締めるように呟く。


「……また、なの……?」


リンははぁ、と重いため息を吐き出し、愛刀の刃に魔力を爆発的に巡らせた。


「――どうやら、そのようね」


戦端の火蓋が、再び切って落とされた。

そして今回、防衛線の戦士たちは自分たちが一体どれほど絶望的な怪物(2万の軍隊)を相手にしているのかを、最初から「完全に理解」してしまっていた。

――その絶対の理解こそが、彼らの心をより深く、無慈悲に絶望の底へと叩き落としていくのだった。


---

   三つの都市の陥落


第二都市の崩壊は、最初の戦いよりも遥かに迅速だった。

オークの軍勢は初戦の経験から確実に学習していた。

奴らの『豚大将(ジェネラル)』たちは完璧な連携で波状攻撃を仕掛け、人間の防衛陣形(フォーメーション)をピンポイントで蹂躙していく。高ランクの強力な冒険者を数的な暴力で包囲し、難民の逃走路を容赦なく破壊していった。


防衛線の戦士たちには、まともな迎撃線を再構築する時間すら与えられず、背後の街路は逃げ惑う難民たちで完全に身動きが取れなくなっていた。

西門が轟音とともに崩落した瞬間、オークの軍勢は都市を真っ二つに分断。民間人の避難が完了するより遥かに前に、防衛部隊は陣地の放棄を余儀なくされたのだ。


リンとソラの二人は、後退する民間人を死守するためだけに最低限の遅滞戦闘を演じ――そして、再び走った。またしても、だ。


生き残った難民たちは命からがら第三都市を目指して逃げ延びたが、第二宇宙での泥沼の死闘は、彼らが生き延びるために最も必要としていた『時間(猶予)』を無慈悲に奪い去っていた。

オークの本隊は夜明けを待たずに追撃を開始。強奪した人間の街道と物資を利用し、その進軍速度をさらに爆発的に加速させていたのだ。


当然、第三都市にも防衛の準備などこれっぽっちも整っていなかった。

最初の難民が辿り着いた時、城門は未だに呑気に開放されたままであり、防衛部隊が緊急の警告(アラート)を耳にした瞬間には、すでにオークの先行部隊が目の前に出現していたのだ。

――そして、真夜中を迎える頃。

第三都市の防衛線もまた、呆気なく完全に崩壊した。


オークの軍勢が、静まり返った街路を傲然と行軍していく。

三つの都市。わずか一晩。――そして、怪物の完全なる三連勝。


   ◆◆◆


オークキング(オークの王)は、第三都市の最も高い要塞の頂に傲然と仁王立ちしていた。

眼下では、数万頭のオークの兵卒たちがぎらつく凶器を天高くへと突き上げ、勝利の咆哮を炸裂させている。


「――今宵!」

王の重低音の怒号が、燃え盛る廃墟の空へと響き渡った。

「――我らは人間の三つの領土(テリトリー)を完全に手中に収めたぞ!!」


――オ、ォォォォォォォォォォォッ!!!!!


