第89話: 戦争の影
アステリア王国の朝が白み始める頃、リンとソラの二人は息を切らせて冒険者ギルドへと帰還していた。
道中、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
衣服は街道の激しい砂塵で白く汚れ、リンのブーツには、偵察のために強行突破したあの深い森の泥が乾いてこびりついたままだ。
ソラが重厚なギルドの扉を押し開ける。
瞬間、いつもの喧騒が容赦なく彼女たちを出迎えた。
大声を張り上げて談笑する冒険者たち。クエストの報酬額について受付嬢と揉めている男。食堂の近くでは、どの魔物が最強であるかについて熱い議論を交わしているパーティーの姿。
それは、いつもならどこか安心させる日常の光景だった。――いつもなら、だ。
なぜなら、リンが一歩足を踏み入れた瞬間、脳裏にあの地底で目撃した最悪の光景が鮮明に蘇ってきたからである。
2万のオークの軍勢。
高度に組織化された軍隊。
複数の『豚大将』。
そして――あの巨大な地下ダンジョンの奥深くから、冷酷に命令を下していたであろう『オークキング』の圧倒的な覇気。
ソラが心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「リン、またあいつらのことを考えてるね?」
リンははぁ、と小さくため息を吐き出す。
「……考えない方が無理だよ」
「まあ、そうだよね」
◆◆◆
二人は受付へと歩み寄り、詳細な調査報告書を提出した。
対応した受付嬢がその文面に目を落とす。――数秒の後、彼女の表情から完全に血の気が引いていった。彼女は信じられないといった様子で、もう一度同じ箇所を読み直す。
「――2万……頭……!?」
リンは重々しく首を縦に振った。
「うん。少なく見積もっても、ね」
受付嬢はすぐさま、近くにいた別の職員に向けて叫んだ。
「――大至急、ギルドマスターを呼んできて!!」
その職員は弾かれたように椅子席から立ち上がり、奥へと走っていった。
その緊迫した反応だけで、リンにはすべてが理解できた。これは、よくある一時的な「魔物の大量発生」などとは完全に次元が違うのだと。
数分もしないうちに、ギルド内は不気味なほどに静まり返っていった。
奥から、山積みの書類を抱えたギルドマスターが血相を変えてホールへと入ってくる。
彼は真っ直ぐにリンとソラを見据えた。
「――お前たちが、オークの動向を調査してきた冒険者か?」
「はい」
リンが答える。
「……全てを話してくれ」
リンはテーブルの上に、自ら描き殴った粗削りな地形図を広げた。
「オークたちは、あの地下ダンジョンの内部に一堂に集結しています。単なる野生の魔物の徘徊なんかじゃありません。完全に『軍隊』として機能しています」
ソラがさらに言葉を重ねた。
「奴らは大量の武器、兵糧、防具、その他の物資を組織的に蓄積していました。各部隊には、指揮官である『オークジェネラル』が配備されています」
ギルドマスターは卓上の地図を凝視したまま動かない。
「……それで、『オークキング』の姿は?」
「直接その姿を目撃したわけではありません」
リンが真剣な目を向ける。
「ですが、あの将軍たちをさらに上から统括し、的確な命令を下している絶対的な『王』の存在は間違いありません」
ギルドマスターは深く、重いため息を吐き出した。
「奴ら……一体どれほどの期間、準備を進めていやがったんだ……」
「それは分かりません」
ソラが付け足す。
「――つまり、数ヶ月も前から水面下で動いていた可能性がある、ということです」
「あるいは、それ以上にな……」
ギルドマスターの顔が苦渋に歪む。彼はすぐさま周囲の職員へ向けて鋭い怒号を飛ばした。
「この報告書を、今すぐ近隣の『管区本部』へ電送しろ!! 一刻を争うぞ!!」
職員が一文字に変えて奥の扉へと消えていく。リンはその背中を見送りながら、静かに問いかけた。
「――これから、どうなるの?」
ギルドマスターは腕を組み、冷徹な現実を突きつけるように彼女を見つめた。
「どうなるか、だと?」
彼の声音が、絶対の緊張感を伴って響く。
