第88話: オークの軍勢
『エリュシオン・オーダー』。
その場所へ正式な真名が与えられた。
そして、そのたった一つのシンプルな決定が、不思議と塔を取り巻く空気を劇的に変えていた。
もはや誰も、あの場所を「アステリア王国の外にある謎の巨塔」などとは呼ばない。その真名は、凄まじい速度で世界へと広がり始めていた。
冒険者たちはそのニュースを自らのギルドへと持ち帰り、商人たちは新たな交易ルートを議論する際にその名を口にする。研究者たちはすでに報告書にその名を刻み、アステリアを通過する旅人たちでさえ、あの雲を突く巨大な建造物を『エリュシオン・オーダー』と言い表すようになっていた。
しかし当の塔の内部では、いつもと変わらぬ日常が淡々と流れていた。
……まあ、全100階層にわたって深い森、険しい山々、果てしない砂漠、海のような湖、整然とした都市、魔導研究施設、そしていくつもの国家が嫉妬するほどの膨大なフリースペースを内包したイカれた魔法建築の中における「いつも通り」が、どれほど普通なのかはさておき、だが。
◆◆◆
カイはクロエを連れて、第一階層にある居住区の一つをのんびりと歩いていた。
街路の活気は、日に日に増しつつある。
家々の間を物資を抱えて忙しなく行き交う人々。露店の品を整える商人たち。
さらに塔の奥深くへと挑んだ遠征から帰還したばかりの冒険者たちもおり、ある者は精魂尽き果てた顔をし、またある者は信じられないほどの好戦的なドヤ顔を晒していた。
子供たちは街路を元気いっぱいに駆け抜けている。自分たちの最高の遊び場が、およそこの世で最も危険とされる『魔王』の膝元であることなど、これっぽっちも気にする様子はない。
カイは小さな噴水の傍らで足を止めた。
二人の子供がその周囲をキャッキャと追いかけっこしている光景を、じっと見つめる。
一人が足をもつれさせて転びそうになった。すると、もう一人の子が即座にその手を掴み、力強く引き戻して立たせる。
その光景を見て、カイの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「――どうやら、みんなすっかり馴染んでるみたいだな」
クロエが嬉しそうに頷く。
「そのようですね、カイ様」
カイは改めて周囲を見回した。
「俺が最初にここへ来た時は、本当に誰もいなかったからな」
「それは、カイ様がこちらの現実世界へ降臨されて間もない頃でしたからね」
「それにしても、だ」
彼は周囲の立派な建造物群を見やった。
「今じゃどこを見渡しても人だらけだ」
クロエが愛おしそうな笑顔を向ける。
「それだけ『エリュシオン・オーダー』が、人々の間で絶大な人気を博しているということですよ」
カイは深く頷いた。
「どうやら、俺の直感は正しかったみたいだな」
「何についてですか?」
「この塔は、無駄にスペースが有り余りすぎてるってことさ」
クロエが小首を傾げると、カイは広大な居住区を大雑把に指し示した。
「だってよ、全100階分もあるんだぞ? 難民の数十人や数百人が住み着いたところで、今更どうってことないだろ」
◆◆◆
その時、二人の背後から聞き覚えのある凛とした声が響いた。
「――数十人や数百人?」
カイが振り返る。
そこにはユイが呆れたように腕を組んで立っていた。
「……もうすでに、下層階を探索している人間だけで数千人の規模に達しているわよ?」
カイは目をパチくりとさせた。
「……は? マジで?」
「ええ、大マジよ」
「へえ、なるほどな」
カイは再び周囲の雑踏を見回し、そして平然と言い放った。
「まあ、この塔は100階分もあるんだ。数千人増えたところで、やっぱり今更どうってことないな」
ユイは、はぁ、と大きいため息を吐き出した。
「あなた、本当にその台詞がお気に入りね」