地鳴りのような怒号が世界を揺らす。


オークキングは静かに視線を上げ、闇に包まれた遥か彼方の地平線を見つめた。


「我らの絶対の版図は、これからも無限に拡大し続ける」

彼は手にした巨大な大斧を、漆黒の空へと掲げた。

「――これは、すべての始まりに過ぎん!!」


----

   アステリア、最前線へ


生存者たちがようやくアステリア王国へと辿り着いたのは、東の空が白み始めた夜明け前だった。

リンはすでに両脚の感覚をほとんど失っていた。

真横を歩くソラも、限界を超えて疲弊しきった顔をしている。

彼女たちの背後に続く難民の列は、地平線の彼方まで途切れることなく伸びていた。


引き裂かれた家族。泣き叫ぶ子供たち。満身創痍の冒険者や騎士。絶望に沈む商人。ギルドの職員たち。

――すべてを失った人々が、そこにはいた。


アステリア王国の巨大な城門が、重々しく左右へと開放される。

城門の前には、国王アルドレンが多数の近衛衛兵を引き連れて自ら立ち尽くしていた。

彼は押し寄せる難民の圧倒的な物量を目撃した瞬間、その端正な顔立ちを戦慄に変えた。


「……どれほどの数だ?」


傍らに控えていた将軍が、乾いた喉を鳴らす。


「数千――いえ、万に届くやもしれません、陛下……」


アルドレンは力強く一歩前へ踏み出した。


「――一人残さず、中へ入れろ!」


難民の濁流が都市内部へと吸い込まれていく。その雑踏の中、リンとソラの二人が静かに王の前へと歩み寄った。


アルドレンが彼女たちを見つめる。


「お前たち……あの戦場にいたのだな?」


リンは重々しく首を縦に振った。


「はい。私たちは、最初から最後まですべてを見てきました」


「……聞かせてくれ」


リンは感情を押し殺しながら、冷徹な事実をすべて告白した。

第一都市の崩壊。第二都市の奇襲。第三都市の無条件の蹂躙。

指揮を執る『豚大将(ジェネラル)』たちの完璧な連携。絶対者たる『オークキング』の存在。そして、全てを押し潰す圧倒的な数。

いかにして最初の都市が東壁の崩落によって陥落したか、いかにして軍勢が丘陵地帯の近道を使って第二都市の喉元へ先回りしたか、そして、いかにして第三都市が防衛線を組織する暇すら与えられずに壊滅したか――。


彼女がすべてを語り終えた頃、アルドレンの表情は、かつて見たこともないほどに深く、暗いものへと変貌していた。


「――わずか一晩の間に、三つの都市が落ちただと……?」


同行していたギルドマスターが、血の涙を流すような声音で応じる。


「奴らの進軍は、これっぽっちも止まっていません」


アルドレンは脳内の戦略地図へと視線を走らせた。


「もし……奴らがこの圧倒的な進軍速度を維持したまま、次の方角へ舵を切ったのだとすれば――」


王はそこで、言葉を詰まらせた。

彼が何を思考しているのか、その場にいる全員がすでに痛いほどに理解していた。


――次の標的は、このアステリア王国だ。


---


   通信結晶(コミュニケーション・クリスタル)


アルドレンはすぐさま王宮へと引き返し、巨大な魔導通信結晶の前に直立した。

この不条理な状況を前にして、彼の脳裏に浮かぶ『駒』はただ一つ。


――カチリ。


王が魔力を流し込むと、結晶が不気味な輝きを放ち始める。

数瞬の後、投影された光の中に目的の男の姿が浮かび上がった。


そこにいたのは――最高に寝起きの悪い、不機嫌そうなカイの顔だった。

トレードマークの白髪は完全に爆発してグシャグシャ。その双眸は半分閉じており、どう見ても未だベッドの中にいるのは一目瞭然だった。


アルドレンが凝視する。カイがジト目を返す。

極めて気まずい、長い沈黙が玉座の間を支配した。


「……アルドレンのオヤジ?」


「うむ、私だ」


「……何だってこんなクソ忙しい朝早くから通信なんてかけてきやがるんだ?」


アルドレンは真顔で結晶を見つめた。


「すでに陽は高く昇っている。朝ではない」


カイは目をパチくりとさせた。


「……そいつは、極めて不条理で遺憾な現実だな」


結晶の向こう、背景のどこかからクロエのお説教混じりの鋭い声が漏れ聞こえてくる。

『カイ様! 陛下からの通信ですよ、大至急シャキッと起きてください!』

『起きてるっての……』

『意識の半分が夢の国にありますよね!?』

『お前の姿はちゃんと見えてるぞ』

『目を開けていることと、起きていることは同義ではありません!!』


カイは彼女の正論を完全に無視した。


   ◆◆◆


アルドレンはゴホンと一つ大きく咳払いをして、戦況を切り出した。


「――深刻な事態が勃発した」


その重々しい声音に、カイの瞳から徐々に眠気が引いていき、鋭い光が据わっていく。


「何が起きたんだ?」


「オークの主力軍勢が、本格的な侵略を開始した」


カイがベッドの上でガバッと上体を起こした。


「被害の規模は?」


「――人間の『三つの都市』が、完全に陥落した」


カイの双眸が、今度こそ驚愕に限界まで見開かれた。


「……三つ、だと?」


「ああ、それもわずか一晩の間にだ」


カイは完全に沈黙した。


アルドレンは冷徹な事実をさらに畳みかける。


「現在、数千、数万という難民の濁流がこのアステリア王国へと押し寄せている。その中には傷ついた冒険者、騎士団の生き残り、ギルド職員、そして、すべてを失った一般の民間人がひしめき合っている状態だ」