「――決まっているさ。これ以上、こいつをただの『魔物の大掃除』だと決めつける平和ボケは、もう終わりにさせてもらう」
---
伝播する激震
正午を迎える頃には、その衝撃的な情報はすでに管区全域へと拡散し始めていた。
ギルドの『情報屋』たちが、集落から集落へと休むことなく馬を走らせ、全く同じ『警告』を各地の掲示板へと叩きつけていく。
――オークの軍勢。その数、およそ2万。
複数の『豚大将』の存在。
そして、絶対的な『オークキング(オークの王)』の影。
とある宿場町のギルドでは、血気盛んな若手冒険者の一団が情報屋を取り囲んでいた。
「2万頭だと!? おいおい、いくら何でも盛りすぎだろ!」
「俺だって、これがハッタリだったらどれほど救われたか分からねえよ」
それを聞いた別の若者が、目をぎらつかせながら拳を握りしめる。
「ってことはよ……そいつらをぶち殺した時の『討伐報酬』は、一体どれほど跳ね上がるんだ?」
その浅はかな台詞が響いた瞬間、近くの席に座っていたベテランの老冒険者が、口に含んでいた酒を激しく吹き出しそうになった。
「ぶち殺す、だと……?」
老冒険者は冷酷なジト目を若者へと向ける。
「おい新入り。お前、自分たちが『2万頭の軍隊』を相手に戦おうとしてる自覚があるのか?」
若手冒険者は気圧されたように言葉を詰まらせた。
「いや……それは、俺一人でって意味じゃなくて……」
「だろうな。もし一人で突撃してみろ、3秒と持たずに豚の餌になれるぜ」
別の冒険者が深刻そうな顔で身を乗り出してきた。
「奴ら、一体何を企んでやがるんだ?」
情報屋は重々しく首を横に振った。
「そこまではまだ、上層部でも掴めていねえ」
「だが、奴らは現に行軍を開始してるんだろ?」
「ああ、間違いない」
「目的地はどこなんだよ!?」
「――それも含めて、一切が『不明』だ」
その回答に、ギルド内が水を打ったように静まり返った。
具体的な数字の恐怖以上に、その『不確定要素(不明)』という事実が、冒険者たちの心をじわりと蝕んでいく。
あれほどの規模の大軍勢が、明確な『理由』もなしに大量の武器や兵糧を蓄積するはずがないのだ。
奴らは確実に、何か破滅的な作戦を完遂しようとしている。
そして、その『何か』に対して、人間の王国側はあまりにも無防備で、あまりにも準備不足であるという冷酷な現実を、人々はついに突きつけられようとしていた――。
伝播する激震
正午を迎える頃には、その衝撃的な情報はすでに管区全域へと拡散し始めていた。
ギルドの『情報屋』たちが、集落から集落へと休むことなく馬を走らせ、全く同じ『警告』を各地の掲示板へと叩きつけていく。
――オークの軍勢。その数、およそ2万。
複数の『豚大将』の存在。
そして、絶対的な『オークキング(オークの王)』の影。
とある宿場町のギルドでは、血気盛んな若手冒険者の一団が情報屋を取り囲んでいた。
「2万頭だと!? おいおい、いくら何でも盛りすぎだろ!」
「俺だって、これがハッタリだったらどれほど救われたか分からねえよ」
それを聞いた別の若者が、目をぎらつかせながら拳を握りしめる。
「ってことはよ……そいつらをぶち殺した時の『討伐報酬』は、一体どれほど跳ね上がるんだ?」
その浅はかな台詞が響いた瞬間、近くの席に座っていたベテランの老冒険者が、口に含んでいた酒を激しく吹き出しそうになった。
「ぶち殺す、だと……?」
老冒険者は冷酷なジト目を若者へと向ける。
「おい新入り。お前、自分たちが『2万頭の軍隊』を相手に戦おうとしてる自覚があるのか?」
若手冒険者は気圧されたように言葉を詰まらせた。
「いや……それは、俺一人でって意味じゃなくて……」
「だろうな。もし一人で突撃してみろ、3秒と持たずに豚の餌になれるぜ」
別の冒険者が深刻そうな顔で身を乗り出してきた。
「奴ら、一体何を企んでやがるんだ?」
情報屋は重々しく首を横に振った。
「そこまではまだ、上層部でも掴めていねえ」
「だが、奴らは現に行軍を開始してるんだろ?」
「ああ、間違いない」
「目的地はどこなんだよ!?」
「――それも含めて、一切が『不明』だ」
その回答に、ギルド内が水を打ったように静まり返った。