「事実だからな」
そのやり取りを見て、クロエが口元を隠してクスクスと笑う。
ユイが一歩、彼らの元へと歩み寄った。
「大切なのはね、人々がこの場所を『ただの不気味な魔窟』ではなく、自分たちが本当に安心して生きていける『生活の場』として認識し始めた、ということよ」
それを聞き、カイの表情がふっと柔らかいものへと変わる。彼は居住区へと引っ越していく難民の家族たちの姿を、どこか温かい目で見つめた。
「――ああ、そうだな」
◆◆◆
その瞬間、子供たちの一団が彼らの脇を猛烈な勢いで駆け抜けていった。
「どいてどいてー!」
「お前足遅すぎー!」
「待てよ、それ返せー!」
その時、一人の男の子が前の子の足に引っかかり、派手に転びそうになった。
カイの身体が本能的に反応する。男の子の身体が地面に激突する寸前、その襟首をひょいと片手で掴んでキャッチした。
男の子はカイを見上げ、満面の笑みを浮かべる。
「ありがと、お兄ちゃん!」
それだけ言うと、少年は風のように再び走り去っていった。
カイはその小さな背中が角の向こうへと消えていくのを見送り、ぼそりと呟いた。
「……あいつ、足速えな」
ユイが優しく微笑んだ。
「子供というのは、大抵そういうものよ」
カイは再び、その広大な居住区の雑踏に視線を戻した。
「……ま、こうして人が集まるのも、そう悪いアイデアじゃなかったかもな」
クロエが深く、力強く頷く。
「ええ、決して悪いことではありませんよ」
カイの唇に、確かな笑みが浮かんだ。
「そいつは良かった」
――しかしその瞬間、街路の反対側からまたしても鼓膜を震わせるような怒鳴り声が響き渡った。
「――おい!! それは俺の箱だぞ!!」
「お前が間違った建物の中に放置してたんだろ!!」
「そんなことしてねえよ!!」
カイは深く、ゆっくりと両目を閉じた。
「……ほら、始まった」
彼ははぁ、と大きいため息を吐き出す。
「――人間ってやつは、本当に騒々しいな」
彼は周囲を行き交う、活気に満ちた人々の姿を愛おしそうに見つめた。
「――だけど、俺はそんな騒々しさが、少しずつ気に入ってきてるよ」
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広がる真名
数日後、そのニュースはアステリア王国から遠く離れた地にある、小さな冒険者ギルドへと到達していた。
ギルドのメインホールの隅、古びた木製のテーブルにリンとソラの二人が腰掛けていた。
彼女たちは、あのオークたちの不気味な動向に関する新たな調査から、たった今帰還したばかりだった。
リンが椅子の背もたれにどさと体重を預ける。
「――これで、3つ目の集落だね」
ソラが深刻そうに頷いた。
「うん。しかも、どこの集落も直接的な『襲撃』は受けてない」
「だからこそ、余計に不気味なんだけどね……」
リンはテーブルの上に両肘を突いた。
調べれば調べるほど、この状況は辻褄が合わなくなっていく。
本来、オークという生き物はこれほど陰湿で計画的な真似をする生物ではない。村を襲い、旅人を襲撃し、縄張りを巡って派手に暴れ回る。それが奴らの生態のはずだ。
しかし、今回のオークたちは決定的に違っていた。
彼らは極めて高度に組織化された集団で移動している。大量の物資を輸送している。
そして何より――不必要な戦闘を、徹底的に避けているのだ。
確実に、水面下で何かが起きている。
◆◆◆
リンがさらに思考を巡らせようとしたその時、数枚の報告書を抱えた一人の男がギルド内へと入ってきた。
喧騒に包まれていた室内が、徐々に静まり返っていく。
『情報屋』の到来だ。
彼らは各地のギルドを渡り歩き、重大な歴史的事件、強力な魔物の動向、国家間の政治的発展、高ランク冒険者による新たな発見、そして金を払う価値のある重大な噂話を届ける専門職である。