カイは面倒くさそうに自分の顔を両手でゴシゴシと擦った。


「……で、俺にどうしろって言うんだよ?」


アルドレンは一瞬だけ言葉を濁し、そして、決然と核心の要求を突きつけた。


「――奴らを、お前の『エリュシオン・オーダー』の内部へ避難(シェルター)させてはもらえないだろうか?」


カイの回答に、一瞬の躊躇すら存在しなかった。


「ああ、いいぞ。別に構わん」


アルドレンの方が拍子抜けしたように目を丸くした。


「……そんなにあっさりと、許可するのか?」


カイは億劫そうに肩をすくめてみせる。


「何度も言わせるなよ。あのふざけた塔には、無駄にフリースペースが有り余りすぎてるんだよ。難民の数万人くらい、今更どうってことねえさ」


アルドレンは深く、安堵の息を漏らして頭(こうべ)を垂れた。


「――恩にきる、カイ」


カイは大きなあくびを一つ噛み殺した。


「ま、適当にそっちで手配しといてくれ。じゃあな」


プツン、と非情に通信が途絶え、結晶が暗黒へと戻る。


傍らに控えていた近衛衛兵の一人が、怪訝そうな顔でアルドレンを見つめた。


「……陛下」


「何だ?」


「今更な指摘かもしれませんが……魔王カイ殿は、難民たちを自分の『庇護下に置く(守る)』とは、一言も明言されませんでしたが?」


アルドレンはその言葉に耳を傾け、そして、不敵に微かな笑みを浮かべた。


「案ずるな」

王は窓の外、遥か彼方にそびえ立つあの巨塔のシルエットを見つめた。

「――あの男はな、いざ自分の『我が家』の敷居を跨いだ哀れな人々が目の前で蹂躙されようとした時、絶対にそれを黙って見過ごせるような男ではないさ。私の直感がそう告げている」