具体的な数字の恐怖以上に、その『不確定要素(不明)』という事実が、冒険者たちの心をじわりと蝕んでいく。
あれほどの規模の大軍勢が、明確な『理由』もなしに大量の武器や兵糧を蓄積するはずがないのだ。
奴らは確実に、何か破滅的な作戦を完遂しようとしている。
そして、その『何か』に対して、人間の王国側はあまりにも無防備で、あまりにも準備不足であるという冷酷な現実を、人々はついに突きつけられようとしていた――。
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アステリアの防衛線
アステリア王国の王宮内部では、国王アルドレンが巨大な戦略地図の上に覆いかぶさるように立っていた。
傍らには不動の姿勢で控えるアーヴェン。そして円卓の周囲を、険しい顔をした幾人もの軍事指揮官たちが取り囲んでいる。
「2万、ですか……」
一人の将軍が、苦渋を噛み締めるようにぼそりと呟いた。
「しかも、高度に組織化されていると……」
別の指揮官が言葉を重ねる。
アルドレンの鋭い眼光は、地図の一点から微動だにしなかった。
「――奴らの『進軍ルート』はどうなっている?」
「未だ掴めておりません。現在、全力で索敵中でございます」
「ならば、何としてでも突き止めろ」
「ははっ!」
アルドレンは地図の北方地域を次々と指し示した。
「ここに斥候を配備しろ。ここだ。そして、ここにもだ」
指揮官たちが一斉に深く頷く。
「――絶対に、奴らを刺激するような戦闘は許可せん。例外は認めんぞ」
一人の将軍が、怪訝そうに眉をひそめた。
「陛下、しかし奴らが我が国を目指して進軍しているのだとすれば――」
「分かっている」
アルドレンの表情が一気に冷徹なものへと変わる。
「だからこそだ。奴らの真の目的を完全に見極める前に、我が軍の不用意な一撃で2万の怪物を全面戦争へと暴走させるわけにはいかんのだ」
玉座の間に、重苦しい静寂が戻る。
2万頭のオークの軍勢を巻き込んだ戦争ともなれば、近隣の町や集落は文字通り丸ごと一つ残さず飲み込まれ、灰へと変わるだろう。
もしあの『オークキング』が、本気で人間に牙を剥く決意を固めたのだとすれば、アステリア王国とて一瞬の油断も許されない。
しかし、ここで恐怖に駆られてパニックを起こすことこそが、最大の悪手であるということも、また事実だった。
現時点で彼らにできることは、ただ一つ。
息を潜め――徹底的にその動向を『監視』し続けることだけだった。
---
エリュシオン・オーダーの平穏
外の世界で急速に膨れ上がる緊張感を余所に、『エリュシオン・オーダー』の内部は奇妙なほどに平和な空気に包まれていた。
相変わらず巨大なメインストリートを行き交う無数の人々。
下層階の探索へと精を出す冒険者たち。
実験室にこもって研究に没頭する研究者たち。
新たに設えられた家へと引っ越していく難民の家族たち。
そして――およそ塔の内部に存在するはずのない広大な庭園の芝生の上を、無邪気に駆け抜ける子供たちの姿。
当のカイはと言えば、テーブルについて昼食を平らげている真っ最中だった。
その傍らにクロエが直立し、ユイは静かに最新の報告書を読み込んでいる。
その対比は、客観的に見ればほとんどギャグの領域だった。
外の世界では、いくつもの国家が国家の存亡を賭けた大戦争の準備に血相を変えているというのに。この塔の主は今、もう一枚パンを食べるべきか否かという極めて平和な選択肢に頭を悩ませていたのだから。
彼がパンへと手を伸ばした瞬間、クロエがすっと皿を遠ざけた。カイは皿のあった空間を呆然と見つめる。
「……何でだよ?」
「もうすでに6枚目ですよ、カイ様」
カイは目をパチくりとさせた。
「6枚?」
「はい」
「へえ、なるほどな」
彼はテーブルの上の空になった皿の山を見つめた。
「腹が減ってたんだよ」
ユイが手元の報告書から視線を上げることもなく、淡々とツッコミを入れる。
「あなた、いつも腹を減らしているじゃない」
「そんなことねえよ」
クロエが片方の眉を上げた。
「朝食を2回も要求したのはどこのどなたですか?」
「あれは不可抗力だろ」