情報屋は小さな木製の演台へと上がった。
「――おーい、みんな静かに! 最新の特大レポートを持ってきたぜ!」
周囲の冒険者たちが続々と演台の周りへと集まっていく。リンとソラは席に着いたまま、耳を澄ませた。
情報屋が、ゴホンと一つ咳払いをする。
「まずは第一に、アステリア王国からの最新情報だ!」
彼は一枚の書類を仰々しく広げた。
「あの王国のすぐ外にそびえ立つ、全100階層の謎の巨塔――あそこに、ついに『正式名称』が与えられたぞ!」
周囲の冒険者たちがざわざわと色めき立つ。リンがソラを見た。
「あの塔、だよね?」
ソラが深く頷く。
情報屋は劇的な間を置いて、朗々と声を響かせた。
「――その真名は、『エリュシオン・オーダー(Elysian Order)』だ!!」
ギルド内が一気に、無数の囁き声と議論で埋め尽くされた。
「『エリュシオン・オーダー』? 随分と大層な名前じゃねえか」
「あそこ、マジでとんでもねえ規模らしいぞ」
「内部に森があるって噂は本当なのか?」
「都市が丸ごと一つ収まってるって聞いたぜ!」
「んな訳ねえだろ、お前バカか?」
「山まであるって話だぞ!」
「どっちも大バカ野郎だな」
無数の雑音の中、リンはその名前をそっと口の中でなぞった。
「……エリュシオン・オーダー」
ソラがふっと優しい笑みを浮かべる。
「素敵な名前だね、私は好きかも」
リンも同意するように頷いた。
「うん、私も」
◆◆◆
情報屋がさらに声を張り上げる。
「そして第二の衝撃だ! その『エリュシオン・オーダー』の支配者は、今回正式に列柱へと加わった新たなる魔王――その名を『カイ』という!」
その瞬間、リンの意識がすっと鋭く研ぎ澄まされた。
「……カイ?」
ソラが不思議そうに彼女の顔を覗き込む。
「リン、どこかで聞いたことがある名前?」
「ううん」
リンは小さく首を横に振った。
「ただの魔王じゃなくて、名前があるんだなって」
情報屋の暴露はまだ終わらない。
「さらに驚くべきことに、アステリア王国はその『エリュシオン・オーダー』を独立領土として正式に承認! その主である魔王カイと、強固な『同盟』を締結したとのことだ!」
リンが驚きのあまり、上体を前へと乗り出した。
「同盟、だって!?」
ソラが真剣な表情で頷く。
「魔王と人間の国が同盟を結ぶなんて……これは歴史的な大事件だよ」
「うん……」
リンは深い思考の海へと沈み込んだ。
これまでにも、おとぎ話や不吉な噂話の中で『魔王』という存在の恐怖は耳にしてきた。
しかし、この魔王カイという存在は、彼女の知るいかなる魔王の定義ともかけ離れている。
謎に満ちた100階建ての塔。新世代の魔王。アステリアとの平和的な同盟。
そして何より――そこには今、行く当てを失った一般の人々が続々と集まり、平穏な暮らしを始めているという。
リンの唇に、微かな好奇心の笑みが浮かんだ。
「――わたし、そこに行ってみたい」
それを聞いたソラが、待ってましたと言わんばかりにクスリと笑った。
「あはは! 絶対にそう言うと思ったよ、リン」
リンは心外だと言わんばかりに顔を膨らませる。
「えー? なんでよ?」
「だって、『100階建て』って単語が聞こえた瞬間から、リンの目が完全に『冒険者』のそれに変わってたもん」
リンは恥ずかしそうにぷいと視線を外した。
「……そ、そんなことない、よ……多分」
「絶対にそうだったってば」
リンはいたずらっぽくニヤリと笑った。
「――いいじゃん! 私たち、もう立派な冒険者なんだからさ」
ソラは、はぁ、と困ったようにため息をつく。
「それ、最近のリンの万能の言い訳になってない?」
「だって、すっごく便利で良い言い訳でしょ?」
◆◆◆
――バンッ!!