衛兵は未だ納得のいかない表情のまま、深く平伏するのだった。


---

   エリュシオン・オーダーの大パニック


数時間後、信じられないほど大規模な大行列が『エリュシオン・オーダー』へと到達していた。

塔の外周を埋め尽くす、数万頭という人間の難民の波。その雑踏の中に、リンとソラの二人の姿もあった。


各都市のギルドマスター、騎士団の生き残り、商人、そして無数の難民の家族や子供たち。

全員が呆然と頭上を見上げていた。これほど間近で見るあの巨塔のシルエットは、噂に聞くよりも遥かに不条理で、圧倒的なスケールを誇っていたからだ。


――ゴ、ォォォォォン……。


重厚なメインエントランスの扉が左右へと大きく開放される。

そこから、悠然とカイが姿を現した。そのすぐ後ろにクロエが控え、ユイもまた音もなく傍らに寄り添う。


カイは満面の笑みを浮かべた。


「――ようこそ、俺の『エリュシオン・オ――』」


そこで、彼の言葉が完全にピタリと静止した。

その顔から、一瞬で笑顔が綺麗さっぱりと消え失せる。

カイは呆然と眼前の圧倒的な人間の大群を見つめ、それからクロエへ、次にユイへ、最後に再び大群へと視線を激しく往復させた。

その双眸が、驚愕に極限まで見開かれる。


「――って、おいおいおいおい!? 一体全体どうなってやがるんだ、これぇぇぇッ!!?」


その場にいた全員の身体が完全に凍りついた。

カイは顔を引きつらせながら、押し寄せる難民の濁流をビシッと指差した。


「おいクロエ! この不条理なまでの人間の山は一体何なんだ!? どこから湧いて出やがった!!」


クロエは至って冷静に、完璧なポーカーフェイスで一歩前へ進み出た。


「何をおっしゃっているのですか、カイ様。ご自分でアステリアの国王陛下からの要請を受け入れたのではないですか」


カイはゆっくりと、ロボットのような動きで彼女へと首を向けた。


「……確かに、オヤジからの避難要請(シェルター)は許可したよ?」


「はい」


「だけどな、俺は『王国の人間の半分を丸ごと養子に迎える』なんて契約書には一言もサインしてねえぞ、バカ野郎ッ!!」


クロエはクスリと悪戯っぽく微笑んだ。


「カイ様は『好きなだけここに住むといい』とおっしゃいました。言葉通りですよ」


カイはクロエを凝視し、それから難民たちを見つめ、再びクロエへと視線を戻した。


「……ちっ、あのタヌキ親父め、最初からこれを狙ってやがったな」

彼ははぁ、と今日一番の大ため息を吐き出した。

「――分かったよ、もういい」


その様子を見て、難民たちの間から無数の囁き声が漏れ始める。

「……あれが、新世代の魔王カイ様なのか?」

「あのふざけた巨塔の主……」

「本当に、中に入りきれるのかよ、この数で?」

「内部に森があるって噂は本当なのか?」

「おい、あの奥の建造物を見ろよ! とんでもねえぞ!」


カイはそれらの雑音を完全に無視し、大雑把に後頭部をポリポリと掻きながら大群へ向けて声を張り上げた。


「――ま、とにかく! こいつら全員を束ねてる『代表者』はどこのどいつだ?」


一人の男が、雑踏を掻き分けて前へと進み出た。

肉体は極限まで疲弊しきっていたが、それでも必死に理性を保って深く頭(こうべ)を垂れる。


「――お初にお目に掛かります、魔王カイ様。私の名はギャレス。今回、陥落した都市の一つでギルドの代表を務めていた者にございます」


ギャレスは堰を切ったように全てを告白した。

オークの苛烈なる侵略、命がけの避難誘導、わずか一晩の間の三つの都市の完全なる崩壊、失われた無数の命。そして――絶対者たる『オークキング』の脅威について。


カイは何も言わず、静かにその報告に耳を傾けていた。

ギャレスがすべてを語り終えた頃、カイは短く頷いた。


「――よし、分かった」

彼は広大な第一階層の空間を大雑把に手で指し示す。

「お前たちの故郷が完全に灰になっちまったってんなら、好きなだけここにいろ。歓迎するさ」


ギャレスが、信じられないといった面持ちで弾かれたように顔を上げた。


「……本当によろしいのですか、魔王カイ様!?」


「ああ」

カイは気楽に肩をすくめてみせる。

「何度も言わせるな。この塔には、無駄にスペースが有り余りすぎてるんだよ。お前ら全員が住み着いたところで、今更どうってことない」


男の瞳から、一気に大粒の涙が溢れ出た。激しい感動に肩を震わせる。


「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます、魔王カイ様……っ!」


カイはすっと人差し指を一本立てた。


「――ただし、ルールが一つだけある」


ギャレスの表情が一気に引き締まる。


「……何でしょうか? いかなる義務でも課していただいて構いません」


カイの提示した条件は、どこまでもシンプルだった。


「――この塔の内部にいる間は、絶対に厄介事を起こすな。それだけだ」


男は間髪入れずに力強く首を縦に振った。


「――御意!! 命に代えましても、軍紀と規律を徹底させます!!」


   ◆◆◆


そこへ、別の都市のギルドマスターが一歩前へ進み出で、核心を突く質問を投げかけた。


「――魔王カイ様。もし、これら全ての元凶があのオークの軍勢なのだとすれば……貴殿は、奴らを討伐するために我が方へお力添えをいただけるのでしょうか?」


カイは少しだけ思考を巡らせた。


「……さあな、どうだろうな」


ギルドマスターは息を呑んで次の言葉を待つ。


カイはあっさりと肩をすくめてみせた。


「――助けるかもしれないし、助けないかもしれない」


その不誠実極まりない回答に、周囲の高官たちが一斉に困惑の表情で互いに顔を見合わせる。


カイは言葉を続けた。


「いいか? 俺の判断基準は一つだけだ。あのオークどもが、この『エリュシオン・オーダー』の領域(テリトリー)に不用意に近づきすぎたと俺が判断した時――その時だけ、俺は自らの意志で動く。それだけさ」