「どう違うのですか?」
「腹が減ってたんだ」
ユイがようやく顔を上げた。
「……全く同じ理由じゃない」
カイの動きが止まり、ばつが悪そうに目を逸らした。
「……違いないな」
クロエが諦めたように皿を戻すと、カイはすかさず新しいパンを一切れ掴み取った。ユイは、はぁ、と小さくため息を漏らす。
◆◆◆
そこへ、ユイの表情がふっと真剣なものへと切り替わった。
「――オークの件で、続報が入ったわよ」
カイはパンを咀嚼する手を止めた。
「オークか?」
「ええ」
クロエが彼女の方へと向き直る。
「一体、何が起きたのですか?」
「数にして、およそ『2万頭』であることが正式に確定したわ」
カイはゴクリと口の中のものを飲み込んだ。
「2万か……そいつは随分と大層な数だな」
それを聞いたクロエが、信じられないといった目で主を凝視する。
「カイ様……それが、一国の命運を握る魔王としての第一声ですか?」
カイは不思議そうに彼女を見つめ返した。
「じゃあ、他に何て言えば満足なんだ?」
ユイがパタンと報告書を閉じた。
「もう少し危機感というか、懸念を滲ませた台詞の方が、今の状況にはふさわしいのだけれど?」
カイは少しだけ思考を巡らせ、そして大真面目に言い直した。
「……2万頭というのは、とんでもなく、それはもう無茶苦茶に大層な数だな」
クロエはいたたまれなさそうに両手で顔を覆い、ユイは数秒の間、完全に据わった目で彼を凝視した。
「――今のは、何も聞かなかったことにするわね」
「ありがとよ」
そんな冗談めかしたやり取りを交わしつつも、最終的にカイの顔から笑みが綺麗に消え失せ、底の知れない真剣みが宿った。
「――奴らの『進軍ルート』は?」
「未だ一切が『不明』よ」
「俺たちの場所に向かって進んできてる気配は?」
「現在のところ、その兆候は見られないわね」
カイはゆっくりと背もたれに体重を預けた。
「なら――放っておけ」
クロエが驚いたように目を瞬かせる。
「えっ……? カイ様、介入はなさらないのですか?」
「ああ」
カイは巨大な窓の向こうの景色を見やった。外の世界は確実に、激動の時代へと突入しようとしている。だが、世界のすべてのトラブルが、自分の出番を待っているわけではないのだ。
「2万のオークどもは、現時点で俺たちを襲撃しに来てるわけじゃない。どこか別の場所で、勝手に戦争の準備を進めてるだけだ。そのベクトルがこちらに向かない限り、俺たちが首を突っ込む理由はどこにもないさ」
ユイが深く頷いた。
「ええ。万が一に備えて、エリュシオン・オーダー周辺の結界索敵の感度はすでに最大まで引き上げてあるわ」
「よし、上出来だ」
カイはすっと立ち上がった。
「――もしも奴らが、この場所の領域を一歩でも侵すような真似をしてみろ。その時は……跡形もなく処理してやるまでさ」
その声は、どこまでも冷静だった。あまりにも静かで、不穏なほどに。
クロエはその声音の「本質」をよく知っていた。
カイは2万の軍勢など、これっぽっちも恐れてはいない。ただ単に――わざわざ自ら腰を上げるほどには、未だあの怪物どもに興味が持てないという、絶対強者故の冷徹な判断だったのだ。
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新たなる依頼
翌朝、リンとソラの二人は再び冒険者ギルドへと足を運んでいた。
昨夜はろくに眠れなかった。自分たちが持ち帰った決死の偵察報告が、解決策をもたらすどころか、より多くの深刻な疑問を生み出してしまったからだ。
二人の元へ、ギルドマスターが重々しい足取りで近づいてきた。
「――お前たちに、新たな任務を言い渡す」
リンが差し出された依頼書に目を落とす。
「偵察クエスト、ですか?」
「ああ」
ソラが詳細を読み上げた。
「――軍勢の行軍ルートを追跡し、奴らの『目的地』を特定、速やかにギルドへ報告せよ……」
ギルドマスターが深く頷く。
「絶対に交戦は不許可だ。いいな?」
リンは少しだけ不満げに眉をひそめたが、すぐに了解した。
「……分かっています」
「大真面目な話だぞ」
ギルドマスターの眼光が、かつてないほど鋭く据わる。