その時、演台の上の情報屋が、おもむろにもう一枚の書類を叩きつけた。
「――よし、ここからは笑えない『深刻なニュース』だ」
ギルド内が再び、水を打ったように静まり返る。リンの顔から笑みが消え失せた。情報屋の表情は、先ほどまでとは打って変わって極めて険しいものに変貌していた。
「――大規模な『オークの軍勢の行軍』を確認した」
リンとソラが瞬時に視線を交わす。
情報屋は重々しく言葉を続けた。
「複数の集落からの報告によれば、オークの巨大な集団が、近隣の森や山岳地帯を縫うように移動しているとのことだ」
リンが上体を前へと乗り出した。
「規模は!? 一体どれくらいの数なの?」
情報屋は深刻そうに首を横に振った。
「……それが最大の懸念材料なんだよ」
彼は手元のレポートに目を落とす。
「正確な総数は、未だに掴めていねえ」
ソラが美眉をひそめる。
「じゃあ……現時点で分かっていることは何?」
「奴らは、単なる略奪目的の有象無象じゃねえってことだ」
情報屋が別の報告書を卓上に並べた。
「物資の強奪と兵糧の蓄積」
さらに一枚。
「大量の武器の輸送」
もう一枚。
「そして――極めて高度に統率された集団行動」
リンの表情が、一気に強張った。
「――奴らは、ただ暴れてるんじゃない。本格的な『軍隊』を組織しようとしてるんだ」
情報屋が彼女を鋭く見据えた。
「ああ。ギルドの本部も、全く同じ結論を出している」
ソラがリンを見つめる。
「……じゃあ、私たちのこれまでの調査は、間違ってなかったんだね」
リンは静かに、しかし決然と席から立ち上がった。
「うん」
彼女は真っ直ぐに情報屋を見据える。
「――奴らの目的地がどこなのか、突き止める必要があるよ」
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地下深くに蠢くもの
冒険者ギルドの喧騒から遥か遠く離れた地――鬱蒼とした大森林のさらに地下深くにおいて、その凶悪なダンジョンは地球の底を這うように広がっていた。
それは気の遠くなるほど古く、古代の遺物とも言える代物だった。
何世紀にもわたり、天然の濃密なマナがもたらした奇妙な鉱石の結晶が、その岩壁をびっしりと覆っている。
しかしここ最近、その絶対の闇の深淵に、別の『ナニカ』が棲みつき始めていた。
――オーク。
それも、数千、数万という桁外れの軍勢だ。
この忘れ去られた奈落のダンジョンこそが、奴らの巨大な秘密拠点と化していたのである。
地上からその異変を察知することは、絶対に不可能だった。
大規模な陣営の設営もなければ、夜間の篝火もない。軍旗も掲げられていなければ、大軍勢の気配すら一切隠蔽されている。
すべてが、この地底の闇の中へと徹底的に秘匿されていたのだ。
――そして今。ついにその軍勢は『完全体』へと至った。
その数、実におよそ2万――!!
2万頭もの狂暴なるオークの戦士、斥候、百人隊長、鍛冶職人、そして兵卒たちが、広大な地下空洞を隙間なく埋め尽くしていた。
岩壁には無数の粗悪ながらも凶悪な武器が山積みにされ、次々と防具が分配されていく。
大量の兵糧が倉庫に蓄積され、物資が手際よく荷馬車へと積み込まれていく。
その軍勢は、あまりにも組織的だった。
規律正しく、静かに――ただ『その時』を待っていた。
◆◆◆
もっとも広大な中央空洞の玉座の前に、数頭の圧倒的な巨躯が直立していた。
――『オークジェネラル(豚大将)』。
彼らはそれぞれが軍勢の一部を統括する最高幹部たちだった。
一人が歩兵連隊を率い、一人が斥候部隊を指揮し、一人が兵器と攻城兵器の運用を監督し、もう一人が精鋭の近衛戦士団を掌握する。
しかし、彼ら絶対の強者どもでさえ、ただ一頭の『絶対者』に対して平伏していた。
――『オークキング(オークの王)』。
彼は軍勢を見下ろす一段高い岩のプラットフォームの上に、傲然と仁王立ちしていた。
他のオークたちが子供に見えるほどの圧倒的な巨体。
その強靭な肉体には、これまでの修羅場を物語る無数の分厚い戦闘痕が刻み込まれている。
身の丈ほどもある巨大な大斧を肩に預け、その凶悪な双眸が、眼下にひしめく2万の兵卒たちを冷酷に舐めるように見据えた。
広大な空洞が、水を打ったように静まり返る。
やがて――オークキングが、その重低音の声を響かせた。
「――時は、満ちた」
すべてのオークが一斉に頭上の王を見上げた。
「我らは長きにわたり、この闇の中に身を潜め続けてきた」
彼の傲然たる咆哮が、地底の岩壁をビリビリと震わせる。
「物資を蓄え――」
オークジェネラルたちが深く首を垂れた。
「――牙を研ぎ、完全に準備を整えた!」
2万の軍勢が、一斉に手にした武器のグリップをギチギチと強く握りしめる。
「そして今――!」
オークキングがその巨大な大斧を、天高くへと突き上げた。
「――我らの『聖戦』を、今ここに開始する!!」
――オ、ォォォォォォォォォォォッ!!!!!