ギルドマスターは、その言葉の「本質」を正確に理解した。

目の前の魔王は、人間の国家を救うヒーローなどではない。彼はただ、自らの大切な『我が家』を守るためにここに鎮座しているのだと。


ギルドマスターは深く頭を垂れた。


「……理解いたしました」

彼は一呼吸置き、決然と拳を握りしめる。

「ならば……我々に、貴殿の『目(斥候)』となることをお許しいただけないでしょうか?」


カイが怪訝そうに彼を見た。


「――我々の戦力では、あの2万の軍勢を相手に大した戦力にならぬことは百も承知しております」

男は悔しさに歯を食いしばる。

「しかし、全てを奪われた我らとて、ただ守られるだけの存在で終わりたくはないのです! どんな微力であれ、お役に立ちたいのです!」


カイは彼の瞳の奥の『覚悟』を見つめ、そして、ふっと満足げに頷いた。


「いいだろう、その心意気は買ってやる」

彼は手元から、小さな『魔導通信結晶』を一つ取り出し、男へと投げ渡した。

「もし奴らオークの進軍ルートに関する新たなデータや異変を掴んだら、その結晶を使って大至急俺に連絡を寄こせ」


ギルドマスターは、まるで世界の命運を預かるかのように、慎重にその結晶を両手で受け止めた。


「――ははっ! 必ずや、命に代えましても!!」


カイは短く頷いた。

――そして次の瞬間、彼の姿はその場から完全に掻き消えた。文字通り、音もなく。


   ◆◆◆


難民の群れは、その圧倒的な神速の退場に、ただただ静まり返っていた。

しかし数秒の後、一人の子供が我に返ったように「わーい!」とエントランスの奥へと駆け出し、大人たちもそれに続くように動き始めた。

一人、また一人と、すべてを失った難民たちが、新たなる希望の聖域『エリュシオン・オーダー』の内部へと吸い込まれていくのだった――。


---


   魂に刻まれた既視感


リンは、その場から一歩も動けずにいた。ソラもまた同じだった。

二人はただ、先ほどまでカイが立っていたあの空間を呆然と見つめ続けていた。


沈黙を破り、ソラがぽつりと呟く。


「……あれが、あの人が、魔王カイ……」


リンは答えなかった。その双眸はエントランスの奥へと釘付けになったままだ。

彼女はそっと、自身の小さな手のひらを胸元へと当てた。

心臓が、耳が痛くなるほどの早鐘を打っている。


――ドクン、ドクン、ドクン。


感じていた。

全身の細胞が、あの魔力を明確に識別している。

間違いない。4年前、あの『太陽の涙』の夜に、己の魂の深淵に直接触れてきたあの愛おしくも圧倒的な気配。

だが、今度は違った。

遠くはない。霧散することもない。意識を極限まで集中しなければ見失ってしまうような、そんな不確かな残滓(のこりび)では決してなかった。


――まさに今、そこに『彼』がいたのだ。


リンには見えていた。カイの肉体を包み込んでいた、あの不条理なまでの覇気(オーラ)の波動が。

普通の人間には感知できない、目に見えぬ絶対強者の証明。

カイ自身はそれを意図的に解放していたわけではない。完全に隠蔽していたつもりだったはずだ。だが、リンの目だけはそれを正確に捉えていた。


その絶対の確信が、彼女の心を言い知れぬ恐怖で震えさせる。

彼女の『肉体』は本能的に理解していたのだ。脳の記憶がどうしても説明を拒む、その不条理な真実を。


ソラが心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。


「リン……?」


リンは乾いた喉を鳴らし、ようやく声を絞り出した。


「……あの、魔力……」


その一言だけで、ソラには全てが理解できた。


「――ずっと探していた、あの気配なのね?」


リンは深く、力強く頷いた。

「うん、そうだよ……」

彼女は胸の上の手をさらに強く押し当てた。心臓の暴走は一向に収まる気配がない。