「2万の軍隊なんてものはな、若い冒険者二人が逆立ちしたって太刀打ちできる相手じゃねえんだ」
ソラが真剣に頷いた。
「ええ、絶対に戦いません」
リンも刀の柄へとそっと手を添える。
「観察に徹します」
「よし。頼んだぞ」
二人は正式にその依頼を受理し、数分後には手際よくギルドを後にした。
前方に伸びる街道は、不気味なほどに静まり返っている。あまりにも、静かすぎた。
ソラが不穏な空気を孕む北の地平線を見つめる。
「……で、私たちはこれから2万頭のオークの群れを追いかけるわけね」
リンははぁ、と小さくため息を漏らした。
「どうやら、そういうことみたい」
「客観的に見て、最高にイカれた最悪のアイデアだよね?」
「多分ね」
ソラはふっと、悪戯っぽく優しい笑みを浮かべた。
「ま、それでも『二人一緒』だからいいんだけどね」
---
軍勢の背中を追って
二人の少女は、息を潜めて鬱蒼とした森の中を進んでいた。
軍勢へと直接近づく無茶はしない。代わりに、奴らが通り過ぎた後に残した膨大な『痕跡』を追跡していた。
へし折られた無数の枝。深く巨大な足跡の轍。投げ捨てられた配給の残骸。
時折、放棄されたばかりの宿営地の跡が見つかる。
ある場所には数十人の兵卒を満たすに十分な食料の残滓があり、また別の場所には破損した武器の木箱が転がっていた。
リンが足跡の一つへと近づき、静かにしゃがみ込んだ。
「……これ、やっぱり普通じゃないよ」
ソラがその手元を覗き込む。
「何が?」
「この陣形を見て」
リンが土の上の無数の足跡を指差した。
「奴ら、行軍中だっていうのに、部隊の統率を完璧に維持したまま移動してる」
ソラが地面を注視する。
「――つまり、誰かが完璧に奴らをコントロールしている、ということね」
「その通り」
二人はさらに森の奥深くへと足を進めた。
やがて、前方の木々の隙間から低く濁った『話し声』が漏れ聞こえてくる。
リンが即座に片手を上げた。ソラがピタリと足を止める。二人は素早く、生い茂る茂みの陰へと身を低く沈めた。
数頭のオークたちが、街道沿いを平然と歩いている。
かつてリンが戦ってきた野生の魔物とは、その在り方が根本から違っていた。
奴らは、明確な『兵卒』だった。
統一された防具。磨かれた武器。規律正しい布陣。徹底された軍紀。
――その時、ズシンと大地が不気味に震動した。
リンがゆっくりと頭を上げる。
兵卒たちの間から、一頭の圧倒的な巨躯が姿を現した。
――『オークジェネラル(豚大将)』。
他の個体が子供に見えるほどの体躯。その防具は禍々しい黒色金属で補強され、身の丈ほどもある凶悪な武器を肩に預けている。
しかし、リンの視線を釘付けにしたのは、その巨体の威圧感ではなかった。
奴の『瞳』だ。
そこに野生の狂気はない。ただ冷徹に、計算高く戦況を見据える指揮官の双眸だった。
将軍が周囲の地形を見渡す。
「――報告せよ」
一頭の兵卒が前に進み出た。
「はっ! 北方ルートに異常なし!」
「人間の集落の状況は?」
「順調に行軍圏内に3つ」
「人間の隠密斥候の影は?」
「現在のところ、一切感知されておりません!」
将軍は満足げに頷いた。
「よし、そのまま前進を続けよ。――命令があるまでは、絶対に民間人への略奪・襲撃は許可せん」
その台詞を聞き、リンの目が驚愕に見開かれた。ソラが顔を寄せ、限界まで声を潜めて囁く。
「……信じられない。オークが、理性的で的確な命令を下してる……」
リンはゆっくりと、しかし戦慄を堪えながら頷いた。
「うん。これはただの『魔物の暴動』なんかじゃないよ」
将軍の冷酷な指令は続く。
「さらに一隊、先行偵察部隊を前方へと放て。本隊が到着する前に、人間の防衛線の布陣および戦力規模のデータを完全に掌握するのだ」
「ははっ! 将軍閣下!!」
命令を受けた兵卒どもが、一糸乱れぬ動きで即座に散っていった。
リンの表情が、一気に険しいものへと変貌する。
「奴ら……人間の防衛体制を『偵察』しようとしてる」
ソラが息を呑み、震える声で呟いた。
「じゃあ……本当に、ただ彷徨っているわけじゃなくて……」
「うん」
リンは愛刀の柄を、ギチギチと強く握りしめた。