地鳴りのような凄まじい咆哮が、地下空洞全体から爆発した。
2万頭の狂暴な怒号が、ダンジョンそのものを激しく揺らし、岩天井からパラパラと土砂が舞い落ちる。
オークジェネラルたちは即座にその場に片膝を突き、忠誠を誓った。
「「「御意!! 我らが王よ!!」」」
オークキングの唇が、凶悪な歓喜の形に歪んだ。
「――全軍、進軍を開始せよ」
将軍たちが一斉に立ち上がる。
即座に、無数の命令伝達が蜂の巣を突いたように地底世界を駆け巡った。
2万のオークの軍勢が、一斉に地上へと向けて動き出す。
――外の世界の人々が、その破滅的な胎動に気づくよりも遥かに早く、最悪の『戦争』の幕はすでに切って落とされたのだ。
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足跡を辿って
数時間後、リンとソラの二人はまた別の森の境界線に立ち尽くしていた。
リンが素早く一連の足跡の前にしゃがみ込み、土の湿り具合を確かめる。
「――まだ、新しいよ」
ソラが緊張を孕んだ面持ちで周囲を見回した。
「数は……どれくらい?」
「多すぎる。数え切れないよ」
リンが立ち上がる。
無数の足跡の轍は、深い森のさらに奥深くへと延びていた。
二人は細心の注意を払いながら、その痕跡を追跡する。
奥へ進めば進むほど、そこにはより明確な『証拠』が散乱していた。
へし折られた無数の枝。乗り捨てられた荷馬車。破損した防具の破片。中身が根こそぎ空にされた木箱。そして――木々の幹に深く刻まれた、武器による生々しい傷跡。
ソラが地面から一本の折れた槍を拾い上げた。
「……やっぱり、これはただの行き当たりばったりな移動じゃないね」
「うん」
リンが険しい目で前方を見つめる。
「奴らは、大量の兵器を輸送してるんだよ。――確固たる『目的地』に向けてね」
二人はさらに進んだ。
やがて、彼女たちの前にゴツゴツとした岩だらけの険しい丘が現れる。
リンが先頭を切って斜面を駆け上がり、ソラがその後を必死に追った。
そして丘の頂へと辿り着いた瞬間――二人は同時に息を呑み、その場に凍りついた。
眼下に広がっていたのは、広大な盆地。
――そして、その最奥の岩壁に、おぞましく巨大な『ダンジョンの入り口』が口を開けていたのだ。
リンはその暗黒の深淵を凝視した。
「……あそこだ。奴らはあの中に吸い込まれていってるんだ」
ソラが足元の地面に視線を落とす。そこは文字通り、無数の足跡で埋め尽くされていた。
数十や数百というレベルではない。数千、いや万に届くかという圧倒的な蹂躙の跡。
彼女の顔から、完全に血の気が引いていく。
「リン……これって……」
「分かってる」
リンの視線は、あの不気味な黒い洞窟から微動だにしない。
「――あの中に、とんでもない『ナニカ』がいるんだよ」
ソラはそっと目を閉じ、自身の五感を研ぎ澄まして高度な魔力索敵を展開した。
数秒の後、彼女の美貌がかつてないほどの恐怖と深刻さで強張っていく。
「……なんて数なの……っ」
リンが彼女の顔を覗き込んだ。
「ソラ、どれくらいいるの?」
「正確な数は……感知しきれない」
ソラは怯えを隠せない瞳を開けた。
「でも、私たちがこれまでの冒険で出会ってきたどんな魔物の群れとも、次元が違いすぎるよ……!」
リンは愛刀の柄を、壊れそうなほどに強く握りしめた。
「――じゃあ、ギルドの予測は完全に的中してたんだね」
「うん。奴らはここで、一堂に集結してる……」
リンはダンジョンの入り口を鋭く睨みつける。
「なら……奴らが一体何を企んで、何のために集まってるのかを突き止めなきゃ」
その瞬間、ソラが慌ててリンの細い腕をガシッと掴んだ。
「――まさか、あの中に直接歩いて入るつもりじゃないよね!?」
リンは意外そうに目を丸くした。
「そんな無茶するわけないじゃん!」
「嘘。今、完全に『突撃しよう』って顔してたもん」
「……ほんのちょっとだけ、考えてみただけだよ」
「リン!」