「どうしてなのかは分からない」

彼女の視線は、未だあの開かれた扉の奥へと吸い寄せられていた。

「でもね……絶対に、絶対にあの時の人と同じなんだよ……っ!」


   ◆◆◆


4年間、彼女がただひたすらに抱き続けてきたあの日の記憶は、決して鮮明なものではなかった。

それは、あまりにも断片的な一瞬の残像。

引き裂かれた天の隙間から差し込んできた、まばゆい一筋の救いの光。

絶対的な恐怖の真っ只中で、己の魂を優しく包み込んでくれたあの温かい存在感。

そして――世界中の誰もが絶望し、誰も手を差し伸べてくれなかったあの極限の絶望の中で、ただ一人だけ、自分の叫びに『応えてくれた』という絶対の確信。


彼女がこれまでの過酷な旅の中で、その不確かな気配だけを必死に追い求め続けてきたのは、あの奇跡のような瞬間が、決して自分の見たただの幻覚などではなかったという『証明』が欲しかったからだ。


そして今、あの魔王カイという男の前に立った瞬間、彼女は理解させられた。

なぜこれまでの追跡において、そのすべての痕跡が不完全で、掴みどころがないように感じられていたのかを。

それは、時間の経過とともに風化しつつある過去の思い出(データ)などではなかったのだ。

――あそこにいた男こそが、その気配の『本体』そのものだったのだから。


その強烈な相互認識は、単なる驚きという次元を遥かに超え、彼女の魂の根源へと深く突き刺さった。

あの日、『太陽の涙』の夜に恐怖でただ泣き叫ぶことしかできなかった無力な少女の記憶が、今、満身創痍で難民の群れに紛れて立ち尽くしている冒険者の少女の現実と、一本の強固な鎖で完全に結合したのだ。


かつて自分を絶対の安心で満たしてくれたあの全能の力。

それは今、どこか気怠げで、面倒くさそうで、自分が目の前の少女にとって一体どれほど重大な意味を持つ存在であるのかを「これっぽっちも気づいていない」ような、そんな男の肉体に宿っていた。


リンの指先が、胸元で小刻みに震える。

この4年間、あの方を見つけ出せば、自分の中に眠るすべての疑問に答えが出せるはずだと、ずっとそう信じ込んでいた。

しかし――いざその瞬間に直面してみれば、彼女の胸を満たしたのは、全く新しい異質な『恐怖』だった。


(――もしも、あの時わたしを救ってくれたのが本当にあの人なんだとしたら……どうしてあの人は、一度だってわたしを捜しに来てくれなかったんだろう?)


(――そして……もしもあの人がもう一度わたしを救ってくれたとしたら、わたしは……またあの人に甘えて、頼ってしまう自分を、拒むことができるのかな……?)


隣のソラは、何も答えなかった。

今回ばかりは、いつもの冗談も、悪戯っぽいからかいの台詞もなかった。

そこにあるのは、ただ彼女の葛藤を見守る静かな沈黙だけだった。


二人の少女は、数万という難民の雑踏に揉まれながら、ゆっくりとその巨大なエントランスの内部へと足を踏み入れていく。

そして、この果てしない巨塔のどこか上の階層には――リンがこれまで、それとは知らずにただひたすらに探し求めていた、最愛の人物が鎮座しているのだ。


彼女は未だ、彼の本当の正体(プロフィール)を知らない。

なぜ彼の魔力があれほどまでに懐かしく、胸を締め付けるのか、その本当の理由も分かっていない。

ただ彼が近づくだけで、どうして自分の心臓がこれほどまでに狂暴な拒絶と歓喜の反応を示すのか、そのメカニズムすら掴めてはいなかった。


――だが、彼女はついに、ここまで辿り着いたのだ。

手の届くほどの至近距離へ。


4年前のあの日、無力な少女がたった一人で開始した果てしない旅路の終着点は――彼女の身体を、その最愛の主の元へと、寸分の狂いもなく真っ直ぐに導いていたのだった――。

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