「――奴らは、人間社会への本格的な『侵略戦争』の準備を進めてるんだよ」
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致命的な過ち
撤退すべきだった。二人はそれを痛いほど理解していた。
リンとソラは息を殺し、じりじりと後退を開始する。
一歩。そして、もう一歩。
――パキッ。
リンのブーツの踵が、地面に落ちていた乾燥した枯れ枝を踏み折った。
その音自体は、極めて小さなものだった。しかし、この水を打ったように静まり返る緊迫した森林の中においては、それはまるで大砲の轟音のように響き渡ったのだ。
オークジェネラルの鋭い眼光が、寸分の狂いもなく二人の潜む茂みへと弾かれた。
「――そこにいるのは誰だ!?」
リンの身体が完全に硬直する。ソラが恐怖に目を見開いた。
「リン、走って!!」
二人は弾かれたように地を蹴った。
背後から、オークどもの獰猛な怒号が鼓膜を突き刺す。
「敵の隠密斥候だ!!」
「逃がすな! 追え!!」
木々の隙間を全速力で駆け抜けるリン。そのすぐ真横を、一本の鋭い矢が空気を切り裂いて飛び去った。彼女は反射的に頭を低く沈める。
すかさずソラが走りながら杖を後ろへと掲げた。
「――『聖光の障壁』!!」
背後に半透明の魔法障壁が展開される。直後、追撃の矢が数本、障壁の表面に激しく激突してカランと地面へ落ちた。
「ソラ、足を止めないで!!」
「言われなくても走ってるよ!!」
周囲の景色が残像となって流れていく。リンは走りながら刀を抜き放った。
刃に爆発的な魔力を収束させ、進行塞ぐように横たわっていた大木を流れるような一閃で両断する。
◆◆◆
二人の少女は、ただひたすらに前を向いて走り続けた。
――しかしその背後で、オークジェネラルは追撃を仕掛けようとしていた兵卒たちを手で制した。
「――追撃はそこまでだ。深追いするな」
兵卒どもは一糸乱れぬ動きで即座に足を止めた。
「はっ! ……しかし、よろしいのですか、将軍閣下?」
一頭の兵卒が不思議そうに首を傾げる。
将軍の唇が、冷酷な計算高さを含んで歪んだ。
「構わん。奴らが本物の斥候であるなら、今しがた目撃した我が軍の『脅威』を必ず上層部へ報告するはずだ」
将軍は、リンとソラが逃げ延びた方角の闇をじっと見つめた。
「――それが人間の防衛線へどのような心理的影響をもたらすか。奴らの『出方』を見極めるための、格好の材料になってくれるさ」
---
オークキング(豚の王)
数時間後、地底のさらに奥深くにおいて、あのオークジェネラルは巨大な玉座の前に平伏していた。
その地下空洞は、常人の目では果てを見通せないほど広大に広がっている。
無数の地下回廊を埋め尽くす、数万頭のオークの兵卒ども。
岩壁には凶悪な兵器が整然と山積みにされ、防具が手際よく行き渡り、兵糧の備蓄も完璧に管理されていた。
この忘れ去られた古代のダンジョンは今や、一分の隙もない完璧な『軍事要塞』へとその変貌を遂げていたのだ。
将軍は玉座へとにじり寄り、深く頭を垂れた。
「――我が王よ」
玉座に傲然と鎮座していた巨躯が、ゆっくりとその凶悪な双眸を開いた。
「……何を持ち帰った、ジェネラル」
「人間の隠密斥候どもが、我が軍の所在を嗅ぎつけました」
オークキングは無言で先を促す。
「――奴らは、我が軍勢が高度に組織化された『軍隊』であるという事実に気づきました」
それを聞いた瞬間、オークキングの醜悪な顔に、じわりと凶悪な笑みが広がっていった。
「――フッ、上出来だ」
将軍が意外そうに顔を上げる。
「……上出来、ですか?」
「有象無象の獣だと侮っている人間に、我らの真の『脅威』を自覚させるには格好の機会よ」
オークキングはすっと立ち上がった。その巨躯から放たれる圧倒的な威圧感が地底を満たす。
「人間どもは長きにわたり、我らオークをただの知性なき獣と見下してきた」
彼の冷酷な眼光が、眼下にひしめく2万の精鋭たちを舐めるように掃射する。
「――ならば、思い知らせてやろうではないか。我らが知性と規律を兼ね備えた、真の『覇者』であることをな」
――オ、ォォォォォォォォォォォッ!!!!!