「分かってるってば! 私だってバカじゃないもん!」
ソラがジト目を向けると、リンははぁ、と降参するようにため息をついた。
「分かったよ、大人しくしてるって」
二人は岩陰へと深く身を潜めた。
息を殺し、ただ静かに――その破滅的な軍勢の胎動を『監視』し続けるために。
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アステリアへ届く凶報
その日の夕方、破滅の報せはアステリア王国へと到達していた。
国王アルドレンは執務室に直立し、帰還したばかりの隠密斥候からの緊急レポートを凝視していた。
「――2万だと?」
アルドレンの瞳に驚愕の色が走る。
「……間違いないのか?」
「はい、陛下。過小評価しても2万を下回ることはございません」
傍らから報告書を覗き込んだアーヴェンが、その数字の異常さに呻く。
「2万ものオークが、一つのダンジョン内部に一堂に集結しているなどと――」
アルドレンの表情が、一気に険しいものへと塗り替えられていく。
「奴らを統率している『指揮官』の正体は分かっているのか?」
斥候は無念そうに首を横に振った。
「未だ掴めておりません」
「しかし、軍勢は高度に組織化されているのだな?」
「はい。個々の集落による単なる暴動の類では決してございません」
「ならば……確実に、奴らを束ねる絶対的な『頭脳』が存在するということだ」
アーヴェンが重々しく頷いた。
「おそらくは――『オークロード(豚の王)』、あるいはそれ以上の高位個体かと」
アルドレンは窓の外、夕闇に包まれつつある王都の街並みを見つめた。
ここ最近、王国はただでさえ多くの不確定要素に頭を悩ませてきたのだ。そこへ来て、2万頭のオークによる文字通りの『大軍勢』が、今まさに戦争の準備を完了しようとしている。
「奴らの『標的』がどこなのか、一刻も早く突き止めねえばならん」
「ははっ!」
アルドレンは手元の報告書へと視線を戻した。
その時、彼の脳裏にある一人の男の顔が過る。
――カイ。
『エリュシオン・オーダー』は今や正式な独立領土として認められ、アステリア王国は彼と強固な同盟を締結したばかりだ。
カイ自身は不必要な戦闘には一切興味がないと断言していた。しかし、アルドレンの直感が告げていた。あの底の知れない男なら、このような世界の重大な異変を、間違いなく耳に入れておきたいはずだと。
「――すぐに『エリュシオン・オーダー』へ早馬を飛ばせ。魔王カイへ、この事実を伝えるのだ」
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エリュシオン・オーダーの対応
その頃、カイは塔の内部に設けられた美しい庭園の一つに身を置いていた。
彼は文字通り、完璧に「何もしてこなかった」。
彼に言わせれば、この無為な時間こそが極めて重要なのだという。
すぐ近くではクロエが読書に耽っており、ユイは静かに大樹の根元へと腰掛けていた。
カイは穏やかな空を見上げた。
「――最高だな」
クロエが本から視線を上げる。
「何もしていませんよね?」
「その通りだ」
「それが一体どう生産的だと言うのですか?」
「生産的じゃねえよ」
カイはそっと目を閉じた。
「だから最高なんだろ」
――フワリ。
その時、三人の目の前に一条の光とともに『魔導通信結晶』が浮遊した。
ユイが真っ先にそれに視線を向ける。
「……アステリア王国からの緊急伝言よ」
カイが片目を開けた。
「またかよ?」
ユイが通信を受信し、その内容に目を通していく。すると、彼女の端正な顔立ちが微かに動いた。
「――カイ」
カイは上体を起こした。
「何だ?」
「オークよ」
その単語が出た瞬間、カイの瞳に鋭い光宿る。ユイから手渡された報告書を、彼は素早く読み下していった。
――その数、2万。
隠蔽された地下ダンジョン。
複数の『豚大将』の存在。
奴らを統べる『オークキング』。
そして――本格的な戦争へのカウントダウン。
カイは数秒の間、完全に沈黙した。