地底世界が激しく共振した。2万頭の兵卒が一斉に武器を天高くへと突き上げ、地鳴りのような咆哮を炸裂させる。
オークキングが、その巨大な凶腕を前方の闇へと掲げた。
「――全軍、進軍の準備を完了せよ」
将軍たちが一斉に深く平伏する。
「――明日、我らは地上へと打って出る。聖戦の始まりだ!」
---
戦端の胎動
その日の夕方、リンとソラの二人は辛うじて最寄りの宿場町へと辿り着いていた。
二人の疲弊はピークに達していた。リンが力なく大樹の根元へと腰掛けると、ソラが優しく水筒を手渡す。
「……奴ら、私たちが監視してたことに気づいてたね」
ソラが呟く。
リンは重々しく首を縦に振った。
「うん。そして……人間側が自分たちの存在に気づいたってことも、奴らは完全に織り込み済みだよ」
ソラが薄暗くなり始めた地平線を見つめた。
「これから、一体どうなっちゃうのかな……」
リンは前方に伸びる無人の街道をじっと凝視した。
「分からない……」
今回ばかりは、強がって別の言葉を吐き出す余裕すらなかった。
「でも、何が起きるにせよ……2万のオークの軍勢が、いつまでもあの闇の中に引きこもっているはずがないよ」
ソラが彼女の隣へと静かに腰掛けた。
「なら――私たちは、私たちの準備をするだけだよ」
リンが彼女の顔を覗き込む。
「ソラ……怖くないの?」
ソラは少しだけ思考を巡らせ、そして正直に答えた。
「――怖いよ、すごくね」
リンが目を瞬かせる。
ソラはふっと、この上なく愛おしそうな笑みを浮かべた。
「でもね、私はこうして『あなたの隣』にいるよ」
それを聞き、リンの顔にいつもの眩しい笑顔が戻った。
「……うん、最高の答えだね」
◆◆◆
二人がそれ以上言葉を重ねるより早く、宿場町の中心部に設置されていた巨大な『魔導通信結晶』が、突如として不気味な起動音を響かせて明滅を始めた。
投影された光の中に、血相を変えたギルドの『情報屋』の姿が浮かび上がる。その表情は、およそ見たこともないほどに緊迫していた。
「――緊急入電! 緊急入電!!」
リンとソラは弾かれたように立ち上がり、結晶のホログラムへと視線を走らせた。
「――地底より出現したオークの主力軍勢が、たった今、北方領土の境界線を越えて『侵攻』を開始した!!」
ホログラムの映像が激しく切り替わり、一枚の広域戦略地図が浮かび上がる。そこには、信じられないほどの巨大な『深紅のマーカー』が、人間の領土へと向けて無慈悲に行軍していく様がリアルタイムで描かれていた。
「部隊内には複数の『オークジェネラル(豚大将)』の存在が確定! 重装歩兵連隊による圧倒的な蹂躙が始まっている!!」
情報屋が一呼吸置き、喉を引き裂くような声を響かせた。
「――総勢2万のオークの軍勢を、ギルド本部および周辺国家群は、本日この瞬間を以て正式に『広域軍事破滅脅威』に指定する!!」
ブツン、と非情に通信が遮断され、周囲に重苦しい絶対の静寂が戻る。
リンは北の空を睨みつけた。
つい昨日まで、ただの不気味な噂話や遠い地の出来事でしかなかったあの『大戦争』の足音が、もはや自分たちのすぐ目の前まで迫り狂っているのだ。
奴らは、現実に人間世界を滅ぼすために進軍している。
リンはチャキ、と静かに愛刀を抜き放った。
ソラがその真横へと力強く立ち並ぶ。
あの2万の怪物が、最終的にどの町を血の海に変えようとしているのか、今の彼女たちにはまだ分からない。
――だが、逃げるつもりなど毛頭なかった。必ず、その進軍の刃を突き止めてみせる。
なぜなら、最悪なる戦争の『影』は――ついに、彼女たちのすぐ足元にまで到達してしまったのだから――。