クロエが心配そうに彼を覗き込む。
「……カイ様?」
カイは静かに報告書を折り畳んだ。
「なるほどな。本当に戦争を始めるつもりってわけか」
ユイが厳かに頷く。
「そのようね」
カイは『エリュシオン・オーダー』の広大な窓の向こう、遠い世界へと視線を走らせた。
「奴らの『標的』がどこなのかは分かっているのか?」
「いいえ、未だ不明よ」
「俺たちの場所から、どれくらい離れてる?」
「十分に距離はあるわね」
カイは短く頷いた。
「なら、引き続き奴らの動向を『監視』し続けろ」
それを聞き、クロエが意外そうに目を見開いた。
「えっ……? カイ様、こちらから介入はなさらないのですか?」
カイは静かに首を横に振った。
「あのオークどもが、この『エリュシオン・オーダー』の領域に近づかない限りはな」
彼はすっと立ち上がった。
「奴らがどこか別の場所で戦争の準備をしてるってんなら、それはあいつらの問題だ。俺たちには関係ない」
ユイが静かに問いかける。
「――けれど、もし奴らが罪のない人々を襲撃したら?」
カイは遠い地平線を見つめた。その表情から一切の軽薄さが消え去り、静まり返る。
「――その時は、どう処理するかをその場で決めるだけさ」
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破滅の行軍
ついに、夜が帳を下ろした。
地下ダンジョンの奥深くで、あの巨大な岩の門が重々しく左右に開け放たれる。
次から次へと、オークの軍勢が漆黒の地上へと這い出し、行軍を開始した。
先陣を切るのは、闇に紛れる無数の斥候部隊。
それに続き、地響きを立てる膨大な歩兵連隊。
さらにその後ろから、重厚な鉄の防具に身を包んだ重装戦士団が続く。
それぞれの軍勢の間を、『オークジェネラル(豚大将)』たちが獰猛な眼光で統率していた。
――そして最後に、絶対の覇気を纏った『オークキング(オークの王)』がその巨躯を現した。
総勢2万のオークの軍勢が、王の背後を整然と進軍していく。
奴らの無数の足音が、大地を不気味に、絶え間なく震わせていた。
◆◆◆
遥か頭上、岩の尾根の隙間から、リンとソラの二人はその光景を息を殺して見つめていた。
軍勢が、ついに動き出したのだ。
リンの鋭い視線が、その大行軍のベクトルを正確に追う。
「……奴ら、一体どこへ向かってるの?」
ソラが彼らの進む先にある街道の地図を脳内で引き合わせ――そして、戦慄の事実に突き当たった。
「――人間の領土だよ。この先には、いくつもの町や集落がある……!」
リンの小さな手が、愛刀の柄を壊れそうなほどに強く握りしめた。
地表へと進出したオークキングが、その巨大な大斧を前方の闇へと突き出す。
咆哮なき無言の進撃。しかし、その意思は絶対だった。
2万の兵卒。4頭の将軍。1頭の王。
目的はただ一つ――『戦争』だ。
リンがソラを振り返る。
「――すぐにギルドへ戻って、この規模を報告しなきゃ!」
ソラも決然と頷いた。
「うん、一刻を争うよ……!」
二人は尾根の影から素早く身を隠し、闇に紛れて全速力で駆け出した。
彼女たちの背後では、依然として2万のオークの軍勢が、破滅の足音を響かせながら行軍を続けていた。
◆◆◆
一方その頃、遥か遠方の『エリュシオン・オーダー』にて。
カイは満天の星空の下、静かに佇んでいた。
今のところ、彼が築き上げたこの『我が家』には、どこまでも穏やかで平和な時間が流れている。
――しかし、一歩外の世界へ目を向ければ、運命の歯車はすでに修復不可能なレベルで激変し始めていた。
深い森と険しい山々の遥か彼方で、今まさに動き出した2万の軍勢。
それは近い将来、周辺諸国を巻き込み、世界を未曽有の混沌へと叩き落とすであろう大戦争のプロローグに過ぎない。
真の名前を与えられ、新たなる生命を宿したばかりの『エリュシオン・オーダー』。
だが、非情なる世界は、彼らに別の『未来』を用意していた――。
完。次章へ続く。




